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脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

122.人災が怖いのは天災の前触れ?

2007-01-26 05:38:27 | Weblog
 「あるあるテレビ」を取り上げてみようと思っている内に次から次へといやはや報道には事欠かない現代である。ニュース、正にNEWSで北から東から西から南からgood newsなら歓迎だが、サンフランシスコの方からはあの憧れの豪華客船にとっては醜聞とも汚名とも表現できるようなノロウイルスが報道された。
 ところでペコちゃん―私自身が子供の頃も、私の子供が幼い頃も、ディズニーのキャラクターが活躍しても、サンリオのキティが世界に躍り出ても、スヌーピーが持て囃されても、何と言っても日本の子供はペコちゃんだった。必ずと言ってよい程、日本の子供はペコちゃんの頭を撫でた記憶があるのではないだろうか。その老舗中の老舗、不二家のペコちゃんが危機にある。止む無く社長交替をしたその夫人を縁あってちょっと知っている私は何とも心痛んでいる。最近、老舗という商売人から少なからずも危機という言葉を聞くが私の脳裏には「心配」という文字がいっぱいに広がるばかりだ。
 我々は是が非でも、人災を避けなければならない。不二家然り、おはよう乳業然り、派手な女社長で一躍有名になったアパホテルが耐震偽装で謝罪など人災の元を作るとは、もっての外である。既に、あのイーホームズの藤田氏が指摘していたと言うのだから呆れてしまう。事なかれ主義も甚だしい今日この頃で、嘆かわしい人間の世界である。
 「天災は忘れた頃にやってくる」とは昔から言ったものだが「人災は津波のように押し寄せて来る」という表現が似合う世の中には決してしないで欲しい。あるある人災!なんて言わせないで欲しい。

121.プロだと誇れる人

2007-01-20 06:26:13 | Weblog
 自ら職業を以てプロだと誇れる人がどれほどいるだろう。先に記した家電のS社の技術者然りで技術屋さんとはいえない様な人も数多く蔓延っているのが現代日本である。
 私の亡き父は自ら「英語屋」を名乗っていた。そんな父を頼もしく思ったものである。小さな庭をしっくり演出する柘植の木を定期的に刈りに来る植木屋さんの鋏の動きに目を見張り、見事に化粧し直した柘植の木に感激したものである。畳屋さんが分厚い畳の上から太い針を真っ直ぐに通し、藁をしっかり閉じていく姿にビックリしていたものである。水が零れ落ちる軽自動車に未だ未だ活きのいい魚を積んで来ては家の前で魚を捌く。刃の切れは最高なのかも知れないが、私は包丁にしばし見とれる程だった。
 最近はそんな職人気質の人にめっきり会えなくなっている。安心して任せられるクリーニング屋さんの少ない事! それに比べてクリーニング取次店の多い事! いい物の判断がつかない店員は無論、目の前に差し出された洗濯物の素材なんて眼中にない人も少なくない。昔は「いい夫に巡り会うよりいい医者に会う方が幸せかも」と母が冗談っぽく言っていたのを思い出す。最近の私はさしずめ「医者」を「洗濯屋」に置き換えているのかも知れない。
 妙な言い方かも知れないが、ある意味、自らの脳障害後遺症を以てある種プロを名乗れる程探ってみたいと願う私は奇人変人だろうか。
 人生をせめて還暦を迎えるまででも無事に歩んでくると、その足跡には常に変化が見られる。自ら「大変だ!」と口走った変化は強烈に記憶に残っているものだが、霞のように浮かんでは消えた変化は結構、自分の人生に影響を及ぼしたにも拘らずに滅多に海馬の世話になることもないらしい。
 人生には常に目標と目的があって欲しい。目標は、行動を進めるにあたって実現・達成をめざす水準を言い、目的は、抽象的な長期に亘る目当てで内容に重点が置かれるが、目指すものの意では相通じるものがある事は否めない。目標は目指す地点とか数値に重点が置かれるので絶えず変化するものだと言える。人間の多くは確たる目的を以て前進することをよしとして、目標は掲げる目的に向って僅かな変化を見られてこそ邁進している証拠ではないだろうか、と私は思う。
 いつものように我が身を護る為に講釈を並べてみたが、要するに私は「自らの脳障害後遺症を以てある種プロを名乗れる程探ってみたい」と明言したかったのである。

