脳のミステリー

痺れ、言葉、触覚等の感覚に迫るCopyright 2001 ban-kuko All Right Reserved

273.高がニャンコ、されどニャンコ!

2008-05-31 09:42:18 | Weblog
マイブログらしい猫物語をハイパーグラフィアに押されて・・・実行!
ワンダフル軍団は早速後押しを、と張り切ったが気侭なお猫様はニャンダフルとは答えず、「あっかんべ~!」をして走り去ってしまった。ニャンコはmeowと鳴くのでにゃーnyahh は「あっかんべ~」という事になってしまう! アレレッ~!
遠くに逃げない内に招き入れなくては・・・

そう言えば、招き猫って縁起がいいよね!
特に黒猫は、夜でも目が見えるから、って『福猫』として魔除けや幸運の象徴とされ、黒い招き猫は魔除け厄除けの意味を持つんだってね。右手(前脚)を挙げている猫は金運を招き、左手(前脚)を挙げている猫は人を招くんだって。
ところで招き猫はアメリカでも人気があって、dollar catとかwelcome catと呼ばれているんだって!
でも、手の方向が日本と逆向きで、手の甲に当たる部分を前に向けている。これは手招きする手のジェスチャーが、日本とアメリカでは逆で、欧米では手のひらを相手に向ける日本の招き方だと「失せろ!」になるらしいから気を付けて!

日本での猫の評判は『吾輩は猫である』なんて堅苦しく思い出さなくても昭和の傑作『ドラえもん』だけでも十分という訳だろう。
アメリカには色々な人気猫がいる。古くは黄色いカバンを持つ黒猫のフィリックス・ザ・キャット、戦後のトムとジェリーTop Cat 俗に言うドラ猫大将の作者はあの犬のケンケンを世に送り出している。ディズニーのおしゃれキャットも見逃せない。原題のAristocatsが「貴族階級」という意味のaristocratのもじりであるというのも実にお洒落で、話は更に・・・場所が如何にもフランスらしい!
パリに住むダッチェスという美しい猫が3匹の仔猫たちと富豪の老婦人と一緒に暮らしている。老婦人は財産を猫たちに遺そうと弁護士を呼んで遺言状を作成する。その遺言を盗み聞きしたのが、長年使えていた執事エドガー。悪党に成り下がった執事は遺産目当てに、猫たちに睡眠薬入りミルクを飲ませて眠らせ、パリの郊外に捨ててきてしまう。目を覚ましたダッチェスたちの前に颯爽と現れたのが野良猫オマリー。設定したのがアメリカらしい。ディズニーのわんわん物語も犬狩りがレディというコッカースパニエルの仲間を野良犬のトランプが助け出して、令嬢のニャンコと結ばれたっけ! フランスのお話の野良犬はダッチェスの美しさと気品に惹かれて、一緒にパリに舞い戻る。パリが舞台だとどんなお話でもスマートに運ぶ事になるね! 貴族階級がお洒落キャットだなんて!

思い出せば、娘は「トムとジェリー」が大好きで、息子は黒猫の「フィリックス・ザ・キャット」がお気に入りだった。
「トムとジェリー」はディズニーに対抗してMGM映画が手がけた傑作である。大きくて凶暴だが、おっちょこちょいで憎めない猫のトムと、小さいが頭脳明晰な鼠のジェリーの追い掛けっこをナンセンスとユーモアで繰り広げる話は大人気になった。
一方、息子お気に入りの黒猫の名前の由来は「フェリシアス」(ラテン語で幸運を運ぶ猫)からで、性格はひょうきんで基本的には何事にも動じず、持ち歩く黄色いカバンがクールに問題を対処していく。
今、完全に大人の仲間入りをしたふたりの子供をジッと見詰めると、それぞれの関心の焦点が何となく理解できるから可笑しい!
私? 私はガーフィールドが大好き! そう、オレンジ色の猫! 飼い主のジョンや親友のオーディー、それに好敵手のナーマルなどと共に繰り広げられるドタバタ劇が売り物が笑える。プラス思考で喜楽な私らしいお気に入りだと自ら思う。えっ、誰?体型が似ているから好みなんでしょう、と言ってるのは・・・
ところで、とっても有名な「猫踏んじゃった」は作曲者不詳、変ト長調または嬰ヘ長調でピアノ・独奏が基本だが、多数のアレンジやバリエーションが存在する。楽譜にすると♯か♭が6個も付く(殆どの音を黒鍵で出す)為に、非常にややこしく見えるが、覚えやすいコミカルなメロディと知名度の高さから、「ピアノを習ったことはないけどこの曲だけなら弾ける」という人も多い。私もその多数の中に入っている。幼い頃、鍵盤を走る指先を見ずとも弾ける!と有頂天になった記憶がある。
作者不明と言い伝えられているが、フェルディナンド・ローという幻の作曲家の名が出ているのは見逃せない。ドイツ版の曲名「ノミのワルツ (Floh Walzer)」は作曲者の名前 (F. Loh) が誤記されたものから来ているというのである。ただし、フェルディナンド・ローなる人物は実在せず、完璧なジョークだと言われている。
日本の「ねこふんじゃった」は欧州では色々な名前が付いている。ブルガリアの「猫のマーチ」ロシアの「犬のワルツ」ハンガリーの「ロバのマーチ」スウェーデンの「豚のワルツ」などなど! ドイツ近くのルクセンブルグでは「蚤のマーチ」という名前が付いている。英国や米国では「トトトの歌」とか「お箸」って言うんだって! 猫がついているのが少ないのは意外! 他の動物の名は、チリが「犬のポルカ」キューバが「アヒルの子達」でメキシコが「お猿さん」だって、面白いね!

