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脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

36.ノンステップバス?まだ乗ったことないの!

2005-09-30 23:24:15 | Weblog
「都営バスに車椅子で乗った事がありますか?」
こんな話が時折、出る。港区は区内を都バスが走っているのを頻繁に見る。麻布も、六本木も、青山も、赤坂も、白金も、新橋付近も内外共に名の通った繁華街の中で渋滞する交通ジャングルを実に見事な運転さばきですり抜けていくのである。以前は未来がよく使った交通手段だったが、車椅子生活になってすっかりご無沙汰してしまった。車椅子で移動する様になって福祉キャブ、タクシー、地下鉄、JR、新幹線と未来は色々試してみたが、バスの利用は考えてもみなかった。それより何より利用者に会ったことがない。
「バスが折角、車椅子対応車両になっている車体が多くなったのだから、乗ってみて!」
区や都の職員が盛んに勧める。
 そうだな、バス会社にしてみれば経費がかかっているのに宝の持ち腐れって感じだからな。乗ってみようかしら? 比較的暇な時間を選んで乗ってみようかな? 何でも平気な未来が珍しくちょっと躊躇している。他の乗客がどんな表情をするかしら? 興味本位で見つめるだろうな? 迷惑そうな視線を向ける乗客もいるかな? 親しげな目を投げ掛ける人もいるだろう、気の毒そうな目をする人もいるだろう、頑張れという表情を見せる人もいるかも知れない。そして、結局、止ーめた! 未来の答えはそうなるかも知れない。
 ノーマライゼーションを声高に掲げる日本人の中で公共の乗り物に乗るのは勇気がいる行動である事は否めない。未来さん、万人に愛されよう、なんてちょっと贅沢でしょ! 勇気を出して乗ってごらん!
 未来は車椅子ごと地下鉄の階段の脇を昇降機に載って移動した事が何度かある。子供が物珍しそうに見るのは許せてもいい年の人達の注目の的になるのはかなわない。見世物じゃない!と叫びたくなった事がある。また、エスカレーターを独占した事も何度かある。エスカレーターの一部を車椅子の奥行きに設定して駅員が動かすのだが、興味津々の人達の中から「何やってるんだ、急いでるのに」と言う声がしたのを嫌な記憶として未来には残っている。尤も「僕も乗る!」と可愛い声が未来を和ませてくれた事もある。
 確かに障害者がどんどん外に出掛けて、公共の乗り物にもどんどん乗れば、一般の人達が障害者の存在に慣れてくるだろう。障害者は特別な存在ではなくなる。尤も、はじめから特別な存在ではない。障害者になれてくれば、障害者に相通ずる不便を持つ高齢者にも自然に思い遣りの心配りが出来るようになるだろう。だが、未来にはこの所謂、豊かな福祉の気持ちが日本社会の隅々まで行き届くにはかなりの時間がかかるだろう、と想像するのである。未来自身が世にいう一般社会から突然、障害社会に身を置く事になり、徐々に高齢社会に実際に入りつつあるからこそ実感として受け止めて、改めて思える実情なのである。  つづく・・・