120.ITベンチャー企業の人気もいいけど・・・

2007-01-19 06:07:52 | Weblog
 先日、マイミクシィ上で私はSNS(social network service)に関連する事を僅かだが、実しやかに綴った。ネットワーク、即ち、網状組織が麻薬関係だったらスワッ一大事だが、IT(information technology)関係だったら歓迎の世の中だという事か。情報通信技術とかは斯くも重要な事なのだろうか。日本全体が情報追いかけに走っている間に、中国などアジアの諸外国では日本の大企業が後進国の安い労働力を見越して創設した工場でせっせと確実に技術を身に付けた上での現在がある。
 若い頃、伝達の手段としての英語という国際語を技術者達に指導していた。技術者達は錚々たるメンバーでIHI、東芝、日立、日産、千差万別の企業から参加していた。実に面白いメンバーだった。指導者が洋行帰りで成人して間もない私というのも今で思えば、妙だったかも知れない。何事も「時代だった!」で済ませてしまいたいような気がする。
 日産自動車の若い技術者が言った。彼は、英語をブラッシュ・アップしてケニヤに出向して数ヵ月後に帰国していた。
「ケニヤで技術を指導するのは大変でした」
ドライバーなどの道具を持たせると、一つでいいのに勝手に両手に夫々持って辺り構わずリズミカルに叩き出す、と言うのである。回りに音楽がある訳でもないのに彼らの体の中に始終リズムが潜在的に待機しているのである。小学一年生が授業中ジッと自分の席についているのが難しいのと何ら変わりないような気がする、と彼は言った。
「ケニヤでの指導で得た収穫は日本にもケニヤにもいい結果だった」
彼は、帰国する頃には現地の人間は音も出さずに耳を傾ける事が出来るようになっていた、と言うのである。
 40年近く経つと、そんな先進国と後進国に逆転の兆しが見え隠れする事は否定出来ないと言えるのだろうか。日本の技術が低迷気味だという事も否めない。我が家の電化製品が故障して、S社から技術屋を呼んだ。彼らは何と一台の器具の故障を直すのに何人の人間を幾日に亘って我が家に送り込んだ事か。挙句の果てに、S社は新しい器具に取り替えたのである。何たる事か!
 かつての日本社会はブルーカラーとホワイトカラーという言葉が蔓延っていた。ブルーカラーは青色の作業服を着て生産の現場で働くからで、ホワイトカラーは白いワイシャツを着て知的労働とか事務労働や販売をするから、色で表現したという訳だ。
 このカラーの違いを当初はさほど意識していなかったようだが、日本人は知らず知らずの内にブルーカラーの人口を激減させ、みんながホワイトカラーに食いつく結果を齎したと言わざるを得ない、と私は思う。皮膚の色が白くない人達を総称して有色人種と言う。どうして「白」がいいの? 私だったら「好きなカラーに塗りかえれるから」と答えるだろうか。漆の世界では生漆の色がベージュがかっているので、白色の漆を作るのはかなりの技術を必要とする。だから、白漆に成功した輪島の人間国宝故松田権六の名前が今の今でも残っている訳だ。深く考えずに「ブルーカラーよりホワイトカラーの方がいい」なんて容易く思っていたツケが何倍にもなって今、日本についてきているのだろう。こんな考え方をするのは私だけだろうか。
 確かに、情報はとても重要である。だが、それ以上に大切なのはその情報の正しい使い方である。つい先頃、脳の刺激を疑似再現という事で「オープン・ブレイン・シミュレーター」を世界で初めて開発し、発表した東大の助教授が「漫然と練習するのでなく、脳がどんな風に筋肉に信号を出したかを意識するのが上達の秘訣だ」と言っているが、社会を駆け巡る情報もこれに順ずると私は思う。みんながみんな一斉に情報収集に専念したら、その情報を駆使する人間が必要になってくるのは当然だと思う。
 先の経済学をいつまでも引きずる気はないが、ここで一寸「水商売」を考えてみたい。
 水商売とは、先の見通しが立ち難くて世間の人気や嗜好に大きく依存した不安定な仕事を指すのだが、あまり聞こえがいい業種に使う表現だとは思わない。水は、運次第で大きな利益を得たり、損失を被ったりで日々の収入が定まらない状態を指して「勝負は水物である」という使い方をされる事がある。水商売といわれる店では、景気の良し悪し、客の気まぐれ等が収益を大きく左右するので、昔から酒類に標準以上の水を入れて薄めて客に出したりした事でその名がついたと言われる。
 それを言うなら、現代社会の殆どが水商売と言えるような気がする。
 「進むのは我々であって時ではない」最近の私が始終思い出す言葉だが、ここで私は「水の流れには逆らう事なく、水を上手に掻き分けて自ら押し進めば大海は穏やかな表情で歓迎してくるだろう、と言いたい。