さて、ミクシイ仲間にも、ワンダフル仲間ニャンと一緒に暮らしている猫ニャンもいるし、ニャンという世界?なんて言いながらミャーニャー生活を満喫しているお猫ちゃんもいる。

NB:今回の猫ちゃんはマフィンちゃん! 抱き枕によさそうだニャー!

272.もっと猫を知ろう

2008-05-24 08:37:33 | Weblog
犬は敵が来れば、警戒し威嚇して吠えるので、人間にとっては番犬として逸早く人間の一般社会に入り込んできた。一方、猫は、猫は食べ物を荒らすネズミを捕る習性があるので、食糧を守る役目として人間が好んで飼ったからと言われた時代が長かった。
猫は犬と並んで世界中で親しまれているが、その外見が「かわいい」ことが理由の一つとして挙げられ、可愛い女の子などにはプッシーキャットなんて呼んだりする。トム・ジョーンズがPussy-cat Pussy-cat I love you! なんて歌ってたっけ!
一方、表現の世界では、犬には「犬死に!」に代表されるような辛苦に近い言葉遣いもあるが、猫のは「猫の手も借りたい」など比較的有り難い言葉が多いような気がする。
だが、猫は、干支にも星座にも出てこない。顔を洗っていて十二支に間に合わなかったとか、ネズミから、競争の日は1月2日だと騙されたとか色々言われている。
でも、海外の干支には、ウサギの代わりに猫がいるらしい。
そして、猫の発祥の地、エジプトでは神の使いとして崇められている。発見された古代エジプトの壁画の中に、猫が描かれていたり、その頃のエジプトでは猫を神聖な生き物として崇拝し、飼い猫が死ぬと猫型の棺に葬ったり、眉を剃って、喪に服したという記録が残っている。
世界各国での猫の捉え方は様々であり、16~17世紀ヨーロッパの魔女狩りでは、猫は魔女の手下とされ、酷い扱いを受けていた。初めに記したように、東洋では古代から猫は穀物をネズミから守る守護として大事にしてきた。また、魔物のような動物としても扱われている。猫の先祖は、食糧を守る以外に世界各国で不思議な魔力や力を持っているという信仰心・迷信があって、猫は神秘的な魅力を持っていると考えられる。

とにかく今や犬は番犬が少なくなり、猫は鼠の敵ではなくなり、ペット動物の代表的な存在になった。
醤油顔とソース顔、なんて人間の容姿を対照的に比較するが、犬猫を以て、ワンタイプとニャンタイプで人間の性格を分ける事もある。

姉の処に18年もいたヒマラヤン三毛猫のミックは、時々、鳥が目の前に来ると、クケケケケとかカカカカカとクラッキングと呼ばれる声を出していた。鳥は獲物なのか、友達なのか・・・カモメの鳴き声は猫のそれに例えられる事もあって、英語の "mew" という鳴き声を表す単語は、カモメという意味も持つのである。
日本ではネコの鳴き声は「ニャー」「ミャー」などの擬音語を用いるが。アメリカではmeow、イギリスではmiaow、ドイツではmiau、フランスではmiaouである。

来週末も引き続きニャンダフルだから、きっとミクシィ仲間が登場してワンダフルブログに! 乞うご期待!

写真は、NZのティガーのイナバウアーの変形猫型!

271.許されざる事

2008-05-13 21:23:22 | Weblog
☆☆☆自然は神の黙示であり、芸術は人間の黙示である☆☆☆

こういうフレーズを聞いた事がある?
黙示という言葉は、キリスト教に僅かでも興味を持った人間には多少の馴染みはあると思う。しかし、年の暮れになると日本中がクリスマスムードの中で大騒ぎになるのだから、チョッとは覗いてみるのも良いだろうと思う。だからと言って、宗教を語るのではない。
宇宙における人間として生まれてきたのならば、誰しもが「自然と芸術」を両手に生きているのではないかと思うのである。誕生はともかく、我々は、大人も子供も、利口も馬鹿も、貧者も富者も、死においては平等である。自然界ではこの教訓が生きているが、人間界となると、チョッと首を傾げる事がある。良きにつけ悪しきにつけ、動植物は常に変わらぬ姿勢だが、人間には心というクセモノがあって、これが厄介なことに結構夫々の人を左右する。一番のクセモノは損得かな、と私は考える。
芸術を語ればエンドレスになってしまうだろう、と思うのと同時に、どうしても私の場合本業の美術館の話に流れていってしまいそうなので、今回は「自然」しかもその中の動物でもチョッと限定して、馬から犬の話を私なりに綴ってみたいと思う。