35.障害色々

2005-09-27 14:05:44 | Weblog
 ところで、障害者センターでグループを組んでいる人の中には様々な人がいる。自ら自己中心を肯定し、且つ我が儘を意識する未来は色々失敗もしながら、前進している自分に結構、満足している。いつだったか、未来より遥かに年上の男性に腹を立てた事がある。と言うより寧ろ男性に対するスタッフの特別扱いに立腹したのである。ノーマライゼーションという言葉に首を傾げる未来には合点がいかなかった現状に直面したのである。差別があってこそ平等がある、と日頃から思っている未来はこう考えた。男性があれも出来ない、これも出来ない、だから騒ぎ出す。騒ぐと厄介だから、面倒だから、事前にスタッフが特別扱いをする。どうして?どうしてあの人だけが特別なの? 未来は単純に疑問を抱いた。それからまもなくして男性が高次脳機能障害に悩んでいる事を未来は知った。未来が経験した事のない障害である。
 高次脳機能障害とは人間の脳特有の機能に障害を起こす事である。人間にしかない機能って? 思考とか記憶とか、結構色々あるものである。決して知能が低い訳ではないのに幼児でも出来るような簡単な事が出来なかったりする。しかも、必ず出来ないという訳ではない。だからこそ誤解を招く。しかも困った事に本人が望まなくてもかなり傲慢に思われるのである。単純に幼児にかえった老人というのと違って「トロイ人」とか「ちょっと変なんじゃない?」とか「冗談も休み休みにして!」と言われがちで本人は落ち込んでしまう。実際には高次脳機能障害にそっくりなウッカリミスが単に頻繁に見られる人には障害という言葉は使わない。かなり似た症状は健常者にも結構見られる訳である。老化現象と言われる以前に、盛年期にだって眼鏡を頭に載せてナイナイと騒ぎ立てた経験を持つ人は少なくない筈だ。若い頃、急いで自分の部屋に駆け込んで「何しに来たんだっけ?」と首を傾げて、元の場所に戻るや否やすぐに思い出して「ン、もう!」とまた駆け出すなどはよくある事である。若ければ「イヤーね!」で片付けられ、五十に手が届けば「歳は取りたくないね」で終わる。だが、病の後遺症となると少し違ってくる。高次脳機能障害は脳卒中に限らず、交通事故の脳損傷とかアルコール中毒やドラッグ中毒等の後遺症で起こる事もある。後遺症と聞いただけで、人は「気の毒に」だとか「かわいそうに」と障害者に哀れみの目を向ける。周囲の人が、特に肉親が「辛くて悲しい!」とか「大変だ!」と嘆かず、「バッカみたい!」とか「マタマタ!」とかふざけ半分で対応したらどうだろうか。未来は真剣にそう思った。ちょっと中年の仲間入りをしかけたお父さんやお母さんに冗談を飛ばす、そんな気持ちで対応したらどうだろう。自分の家族がこんな後遺症を受け容れたら、凹んでばかりいないでユーモアで返すのも人間らしいのではないだろうか、と未来は思うのである。
「貴方だけがしんどいんじゃない。皆夫々に不便、不愉快を感じているの」
未来の突然のお小言をくって、未来が出会った男性はその後、無闇にわざとらしく大騒ぎして周囲の関心を惹くような行動はしなくなった。それまで絶望感だけが男性を支配して、周囲の人が全然自分を分ってくれないと被害妄想に走ったり、社会から取り残されたと焦ったりするだけかもしれなかったが、男性は反省したようだった。未来の所謂自然な接し方は男性には惨いようで、結局は良い結果を齎したのではないか、と思った。この頃会っていないけど、あの人どうしているかな? 会いたいな!   つづく・・・


