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「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

ザンギで知る北海道の秋の味

2016-09-12 07:43:06 | 2012・1・1
秋の短い北海道では、場所によっては街路樹のナナカマドの葉や実が赤く染まり始めてきたかもしれない。30年ほど前、10年ほど札幌に在住した僕は、この季節が懐かしい。作家の渡辺淳一氏の東京生まれのお母さんは、札幌のこの季節が,うら寂しくイヤだったそうだが、僕も同感だった。しかし、一方では、実りの秋を実感でき、心に豊かさを感じるシーズンでもあった。

今年の北海道は夏以来何回かの台風による豪雨で、農作物が大きな被害を受けている。この余波を受けで東京首都圏でも野菜が高騰を続けている。例年なら、この季節になると、デパートやスーパーが競って「北海道物産展」が開かれ、その派手なチラシが入って来るものだが、今年は少ない。昨日やっと大手ス―パーの”北海道秋のたまらないうまいしょ”展のチラシを目にした。例年なら出来秋の目玉商品の農産物や水産物の扱いが小さい。トーモロコシ(真珠)1本178円、大根半分袋入り95円、カボチャ四分の一138円、秋刀魚一匹198円、秋鮭一切れ198円などなど。

チラシで多かったのは道内各地の駅弁空弁の類。珍しかったのは”ザンギ”だ。”ザンギ”といっても北海道以外では通じないが、鶏肉の唐揚げのことだ。多少造り方に違いはあるが、生鮮食品に恵まれている北海道では数少ない加工食品である。30年前札幌にいた時は、道内産のお米は不味くて食べられなかったが、今は銘柄品で美味しい。流通面で問題があるのかもしれないが、出来秋の北海道の新鮮な食品を例年通り手に入れたいものである。

戦時下にあった「スマトラ新聞」(4)再録 アジ.ネゴロ主幹

2016-09-12 06:12:33 | 2012・1・1
「スマトラ新聞」の本社のあった建物では、和蘭植民地時代、「ラジオ新聞」という現地語の新聞が発行されていた。発行主兼論説主幹は、マジッド.ウスマンという、西スマトラのダトゥ(王族)出身の有力者であった。ウスマン氏は和蘭殖民地主義に反対、戦前日本に留学、明治大学に留学中、東京で日本女子大学の学生だった、長田周子さんと知り合い結婚した経歴の持ち主だ。二人は昭和16ね12月、大東亜戦争勃発と同時に和蘭に逮捕されたが、17年、日本軍の進出で釈放され、故郷のパダンで「ラジオ新聞」を経営していた。

昭和18年6月頃、矢野兼二氏が西スマトラ州知事に着任、ウスマン氏は軍政顧問となり、日本語新聞「スマトラ新聞」を発刊するに当たり、「ラジオ新聞」を改題して「Padan Nippo」にした。しかし、和蘭時代の年金問題処理を巡って軍と意見が対立した問題もあって、ウスマン氏は新聞から手を引き、矢野知事の勧めで、10月、「内閣調査員」という資格で日本へ”テイのよい”追放にあった。(ウスマン一家の波乱の半生は、小ブログ8月20日参照)

菊池秀宏記者の著書によると、「Padan Nippo」は週に二回発行され、論説主幹はアジ.ネゴロであった(多分ウスマン氏の後任)。菊池氏によると、当時アジ.ネゴロ氏は50歳ぐらい、小柄で目が鋭く、老練のジャナリスとして読者に人気があったが、あまり原稿は書かなかった。が、ここ一番というときの社説は大変な人気で、その日の新聞は売り切れるほどだった。

菊池氏の記憶にあるのは昭和18年6月サイパン陥落後の国際情勢について、アジ.ネゴロ主幹が”日本政府と国民がどのように行動するか注意深く見守ろう”といった趣旨の論調を書いたときの事だった。第25軍軍政監部は日本軍が必死に戦っているのに、この論調はなにかと問題になったが、結局現地の事情を考慮して「padan Nippo」にも監督責任があったとし、「スマトラ新聞」の石沢編集局長がメダンの華字紙に左遷されて事が収まった。

アジ.ネゴロ氏は。昭和18年11月、東京で開かれた大東亜共栄圏新聞編集者会議にも出席しており、戦後インドネシア独立後は国営通信社アンタラの初代社長でスカルノ初代大統領のブレインの一人であった。