今朝、ひょんな事でホースセラピーなる言葉に出会った。セラピーという片仮名が巷に溢れ出して久しいが、今や美容にも診療にもこの外来語が使われている。
ホースだから、勿論馬の事である。そして、無論、アニマルセラピーのひとつである。
アニマルセラピーとは、動物を使ったセラピー手法のことで日本での造語である。中々快い響きがある。言葉だけでも癒しになるような気がする。これは人間の友達である動物が絡んでくるからだろう。ここで「昨日の友は今日の敵」という言葉は思い出したくはない。
話を先に進める前に、アニマルセラピーをもう少し理解した方がいいような気がする。
医療に携わる人が治療の補助として用いる動物介在療法(Animal Assisted Therapy)と、動物との触れ合いを通じた生活の質の向上を目的とする動物介在活動(Animal Assisted Activity)に分類されることは最小限知っていた方がいいと思う。
ハワイ辺りではイルカのセラピーがあり、タイ王国には象のセラピーもあるが、今回は馬のセラピーから始める事にする。
アニマルセラピーは、動物と触れ合わせることでその人に内在するストレスを軽減させたり、自信を持たせたり、精神的な健康を回復させることができると考えられている。情緒面での好作用によるクオリティ・オブ・ライフ(QOL)の改善といった期待も持たれている。子供達の心療にも高齢者医療や難病患者医療にもかなりの期待が持たれている。
人は面白い歴史の道を築く生き物ものだと考えるのは、私だけだろうか。一昔前の人間には薬草なるものが色々あって、現在は様々な動物が引き合いに出される。金八先生の口癖ではないが「人という字はお互いに寄りかかって」という言葉を無断寸借すれば、人間は決して独りでは生きていけず、植物にも動物にも助けられて生活しているという事である。
植物に関してはまたの機会にして、先ずは馬の話に戻る事にする。
ホースセラピーは密かに増えてきていた。しかし、最近の穀物相場騰貴が行政の援助を充分に確保出来ないという事実に拍車を掛けて、その経営が危ぶまれている。
競馬は大人の心の遊びの助けになり、乗馬は子供にも人気が出始めている。乗馬をすると、自ずから正しく歩く姿勢に導いてくれる。勿論、象さんも。背中にまともに載せて貰えば、自然と馬や象が理想的な歩行を行ってくれる。この事実に基づいてホースセラピーなるものが年々増加を辿って来たのだろうが、その場が日本では僅か30で英国では700だというが、その数の違いに驚く前に流行期間の短さにため息が出てしまう。
人間は「自分が生きていかなければ」と思うのかも知れないが、動物だってそうだ。人間の都合で野生界から人間界に誘い出したのにお手上げだとは何事だと言いたくなる。
アニマルセラピーの問題点は、単なる一例だが犬のヨガ(YOGA)即ちドガ(DOGA)というらしいが、これが日本では「飼い主もご一緒に」が宣伝文句になっているのが多いのに気付いた。人間が一緒にヨガドガをするという事は授業料がそれなりに高額になる筈だ。言い換えるとTwo in Oneという犬とワンセットで初めて受講が可能になるわけだ。中々商魂逞しい。まあっ、それはそれでいい、日本経済の成長を確かなものにするのだから。だが、費用がかかるからと言って、商売などに力や存在を提供してくれた動物を使い捨てにする等は以ての外と言いたい。

私は奇しくも、この春から「盲導犬の引退犬募金」に微力ながら協力しようと、思い立ったところである。残念だが、とかく日本人は目先の事ばかりで、ペット犬のような愛玩犬にだけ関心が集まり、やっと最近になって少し盲導犬、聴導犬、介助犬、救済犬といったような作業犬が話題になるようになってきた。
日本でも昔から鳥猟犬や獣猟犬は勿論いた。
海外旅行に出かけると、豪州やニュージーランドではチョッと郊外に出れば牧羊犬にあったりする。牧畜犬は日本より海外の方が多い。狩猟で働いてきた犬が引退すると処分するという話を聞いた事がある。正に冒頭に触れた「昨日の友は今日の敵」であると言わざるを得ないだろう。確かに食費が掛かる、病気になれば高額の医療費が掛かる。どこからその費用が出るのか。一般的に考えると、人間はお金を作る事が出来る。自分の欲望の為にだけでなく、引退犬などに「これまでの感謝を込めて」お金を使う。このような考えの流れが自然に出てくる望みはないのだろうか。お金は稼いで、貯めて、使わないのでは経済は止まって回らない。使い方が問題であると思う。先ず、自分の欲望の為に使う事は大切である。そして、次に各人が有意義に使うのが望ましいと思う。
私の場合は稼いで、勿論後悔しないように自分の為に使って、それから自らも隠居者予備軍として盲導犬の引退犬の飼育に掛かる費用に少しでも援助出来たらいいな、と考えてライフワークにしようと思い立ったのである。やりがいがあるし、これからの本職に大いなる意義を感じる筈だ。