34.公的社会の向上を望むけど・・・

2005-09-24 08:43:20 | Weblog
 果して、障害者センターに通い出した未来は近年巷に蔓延る評判を覆すような事実を身を以って経験する事になる。 そこで未来が出会った多くの療法士達の事である。素晴らしい技術を持ち、且つ素晴らしい考えを持つ療法士に会った事は前にも記した。未来は民間の病院でもリハビリを受けている。私設のマッサージ所にも通っている。話は横道にそれるがこのマッサージは所謂健康保険制度と介護保険制度では規制が違ってくるのである。未来がマッサージを考えたのは健足、健手、不自由を感じない片側を大切にしたいという願望からだった。そして脳外科医から許可証を貰ってマッサージを受け始めた。マッサージ師は体全体をマッサージしてくれた。暫くすると、未来の所に訪問していた派遣マッサージ師の所属するセンターが来所サービスも始め出したのを知った。制限時間二十分のマッサージだけを受けているよりも、他のリハビリも一緒に受けられると知った未来は派遣サービスを断って来所サービスに切り替えた。今度はケア-マネージャーを通しての契約を奨められたが、医者の診断書が僅か一ヶ月前に要求されて提出したばかりだったのでそのまま継続の形をとった。そこで未来は契約内容についてはあまり詳しく考えなかった。未来は介護保険の詳細を知らなかった。尤も、やがて日が経つに連れて未来は徐々に介護保険の利用が増え、問題点も見えてくる現実に色々考え始める時がやって来るのである。最終的には未来が世話になるのは電動車椅子だけに抑える事にした。
 現在の未来には介護保険にはそれほど世話にならずとも不自由を感じないと思えた。介護用ベッドも返上し、普通のベッドに戻した。通院時に頼んでいた付き添いも電動車椅子に慣れてきた頃には断った。介護保険の財政を考えると返上できるものは断らなければいけないと考えたのである。
 それはさておき、お金がかかるところでは満足のいくものが受けられるのが当然だし、こちらも期待し要求する。もし、そうでなかったら、さっさとやめて他をあたる筈だ。未来が通い出した公的障害者センターではピカイチの療法士が指導をしてくれる。病院のリハビリに匹敵する療法を受けられるのは喜ばしい事である。もっと多くの人が体験して、もっともっと公的センターでのリハビリを賞賛したら、どんなにいいか、と未来は思っている。  つづく・・・

33.日本の困った金満家

2005-09-21 20:42:08 | Weblog
 障害生活が二年目に入って暫くした頃、未来は自ら区営の障害者センターのリハビリに参加するようになった。そこで素適な若い療法士に出会った。彼を見ている内に、多くの若者に英語指導してきた未来は何と多くの事を彼等から教わったか、と懐かしく思い出した。リハビリの指導をしながら、賢い療法士は未来に色々な事を教えてくれた。
 病魔に襲われる前、長い間、小中高生に幅広く英語指導をしてきた未来は近年の特に義務教育の公立離れに感心を持ってきた。未来がその年代だった頃、彼女が住んでいた地区ではお金のかからない理想の教育は番町、麹町、日比谷、東大と謳われていた。そして、未来は中学まで有難く公立学校に通い、高等教育からは自分の好みで私立の学び舎を選んで進級したのである。選んだ高校の教育モットーは未来を落胆させなかった。そしてあの頃、未来が住んでいた地区の公立校の教師達も最高だった、といつも振り返るのである。
 ところがそれがいつの頃からか猫も杓子も私立私立と言い出すようになっていった。初等教育から何が何でも高額な学費を要求される私立校を敢えて選ぶなんて、紛れもなく金満国ニッポンを象徴する事の一つだと未来は感じていた。自ら好んで進んだ留学の道でさえ留学費用は先方持ちで、通学するようになってからも当時、年齢だけが審査の対象だった奨学金も小額ながら未来は手にしていたのである。だから、何にもお金をかける日本人、何でもお金で片付けようとする日本人にはとても批判的であった。
 だが、未来の心配をよそに、生徒の公立離れにデモシカ先生が拍車をかけたのか、私立校志向は増していったのである。デモシカ先生とは「先生にデモなるか」とか「先生にシカなれない」という事で新社会人を前にした就職先を皮肉った表現である。とんでもない事だが、もしそれが本当ならそんな人達に将来有望な子供達は委ねられない。先生と言えば、かつては聖職といって尊敬されたものである。公立校だけではない、公的に進められる事を良しとしない傾向が高まってきた日本社会はどうかしている、と未来は真剣に思っている。
 とにかく日本人は何でもお金で始末するようになってきている事は必ずしも否めない。だからこそ公的な障害者センターで尊敬できる若者に出会って、その人が療法士だという事実が未来にとってとても嬉しかった。  つづく・・・


