撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

知りたいハンガリー近代史(1956年革命)

2019-11-25 19:00:22 | 海外生活

 今回は少し文字が多くなるが許して貰うことにしよう。 それは今まさに、世間を騒がせて

いる香港のデモと暴動、それにフランス、スペイン、イラクの反政府デモ、南米ではチリ、

ベネズエラと世界の各地で連鎖化している。 古くはここハンガリーでも建国史上、国民に

とって忘れることが出来ない民主化と独立を強く願った戦いが二つあった。

歴史は繰り返すではないが、それが中・東欧の社会主義諸国への連鎖、波及したという経緯と

ダブって見えてならない。

その二つの革命とは、

 ① 1848年3月15日 :オーストリアのハプスブルク帝国からの独立の為の革命

 ② 1956年10月23日:ソビエト連邦社会主義共和国連邦(ソ連)からの独立革命

その呼び方には、対象国の立場によって動乱、暴動、事件、紛争など様々のようだが、ハンガ

リーにおいては独立革命という呼び方に固執しており、二つの記念日は国の祭日となっている。

激動したハンガリーの近代史の中で、特に1956年の独立革命にスポットを当てたブダペスト

の街歩きと文献との照らし合わせで、もうちょっと深く理解したくなった。

(1848年の独立革命については又の機会にしよう)

 

1.1956年革命の勃発

  1953年3月5日の「偉大なる独裁者スータリンの死」が引き金になり、ハンガリーでも

 「小スターリン」と呼ばれた首相のラーコシ・マーチャーシュの独裁政権への反発と共産党

 の民主化運動が高揚し始めていた。 スターリンの後継指導者ニキータ・フルシチョフに

 よってハンガリーの後継者に抜擢されたナジ・イムレの目指す新しい共産党体制が、鬱積して

 いた労働者、農民と学生たちの不満ムードを後押しした。

 そして1956年の10月23日火曜日であった。 改革派分子達は改革のマニフェスト「16項目」

 を掲げ、デモを決行した。

 「16項目」の第1項目がソ連軍のハンガリーからの撤退であった(第二次世界大戦後からの

 ソ連支配に対する憤りも限界に達していたのである)

 午後3時にデモ隊はペシュトとブダの2箇所の集会所をスタートし、ベム広場で合流した後、

 国会議事堂を目指した。

 彼等の詩(1848年の革命時のペテーフィの『国民の歌』*1)を合唱しながらデモ行進した。

   *1 ; 立ち上がれ、ハンガリー人、国民はみんなに呼び掛けている

       何が起ころうと、今こそ立ち上がろう。

       自由人になるか、奴隷になるか、心が渇望する運命を選ぼう。 


 ① ペシュトの集会場所 

 3月15日広場でのペテーフィ銅像の周辺に12,000人の蜂起市民が集合    Nov. 23 2019

 

 ② ブダの集会場所 

 工科大学に集まった8,000人の学生がドナウ川沿いをベム広場に向かってデモ行進

                                       Nov. 23 2019

 

   ブダ側ベム広場 (Bem József tér) には 25,000人の蜂起市民が      Aug. 17 2019

 

 ③ 国会議事堂前のコシュート広場 (Kossuth Lájos tér)

  午後7時を過ぎると25万人に膨れ上がった。              Nov. 23 2019

 

 

  どうやら、かつての英雄の銅像を倒すという暴挙は独立革命の常道手段のようだ。

 唯一残された長靴のみの像が英雄広場脇に飾られ続け、人々は長靴広場などと呼んでいた

 らしいが、その像も1993年には郊外にあるメメント (Memento) 広場に移された。

2.動乱

 2-1. 第一次動乱

  10月24日未明より、ソ連軍は 6,000人の将兵と700台の戦車でデモを鎮圧開始した。

 そして10月27日までの5日間、自由闘争戦士とハンガリー治安部隊+ソ連軍が血を流す闘争

 を繰り広げた。 但し、ソ連軍は積極的な軍事介入ではなかった。(ハンガリーを支援する

 西側諸国との政治的な駆け引きで嚇しが目的であった。)

 <紛争の舞台>

   

 

 

 ① セーナ広場(現在の Széll Kálman tér)

    上記の写真と同じ場所                      Nov. 22 2019

  通称 “サボーおじさん” が指揮官として活躍していた地区で、マンムート (Mammut)

 モール裏の路地 Lövőház 通りに掲げられているモニュメント。(後に彼は死刑となった)

 

 ③ コルヴィン横丁

  武装抵抗の中心的な拠点で、ソ連軍が最も恐れた激戦の地区であった。

 道路の向かいにはキリアーン兵舎があり武器の調達や兵士の中には蜂起者や指導者になった

 者もいた。 又、地域的にもソ連軍の戦車が入り込めない過密住宅の迷路と地下道に繋がっ

 ておりゲリラ戦に適していた。 

 コルヴィン横丁入口(キリアーン兵舎側から見る)         Nov. 09 2019

 

