「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

豊洲市場 過去の追及よりも都民の健康が先

2016-09-20 06:04:00 | 2012・1・1
豊洲市場の空洞問題は都民の一人として、こんな杜撰(ずさん)な出来事がこの世にあるのかと驚きかつ頭にきている。空洞発覚後、おっとり刀の都の水質調査では、有害なベンゼンは発見されなかったが、揮発性なので、空洞内に滞留しているかもしれないという。素人なので、よく解からないが、報道陣に公表された空洞内の水を見ただけでとても正常とは思えない。

小池知事が選挙中、都政を評して”ブラック.ボックス”といっていたが、空洞はまさにその象徴みたいだ。石原慎太郎元知事をはじめ建設当時の関係者が、ああだこうだ、と言っているが聞き苦しい。ついには、市場内に汚染が発見された時の、その調査のための重機入れだという。民放番組が模型を使ってそれを再現していたが、子供だましである。

今、都民にとって問題なのは、豊洲市場を一このまま使用しても大丈夫かどうかかである。小池知事は11月7日の築地からの移転日を一時、延期する決定をしている。これによって伴う市場関係者の損害は大きいが、あの空洞の汚水を見れば決定は正しい。一日も早く空洞問題を解決してもらいたい。

小池新知事を迎えての都議会本会議が9月28日から始まるが、当然、この問題が重要課題となるが、過去の問題は一時棚上げにして、豊洲市場の”今”の問題に集中してもらいた。市場関係者の損害もさることながら、その補償も僕らの税金から出ている。それよりも都民全体の健康にかかわる問題である。過去の知事を呼んで”言い訳”を聞いても始まらない。

敬老の日 賀寿のしきたりのズレ

2016-09-19 05:33:42 | 2012・1・1
今日は敬老の祝日だが、数年前から”ハッピーマンデイ”が導入され、毎年祝日が移動したせいか、世間の敬老への関心が薄くなってきた感じを受ける。やはり、昔通り9月15日に固定したほうがよいのではないか。僕が住む町会では、昔のしきたりどおり9月15日に「カステラと最中」を贈ってくれた。。ただし、対象者は賀寿ではなく、70歳、75歳、80歳、85歳、90歳,95歳と5歳おきの高齢者で、今年は運よく僕は85歳であった。

わが国では、昔から賀寿の慣習があり、61歳の還暦から始まって古希(70歳)喜寿(77歳)傘寿(80歳)、米寿(88歳)卒寿(90歳)白寿(99歳)があるが、最近の超高齢化時代を反映して、時代感覚にズレが出てきた。例えば、還暦といっても、まだ働き盛りだし、古希といっても、古来希な年齢ではなくなってきた。逆に80歳の傘寿から88歳の米寿、90歳の卒寿から99歳の白寿まででは、御祝いの間隔があき過ぎる。

厚労省の調査によると、今年の全国の100歳以上の高齢者は6万5692人(9月15日調査)だという。調査を開始した昭和38年(1963年)には、たった153人というから、まさに隔世の感である。僕が親しくしている先輩にも大正3年(1914年)生まれ102歳の方が2人もいる。第一次世界大戦がはじまった年の生まれである。

昔流の賀寿にも100歳は紀寿、108歳は茶寿まであるそうだが、超高齢化時代、茶寿以上の賀寿が必用になってくるのでは。いずれにせよ長寿万歳。ただし、健康ならばの条件つきの話だが。

お祭りの縁日 戦前と今

2016-09-18 05:10:34 | 2012・1・1
昨日と今日、わが町の”鎮守の森”のお祭りだ。朝から”ドンドンヒャララ”の笛太鼓の音は聞こえて来ないし、小遣いをせびりにきていた孫たちも成長してしまったが、何故か祭りと聞くと、80老でも心が浮き立ってくるから不思議である。

昼過ぎ、子供神輿がお神酒所を出ると聞いて、杖をつきつつ後を追い参拝してきた。わが”鎮守の森”の神様のご座すところは、まだ昔の面影が多少残っており、第一の鳥居から本殿まで200メートルほど参道があり、その両側に露店がずらりと並んでいる。

お祭りの縁日の風情は、戦前子供だった時代と同じなのだが、今一つ僕には物足りない。それは昔、1銭銅貨を握ってワクワクして買いたいと思ったものがないのだ。ハッカパイプもないし、ブリキのポンポン船もない。縁日には必ずあった海ほうずきの店も、買いたいといって親に怒られたヒヨコを売る店もない。残っていたのは金魚掬いと射的の店だけだった。

代って戦前にはなかった店を写真で紹介しよう。タコ焼き、トルコのケバブ、韓国のチジミ、国籍不明のハバネラ、イチゴ入りカキ氷、チョコバナナ、などなど。縁日も国際的になってきたものだ。

