「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

戦時下にあった「スマトラ新聞」(5)再録 アチェのF機関

2016-09-13 05:30:13 | 2012・1・1
昭和19年秋、菊池記者は第25軍軍政監部の「作戦××号」によって陸軍報道班員に任命された。作戦命令は北スマトラ.アチェの防衛陣地視察と取材であった。菊池記者は軍政監部が用意したバスでパダンを出発、アチェ海岸に構築された防衛陣地を見て回った。このバスにはパダン駐在の日本の記者や「Padan Nippo」のアジ.ネゴロ主幹も同行していた。すでに戦局は逼迫していて、敵がいつ上陸してくるかもしれない状況だった。

この取材で菊池記者はアチェの首都コタラジャ(バンダアチェ)で、藤原(F)機関の増渕和平氏と会見した。F機関というのは大東亜戦争の初期、陸軍の諜報機関の藤原岩一少佐が率いてマレー作戦でインド人の結集に成功、のちにチャンドラ.ボースを独立インド軍総裁にしてインド独立の礎を築いた機関である。F 機関は同時にアチェの和蘭からの独立運動派にも働きかけ、日本軍のアチェ無血上陸にも成功した。

増渕和平氏は民間人だったが、南方生活が長くF機関に協力、日本軍のアチェ占領後はアチェ軍政監部の顧問として駐在していた。当時アチェでは日本軍に全面協力して独立を勝ち取ろうという勢力、プサ党(イスラム大衆党)が主力で、日本軍もプサの協力で無血上陸したが、占領後分かったことは、占領政策を推進するには、プサではなく、元国王を支持する一派、ウルバラン党であることが判ってきた。菊池記者が増渕氏に会見したとき、増渕氏は、この狭間にあって苦慮していたようだった。増渕氏は20年8月、日本軍の敗戦の責任を取って自殺している。

ザンギで知る北海道の秋の味

2016-09-12 07:43:06 | 2012・1・1
秋の短い北海道では、場所によっては街路樹のナナカマドの葉や実が赤く染まり始めてきたかもしれない。30年ほど前、10年ほど札幌に在住した僕は、この季節が懐かしい。作家の渡辺淳一氏の東京生まれのお母さんは、札幌のこの季節が,うら寂しくイヤだったそうだが、僕も同感だった。しかし、一方では、実りの秋を実感でき、心に豊かさを感じるシーズンでもあった。

今年の北海道は夏以来何回かの台風による豪雨で、農作物が大きな被害を受けている。この余波を受けで東京首都圏でも野菜が高騰を続けている。例年なら、この季節になると、デパートやスーパーが競って「北海道物産展」が開かれ、その派手なチラシが入って来るものだが、今年は少ない。昨日やっと大手ス―パーの”北海道秋のたまらないうまいしょ”展のチラシを目にした。例年なら出来秋の目玉商品の農産物や水産物の扱いが小さい。トーモロコシ(真珠)1本178円、大根半分袋入り95円、カボチャ四分の一138円、秋刀魚一匹198円、秋鮭一切れ198円などなど。

チラシで多かったのは道内各地の駅弁空弁の類。珍しかったのは”ザンギ”だ。”ザンギ”といっても北海道以外では通じないが、鶏肉の唐揚げのことだ。多少造り方に違いはあるが、生鮮食品に恵まれている北海道では数少ない加工食品である。30年前札幌にいた時は、道内産のお米は不味くて食べられなかったが、今は銘柄品で美味しい。流通面で問題があるのかもしれないが、出来秋の北海道の新鮮な食品を例年通り手に入れたいものである。

