「都営バスに車椅子で乗った事がありますか?」
こんな話が時折、出る。港区は区内を都バスが走っているのを頻繁に見る。麻布も、六本木も、青山も、赤坂も、白金も、新橋付近も内外共に名の通った繁華街の中で渋滞する交通ジャングルを実に見事な運転さばきですり抜けていくのである。以前は未来がよく使った交通手段だったが、車椅子生活になってすっかりご無沙汰してしまった。車椅子で移動する様になって福祉キャブ、タクシー、地下鉄、JR、新幹線と未来は色々試してみたが、バスの利用は考えてもみなかった。それより何より利用者に会ったことがない。
「バスが折角、車椅子対応車両になっている車体が多くなったのだから、乗ってみて!」
区や都の職員が盛んに勧める。
そうだな、バス会社にしてみれば経費がかかっているのに宝の持ち腐れって感じだからな。乗ってみようかしら? 比較的暇な時間を選んで乗ってみようかな? 何でも平気な未来が珍しくちょっと躊躇している。他の乗客がどんな表情をするかしら? 興味本位で見つめるだろうな? 迷惑そうな視線を向ける乗客もいるかな? 親しげな目を投げ掛ける人もいるだろう、気の毒そうな目をする人もいるだろう、頑張れという表情を見せる人もいるかも知れない。そして、結局、止ーめた! 未来の答えはそうなるかも知れない。
ノーマライゼーションを声高に掲げる日本人の中で公共の乗り物に乗るのは勇気がいる行動である事は否めない。未来さん、万人に愛されよう、なんてちょっと贅沢でしょ! 勇気を出して乗ってごらん!
未来は車椅子ごと地下鉄の階段の脇を昇降機に載って移動した事が何度かある。子供が物珍しそうに見るのは許せてもいい年の人達の注目の的になるのはかなわない。見世物じゃない!と叫びたくなった事がある。また、エスカレーターを独占した事も何度かある。エスカレーターの一部を車椅子の奥行きに設定して駅員が動かすのだが、興味津々の人達の中から「何やってるんだ、急いでるのに」と言う声がしたのを嫌な記憶として未来には残っている。尤も「僕も乗る!」と可愛い声が未来を和ませてくれた事もある。
確かに障害者がどんどん外に出掛けて、公共の乗り物にもどんどん乗れば、一般の人達が障害者の存在に慣れてくるだろう。障害者は特別な存在ではなくなる。尤も、はじめから特別な存在ではない。障害者になれてくれば、障害者に相通ずる不便を持つ高齢者にも自然に思い遣りの心配りが出来るようになるだろう。だが、未来にはこの所謂、豊かな福祉の気持ちが日本社会の隅々まで行き届くにはかなりの時間がかかるだろう、と想像するのである。未来自身が世にいう一般社会から突然、障害社会に身を置く事になり、徐々に高齢社会に実際に入りつつあるからこそ実感として受け止めて、改めて思える実情なのである。 つづく・・・
こんな話が時折、出る。港区は区内を都バスが走っているのを頻繁に見る。麻布も、六本木も、青山も、赤坂も、白金も、新橋付近も内外共に名の通った繁華街の中で渋滞する交通ジャングルを実に見事な運転さばきですり抜けていくのである。以前は未来がよく使った交通手段だったが、車椅子生活になってすっかりご無沙汰してしまった。車椅子で移動する様になって福祉キャブ、タクシー、地下鉄、JR、新幹線と未来は色々試してみたが、バスの利用は考えてもみなかった。それより何より利用者に会ったことがない。
「バスが折角、車椅子対応車両になっている車体が多くなったのだから、乗ってみて!」
区や都の職員が盛んに勧める。
そうだな、バス会社にしてみれば経費がかかっているのに宝の持ち腐れって感じだからな。乗ってみようかしら? 比較的暇な時間を選んで乗ってみようかな? 何でも平気な未来が珍しくちょっと躊躇している。他の乗客がどんな表情をするかしら? 興味本位で見つめるだろうな? 迷惑そうな視線を向ける乗客もいるかな? 親しげな目を投げ掛ける人もいるだろう、気の毒そうな目をする人もいるだろう、頑張れという表情を見せる人もいるかも知れない。そして、結局、止ーめた! 未来の答えはそうなるかも知れない。
ノーマライゼーションを声高に掲げる日本人の中で公共の乗り物に乗るのは勇気がいる行動である事は否めない。未来さん、万人に愛されよう、なんてちょっと贅沢でしょ! 勇気を出して乗ってごらん!
未来は車椅子ごと地下鉄の階段の脇を昇降機に載って移動した事が何度かある。子供が物珍しそうに見るのは許せてもいい年の人達の注目の的になるのはかなわない。見世物じゃない!と叫びたくなった事がある。また、エスカレーターを独占した事も何度かある。エスカレーターの一部を車椅子の奥行きに設定して駅員が動かすのだが、興味津々の人達の中から「何やってるんだ、急いでるのに」と言う声がしたのを嫌な記憶として未来には残っている。尤も「僕も乗る!」と可愛い声が未来を和ませてくれた事もある。
確かに障害者がどんどん外に出掛けて、公共の乗り物にもどんどん乗れば、一般の人達が障害者の存在に慣れてくるだろう。障害者は特別な存在ではなくなる。尤も、はじめから特別な存在ではない。障害者になれてくれば、障害者に相通ずる不便を持つ高齢者にも自然に思い遣りの心配りが出来るようになるだろう。だが、未来にはこの所謂、豊かな福祉の気持ちが日本社会の隅々まで行き届くにはかなりの時間がかかるだろう、と想像するのである。未来自身が世にいう一般社会から突然、障害社会に身を置く事になり、徐々に高齢社会に実際に入りつつあるからこそ実感として受け止めて、改めて思える実情なのである。 つづく・・・