32.何にでも興味を持つ未来

2005-09-18 06:38:20 | Weblog
 ところで、未来の住まいには一台の古いピアノがある。専属の弾き手を持たないこのピアノは長年、狭い住居の中で恐縮しているかのように部屋の片隅に置かれているが、結構大きな顔をして部屋を占領している。未来の母親の形見の筆頭になる筈だったお琴は戦争で無くなってしまったが、黒漆の蓋を開けると象牙の鍵盤がビッシリ並ぶこの手製のグランドピアノは戦後、作られたものだが懐古の戸を叩いてくれる。未来だけでなく娘もピアノ歴はバイエル止まりで終わっているので何十年もの間、正式に打弦された事がない楽器である。
 十五世紀頃にあったピアノの祖先は現在ある馴染のピアノとは違い、チェンバロのように弦を引っ掻いて音を出す楽器だった。何かを開くのに「押して駄目なら引いてみろ」というが「もっとよい音色を要求するのなら、引っ掻かないで叩いてみろ」というのだろうか、と未来らしく古いグランドピアノを見詰めながら色々回想してみた。ハンマーで打弦する事で打鍵の強さによって音色を変化させる事の出来るピアノは優れものだ、とつくづく思った。未来は半世紀以上も未来の傍に鎮座する古いピアノに益々魅了されていく自分に気づいた。
 未来は実に見事に不自由な中にも可能性を次から次からへと発見する女で、ピアノに自分を重ねてみた。ピアノは鍵盤楽器の一つである一方、打楽器ともいえるのではないだろうか、と未来は奇妙な事を考えた。確かにピアニストは一心不乱に鍵盤を叩いている。あれはやっぱり打楽器だと思ってしまう。魔力を持つ手で叩かれた鍵盤が打ち鳴らされてキーボードそのものから強弱の音が出る訳ではないが、ピアノ全体から素晴らしい音が出てくる。叩くと音ではなく緊張が走る未来の身体の中ではピアニシモやピアノフォルテといった具合に弱く響いているが、時にいきなりフォルティシモが踊り出てきて困らせるのである。いつも穏かに演奏して貰いたいものだと未来は願う。またまた余談だが、手仕事といえば、未来の姉の漆の仕事も実に魔力を持つ手によって創り出される。漆は塗り仕事と思われているが、未来の姉は「私の漆は磨きの時の手の力の入れ方いかんで出来上がりの良し悪しが決まる」と言っている。漆塗りの仕事の世界にもピアニシモやピアノフォルテがあって、時折フォルティシモも呼び出されるというわけである。
 自分の体に起きている痺れを時にピアノに例えたり、時に道路工事に登場するジャックハンマーに例えたりして未来は実に退屈しない障害者である。
 ところで最近、死んだ筈の右の手足がジンジンする感じがこれまで以上の凄さで未来を襲ってきている。脳は出血や梗塞で血が足りなくなると、自然に新しい血管が生えてきて血流をまかなってくれるのだが、脳を一生懸命使おうとすると、その刺激で血液の需要が高まってきて、血管は先へ先へ伸びようとする。それと同じ様に、脳細胞も使えば使うほど、それが刺激になって新たな細胞を形成してダメージを受けた箇所を修復してくれる。一度死んだ組織の中で例の橋渡しの役目をするグリア細胞が刺激を受ける事によって数が増えて、情報が再び脳内を走り始める訳だ。人間は自分達が想像するよりずっと逞しく、精巧なコンピューターより遥かに優秀なんだ、と未来は思った。
 五十代後半でパソコンという最高の玩具を持った未来は脳という自前のコンピューターで遊びたくなった。現代社会の人気ものであるコンピューターで脳というコンピューターに息づいている古代モンスター風の海馬を以って人間特有の言葉のメカニズムを探るのは実に痛快な事である。死なないでよかった!生きててよかった!脳障害に出会ってよかった?!回復できない神経細胞にはお手上げの未来だが、快復を願って色々工夫する未来は健在なのである。