戦時下にあった「スマトラ新聞」(4)再録 アジ.ネゴロ主幹

2016-09-12 06:12:33 | 2012・1・1
「スマトラ新聞」の本社のあった建物では、和蘭植民地時代、「ラジオ新聞」という現地語の新聞が発行されていた。発行主兼論説主幹は、マジッド.ウスマンという、西スマトラのダトゥ(王族)出身の有力者であった。ウスマン氏は和蘭殖民地主義に反対、戦前日本に留学、明治大学に留学中、東京で日本女子大学の学生だった、長田周子さんと知り合い結婚した経歴の持ち主だ。二人は昭和16ね12月、大東亜戦争勃発と同時に和蘭に逮捕されたが、17年、日本軍の進出で釈放され、故郷のパダンで「ラジオ新聞」を経営していた。

昭和18年6月頃、矢野兼二氏が西スマトラ州知事に着任、ウスマン氏は軍政顧問となり、日本語新聞「スマトラ新聞」を発刊するに当たり、「ラジオ新聞」を改題して「Padan Nippo」にした。しかし、和蘭時代の年金問題処理を巡って軍と意見が対立した問題もあって、ウスマン氏は新聞から手を引き、矢野知事の勧めで、10月、「内閣調査員」という資格で日本へ”テイのよい”追放にあった。(ウスマン一家の波乱の半生は、小ブログ8月20日参照)

菊池秀宏記者の著書によると、「Padan Nippo」は週に二回発行され、論説主幹はアジ.ネゴロであった(多分ウスマン氏の後任)。菊池氏によると、当時アジ.ネゴロ氏は50歳ぐらい、小柄で目が鋭く、老練のジャナリスとして読者に人気があったが、あまり原稿は書かなかった。が、ここ一番というときの社説は大変な人気で、その日の新聞は売り切れるほどだった。

菊池氏の記憶にあるのは昭和18年6月サイパン陥落後の国際情勢について、アジ.ネゴロ主幹が”日本政府と国民がどのように行動するか注意深く見守ろう”といった趣旨の論調を書いたときの事だった。第25軍軍政監部は日本軍が必死に戦っているのに、この論調はなにかと問題になったが、結局現地の事情を考慮して「padan Nippo」にも監督責任があったとし、「スマトラ新聞」の石沢編集局長がメダンの華字紙に左遷されて事が収まった。

アジ.ネゴロ氏は。昭和18年11月、東京で開かれた大東亜共栄圏新聞編集者会議にも出席しており、戦後インドネシア独立後は国営通信社アンタラの初代社長でスカルノ初代大統領のブレインの一人であった。

日本にはない性的暴言罵言

2016-09-11 09:10:39 | 2012・1・1
先日のアセアン会議でフィリピンのロドリゴ.ドゥテルテ大統領が、オバマ米大統領に対して暴言を吐いたのが原因でせっかくの米比首脳会談がお流れになったという。そのドゥテルテ大統領が、今度は藩基文国連事務総長に対してタカログ語で”売春婦の息子”を意味する言葉”プータン.イナ”と口ぎたなく批判した。二人が今フィリピンで行われている、麻薬患者に対する人権侵害を批判したことに対したものらしい。

ドゥテルテ大統領が使った”プータン.イセ”みたいな言葉は世界によくある。例えば僕らが子供だった日支事変中、シナ人を侮蔑して”マ―ラカピー”とよく言ったが、後年、この言葉は、相手の母親を強姦するといった最低の侮蔑語であることを知った。戦後占領下、”ハバハバ”(急げ急げといった進駐軍英語が全盛時代、僕ら中学生は進駐軍キャンプでアルバイトする友人から”サナダビッチ”(son of bitch)という言葉を教わったが、これも売春婦の息子という相手への暴言罵言だと後で知った。

あらぬ”従軍慰安婦”の造語が国連文書にまで出回っているが、日本語の暴言罵言には、上記したような言葉はない。せいぜい、”お前のかあさん出ベソ”ぐらいなものだ。米国の共和党大統領候補、トランプ氏も”歯に衣をきせぬ”政治家だが、まさか相手のことを”サナダビッチ”呼ばわりはしないだろう。ドゥテルテ大統領は”庶民的な”一面もあり、彼のやっている麻薬退治は理解できるが、国際社会ではどうなのか。