119.私流経済学

2007-01-18 06:02:12 | Weblog
 経済学というと、社会科学のひとつの分野で経済現象を研究する論理経済学とか経済史学とか経済政策という学問の事でちょっと敬遠してしまう。でも、その経済現象を生産、流通、更に消費などの活動の事だと説明されれば、グッと身近になってくる。言葉とは斯くも不思議なものである。
 経済、というと真っ先に私の頭に浮かぶ言葉は、いつも言われる「不経済」で、時折顰蹙を買っては自ら反省する事もある。だが、断言できる事実が私を救ってくれる。後悔した覚えが殆どない。寧ろ「やっぱり買ってよかった」と満足する事が多い。それだけ、私のはいい勘が働いて先見の明があるのだと、いつものように自画自賛にもっていく。私は若い頃から「合理的に物事を運んでいるのに、不経済な人」と周りからよく言われてきた。意義あり! だって不経済はすぐに「無駄遣い」が簡単な説明になるから。その点、英語だとしっくりくる。uneconomicalとかwastefulはムカつく言葉ではない。留学中、グエン・ママと私はよく使い分けたものである。We are not wasting but using your money carefully! ケンは肩を竦めてひょうきんに眉を上下させたものである。
 教授の話を聞きながら「私はいつも経済界に貢献してるんだ」と頷いて浪費家の名を返上する格好の時だとさえ思った。日本には昔から「金は天下の廻り物」という言い回しがある。それを現代社会は肯定するどころか、否定さえしているように思える。その代わりにとは言いたくないが、最近「箪笥預金」という言葉が右往左往している。確かに、子供の頃、近所のお婆ちゃんが畳の下にお金をしまっていた話を聞いたりした事がある。それは決して「へそくり」ではなかった。銀行の業務が庶民に浸透していなかった時代の話である。みんなが箪笥の中にしまってしまう貨幣は死んだ貨幣で、周りの人に職や所得を与えるチャンスを殺している貨幣という事になる。お金を使う人がいて、これを受け取る事で、初めて所得を手にできる人が生まれ、経済が拡大していくので、正に「金は天下の廻り物」という言葉が活きてくる。
 最近、私の周りで面白い話がある。『マイ・ラブ、マイ・ドック』を買ってくれた80歳以上になるお婆ちゃんの話である。大層威勢のいいお婆ちゃんで、昔は?中々綺麗な人だっただろう、と想像させる人だ。ただ、彼女を正確に見詰める人は少ないだろう。何故なら現代日本人は良し悪しの判定が出来ない人が多いから・・・ ダックスフンドのテトを「元気印」と勝手にあだ名をつけて「いい犬だね。この子から元気を貰うんだよ」と言われている内に散歩の度に、会う度に、話をするようになったという訳だ。私の書籍が発行された事を知ると「一寸待ってて、財布持ってくるから」と家に入り2千円出すと「お釣りはいらないよ。一寸時間が経ったけど、お年玉、お駄賃だよ」と言って本をパラパラと捲った。「あれぇー、このデッカイ犬、最近見ないと思ったらこんなところに・・・ あれぇー、元気印もいるじゃないの・・・ 読ませて貰うよ、結構字も大きいね・・・」というお婆ちゃんからのお駄賃はスターバックスで消えた。そして私は姉とコーヒータイムを愉しんだ。
 車椅子生活に突入する前、私は便利な都バスをよく利用した。都バスの大人の料金は殆ど一律200円だが、子連れの利用者は子供の数によっては幼子でも子供料金を要求される。バギーを畳んで赤子を抱いて、幼児等の手を数珠繋ぎにして懸命に小銭を出そうとする母親にはつい手伝いたくなる。後に続くお婆さんがパスを見せて乗り込む。当然、パスは若者のように事前に手に持っているのではなく、乗ったと同時にバックの中を探し回るのだから堪ったものではない。お婆さんが座席に座るのを見届けて発車オーライしたかと思った途端にブザーがなる。今乗ったばかりのお婆さんが降りるというのである。ため息が出てしまう。時間をかけてバスから降りたお婆さんは何とバスが走ってきた道をバックして歩いているではないか! タダだから乗る、お婆さん同士のそんな会話を聞いた事が何度もある。無論、どのお婆さんにも言える事ではなく、多数がそうだと言える。都会を走るバスの停留所の間隔は短い。健康の為にも歩きなさいよ、きっと運転手さんもそう思っているかもよ!
 数年前まで全くのフリーパスだったシルバーパスは、現在は70歳以上を対象に非課税の人は負担金が年間1,000円で、課税の人は20,510円になっている。「私は結構です」と言って辞退する高齢者もいるとか。嬉しい話である。老若関係なく、収入にしろ、年金・恩給が生活に支障を来たさない限り、税金は納めるのが当然だし、「老い」を盾に権利を主張する人間にはなりたくないものである。頼らなくては生きてゆけない人が受け入れるのは当然と言えば当然の話である。それは老若男女全般に亘って言える事である、と私は思う。