   コルヴィン横丁内の映画館                      Nov. 09 2019

 

 キリアーン兵舎(コルヴィン交差点)

   指揮官のパール・マレーテルはナジ・イムレの側近で国務相を務めており、この兵舎で

  指揮官をしていたので戦いのプロでもあった訳である。 (後にナジと共に死刑となった)

                                   Nov. 09 2019

  

 現在の兵舎の中庭(建物内はほとんど使われていない模様)

 

 ④ メシテル (Mester) 街と左横の路地を入ったフェレンツ広場        Nov. 09 2019 

      

 ⑪ カールヴィン広場 (Kálvin tér)                                                        Nov. 09 2019

                                                        ソ連の支配権力を象徴する星のマーク

   が撤去された(1956年10月24日) 場所は定かでないが上記写真の旧UNIONビルと推定。 

   

 ⑮ モーリツ・ジグモンド環状広場 (Moricz Zsigmond Körtér)

                                                                                                Nov. 23 2019

 

 2-2. 第二次動乱

  10月28日(日)にソ連軍との間に休戦が合意に達し、翌日よりソ連軍はブダペストから撤退

 を開始した。 大勢のブダペスト市民は革命は勝利に終わったものと勘違いしてしまった。

   分捕ったソ連戦車の上で国旗を振る戦士達

 

  しかし、11月1~2日にソ連軍は、一旦引き上げた軍隊をハンガリーに引き返させ、侵攻を再開。

 クレムリン上層部の決定は、ソ連の軍事介入は他の衛星国を手放さない為の必要手段ということで

 あった。 

 すぐさまハンガリーナジ政府はワルシャワ条約機構から脱会し、中立国宣言をして、西側列強諸国

 からの支援と国連に中立擁護の要請をしたが、英+仏+イスラエル対エジプトで燻ぶっていた

 スエズ運河の利権を巡った第2次中東戦争が勃発(1956年10月29日)したことに加え、 

 頼みの米国アイゼンハワー政権はソ連との政治的な駆け引きによって不干渉政策を選んだため

 万事休する結果となった。 

 11月4~5日にソ連軍の情け容赦ない砲撃が終えると市民は隠れていた場所から姿を見せ始め、

 一気に動乱に終止符が打たれた。

 

 ナジと側近、その家族を含めた39人の避難者はユーゴスラヴィア大使館に11月4日~22日まで

身を寄せていたが、ソ連軍司令部により身柄をルーマニアに移され 1957年4月14日にハンガリー

警察に逮捕されるまで拘束された。 逮捕後はブダペストの中央刑務所に送られ留置された。

 <ユーゴスラヴィア大使館(現セルビア)>             Nov. 23 2019

 

 <ソ連軍の軍事介入の足跡>

 

3.結末

  事後の人民(報復)裁判によって、首相のナジ・イムレと側近たちは1958年6月16日に

 絞首刑となり、その遺体は刑務所の中庭に埋められ、4年後に隣接するケレストゥール

   (keresztúr) 共同墓地に密葬され、1988年まで家族達は墓を訪れることは許されなかった。

 民主化が成就した1989年の再裁判により無罪となり、英雄広場での国葬の後、東駅脇にある

 ケレペシ (kerepesi) 共同墓地に再埋葬された。           Nov. 23 2019

 

 犠牲者たちの名前が刻まれた墓標

 

 つごう330人が死刑を言い渡され、25,000人が投獄された。 この動乱では2,600人の死者と

20万人の亡命、難民が西側諸国に流出、なんて大きな代償であったことか。

この動乱の後、クレムリンの傀儡政権としてヤーノシ・カーダール(ナジ革命政府に参加したが

11月1日に政府を裏切りソ連についた)はハンガリーの最高指導者として、共産党を社会主義

労働党と名を替えて、その第一書記として32年間も、再び共産党単独の独裁的政策を続けた。

それは国民にとっての長い「集団的記憶喪失」または「自発的沈黙」の期間であったと云える。

新しい民主化の波に乗って、1989年10月23日にハンガリー共和国憲法は変更され、多党制の

ハンガリー第三共和国が誕生し、真の独立が33年後に実現したことになる。

さて、香港や他の国々の結末がどうなる事かと固唾を飲んでおり、ハンガリーと同じような悲劇

が起こらないで欲しいと願っている次第である。

 

 <参考文献>

   ● 「ハンガリー革命1956」   ヴィクター・セベスチェン著 (吉村弘訳)    白水社 

   ● 「1956年のハンガリー革命」   リトヴァーン・ジェルジ著  (田代文雄訳)   現代思潮新社 

         ● 「In The Shadow's Boots」   Visitors' Guide Book to Memento Park

 

    これにて「知りたいハンガリーの近代史(1956年革命)」は、お終いです。

   本ブログへのご訪問、有難うございました。


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1 コメント

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初めまして (てまり)
2019-11-26 12:56:36
フォロー頂きありがとうございました。

リタイア後の優雅な海外生活

羨ましい限りです(笑)

どうぞよろしくお願いします。
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