戦時下にあった「スマトラ新聞」(3) 再録 軍の統制

2016-09-11 07:49:07 | 2012・1・1
菊池秀広記者がパダンに赴任したのは、昭和18年9月だった.すでに政府は5月31日、天皇陛下出座の午前会議で「大東亜政略指導大綱」を決定、マライ、スマトラを含む旧蘭領地域は帝国(日本)とする旨決めていた。全く、そのこと知らずパダンに赴任した菊池記者は、軍当局が現地人の独立運動に敏感になっているのを感じ取った。

菊池記者は赴任直後、西海岸(スマトラ)州知事だった矢野兼二知事を表敬取材している。矢野知事は富山県知事から転任したばかりの少壮内務官僚で、着任早々から、積極的に現地の指導者と会い、意見を求めなど評判がよく いつも知事室には住民が押しかけていた。しかし、あとで菊池記者が知ったのだが、この時、すでに矢野知事は、御前会議の決定をめぐって現地の軍当局と意見があわず、辞表を提出していた。

現地の独立を希求する空気は、御前会議にも拘らず強くなる一方であった。これに対して現地の第25軍司令部は意識的に規制した。そんな中で、菊池記者はある日、パダン市内で開かれたイスラム教関係者の独立決起大会を取材した。菊池記者は当然、次の日の新聞はにはトップ記事で扱われると思っていたが、二面に小さな二段記事で、同時に取材した現地紙「Padan Nippo」は小さなベタ記事であった。こんな中、矢野知事は辞任が認められ、19年4月帰国の途につぃた。その日の事につぃて、菊池記者はこう書いている。”パダン市内は日の丸の小旗を持った人々であふれた。州庁前では涙を流す婦人、女学生、正装したイスラム教徒、スマトラ義勇軍も整列して式典に参加した”。

豊洲市場の”汚染” 小池知事の手腕に期待

2016-09-10 08:22:44 | 2012・1・1
小池知事の金曜日の定例記者会見をテレビで見た。かっては、東京ローカルのMXテレビだけが生中継していたが、昨日はTBS,フジテレビも情報番組の中で一部ナマ中継していた。それだけ、小池知事にはタレンンと性があり、発言にもニュース性がある。とかく都政には話題性がなかっただけに好いことだ。

記者会見での小池発言は(1)待機児童対策(2)知事の年収を半分にする”身を改革”(3)行政改革の三つだったが、主に時間を割いて説明したのが待機児童対策であった。126億円の補正予算を組み、保育定員の5000人を確保しようというもので、空家を利用し、保育士の待遇改善に役だてようとするなど具体な施策のように思われる。何より、小池知事は、少し”横文字”が多い嫌いはあるが、”保育コンシェルジェ””ホーレンソウ”(方法、連携、相談)などマスコミ受けする言葉使いが上手だ。

都民が今、関心がある問題の一つである豊洲市場へ移転問題が僕が見ていたテレビ中継ではなかったので、不審に思っていたが、朝刊によると、都の幹部が別に記者を集め豊洲市場の売り場棟下の地盤に汚染対策としての盛り土がされていなかったことを初めて認め謝罪したという。小池知事は先日、豊洲市場を視察した際、安全性への懸念を示し、11月の築地からの移転日の延期を発表していた。

都民にとって、生鮮市場は”食”に関する重大関心事である。今になって移転を延期しようということは考えれない。小池知事がいう”ブラックボックス”的な問題が移転問題に絡んであるのだろうか。今月末から始まる都議会本会議での政争の具に使われるのでは困る。小池知事の手腕に期待する。

戦時下にあった「スマトラ新聞」(2) 再録  道新が主力

2016-09-10 06:32:00 | 2012・1・1
「スマトラ新聞」本社はパダン市の中心に近い華僑街のはずれにあった。平成8年2月、僕が菊池秀広氏とパダンを訪れた際には、まだ二階建ての建物は残っていた。元々、この建物は和蘭植民地時代、マレー語(インドネシア語)の新聞、「ラジオ新聞」が発行されていたが、日本軍は18年(昭和)5月ごろ、日本語の「スマトラ新聞」を発行するに当たり、ここを接収して、同時に新しく、マレー語の「Padan Nippo}(パダン日報)を発行した。