270.母の日は良き女の日

2008-05-12 16:46:39 | Weblog
母の日は、日頃の母の苦労を労り、母への感謝を表す日で、日本やアメリカでは5月の第2日曜日に祝うが、その起源は世界中、様々であり日付も異なる。
贈カーネーションの由来は、アメリカの南北戦争に纏わる話に遡る。ひとりの女性参政権運動家が夫や子供を戦場に送るのを絶対に拒否しようと立ち上がり「母の日宣言」を発したのだが、運動家の女性が亡くなった時の白いカーネーション献花が後年、生母には赤、亡母には白という事になった。
それから僅か数年後、ある女性がシングルファーザーに感謝して設けられたのが父の日で、この日に関する献花は白バラだった。
元々母の日が数年前に設定され、父の日は母の日の一ヶ月遅れでやってきて、更に母の日は第2日曜、父の日は第3日曜である。不思議に思った私の子供達がアンクル・コートニー(グエンママの次男)に「どうして、いつもママの日が先でパパは後なの?」と聞いたのだが、さすが、大学教授だった彼は分かりやすく、尤もな応えを出していた。
曰く・・・
母の日は、元は「母の仕事の日」だったんだよ。戦争で敵味方、関係なく傷を負っている兵隊さん達の回りを清潔にしておこう。だから、その日だけがママのワーキングデーだったという事。
アンクル・コートニーの話は続く・・・
グランマグエンは僕のママだけど、こう言ってたよ! 
ママはワーキングとレストの境が分からない位お家の中で休まず働いているから、たった一日だけでも分かりやすい休日を決めて「母の日」にしているのはよく分かるでしょう。でもパパは外で働いているのは分かっていても、お家に帰って来てからは殆ど休憩しているでしょう。だからパパは毎日がワーキングデーで、毎日がレストデーでもあるという訳!
だから、Everyday is Father's day! 毎日が父の日!
コートニーが学生、特に女子学生に人気があったのがよ~く理解できる!

さて、私の「母の日」の話をしよう。
自分が母親になって四半世紀以上祝ってきて貰ったが、還暦を既に迎えた今、私は自ら色々ライフスタイルを変えながら第二の人生を愉しんでいる。
昭和20年生まれの私は、平成20年の母の日に大変化を愉しんだ。
この日、私は母という名称を忘れ、娘時代を懐かしみ「良き女」を愉しむ事にした。
娘も息子もワンちゃんも彼ら自身に任せて、私は「天空の茶会」に臨んだ。集まった人達は盛年、青年で、高齢者予備軍は私だけだった。倒れるまで、英語指導という名の私は毎日のように男子学生に囲まれていた。彼らに英語の秘訣を教え、彼らからは若さの秘密を習った。秘密は「熱っぽく語り合う」姿勢だった。私の生徒達はみな自分の考えや意見や質問に対する答を素早く、明確に出してきた。
今私は、青年期や盛年期にある人達の話に耳を傾け、自分なりに理解して、自分らしい展望に反映してみるのが愉しくて堪らない状態にある。
即、母親を名乗っていた頃の私は母親らしい事はしていなかったと思う。好きでフルに働いていたので、手伝ってくれたのは子供達の二人の祖母、私の叔母と姉、主人の家のかつての女中さんまでかり出して、勿論、幾人かの保育士さん、みんな私より経験ある年上だったから、安心してお願いしてきたのである。
母親らしく振る舞ったのは・・・褒めるという行為だった。私は口喧しくない母親というあだ名を貰っていた。この事実は母親だからこそ経験したのではないかと思っている。子供達も「ママありがとう!」と言ってくれたという記憶が双方にない。ただ、一緒に愉しもうという気持ちはいっぱいあった。だからこれまでの「母の日」は面白い事に、プレゼントにはMany Happy Return!があり、食事にはEnjoy & Cheers!があったが Many Thanks! は記憶にない。
今年の母の日は、私が「ありがとう」と言った。勝手な外出という行動と愛犬との留守番に対してのお礼である。

自分への教訓! 私にとっての良き女の時代は「女はやっぱり娘時代」という事が言える。無責任に我が侭を言えるもの・・・!
来年も、再来年も、母の日は気侭に外出して、愛犬がいれば、子供達に預かって貰って、シングルウーマンを愉しむ事にしようっと!

