Berhida(ベルヒダ)の町境を越えると、街道は2つに分かれる。 左折すればバラトン湖畔
まで8km、直進すれば県庁所在地 Veszprém (ヴェスプレーム)まで13kmである。
建国の歴史に翻弄された小さな美しい村が3つほど点在する直進を選ぶことにした。
1-3. Vilonya (ヴィロニャ)
最初の村が Vilonya (ヴィロニャ)である。 人口は約650人で、Veszprém (ヴェスプレーム)
郡(県)に属している村である。 この後に出てくる2つの村も同様である。
<見どころ>
*改革派(カルヴァン主義)教会; 13世紀にゴシック様式で建立された要塞教会であったが
1552年のオスマントルコ軍の襲撃で破壊され、現在の物は1720年代に再建された。
塔は1796年に追加され、当初の教会には塔はなかった。
北側の壁には細長い窓(ロマネスク様式)が残されている。 当時の教会は背後の屋根が低く、
建物の真ん中に位置する祭壇部は平らな四角い天井であった。 その跡が壁に残されている。
丸いカワイイ説教台は、中世ゴシック様式で改築時のものであり、教会の両サイドが信者席になっている。
内部はトルコ軍により、ことごとく破壊され初期の面影は全くない。
* Séd (シェード)川と水車小屋;
癒しのSéd (シェード)川とガボール神父公園から村の中心を望む。
今も稼働中の水車小屋
*廃線となったVilonya (ヴィロニャ) の駅舎;
隣なり村の Kiralysentistván(キライ・セント・イシュトヴァーン)と共用駅であった。
1-4. Kiralysentistván(キライ・セント・イシュトヴァーン)
村の中心部のお洒落な役場(道路右側の6角屋根)
村の人口は約450人。 建国のきっかけとなった997年にイシュトヴァーンは後継者争いの
宿敵コッパーニ (Koppány)を、この付近の Séd 渓谷 で破り、初代のハンガリー王となった。
しかし、村の名前に王の名前を使ったのは、ハンガリー/オーストリア帝国時代の1908年からで、
村としては建国前からあったものではないと推定される。
教会自体も古くはなく、18世紀半ばに新古典様式で建てられた改革派(カルヴァン)教会がある。
1-5. Sóly (ショーリ)
蛇行して流れるSéd (シェード)川沿いに、川の恵みを共有する形で今回の三つの村が隣接している。
Sóly (ショーリ)の人口は約420人で3つの村を合わせても1500人程度の地域である。
Szőlő-hegy (ソーロ山)より見た Sóly(ショーリ)村と教会
<見どころ>
* 改革派(カルヴァン)教会;
教会は、イシュトヴァーンがコッパーニとの後継争いに勝利した記念に建てられた礼拝堂
(1009年建立)の場所に初期の教会が12世紀にロマネスク様式で建てられた。
現在の教会は18世紀にバロック様式に改築されたものである。
目隠しされた細長い窓は、ロマネスク様式で初期の物として残されている。
* Szőlő-Hegy (ソーロー山); 広大な高原風景と世界一(高さ12m)の木製の剣。
但し、2014年7月の落雷により倒れており、未だに復興されていない。
* コウノトリ; この地域の煙突の上や電信柱の上に多く見られる渡り鳥。
春にアフリカから渡って来て、子育てを終えたら、また冬にはアフリカに帰る。
ハンガリーでは、「赤ちゃんを運んでくる鳥」「幸せを運んで来る鳥」として愛されている。
*廃線のSóly (ショーリ)駅舎;
これで、「バラトンそぞろ歩き(3)小さな美しき村たち」はお終い。
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