31.フジ子へミングに想う

2005-09-14 16:04:56 | Weblog
顔面神経麻痺に伴って鐙骨神経麻痺を生じると鐙骨筋反射の脱落によってあらわれる 耳骨筋反射がある。そういえばベートーベンが聞こえない耳でなぜ、あれほど偉大な作品を次々に生み出すことができたのか、とその謎の不思議に感心を持った時、鐙骨可動術によって再起できたと伝記で読んで感動した時の事を未来は思い出した。ベートーベンは実は聞こえるようになっていたのだろうか。伝記は自らの執筆ではないのでそれは誰にも明確に記す事はできないのではないだろうか。ベートーベンの作曲の魅力というか魔力については聴覚野と視覚野関係で後にちょっと詳しく触れてみたい。
 未来の高等部の大先輩で十も年上のピアニスト、フジ子へミングは高校生の時に中耳炎をこじらせて右の耳の聴力を失った。それでも翌年には若き天才ピアニストとしてコンサート・デビューを果たしている。三十歳でドイツに留学したというのは決して早くはなかったが、留学時代を終えて演奏家になって欧州に住んだフジ子はその演奏を絶賛されたが、再び突然、不幸に襲われた。一九七〇年といえば日本中が大阪での世界万国博に酔って浮かれていた年である。フジ子はウィーンでのリサイタルの直前に風邪をこじらせて今度は左の耳の聴力を失ったのである。十代の時の右耳の疾患とあわせて、寒さと貧困で失った左耳の聴力の損失であの失意の日を境にフジ子は次第に音楽界から忘れられていくことになったのである。二年間ほど聴力無の時を過ごしたフジ子はその頃移り住んでいたスウェーデンは彼女の父親の故郷で、そこで彼女は耳の治療を続けて左耳の聴力を少しずつ回復させた。以後、レッスン・プロとコンサート・プロの両道を歩み始めたフジ子は三十余年ぶりに踏んだ日本の地で奇跡のピアニストとして脚光を浴びる事になった。若い頃から幾度かの挫折と絶望の淵から再起した人間の優しさと強さを併せ持つ魂が音楽という世界に返り咲いたフジ子へミングという女性に改めて感動と魅力を感じた未来が稀有な人生を送ってきたフジ子の伝記も読んでみたいという衝動に駆られたのは言うまでもない。
自分はバイエル止まりだが、未来はピアノの演奏をとても好んでいる。半身不随を言い渡される前は未来にはシエスタという言葉は無論使う事がなく、夜は遅くにベッドに入り、朝はかなり早く目覚めるという毎日を送っていた。最近は連日、シエスタを愉しんで、身体を疲れから回復させるように努力を払っている。未来のシエスタの友はCDでかつては好んで聴いていたカーメン・キャバレロの演奏がフジ子へミングに変わった。フジ子へミングの演奏には未来の身体の自然をノックする不思議な音がある。

30.アブミ骨麻痺って?