269.名猟犬ローズ逝く

2008-05-10 22:38:09 | Weblog
マイミクのみなさん、キムタクおじさん一家を覚えていらっしゃいますか? ワンダフル・仲間として、昨年11月24日にご登場戴いた賑やか一家です。
そうです、鼻眼鏡のお婆ちゃんは一族を代表して写真で登場して貰いました。アバンのところでは現宮崎県知事を思い出してしまうとコメントを出していました。
あの鼻眼鏡のグランマ・ローズは子供の日の翌日突然、逝ってしまいました。紹介して半年、訃報を貰って、何も手につかない程、空虚な心のやり場に困りました。会った事もないグランマ・ローズは私の心にそれほど素早く蘇って来たのです。キムタクおじさんことチョッキ~♪さんはローズの逝去3日後の昨日、哀しい知らせを送信して来ました。私はもしかしたら、ローズが乗った銀河鉄道特別号が未だその辺にいるかも知れないと思って急いで許可を貰って、日記に綴って仲間に知らせました。南半球にいる仲間には夜空に南十字星を見つけて夜の道案内をお願いしてね、と送信しました。
チョッキ~♪さんは哀しみを乗り越えて、自らもローズの思い出日記を書いて下さいました。これはとても勇気のいる行動だと思います。何故なら、思い出をこんなに早く書き記すという事は面影が走馬燈のように頭の中を駆け巡る筈だからです。でも、これまで、15年近く、人間ならほぼ100歳迄生活を共にしてきたという証を心に刻み込むには昇天の刻を迎えてワンダフル・パークに辿り着くと同時位に思い出日記を残せたら、お互いローズもチョッキ~♪さんも幸せな別れが出来たと言えると思うのです。
チョッキ~♪さんはローズの老齢期には粋な老計を立てて挙げたと思うのです。私はいつも老後という言葉はない、と言っています。何故なら老いの後に来るのは死であって、そこにいくまでの老齢期の生活計画が大切だと思うのです。競馬の馬で言えばサラブレッド、ローズとボビーは縁あってチョッキ~♪さん一家の家族として生活を共にする事になりました。若い頃は大活躍をした名犬達もここ最近は隠居生活を余儀なくする事になっていたのです。隠居生活の中でローズは孫みたいなセナちゃんが「遊ぼう!」と言って近づいてくると、痛い腰を一生懸命起こして、相手になってくれていたそうです。
チョッキ~♪さんが教えてくれました。猟犬は引退後は処分される運命にある、と。
それはあまりに哀しすぎるというのでチョッキ~♪さんはローズとボビーに隠居生活の場を提供したのです。当然とは言え、簡単に出来る事ではありません。引退犬を二頭も、しかも大型犬を抱えるのは並大抵の事ではありません。残ったボビーにはローズの分まで少しでも長生きして欲しいと思います。

私は日記に綴った後、更にブログにもとお願いしました。
グランマ・ローズの晩年を考えるに、私は自分自身と留学先のグエンママの人生にローズが重なる事に気づきました。
私事ですが、是非読んで、どう重なるのか考えて戴けたら嬉しい限りです。
グエンママは晩年、かなり病弱になってしまって、私はふたりの子供を連れての里帰りを決心しました。不便は承知でしたが、主人は理解してくれました。そして渡豪後、僅か一ヶ月余りで彼女は昇天の刻を迎えたのです。遺書だの遺品などの整理が色々あって、私は暫く豪州に長逗留しました。この滞在が今現在の美術館の仕事の土台作りのきっかけになったのです。そして数ヶ月後、日本工芸漆展の企画を普通の一主婦である私が手掛けるという前代未聞の初日、冬の夜空に燦然と輝く南十字星を仰ぎながら、グエンママの息子さんが私に言いました。「この展覧会は母親が日本娘の花が開くように祈りながら天に昇って逝ったからに違いない」と。この時の仕事は、障害を受容した私が復帰した今も続けているのです。
私がチョッキ~♪さんにサファママが関係する盲導犬の引退犬を援助という話を持ちかけて、協力に賛同してくれたのが4月28日、そしてローズが他界したのがゴールデンウィーク終了の日の5月6日でした。
何か素晴らしい事を始めようとした時、身を以てそれを後押ししてくれたのが引退犬ローズだったのだ、と考えるのは私だけでしょうか。
私のグエンママは昇天して間もなく、空から私の素晴らしい仕事が実を結ぶように導いてくれたからこそ今があるのだと思っています。あの忘れられないグエンママの死は四半世紀も前の事です。
今回のローズの死はこれから10年、20年経って引退犬への援助が当たり前の事になっていくのを願ってくれるのだと考えるのは、これも私だけでしょうか。

