今日のテーマは汎ヨーロッパ・ピクニックと呼ばれた勇気あった民主化運動について.....
時は1989年5月2日、ハンガリー社会主義労働党改革派のネーメト・ミクローシュ首相は諸外国
メディアを前に、隣国オーストリアとの国境にある電流を通した鉄条網を撤去すると表明した。
この声明から数時間後、鉄条網を大きな金鋏で切る兵士の写真が通信社を通じて全世界を駆け巡った。
そこに至るまでの葛藤(*1)と画策、保守派(*2)からの批判は当然あったが、冷戦により長年停滞した
経済に辟易した東側諸国民の不満は限界までに達していたことや西側諸国の後押し、またソ連に誕生
したゴルバチョフ新政権がハンガリーの決断を黙認するという方針も大きな決定要因となった。
その後、6月にも再び、ハンガリー政府はフェンスの一部を切断したことによって、多くの東ドイツ
国民はハンガリーまで秘密警察に睨まれることなく、合法的に辿り着ければ、何とかオーストリア
経由で西ドイツに越境出来るのではないかという希望が湧いて来た。
当時は東側諸国の人々の、東側共産圏へのバケーション等の渡航は合法(*3)であったが、西側へは
ハンガリーの発行するパスポート(ビザ)が必要であり、その入手は不可能であった。
この問題を解決するのに、あの「東洋のシンドラー」と呼ばれた第二次世界大戦下のリトアニア日本
領事館の杉原千畝のような役割(裏技)が必要であり、それがズグリゲット教会の存在であった。
1.ズグリゲット教会 (Zugligeti Szent Család templom)
ローマカトリック教会、1913~1917年にアイルランドのラスファーナム教会をモデルとした
ネオゴシック様式で建てられた。 教会の場所はブダペストの日本大使館の裏手にあることも
何かの因縁を感じさせられる。
May 02 2019
May 02 2019
教会内部 SNS Wikipedia より拝借
● 教会前の公園にはハンガリーパスポート(ビザ)の発給を待つ人達のテントがいっぱい
張られていたという。 May 02 2019
● 教会前に順番を待ちわびる東ドイツの人達(教会前の記念碑を撮る)
2.汎ヨーロッパ・ピクニック(Pán európai piknik) 会場
西ドイツのヘルムート・コール首相らと相談しながら、1989年8月19日(土)にショプロン
郊外でピクニックと銘打った政治集会を開催すると喧伝した。
西ドイツへの亡命を求める1000人ほどの東ドイツ市民が参加し、オーストリア国境を越えて
亡命を果たしたのであった。
その3か月後の11月9日に、ベルリンの壁崩壊への引き金になった重要な事件であった。
<ロケーション>
● オーストリア国境ゲートと自由への扉を意味するモニュメント
May 01 2019
● イギリス首相のチャーチルが称した「鉄のカーテン」の一部 May 02 2019
● 国境ゲート前広場 May 01 2019
● 当時の写真(広場の展示板を撮る)
<補足説明>
葛藤(*1);1956年のハンガリー革命において、1958年に自由を求める市民が武装蜂起して
共産主義政権の打倒を図ったが、ソ連軍の軍事介入による鎮圧の為に、25,000人
の死亡者と20万人の亡命者を出し、その轍を踏まずに改革を実現したかった。
保守派(*2);ハンガリー社会主義労働党の書記長カーロイ・グロースは改革派のネーメト首相
や政治改革相のポジュガイ・イムレ等には批判的であった。
当然ながら東ドイツ国家評議会議長のエーリヒ・ホーネッカも怒りを露わにした。
合法 (*3);東西冷戦時代、東ドイツの人達は、毎年夏にバラトン湖で離ればなれになった
西ドイツの家族、知人と再会するための休暇を取ることが合法的な渡航理由と
なっていた。
「戦争を知らない子供たち」と唄ってノホホンと昭和~平成と生きてきたけれど、60年前に
北朝鮮に帰還した幼なじみの木村哲生が乗る帰還バスに、教室の窓から旗を振って見送った
ことが、ついこの前の事のように思い出してしまう。 幸せに生きているのか、生きたのか?
これから“令和”の時代を永く生きていく人達には、国境の壁(カーテン)のない平和な時代に
生きて欲しいものである。
これにて「知りたいハンガリー史(1)汎ヨーロッパ・ピクニック」は、お終いです。
「ハンガリーでのんびり」 http://motsukahu.web.fc2.com