「スマトラ新聞」朝刊2ページ建てで、読者は主として第25軍司令部のあったブキティンギ(パダン50㌔北)の軍関係者とパダンの在留邦人800人で、発行部数はせいぜい1000部ぐらいと菊池さんは推定していた。

菊池さんの本によると、「スマトラ新聞」の当初のスタッフは編集局長石沢、パダン支局長栗原、外勤記者,迎、菊池、河と北海道新聞からの出向が多く、このほか印刷局長八尋、次長森は、西日本新聞社、整理部記者、菜畑は東京新聞、速記記者、堀江は河北新報、パレンバン駐在、星野は中部日本新聞社といった混成部隊であった。「スマトラ新聞」間の人事異動もあり、初代の石沢編集局長は軍に”にらまれ、北スマトラ.メダンの華字紙代表に転出、その後には山梨日日新聞から出向の佐藤氏が就任した。そのほか「パダン日報」には大阪外語マレー語科での福山記者がいた。

記事の内容は現地取材と同盟通信からのゲラ刷りの配信記事でであった。同盟通信は第25軍司令部のあったブキティンギに支局があり、記者が一人駐在していた。昭和18年6月、菊池さんがパダンに赴任した時は、まだ23歳で、社内では最年少で、持場は主として華僑街の取材であった。菊池記者は現地で雇った沖縄からの移民漁師の息子、宋丸男を通訳にして市内を取材した。

戦時中にあった日本語の「スマトラ新聞」(1)再録  平成11年に発見

2016-09-09 09:44:11 | 2012・1・1
戦時中、日本軍の占領各地で日本語新聞が発行されていた、インドネシアのジャワとボルネオ(蘭領)では朝日新聞が「ジャワ新聞」と「ボルネオ新聞」を、毎日新聞がフィリッピンとセレベスで「マニラ新聞」と「セレベス新聞}をまた読売新聞がビルマで「ラングーン」新聞。また同盟通信(共同通信)が昭南(シンガポール)とスマトラで「昭南新聞」と「スマトラ新聞」をそれぞれ傘下の地方新聞の協力で発行していた。
幸い、「ジャワ新聞」「昭南新聞」「セレベス新聞」などは実物が残っているが、「スマトラ新聞」については平成10年頃まで判からなかったが、横浜市立大学の鈴木正夫教授(当時)がジャカルタの国立図書館で新聞が残っていることを見つけ、戦時中「スマトラ新聞」の記者だった菊池秀広氏(故人)に知らせてきた。そこで、僕が中に立ち、知り合いの共同通信のジャカルタ現地支局員の協力でマイクロフィルムをコピーし、一部を現物で頂戴した。菊池氏は、同じころ戦時中の体験をもとに「ムルデカ(独立)に喝采を!(講談社出版サービス)を本にした。本は菊池氏の戦中戦後のインドネシアでの体験を書いた貴重なものだが、「スマトラ新聞」一本に絞って書いたものではないので、生前、菊池氏から聞いた話をつけたして「スマトラ新聞」について書いてみた。(2012年1月ブログ1000都物語記述)

菊池氏は大正9年生まれ、16年北海道の小樽新聞に入社、翌17年新聞統合で北海道新聞に転社、18年、シンガポールにあった「昭南新聞」に派遣され、さらに「スマトラ新聞」に出向となり18年9月、西スマトラの州都パダンに赴任した。