118.講演:障害者の経済学

2007-01-14 12:22:59 | Weblog
 慶應義塾大学商学部教授中島隆信氏の講演会に出席した。教授は「障害者の経済学」の他に「大相撲の経済学」「お寺の経済学」等を出版している。
 大相撲の経済学では、相撲制度を経済学的視点から解き、これらの制度が揺らいできている点を指摘する教授は、年寄株不足、転職に悩む力士など、日本経済が抱える問題を多々綴っているとの事だ。
 お寺の経済学では、一体お寺は何のために存在し、誰がどのような活動をしているのか。戒名や税金などを経済学的視点から鋭く分析し、将来像を描いている。港区には超モダンな建物の間に古寺が存在してこのミスマッチが何とも魅力ある。だが、寺の経営事情は中々困難で在り方、行方に夫々に四苦八苦しているという。
 最近の書、障害者の経済学はどんなもんだろう?
 弱者として遠ざけるのか、読んで一歩近づくのか?親、施設、学校は障害者の方を向いているのか?同情や単純な善悪論から脱し、経済学の冷静な視点から、障害者の本当の幸せ、福祉の現場の正しいインセンティブを考える。
 教授が経済学的な観点から述べるのなら、私は一般社会に生きる障害者の一人として答えてみよう。
 障害者を遠ざける? とんでもない! 興味本位で近づいて来る人の多い事! 一昔に比べると町を闊歩する障害者が増えてきている。お洒落な杖を頼りに歩く人、アイメイトと一緒に歩く人、車椅子をマイカーに乗り回す人、今までは狭い日本に道路の邪魔になるのは主にベビーカーだった記憶がある。
読んで一歩近づくのか? 発想に乏しい日本人は先ず、戸惑って、考えて、何もしないかも知れない。
 親、施設、学校は障害者の方を向いているのか? 親が我が子だからこそ一番気にしたいのに、一番遠退けたい、というかも知れない。でも、無視できず、遠くにやる事も出来ないのが現実に違いない。障害の我が子と共に笑って一生を過ごしたいと願っても将来が気掛かりだというかも知れない。そこで敢えて、私はいう。誰も同じ! 未来が不安なのは誰もが同じ! 施設や学校はどうか。表向きには障害者に目を向けていると明言できるだろう。だが、一歩深く入り込んでみると、そこには同じ姿勢が見られるとは断言出来ないかも知れない。
 一般人、障害者、と区分けする事そのものが差別になるのかも知れない。不便という障害は誰にもあるという訳だ。
 お金の流通は誰もが関係してくる重要な事である。それなのに世は何でもかんでも「年寄り優遇」である。高齢者に思いやりは当然だが、彼らの多くは経済界とは無縁状態にあるように思える。世界一の貯金の殆どが還暦以上の人々だという日本の実情が語ってくれる。箪笥預金では経済界には無関心だと言われても言い返す言葉がないだろう。一般的に言えば、人は消費者になったり、生産者になったりするからこそ生き甲斐を感じるものである。箪笥預金は冥土の土産にはならない。