268.言葉は受け取りよう

2008-05-08 16:06:21 | Weblog
私のような脳出血の後遺症を受容した者に、何らかの形で接触のある医者は異口同音、こう言います。
「再発はない!」
私は同意します。
でも、世間では「再発」という言葉をよく耳にします。
そうかと思うと
「段々よくなってきてますね~、頑張っていらっしゃるから~」
私はそんなあまり根拠のない言葉を投げかける人には多くを語らず、簡単に「ありがとうございます」とだけ言います。
何故なら、私のH13脳出血の場合と限定して「再発」とか「快復」という言葉の出番はないと自ら明言できるからです。
H13脳出血とは、私だけが使う呼び名という事です。
平成13年9月23日に私を急襲した病魔は完全撤退したし、だからと言って新しい病魔が生まれ出てきているかという事は私自身にも分からないのです。
とかく不謹慎で、呑気屋の私は「ケセラセラ!なるようになる!先のことなど分からない!」と歌ってしまうのです。自らに余談を許可すれば、あの名曲が「知りすぎた男」という映画の主題歌だったという事が私には可笑しく思えてきてしまうのです。
こんな「お喜楽女」に任せてはおけないと仰る人はこのブログをすぐに閉じても構いません。成る程!話を逃すだけですから・・・

脳出血で倒れて以来、しばしば自分の脳内の写真を見ながら私は医者の説明を聞きます。
自分を襲った病気とあの時強引にくれた後遺症をよくよく考えて様々な本を読んで、自分の脳と身体に改めて反映してみるのが私の癖になってきました。そして、その後、私にはハイパーグラフィアが盛んに顔を出すようになってきているのです。
これは、私自身はかなり素晴らしい事だと思っています。何故なら、経験という貴重な事実を私という人間の体の中で体験させて、更にそれを書き留めておくという事は、私という脳障害後遺症者の存在の証になるからです。
確かに、人は様々です。経験も様々です。でも他人の経験は何処かで、何らかの形で重宝する事もあるのです!
私が襲撃を直に食らった場所は完全に塞がれて、黒い点だけが傷跡として残っています。
その脳に残された黒点と引き替えに私の右半身には過酷な日々の変化があたかも人生のタスクと思わざるを得ないように、毎日のように手を変え品を変えてやってくるのです。変化は私の身体を寸借したり、勝手に長逗留したりします。これらの変化ほど傍若無人で勝手気侭なものに私はこれまでに会った事がありません。だから、私は興味津々なのかも知れません。

若い人には無理かも知れませんが、明らかに半世紀も生きてきた人には考えて欲しいと思うのです。言葉は捉えようだ、ということです。善し悪しといういい言葉があるじゃないですか。いつも言いますが、善し悪しという言葉はバラすと「よし」と「あし」になりますが、葦という稲科の植物は「ヨシ」とも「アシ」とも呼びます。故に「よしあし」は「よいとも悪いともすぐには判断できかねる状態であること」になるわけです。

本題に戻って、私の病魔の再発とか後遺症の回復を考えるにあたって私は自分らしく、こう思うのです。
先ず、病気の再発はあり得ない筈です。もし、再び脳出血に襲われたら、私の脳内の別の箇所で偶然脳出血という名の病魔が襲ったのだという事です。詳しい説明をされた後、もしその病魔が、同じ右脳被殻出血と名乗ったら、あまりにも偶然だが、それでも全く同じ箇所という事はあり得ないと私は明言できるのです。
だから、私は「再発」という言葉を受け容れがたいのです。
更に、回復という言葉を考えてみます。
今日もリハビリ病院で、こんな事がありました。
私は、ベッドの上で胡座の練習をしていました。何も釈迦になるつもりも、鎌倉の茣蓙の大仏に弟子入りするつもりもありません。
病後一年目は、足を投げ出して座るのも到底無理な姿勢でした。胡座は二年経っても三年経っても苦痛でした。痛みを感じるわけではないのに出来ないという事実に対する苦痛だったのです。そして、いつしか胡座がかけるようになったのです。あの時、私は確かに心の中で小躍りをしていました。何故? 痛みを感じなかったからです。
少し痛覚が蘇った今私は、胡座をかくという行為が本当に苦痛なのです。本当に痛いのです。痛みは胡座の上には出ません。爪先近くに出る痛みは即、顔面に走るのです。誰がこんな事、分かりますか? 胡座をかいて、その痛みが爪先に出て、更に顔右半分を襲撃するなど・・・その走りのスピードは表現できない程の早さです。
そんな状態の時、誰かに「よくなりましたねえ!」なんて言われたいですか? 私は決して出来た人間ではありませんから、内心「何? 人の気も知らないで余計な事を」と言いたくなります。
これは明らかに「変化」なのです。悪い変化ではありませんが、私という人間の心にとっては決して良い変化だとも言えないのです。
声をかける人も、悪気はなく、良かれと思って「よくなってきましたね!」と言うのですから、その気持ちを汲んであげてチョッとだけ微笑んでさらりと「ありがとう」と言ったらいいのです。私がその言葉をどう、受け取ろうと私の勝手だという事です。
表面に出さなければ気まずくはなりません。
表面に殆ど出ないが最悪の辛苦と言える痺痛と年がら年中闘っていると「顔で笑って心でこん畜生!」と言ってたっていいわけじゃん!という事になります!