朝日新聞記者の勉強不足「幻のスマトラ新聞」

2016-09-09 07:50:31 | 2012・1・1
知人から朝日新聞が「幻のスマトラ新聞」の”第二弾”を書いたと連絡があった。朝日新聞は8月15日付けジャカルタ発記事の中で、戦時中スマトラで発行されていた邦字紙「スマトラ新聞」約4か月分がインドネシア国立図書館で発見された、と報じた。そして、この発見について慶応大学倉沢愛子名誉教授にコメントを求めている。しかし、この発見は別に新しいものではない。元スマトラ新聞記者だった菊池秀広氏(故人)、すでに平成12年出版された「ムルデカに喝采」(講談社出版サービス)のまえがきの中で「昨年春(平成11年)私の勤務していたスマトラ新聞の一部(100日分)がジャカルタの国立図書館で発見され、そのマイクロフィルムは現存し私の手元にあり、鈴木正夫横浜市立大学教授のご努力により学問的資料でもあるので、しかるべき公的機関に寄贈したい」と記している。その通り菊池氏は平成12年3月7日、東京で開かれた日蘭戦時資料保存委員会の席上、同席した日本新聞協会の春原公彦上智大学教授に一部を手渡し寄贈している。

朝日新聞のジャカルタ駐在記者は記事を書くに当たって、菊池秀広氏の著書を読んんでいたのであろうか。新聞協会の春原教授を取材したとは思えない。ブログで「スマトラ新聞」について書いている僕のところにも取材がない。それより何よりも倉沢教授がスマトラの第25軍防空壕の虐殺虚妄を流布している人物なのを知らないのだろうか。スマトラの虐殺虚妄について倉沢教授が書いたとき、”俺たちが死んだら何を書きだすか、わからない”と従軍世代の人たちが口をそろえて怒っていたのを想い出す。

スマトラ新聞の菊池秀広氏は、かって北海道の民放に勤務していた時の上司であり、戦後二人で一緒に2週間スマトラ旅行をした仲であり、ブキテインギの防空壕虐殺の虚妄を撤回する運動を共にした戦友である。「スマトラ新聞」が幻にならないように、高い自費を払って出版されている。僕も先輩の遺志を組んんで2012年に、僕の別のブログ”1000都物語”にスマトラ新聞について書いたが、朝日新聞が”第二弾”まで追い打ちをかけて自分の勉強不足をカバーしようとしているので、改めて「老人タイムス」でもスマトラ新聞を連載で再録し,真実を後世に伝えたいと思う。

出来秋なのに一個180円50銭のジャガイモ

2016-09-09 05:07:34 | 2012・1・1
昨日想い出したように季節のトーガンが食べたくなり、自宅近くの自由が丘の農家の無人スタンドに買いに出かけたら、店を閉じていた。閉店したのか、台風の余波で一日だけ店を閉じたのか分からないが、バスに乗ってきたのに残念だ。仕方がなく目黒通りに面した高級スーパーをのぞいいたら、言われている通り高い。トーモロコシが一本580円、玉ねぎも一個100円もする。このブログを書くために、清水の舞台から飛び降りるつもりでジャガイモを買ったら二個で361円の表示がついていた。一個にすれば180円50銭である。

新聞の社会面トップで、あいつぐ台風の襲来で北海道産の野菜が大被害を受け、玉ねぎの卸売値段は5割高だという。新聞によると、玉ねぎの全国生産量の59.2%は北海道産、ジャガイモに至っては79.5%が北海道で生産されている。30年ほど前、勤務で札幌で生活したことがあるが、今回のような秋の台風で農産物が被害を受けた記憶はあまりない。東京での農産物の高騰は、この北海道の台風被害によるもののようだ。しかし、僕の買ったジャガイモの表示には千葉県産有機栽培とあった。

真夏日の残暑が続く東京だが、心なしか風の動きに秋の気配を感じとれるようになった。夏も終わりと店が見切ったのだろうかスーパーの特売コーナーから娘が大きなスイカを390円也で買ってきた。二個361円のジャガイモと比べて大違いだ。野菜果物は値段があってないようなものとよく言われるが、物流や風評によって値段が左右されるみたいだが、出来秋ぐらい豊富に味覚を味わいたいものだ。