 教授自身も身内に障害者がいらっしゃるとの事、実に有意義に土曜の午後を過ごさせて戴いた事にしみじみと有難さを感じた。私としては、障害者や高齢者を含む一般人と経済学を更にじっくり考えてみたい。何故、敢えて一般人と書くのかって?― 「政治家の経済学」とか「経済人の経済学」― 教授なら、どう料理しますか? アラカルト? フルコース? それとも会席膳? 無論、酒宴向きの料理!

117.水仙というテーマ

2007-01-12 07:01:13 | Weblog
 今年初めての絵手紙教室の「お題」は「水仙」― 私は目の前で凛とした茎の先で少しうな垂れながらもその美しい姿を見て欲しいとばかり、周囲に香りを漂わす花を私はじっと見詰めている内にあれやこれや思い出起こしに夢中になって筆は一向に動かなかった。
 果たして、絵手紙は私には向いているのだろうか?
 では、あの時の私の頭の中を再現してみよう。
 先ず、私が10歳位の頃に日本で公開された「黒い水仙」という映画を思い出していた。目の前には白い水仙が鮮やかな黄色を覗かせているのに・・・ 映画好きの母に連れて行かれた私は内容を全く覚えていないのに題名が強烈に記憶に残っていた。同じ頃、空前のヒットと言われたラジオドラマ「君の名は」は、私には「黒百合」が興味を注いだ。洋画と日本のドラマは前後して、私に「黒い花」に興味を持たせたのである。
「お母さん、黒百合って本当にあるの?」
「あるわよ。夏に咲くの」
若い頃は登山に興じたという母はその高山植物の魅力を語ってくれた。
「じゃあ、前に見た映画の題名の黒い水仙は?」
「黒い水仙なんてないわ」
ないのに、どうして題名になったの? 不思議だった。どうも研究好きではないが、単に探求好きだったのかも知れない。
 ギリシャ神話で美少年が水面に映る我が姿に見とれてそのまま花になってしまったのが水仙だという事で、英語では自分の美貌に酔いしれる人をナルシストと呼ぶ。ギリシャ神話に登場する美少年の名がナルキッソスという事である。あの時の映画の原名はブラック・ナルシスだった。 因みに、あれから数年経って誕生したポップス歌謡「黒い花びら」は永六輔・中村八大コンビの甘くモダンな詩とメロディ、それに水原弘の強烈な歌声は実に圧倒されたもので栄えある第一回日本レコード大賞受賞曲だった。

 絵手紙教室では結局満足出来ない葉書が出来上がってしまった。仕方ないか!
 帰宅後、中国の古典を調べてみたら漢名の「水仙」を音読みして「すいせん」に なった、とあった。 漢名は「仙人は、天にあるを天仙、 地にあるを地仙、水にあるを水仙」という事である。日本語は辿れば辿るほど四千年の歴史を持つ中国古典に繋がるから面白い。
 絵手紙教室で得た事実は「私は単なる言葉遊びが好きな人間である」という事か?