2005-09-10 05:36:12 | Weblog
 還暦を迎える頃になるとあちこちの懐かしい友人から夫々の子供達や孫達の愉しい近況話題やら確実に老いてきている各々の体の話題が色々飛び込んでくる。やっと子供が巣立って拘束から解放されたと喜んだのも束の間で、こうそくはこうそくでも脳障害だの心臓発作の梗塞の色々な情報が入ってきて、この年になって健康と医学に興味を持ち始めた未来は自らの探究心を実感するのである。姉妹兄弟の間柄以上に学校時代の友達はその年齢との関係が常にタイムスリップして若返るせいか、実際の自分と体の状況のギャップが激しすぎて戸惑う事もしばしばある。
 つい最近四十年ぶりに友好を再開した旧友から鐙骨麻痺なる言葉を初めて聞いた。彼女は若い頃から、数十年もの間、この鐙骨麻痺に悩まされているというのである。未来同様、朗らかな友人は大した事でも無さそうにもうひとりの朗らか人間、即ち未来に淡々と興味深い体験を語ったのである。
 アブミ骨、妙な名前だな、と未来は空かさず興味を持った。アブミといえば、馬具の一つで馬の背に取り付けられる鞍の両側から垂れていて、乗る人が足をかけて乗る時の先端の部分の事をアブミといったっけ。 外耳道に入った音は中耳の奥の骨に包まれた中にある内耳で鼓膜を振動させ、リンパ液で繋がっている三つの耳小骨へ伝わって、それが蝸牛で電気信号にかえられ内耳神経から脳へ伝わるのだが、それらを外から順番に槌骨ツチコツ、砧骨キヌタコツ、鐙骨アブミコツというのだという事を未来は初めて知った。鼓膜を通った直後、音は小槌みたいなハンマーで叩かれ、砧と呼ばれる薄い布のような物を通って鐙に辿り着くという訳である。日本語の漢字は実に巧妙に意味を伝える術を持っているものだ、と未来はひどく感心した。
 人間の脳には二十九個の骨が収まっているそうだがこの三つの耳小骨もその中に入っている。耳小骨は音を内耳に伝えるとともに、音の信号を増幅する働きもあり、また、中耳は喉が耳管という細い管で繋がっており、この耳管を通して空気が中耳に入ることによって中耳が乾いた状態となり、気圧の調節もできるようになっている。中耳の振動を電気信号に変換するのは内耳にあるコルチ器というもので、そこの有毛細胞を傷めると電気信号への変換が出来なくなり、脳は音の情報を受け取れなくなってしまう。耳といえば三半規管という言葉がオウム返しのように浮ぶ。内耳にあって身体の平衡や位置を知るのに重要な役割をする事は誰もが知っているが、そこの骨までは名称さえ知らないのが普通だ、と未来は自らを宥めた。さあ、またまた知識が増えたから埋蔵貯蓄に回そうか! 忘れようにも忘れられない妙な名前だ、アブミ骨麻痺って!

29.回復って難しい?

2005-09-07 06:03:41 | Weblog
 未来には三十代半ばにギックリ腰をやって会社を二日も休んでしまった事がある。飛行場勤務の貨物課の人もスチュワーデスも日常重い物を運ぶ仕事なので未来の職場はギックリ腰に慣れていたせいかとても優しい理解を貰う事が出来た。彼女のギックリ腰の原因は日増しにかなり体重が重くなってきていた息子を毎晩、抱っこして車から部屋に運ぶ仕事にあった。当時、父親の職場近くの私営保育所に二人の子供を預けていた夫婦は時折、外食を四人で済ませて帰宅していた。幼子は満腹になった上、安心して頼れる父親の運転する車がゆりかごの様にゆれてすぐに寝入ってしまうのであった。気持ちよく眠る二人は少々の事では目を覚まさなかった。そこで娘を父親が、息子を母親が運ぶ事になる。父親は手ぶらで娘を肩に担ぐ事が出来るが、母親である未来はハンドバッグを肩に掛け、自分のお腹を頼りに息子を抱っこする事になる。もしかしたら、現在もキープしたままのお腹の出っ張りはあの時の後遺症かも!・・・ 目を覚ましている赤子を腰に委ねて運ぶのは楽だが、完全に眠っている子をお腹に預けるのは大変だ。とにかく前に大きなものを抱きかかえて、障害物にぶつからずにしっかり足を運ぶのは並大抵の事ではなかった。一日仕事をして疲れているのに加えて、息子を落したら取り返しがつかない、と緊張して歩いたものである。そんな過酷な日が連日続いてついにギクッとやってしまった。朝、目が覚めて体をチョッとも動かす事が出来ない。利き手は右だったが、重い物を運ぶ時、未来には左に傾く癖があった。左腰に変な力が掛かっているなと思っていたが、睡眠中にリラックスしない内に朝がきて、いきなり起き上がろうとした時にギクッとやってしまったのである。幸い一日休んでいる内に腰は元通りに動くようになった。あれから未来は朝起きてから暫くの間は出来る限りゆっくり行動に入る事にしている。不謹慎だがこれまでの未来にとって唯一の健康管理であった。
 右半身に麻痺が起きてから、全てを左手足に頼るように偏り、体が偏るようになった未来にとってはそれが筋肉の過緊張を誘発するせいか疲れやすくなった。リラックスすると血圧上昇の要因である肩凝りが解消されて脳血管を労わる事になるというのでリハビリ病院でのリハビリテーションとは別に他所のリハビリを未来のスケジュールに足し、更にマッサージと筋肉の緊張を解く為のストレッチ体操を自ら組み込んだ。リラックスして快感を愉しんでいたり夢中になって何かに没頭していると、いっとき右半身の痺れを忘れ、脳波が色々引き出してくれて未来を救ってくれる。そんな時、正に、リハビリは集中力とか注意力、また記憶力を高める原動力になるんだなあ、と未来は実感するのである。
 人間は脳を僅かしか使わなくても生きていけるのだから、未来の脳の一部が死んでも生きている部分をフルに活用すれば未だ未だ色々出来る筈である。使わなければ当然、休止して脳の活性化は行われない。折角、残して貰った自分の脳の大部分と体の他の機能を働かせない手はない。勿体無い、勿体ない!  次回も乞うご期待!