北海道から届いた見事な枝豆

2016-09-17 06:24:49 | 2012・1・1

朝早く郵便局から”レターパックプラス”が届いた。現役を離れて20年余、世間からも遠くなり郵便物もすっかり少なくなってきた。さて、何事ならんんと中味をチェックしたら”枝豆”とある。小ブログで知り合った、コメンテーターの一人「頑固親父」さんからの有り難いプレゼントなのである。美味しい食べ方のレシピまで添えてある。早速、老夫婦で頂戴したが、その見事な緑の色彩、味の美味しい事。近くのスーパーで買う”栄養不良”とは違う。

頂いたメールには”今年は花の咲くころ鹿に葉と芽を食べられ丸坊主、少ししか収穫がありませんでした”とある、自家製の枝前のおすそ分けなのである。ご住所は札幌市内なのに鹿(エゾシカ?)が出没するのであろうか。退職後、冬には薪ストーブを囲み家族で団らん、自家製の野菜を栽培されて楽しんでおられる様子が,「頑固親父」のブログ「天声薪語」を拝見すると楽しめる。

加齢とともに他人の名前がすぐ出なくなったが、昔札幌に住んでいた時読んだ著名な食評論家が、北海道の最高の味は、新鮮な原材料だと評していたが、まさにその通りであう。若かった時は、それが解からず、札幌にはグルメはないと悪口を言っていたが恥ずかしい。

自民都議団は何故、豊洲空洞を視察しないのか

2016-09-16 07:35:26 | 2012・1・1
豊洲市場の主要施設の地下空洞の問題はいったい、どうなっていたのか都民の一人として憤慨しきりだ。豊洲市場への移転に伴う汚染の問題は、僕の記憶では都議会でもかなり時間を割いて議論されていた。東京だけのローカルテレビMXの毎週金曜日の知事会見放送でも石原知事(当時)が明快”に答弁していた。大気汚染の大家である石原知事だけに僕は、この問題については知事を全面的に信用していた。

その石原知事が民放のテレビで空洞問題に触れ、自分は騙された旨発言をしていたが、実際には当時この問題を承知していた発言のビデオ放送が残っていた。現場の技術者ではない知事である。多分、細かい点までは、ご存知なかったのであろう。しかし、専門家会議の決定を無視して、何故盛り土をせず、空洞案を採用したのであろうか。莫大な予算にもかかわる問題である。トップとして”知らぬ存ぜぬ”で通せる問題ではない。

今回の問題が明らかにされた後、共産党や公明党の都議会の議員団を現場に視察団を派遣している。テレビに流れる画像には共産党都議団撮影と断りがついている。ところが、都議会最大の勢力の自民党議員団が視察した報道はない。小池知事が選挙中、自民党都議団は、ブラックボックスと、批判していたが、やはりこの問題についても明らかにできない点があるからであろうか。

富山市議会で議員の政務活動費の悪用が発覚、7人の議員が辞職、補欠選挙が行われるという。巷間伝えられるところによれば、豊洲市場建設をめぐる入札で、主要施設の落札率は99.9%という報道もある。築地から豊洲への移転延期で関係者は大きな損害を受ける。しかし、都民の健康に関係する重要な問題である。空洞の汚染水を見れば、移転延期は当然である。と、同時に僕は都議会周辺に溜まっている、モヤモヤ一掃のため議会の解散も手ではないかと思う。

ヌリヱの世界のお月見

2016-09-15 18:12:16 | 2012・1・1

東京では残念ながら十五夜のお月見は楽しめなかった。代って書庫の奥から引っ張り出したヌリヱ(ぬり絵)のウサギをバックに老妻がスーパーから買ってきた「月見団子」を置いてお月見を演出してみた。ヌリヱは、昭和10年9月、僕が幼稚園の赤組(年少組)の時に塗ったものだ。卜部タミ編 二十五銭。

小さい秋 お月見

2016-09-15 05:54:25 | 2012・1・1

旧都立大学跡地にできた「めぐろ区民キャンパス」に小さい秋を見つけに行った。残暑が続いた東京もいつか秋が忍びより、散歩する気分になってきた。通りに面したキャンパスの一角のパンパス.グラスは、いつの間にか背丈より大きく成長していた。が、今一つススキと違って秋の風情がない。道端の彼岸花だろうか一輪の赤い花に小さな秋を見つけた。

今宵は中秋のお月見であるが、残念ながら東京首都圏はお天気が悪く名月は見られそうもない。遠い、遠い、はるか昔の記憶にお月見をした記憶がある。戦前、昭和10年代の初め、戦争がまだ激しくなかった頃だ。東京23区でも藁葺の家が散在していた頃だ。母方の本家の庭先の縁側にお月見用の三宝にお団子や里いもなどを載せ、ススキを飾った。

考えてみたら、戦後70年、わが家ではお月見などしたことがない。戦後数年間は食べるのが精いっぱいでそんな余裕がなかった。高度成長時代は”モーレツ”に働き詰めで、昔からの伝統の行事は忘れられかけた。昭和44年のアポロ10号の月面上陸が,それに追い打ちをかけ、日本人が昔から抱いていた月へのロマンが失われた。

