撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

ドナウ河岸歩き(14)ノヴィ・サド in セルビア

2019-10-19 00:01:10 | 海外生活

 ドナウ川はこれまで南へ南へと流れ下っていたのが、ヴコヴァル (Vukovar) を過ぎると真東に

(地図上では水平に) 進路を取り、セルビア国境の街バチュカ・パランカ (Backa Planka) で

パスポートチェックを受け、セルビア第2の街ノヴィ・サド (Novi Sad) に向かう。

                     ... 貼付画像はすべてOct. 11 2019に撮影        

1.ドナウ川とノヴィ・サドの橋たち

 ● 自由橋 (Most Sloboda)

 ベオグラードからの幹線道路22号線がノヴィ・サドの市街地に入る橋。

 1991年のコソボ紛争時にNATO軍の空爆で橋は破壊され、2005年に再建された。

 破壊前の橋は1981年に造られたものであった。    

   画像はSNS Wikipedia より拝借

 

<ロケーション>

 

 ● ヴァラディン橋 (Most Varadin)

  NATO軍の空爆により、橋ゲタのみ残っている旧ヴァラディン橋、この脇に2005年まで臨時

 の浮動式の橋が設けられていたらしい。(古い写真より判断)

 

 2000年に再建された今のヴァラディン橋(要塞に行く時の橋)、幹線道路100号線が通る。

 

 ● チェジェリ橋(Zezeljev most)

 2018年に再建された最新の橋で、クルマ用道路と鉄道線路を並行に走らせている。

 

2.ノヴィ・サドの街

  ドナウ川を挟んで左岸のバチュカ地方(市街地)、右岸のスレム地方(要塞)を結ぶ橋は

 3つあったが、1999年4月にコソボ側支持のNATO軍による空爆を受け、ドナウ川に架かる

 全ての橋は破壊されたが、現在はすべて再建された。

  実は当時、勤めていた職場の上空を、静謐な真っ青の空を突き裂くようにNATO軍の爆撃機

 が通り過ぎて行った事を思い出し、あの時の爆撃機が狙った先はここだったのかと、片やノホ

 ホンと空を見上げ、片や生死の狭間だったのかと複雑な思いに陥ったこの日であった。

 

 ● 左岸の市街地

  対岸のペトロヴァラディン要塞側は入植制限もあり、セルビア人達は左岸側に新しい街を作

 ったのが1694年からである。 市街地の人口は29万人でセルビア第二の都市となった。

 ノヴィ・サドの名の由来は、Novi(新しい)Sad(住まい、入植地)である。

 

  最も高く突き出している尖塔が、ノヴィ・サドのランドマークでもある聖母マリア聖堂。

 

3.ペトロヴァラディン要塞 (Petrovaradin fortress)

  この地には石器時代(紀元前4,000年頃)より人は住んでおり、紀元前4世紀にはケルト人

 が、紀元前1世紀よりローマ帝国が支配するが、その時期には既に、この場所にクスム (Cusm)

 という要塞が築かれていた。現在の要塞はハプスブルグ家のマリア・テレージア女帝が1699~

 1780年に同じ場所に造り替えたものである。

 

 ● 時計塔

 

  この時計は短針と長針が逆になっているそうだが、確かにそうであった。

 

 ● 展望テラス

  右の建物はホテル「レオポルト」

 

 ● 市立博物館

 

 ● イエズス会聖ジョージ教会

 1701~1714年に創建された。 教会の脇の階段を登って行くのが要塞へは近道。

 

 

<参考メモ> .... ここで複雑過ぎる旧ユーゴスラヴィアの成り立ちをメモっておきたい。

  この地は紀元前より、いろんな民族、帝国が領土を求めて戦乱に明け暮れてきた訳であるが、

 第二次世界大戦の終わりが見えてきた1943年11月にユーゴスラヴィア共和国として独立を宣言

 した。 当時のこの地域はナチスドイツの占領下にあり、ユーゴ共産党率いるパルチザンが抵抗

 運動を繰り広げていた。 そのリーダーであったのが後にユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国

 の初代(終身)大統領となったヨシップ・ブロズ・チトーである。

 この抵抗運動はナチスを敗戦に導くほど苦しめ、最終的には自力で勝利、独立を勝ち取った。

 ナチスから解放されるや、ソ連は東側ブロックの一員に迎えるべくユーゴに触手を伸ばしてきた。

 しかし、ソ連の目指す中央集権型政治運営とユーゴ共産党の目指す分権型政策とは相容れない

 ものがあった。

 このことがスターリンの逆鱗に触れ、1948年6月に共産党国際組織であるコミンフォルムから

 ユーゴは追放されてしまったのである。

 当初、ユーゴは東側ブロックに属すると考えられて、西側からの援助も受けられず孤立し、経済

 的にも窮地に陥ってしまった。 そして分権型の社会主義体制を推し進め、労働者の自主管理

 「工場を労働者の手に!」をスローガンに東西対立の狭間にあって生き延びるしかなかった。

     ... 実は後に、この分権型社会主義がハンガリー動乱(1956年)、プラハの春(1968年)と

       いった東欧革命に繋がって行ったのは世の中の皮肉なのか。

 1950年以降のユーゴスラヴィアは青息吐息で、時には分裂の危機を孕みながらも1991年まで

 統一を持ち堪えてきたのは、チトー大統領が民族間の対立を抑えていたせいだったのであろう。

 チトーが1980年に世を去るとユーゴスラヴィア共和国の統一に暗雲が差し込んで来た。

 そして1991年からの一連の「ユーゴの紛争」に繋がるのである(前回のメモの通り)

   ここでよく用いられるユーゴの多様性を物語る言葉遊びを......  ユーゴスラヴィアは;

    ・1つの国なのに、

  ・2つの文字(ラテン文字、キリル文字)を使う。

  ・3つの宗教(カトリック、セルビア正教、イスラム教)が混在して

  ・4つの言語(スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)で国語がない。

  ・5つの民族(スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、イスラム人)

  ・6つの共和国(スロヴェニア、クロアチア、セルビア、ボスニアヘルツェゴビナ、

          モンテネグロ、マケドニア)が連邦している。

  ・7つの国境(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャ、

         アルバニア)と接している。

 この事実がユーゴスラヴィア統一の困難さを物語っているのだろう。

 

        これにて「ドナウ河岸歩き(14)ノヴィ・サド in セルビア」はお終いです。

   次回はベオグラードへ、本ブルグのご拝読をありがとうございました。

 

 

「ハンガリーでのんびり」