116.DNAってそんなに凄いの?

2007-01-11 06:13:27 | Weblog
 脳梗塞を起こしやすい遺伝子が1月8日、発表された。DNA塩基の個人差で、動脈硬化と密接に関係するたんぱく質ができ、発症率に2.8倍の違いが出たというのである。学者の研究発表には専門用語が多いので、私なりに自ら説明してみよう。
 先ず、塩素とは何ぞや? 
水溶液中で水素イオンを受け取って水酸イオンを生じる物体で酸と反応して塩を生じる。核酸の塩基性成分は窒素を含む複素環式化合物であるDNA・RNAを構成する。プリン塩基のアデニン・グアニン、ピリミジン塩基のチミン・シトシン・ウラシルがある。片仮名やアブリベーションが続出すると頭がこんがらがるので必須用語だけ簡単に知っておこう。 
 DNAは医者や患者自身が「人口蘇生をしない、させない、望まない」という意思表示でRNAはリボ核酸といって、英語ではribonucleic acidという。リボ核酸とは、リボースを糖の成分とする核酸の事である。核酸とは、細胞核の中に含まれる塩・糖・燐酸から成る高分子物質の事である。糖がデオキシリボースであるデオキシリボ核酸(DNA)と、リボースであるリボ核酸(RNA)とに大別されるという説明を持ってくれば、私にも分かる。リボ核酸は、加水分解によってそれ以上簡単な糖には分けられない単一糖の事で、RNAという略称がついている。リボヌクレオチドが多数重合したもので、一本鎖をなし、アデニン・グアニン・シトシン・ウラシルの四種の塩基を含む。一般に、DNAを鋳型に合成され、その遺伝情報の伝達や蛋白質の合成を行う。機能によって伝令RNA・運搬RNA・リボームRNA等に分けられる。おやおや、またまた、妙な片仮名の出現だ! リボーヌとは、全細胞の細胞中にあってリボ核酸と蛋白質から成る小粒子の事である。働きは、伝令RNAの持つ遺伝暗号を訳して運搬RNAが運んでくるアミノ酸を結合させるという事である。
 あーあ、疲れた! 私って、やっぱり黙々と研究するのは向いていないんだ!
 健常者と脳梗塞患者の遺伝子を比較してDNA上の塩基配列の個人差(一塩基多型)を調べた結果、これが脳梗塞と関係している事が分かったのである。この一塩基多型にはアデニンAとグアニンGがあって、人にはAA、GA、GGという3通りのタイプがある。そして研究の結果、AAタイプの人はGGタイプの人より脳梗塞の発祥率が2.8倍も高かったという結果が出たのである。脳梗塞の関連遺伝子の発見は世界的にも珍しいらしい。
 脳梗塞の患者は健康な人と比較して、「プロテインキナーゼCエータ」と呼ばれるたんぱく質を作る遺伝子の特定の部分が、1~2個置き換わっている人が多い事がわかったという事である。