要は、言うも人それぞれ、それを受けるも人それぞれ・・・自分の考えを無理に押しつける事はないし、嫌々受け容れる事もない、それが世渡りがうまいかどうかという事だろう。少なくとも生きている以上、人間と世間は切れない関係にあるだろうから。

長い長い戯言にお付き合い下さってありがとう!

267.More Doggy

2008-05-05 14:07:14 | Weblog
http://kuukiiro.blog.ocn.ne.jp/blog/
英国ゴールデンきいろ&シェルティくうの毎日
1999年生まれのくうちゃんと2005年生まれのきいろちゃんは仲良し異父母姉妹

http://blog.livedoor.jp/ralumama/
ゴールデンのラル君のお気楽日記
ラル君とママのお喜楽毎日

わんたいむ~♪
http://wantime.cocolog-nifty.com/blog/
ゴルとシェパの気侭なワンライフ

266.木の芽時

2008-05-02 18:19:38 | Weblog
樹木に新芽が出て来る「木の芽時」は春の季語だが、あまりいい意味では使わない。
血が騒ぐ季節といわれ、漢方では「春は病、肝に在り、頭に在り」 と言われている。
確かにこの時期は暑かったり、寒かったりで、少し冷たい風が無理やり運んできた春が初夏に急ぐから、身体を温める働きのあるエネルギーがうまく全身に回らない。
陽気が頭に集中すると、イライラしたり、不眠症になったり、血圧が上昇したり、精神的に不調になりやすい。
この陽気がうまく発散されないでいると、神経痛や皮膚病が表面化してきて、鬱状態になったり、5月病等が出て来る。
徐々に暖かくなるにつれて人間の身体に備わっている陽気も増えてくるという自然をよく考えよう。
気候とか木々などにいいものだけを望んでも、そうは問屋が卸さず、病気でも木の芽時期は身体の中で眠っていた持病やアレルギーが吹き出すという訳である。

蕪村は、春の海 終日のたりのたり哉

芭蕉は、春の夜は桜に明けてしまひけり

春の海はのんびりだが、、春の夜は夜桜を見ている内に早々に明けてしまった、と言うのか。

早寝早起きを心がけ、歩くなどで、ゆったり身体を動かし始めることが大切で、心身ともにののびのびとした気持ちで活動するのが、春の陽気に応じるのが最高だという事だろう。出来るなら、日の入りと共に寝て日の出と共に起きる、を心がけたいものである

外出から帰宅してすぐにブログに書き込もうと思ったのだが、とってもショックで哀しい報が私を待っていた。
相手は私の大切な女友達!
私たち二人の出会いはお互いが16歳の時で、チョッと不思議な間柄である。彼女は青春時代をアメリカで過ごし、私はオーストラリアで過ごした。何十年ものブランクがあって再会した時は二人は「メル友ならぬ麻痺友」と呼びあう事にした。
病巣は違っても悩みは共に麻痺という事実からどちらからともなく命名したのである。
暫くの間、音信不通だった。
私は「何があったのか」と詮索はしなかった。
時がくれば、きっと連絡してくる、と思っていたからだ。
桜の季節が話題に出始めた頃「ゴメン!話したくなったら話すから!」と言ってきた。
久しぶりの連絡に、私は「待っているから、話したくなったら、聞いてあげる」と返事を出した。
だが、今、私の麻痺友がくれたメッセージはあまりにも突飛で、あまりにも哀しいものだった。
そこに書かれたいくつかの文字が未だ春なのに走馬燈のように私の脳裏を駆けた。
夫、肺ガン、四ヶ月の闘病生活、納骨・・・
私は目を疑った。
去年の事だった。「彼女は旅行で明日帰って来ます」電話口の彼の声が今、私の耳に蘇ってきた。あの時、翌日麻痺友からコールバックを受け「何? 何の用だったの?」と話し始めたが・・・
身体に不自由を感じることのある二人だが、あの時は「会わない?」という朗らかな会話だった。
東京で、成城と高輪と言えば、健常者同士なら問題にするような距離ではない。
私は右肩麻痺で右半身全くの不随という事で外出には車椅子が欠かせない。
一方、彼女は体の動きには全く問題ないが、突然襲ってくる顔の内部反乱と心痛は想像を絶するものだと、訴えていた。
だが、あの時「会おう!」と言いながら、珍しく外国育ちらしくない〆は日本式に「そうね、会おう!」という曖昧な約束は・・・電話の向こうに消えた。
夫が肺ガンで急遽逝ってしまった事実を話せなかった麻痺友を私はたった今、受け止めた。
そして、ある言葉を引用して彼女に哀しみと励ましを裏表にしたメッセージを送った。
「死者にたいする最高の手向けは、悲しみではなく感謝よ!」

ごめんなさい!
こんな風に締め括るつもりはなかったのに!

