脳のミステリー

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255.ジェロントロジーに群がるソントク

2008-03-23 09:06:46 | Weblog
ジェロントロジーというカタカナは未だ一般社会には浸透してきていないが、老年学とか老人学また加齢学といえば「ああ!」という人も多くいるだろう。生物学とか医学など自然科学と社会科学を統合して加齢に係わる様々な問題を研究するのである。誰もが何度も何度も自らの誕生日を迎え続けていけば、やがて自然に向き合うことになる問題である。
誰もが求められるその際の能力は、老人の介護やお世話という領域を超えて、熟年の生き方や価値観を磨いていくという事に注目するべきだと思う。老人を意識した心配りは病院の案内係、町のお巡りさん、交通関係の職員、売店の人、道を行き交う人、全ての人々がその仕事を通じて求められる能力でもある筈だ。
さて、介護保険が見切り発車して幾年か経った今、予想通りの問題があちこちで出始め、更にあちこちで改良されつつある。2020年になると、日本の国民の4人に1人の割合の65歳以上の高齢者は、熟年だとか、高齢、老齢という修飾語は最早不要になって単に「日本人」と称する事になるのではないだろうか。介護サービス事業の突然の進出には驚嘆するばかりだったが、この皮算用もやがて「タヌキの皮算用」という事になってきている。
介護されるほうも、ボランティアに『ありがとう』と善意の心で応えてきていたが、介護保険制度が普及するにつれ感謝の心は『ちょっと遅いんじゃない』とか『それ終わったら買い物、行ってきて』と、今では雇い人の風情がないとは言い切れない。善意の介護が、国が面倒を看る制度に変わって、人の心の荒廃が見られるようになってくるとは嘆かわしい。介護する側の企業がお金に群がっての要介護争奪戦となる。一方、世話をされる側は、『介護保険適用うけないと損だ』という考えが芽生えてくるのだろうか。顰蹙はエスカレートしていくという訳だ。人間の後ろにうごめく銭金意識に損得意識をどう捉えたらいいのだろう。
人間と生まれたからには、肉体の回復にだけお金を注ぎ込むのではなく、人生観や心の回復まで考えるべきだと思う。
バリアフリーやノーマライゼーションと並んで一般化したいカタカナはジェロントロジーである。ジェロントロジーという老年学を考えると老人病学ではなく、生理的老化現象のほか老人の社会的問題も考えるということである。
私は軽く古希の年齢を超える年齢の、元気印群にいっぱい会った。そこで夫々のとても為になる話を聞いた。そこにいた高齢者予備軍が私の他には戦前派というか第二次世界大戦直前派という先輩がひとりしかいなかった事がとても残念だった。いい話だった。語る姿勢も実に微笑ましかった。話の内容を詳しく綴ると横道が長くなるので、それは次の機会にしたい。
とにかく、その場にせめて50代、40代の人がいっぱい居たらなあ、と悔しく思ったのである。高齢者の話し手は、聴衆が同年齢の仲間ではなく、せめて私達ふたりのような後輩であるという事が、話し手から元気印の衣を剝ぎとる事はなかった、と感じ取れたのが嬉しかった。しかも益々元気印になっていくのが分かった。
私は五体満足元気印だった頃に習慣になって、今感謝している事がある。それは50歳を記念して運よく「外国人相談室」のリーダーになっていた事である。
「貴女は自ら意見や構想を多くの人の前で語る事が出来るようになった今、人の語りに耳を傾ける事にも集中出来るように努力したらいい」
30歳前に言われたこの言葉を私に徐々に植え付けてくれたのは、リーダーという立場だったのである。自己満足だが、確かに今、自分は語りも聴く耳も備えていると思えるようになってきている。相手の気持ちが僅かでも自分なりに理解できてそれが大当たりすると単純に嬉しくなる。
確かに老齢者の話は何度も何度も重複したが、まぁっ!そんな事は大目に見て・・・

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