115.新春早々の惨事に想う

2007-01-07 06:42:56 | Weblog
 家族内の、しかも兄弟(姉妹)間の確執というか、恩讐というか、心の争いはとんでもない結果を生む事がある。始終、そばにいるから「あるわけがない!」と想う安心感が必ずある筈だが、人の気持ちはそう簡単には推し量れない。
 過去に事故死はさて置き、自ら死を招いた人、死に遭遇してしまった人には、哀しい事に幾度となくある。戦争では多くの人の命が奪われたと聞いているが、実際には敗戦直後に生を受けた私には計り知れない事である。
 数少ないが、自殺も少しは色々見聞きしてきた。
 幼い頃の事だが、明確に覚えている事件がある。私よりも5歳上だった女学生が高い鉄橋から川に飛び込んだ。水に飛び込んだ少女は咄嗟に手と足を使って泳いでしまった。ずぶ濡れになった少女はその足で家に帰った。町の銭湯を経営していた親は「どうしたの? 早く、服を脱いで湯船に浸かりなさい!」と少女を嗜めた。花曇の肌寒い風が吹く春の日だった。忙しい家業の為に夕食はバラバラだったが、少女は母親に事の一部始終を語った。母親は「バカだね、お前は泳ぎが得意なんだから川に嵌まって死のうなんて、無理な話なんだよ」と言った。その後、この話は町内の笑い話として井戸端会議を賑せたが、一週間も経つと自然消滅していた。この少女は所詮、自殺の出来る子ではなかったのだ。
 もう一つは、あまりにも悲惨で、ショッキングな事件で、自殺を成し遂げてしまった女子高校生の例は事とある毎に彼女の愛らしい顔を素敵なママの笑顔を思い出す。賢くて可愛い女の子が何を悩んでいたのか、今以って解明されていない。
 私の史上忘れられない死に纏わる事件は二つある。一つは児童殺人事件で「もしかしたら、我が子が犠牲者だったかも・・・」と思わせる事件を多くは語りたくない。もう一つはもう50年近くも前に世の中を騒がせた事件である。法律家の家庭で起こった兄弟殺傷事件である。TVのニュースで事件を知った私達同窓生の間でショッキングな電話が行き交ったのは言うまでもない。家族間の優劣は他人との比較以上に当人にとっては深刻なのかも知れない。他人なら遠ざける事が出来るが、家族という血の繋がりは死ぬまで離れられないのだから・・・ 
 所謂真ん中子の姉が体験談を冗談交じりに言っていたのを覚えている。小学校の先生が「何々ちゃんは出来たのよ・・・」と言う度に姉は「だから何だと言うの!」と密かに開き直っていたものだと、後世になって口癖のように吐き出していた。
 我が子からも様々な心の動きを僅かだが、私は見聞きしてきている。学校や塾で「ああ、何々ちゃんの弟さん!」と言われるのが無性に腹が立つんだ、と息子は始終言っていた。「姉さんは姉さん、僕は僕!」と言う息子の言葉を私はしっかりと受け取って毎日を過ごさなければ、と思ったものである。そして、彼は何が何でも親、姉と同じ学校には進学しない、と決めていたらしい。いいじゃないか、彼の人生なんだから、舵取りはひとりで自分しかいないんだから。同じ学校に進んだからって、人生うまく運ぶ保障はないんだから。
 血縁関係にある家族の中でも「個」を大切におもんばかる気持ちはとても重要だと思う。これは成人してからではなく、幼い時から親が常に頭に置くべきだろう。兄と妹の悲惨な事件は新春早々、個々の人の心をじっくり考えさせる惨事である。