28.快復と回復

2005-09-03 16:09:25 | Weblog
 運動機能のリハビリとは別の脳機能障害のリカバーも時間の経過が必要である、という事は少しでも元の状態に近づく為の回復にとって大変重要な事である。ここでいう時間の経過は純粋に時間が経つという事だ。発病以来二年が経った時、自分の脳のCT検査の写真を前にして、確かに日赤救急センターでの出血した直後の写真では白く映し出されていたのが時を経て黒点になっていたのを確認した記憶が未来にはある。更に一年後、リハビリ通院している病院の脳神経外科医の前で未来は脳血管撮影を見せられて説明を聞いた時、黒点は更に小さくなって針に通した糸の結び目の比ではない程の小さな物になっていたのに気づいた。この点と深い関係を持つ線が自分の運動機能の運命を握っているのか、と未来はしみじみ思った。とりあえず快復を喜ぶ未来を前に、脳外科の谷川達也医師は言った。
「少しづつ快復してきているね。まあ、ここにちょっとした梗塞かな?って思うような部分があるけどね」
「ちょっと待って、先生、聞き捨てならないですよ、そのコメント!」
「そうか、でもね、人間誰でも我々の年齢になると何処かしらに梗塞を起こしてるかなと思える箇所はあるものですよ。改まって写真を撮ってみるとね」
「そんな、気にしないで、と言うのなら最初から先生の口から言わないで下さいよ」
「そうか、この脳血管撮影で見ると若干血管が細い所があるけどね・・・」
「あるけど、何なんですか。教えて下さい」
「まあ、気にするほどではないですよ」
「もー、止めて下さいよ。気にしますから」
「大丈夫ですよ。血圧も安定しているようですし・・・」
「先生から直接の言葉は他の人のと違って影響力大なんですよ」
医師の口と患者の耳がとても敏感に反応するのにと思いながらも未来はとりあえず信頼している脳外科医の前で病気は快復の判を貰えたのである。だから喜ぶべきなんだ、と自らに言い聞かせた。回復には先ず専門家の指導の下にリハビリをする事は周知の事である。脳卒中後は筋肉の過剰な緊張が起りやすいのでリラックスの為の訓練、所謂リハビリが大切だという事になるのを改めて感じた。
 ダーウィンという街の再起話ではないが、何処ででも洪水は起きうるし、別の街が災害に泣くという事もあり、必ずしも全く同じ場所を襲うという事の方が奇跡だという事になる。地震の災害も同じ事が言える。第二、第三のダーウィンが出てきても不思議ではない。だから、未来の身体の中の自然も何処が故障するかわからないし、同じ場所で再発するとは限らないという事である。一般的には医者が完治の太鼓判を押しても、次に何処に故障が表立って出てくるかはわからないという事がいえる。