265.ゴールデンウィーク直前に出会った1冊の本

2008-05-01 06:27:28 | Weblog
What Wendell Wants or How to Tell If You're Obsessed with Your Dog?
題名が長っ!
著者はアメリカの女流作家で自称犬バカ!
次に挙げるのは、愛犬へのいくつかの質問と尤もらしい返事である。
とりあえず、この愛犬の答えは出ているけど、どう?
あなたも愛犬の代わりに出してみる?
あなたはバウリンガルと日本語の両刀遣いのバイリンガル・マスターなんだから!

さあ、ワンちゃん用意はいいですか?

1.あなたにとって、完璧な幸せとは何ですか?
  - ご主人のベッドでトスカニーニのストロベリー・アイスクリームを食べ、エアコンの風を顔に受ける事
2.今生きている人の中で、あなたが一番尊敬しているのは誰ですか?
  - トスカニーニのアイスクリーム店で働いている人たち
3.自分について一番嘆かわしいと思う点は何ですか?
  - 用を足す時、外でしないといけない事
4.あなたにとっての一番の贅沢は何ですか?
  - ご主人の膝に乗っておしゃぶりをかじる事
5.嘘をつくのはどんな時ですか?
  - トイレに行きたいと吠えるけど、実は外に出て友達に会いたい時
6.自分の外見で、どこが一番嫌いですか?
  -  白い毛。汚れが目立つからって、シャンプーされるので。
7.あなたの口癖は何ですか?
  - ワッフ!
8.あなたが一番残念に思う事は何ですか?
  車のエアコンを自分で調節できない事
9.あなたが一番愛している物、または、人は?
  - 勿論、ご主人! だって最高に愛しているアイスクリームを買ってくれるから
10.自分に欲しいと思う才能は何ですか?
  - ジャラジャラ鳴る鈴の音とジャラジャラ鳴る犬の鑑札の音を、聞き分ける才能
11.自分が何か一つ変えられるとしたら何を変えたいですか?
  - 首輪の色を赤から青に変えたい
12.家族の何か一つ変えられるとしたら何を変えたいですか?
  - 一緒に遊べる友達が欲しい
13.自分が成し遂げた最高の成果は何ですか?
  ママを特訓して、一緒にハイファイブをやって、ビスケをくれる様に躾た事
NB ところで、ハイファイブって何?
そう、ほらっ、野球の試合なんかで2人の選手が右掌をを頭上でたたき合う歓喜の儀礼というか仕草の事! でも犬界ではほらっ、宣誓式みたいに右前足を高く挙げるでしょ!
14.生まれ変わるとしたら何になりたいですか?
  - また犬に生まれたら愉しそう
15.生まれ変わりたくないのは何ですか?
  - 木、雑草の生えた空き地、電信柱、サンドイッチの紙袋には絶対なりたくない
16.男の人の一番好きなところはどこですか?
  - 引っ張りっこが上手なところ
17.女の人の一番好きなところはどこですか?
  - お腹をさするのが上手なところ
18.友達の中で一番いいのはどんな友達ですか?
  - 匂いを嗅いでいる間じっとしていてくれる友達と、玩具を使わせてくれる友達
19.好きな音楽は何ですか?
  -トスカーナのアンドレア・ボッチェリとママが最後まで歌える讃美歌!
NB ところで、アンドレ・ボッチェリって誰?
クラシック、ポップス、音楽の壁を完全に打ち破り、ヨーロッパ、アメリカ、日本と全世界にてアルバムをリリースしヒットさせている世界一のテナー・ヴォイスを持つスーパー・スターですって! そうそう、九州出身でS理恵さんという全盲のソプラノ歌手、知っていますか? 女性版アンドレア・ボッチェリを目指しているんですって!
20.好きな小説の主人公は誰ですか?
  - 犬のダンとアン(ウィルソン・ローズ著)
21.実際のあなたの好きな主人公は誰ですか?
  - 勿論、ママとパパ!
22.あなたの好きな名前は何ですか?
  - 勿論! 解るでしょ!
23.あなたのモットーは何ですか?
  - ビスケをくれる人とは、もっと近づきになろう!
24.長い間、質問に答えてくれてありがとう! 最後に何か一言お願いします。
  - あなた方犬バカさんは狂っています。それでも私たち犬はみなさんを愛しています。そして勿論、私たち犬はみなさんがバカになる価値があるんです!

以上は、私が夢中になって読んだJenny Lee著のWhat Wendell Wantsという本の極一部を要約して、且つ私のハイパーグラフィアを利用して興味深いブログになるように書き込みました。
これはあくまでもここだけの話で、あなたが読んで、あなたの犬に置き換えて、あなた自身が答えを出してみて下さい。
24問にした理由は、ゴールデンウィークのたった一日だけでも「犬専用の休日」にして、1時間に1問ずつのんびり愛犬と一緒に会話を楽しんで貰いたいからです。
あなたの愛犬が、あなたの出した答えに不満なら、そうです、是非あなたがハイファイブをやってあげて、ビスケットは愛犬にあげて下さい! 必ずですよ!