114.は? 葉、歯、刃、波、羽、色々あるけど・・・

2007-01-06 09:21:21 | Weblog
 先ず「は」を例に取ってみよう。はあ? サブゥーッ・・・!下手な冗談はさて置いて・・・
 目を閉じて「葉」を手に持たされると人間はどんな気持ちになるだろう。私は命を感じる。明らかに水分がある。だから、原住民の言葉で、水を飲まないという意味を持つkoara、つまりあの人気者の有袋動物はそのものズバリでkoaraという訳だ。ユーカリの葉っぱから水分を補っているのがコアラである。
 「刃」は? どんな感じがするのだろう。やってみよう。事前に知らずに「刃」を持たされるとハッとして、様々なリアクションが見られる。ソッと触れるとギョッとして僅かに怯む。ギュッと握らされると、アッと驚いて手から冷たい一筋の流れ(目に見えなくても多分、それは血だとわかる)を感じ、次の瞬間ジワジワと痛覚が襲ってくる。
 「は」にはこんなに大きな差があるんだ、と目隠しの私はきっと思うだろう。
 触覚は、不安、慄き、恐怖、驚きといった具合に様々な感覚を引き起こす。そして、痛みという痛覚が止めを指す。触角は外界から徐々に感じていくわけだが、視覚は見た瞬間に自らが体内から感覚として各々が表現する事になる。
 温度感も私に関しては面白く働く。「葉」は最初は冷たいか温かいか、それは持たされる前に置いてあった場所によって違うだろう。そして、私自身の温もりが伝わって徐々に暖かくなっていくだろう。「刃」の方はきっと、段々と冷たくなっていくだろう。その触感は自らの体温で暖かくなっても、脳は寒気とか悪寒とかいう言葉と共に「冷たさ」をかなぐり捨てる事は出来ないだろうから。触角は脳の受容と拒否によって私の感覚表現に違いを出すのである。私の姉は「木のぬくもり」という言葉をよく使う。目隠しをして葉っぱを握る私には「葉のぬくもり」が次第に手に、脳に、体に、心に、感じてくる。
 私の今年にテーマに沿った話はこんな所から始めてみようか。

113.亥年のテーマ:触覚と視覚と痺れ

2007-01-03 21:28:03 | Weblog
 私は自らの人生を考える時、以前、フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーを引き出していたのを思い出す。一度の人生に人間は二度生まれる、と明言したルソーは初めの誕生は単に存在する為で、次のは生きる為だ、と断言している。
 ルソーの考え方に沿って考えると、五十五歳で閉じたかもしれない私の人生は「生きる為」という目的を持って再度、生まれたという事になる。これは大変な事である。ただ存在する為の誕生と生きる為の誕生では重みが違う。存在する為なら、好きな事をしようと思うのは私だけだろうか。生きる為という事は、始終、実現しようとして目指す事柄を明確にしなければいけないと思う。
 ここ5年間の私の難問は「脳の不思議」でしかも私に関する限りの不思議は「触覚と視覚」という事になる。今年の私の課題は痺れをバックにした「触覚と視覚」という事で、自らを実験台に色々探ってみようかと思う。
 皮膚感覚とは、触覚、痛覚、温度覚など、主に皮膚に存在する受容細胞によって受容され、体表面に生起すると知覚される感覚のことを指す。暗闇の世界で働く五感、それはまず何よりも心の不安と恐怖の感覚(心の触覚)であり、周りの空気感(触覚)であり、ほのかな体臭(嗅覚)であり、かすかな息の音(聴覚)であろう。
 昨年最後のリハビリで私は北里の重田療法士にある本を借りてきた。
 奇しくも、今日、私は東大の助教授が脳の刺激を疑似再現できるシステムを開発したという報道を目にした。リハビリでは、脳障害で半身の運動機能が損なわれた場合、手や足を動かして脳を刺激するケースがあるが、シミュレーターを使えば現在の運動が脳のどこに刺激を与えているかが推測できる為により効果的なリハビリが可能となるという訳だ。更に、推測した脳の場所の血流を赤外線センサーなどで実測すれば、正確度の向上が図れると報告している。
 脳の研究は、90年代に世界中で本格的にスタートしたらしい。多くの学者達が筋肉や脳などで個別に研究を行ってきたが、「脳は単体でなく外界とつながって活動している」ということを痛感してきたと助教授は言っている。当の本人に当たる私は以前から脳と外界をつなぐトレーニングやリハビリを漠然と頭に描いていた。助教授は漫然と練習するのでなく、脳がどんな風に筋肉に信号を出したかを意識するのが上達の秘訣だと言っているが、患者なくしては結果が得られない事である、と私は意地悪くほくそ笑む。
 私なりの今年のテーマを触覚と視覚に的を絞ってみようと思ったのは正しく脳が外界とつながっていると常々思っているからである。