童謡「十五夜お月さん」(作詞野口雨情 作曲本居長世)を改めて聞いてみたが、歌詞もメロデイも貧しかった日本のあの時代を反映していて物悲しい。が、何故か日本人の心に訴えるものがある。わが家の近くでは、ススキが見られなくなった。パンパス.グラスでは、お月見にはならない。時代の移り変りである。

撃沈された「箱根丸」に乗っていて助かったウスマンさん一家

2016-09-14 06:43:52 | 2012・1・1
戦争を挟んで80年間、日本とインドネシアとの地で、波乱万丈の半生を生きてこられたアミナ、ウスマン夫人(日本名長田周子さん)(101歳)を昨日、5年ぶりに東京の自宅に訪ね、懇談した。彼女の数奇な半生は、すでに何回か、聴き取り調査をさせて頂き小ブログでも一部紹介ずみだが、それでもまだ聴き忘れていることがある。

長田周子さんは昭和10年代、大学生時代、日本に留学中のスマトラの王族出身のマジッド.ウスマン氏と結婚、祖国でインドネシア独立運動をしていた夫、マジッド氏に協力していたが、16年12月、大東亜戦争が勃発、一家は和蘭軍に捕まり抑留されたが、日本軍によって救出された。ジャワのスカルノ、スマトラのウスマンといわれるほどの独立運動の闘士で、日本の軍政下でもスマトラ第25軍の顧問をしていたが、18年5月の大本営の「大東亜政略指導大綱」で、スマトラ独立させずの大綱がきまり、現地軍当局はウスマン一家が軍政の支障になると判断、テイよくウスマン一家を日本に”追放”することに決めた。

今回、僕が初めて知ったのは、18年11月、ウスマン一家がシンガポールから日本に向け乗った「箱根丸」が台湾の高雄沖で米国のB-25の空爆にあい、沈没して一家は九死に一生の体験をされていた事だ。「箱根丸」は戦前、横光利一の小説「旅愁」の舞台になった豪華船だったが戦中は軍に徴発され輸送船として使用されていた。ウスマン一家が乗船していた時も他の乗客はいなかった。ウスマン一家は空爆のあと駆けつけた僚船によって救助されたが、長田さんの話によると、ウスマン一家の当時幼かった二人の兄妹は、かますの袋に入れられて他船に移されたという。

昨日、小ブログは、慟哭のバーシー海峡について書いたばかりであるが、僅か70余年前、愚かな戦争によって、こんな厳しい時代があったのを改めて想起させられた。

戦時下にあった「スマトラ新聞」(6)再録(終)疎開

2016-09-14 05:37:12 | 2012・1・1
昭和20年1月、「スマトラ新聞」は編集部門をパダンから50㌔離れた山間の町、パダンパンジャンに移した。前年の9月頃から戦局が悪化、連合軍のパダン市内に対する艦砲射撃やインド洋上からの艦載機による空襲がが始まり市内のセメント工場が破壊された。このため「スマトラ新聞」も事業部門を残してパダンパンジャンに疎開した。

疎開して間もなくの2月パダンとパダンパンジャンを結ぶ鉄道の中間点の鉄橋を走っていた列車が川に転落、数十人が死傷する事故が発生した。和蘭のスパイが仕掛けたサボタージュで、鉄道のイヌ釘が抜かれて崩壊したのが原因だった。菊池記者は同僚と共に事件直後、現場に駆けつけ、犠牲者の救出活動に当たった。現場は日本人が”彼岸の滝”と呼んでいた大きな滝の近くだった。しかし、この事故は軍の命令で一切、新聞には報道されなかった。

戦局はさらに悪化し、20年5月、インドネシア在住の適齢の民間人全員に対して召集令状が出された、徴兵検査で身体が小さいた目「丙種」で不合格とされていた菊池記者にも”赤紙”が届き、菊池記者は一兵卒として徴兵され、インド洋の警備にあたる「淀」兵団に入隊した。それから、敗戦までの2か月間、菊池記者はペンをシャベルに替え、陣地構築に従事した。その後、菊池記者は、捕虜収容所を転々として

慰霊の原点 慟哭のバーシー海峡

2016-09-13 06:40:57 | 2012・1・1
南方各地へ慰霊の旅をされている、知り合いのIさんから、パソコンのカメラ技術を駆使したお手製の立派な冊子を頂戴した。今回はIさんが”慰霊の原点”とされている台湾のバ―シ―海峡とフィリピンへの再訪の旅だ。僕は戦争中、銃後の小国民として戦死者のご遺骨を駅頭に出迎え、「海行かば」を合唱した世代である。一度は激戦地へ慰霊へ旅をと思いながら機会を逸してしまった。

作家、門田隆将さんの作品「慟哭の海峡」が発表されて以来、台湾海峡のバーシー海峡が、改めて注目されてきたのは好いことだ。”嗚呼、堂々の輸送船”(軍歌暁に祈る)と歌われた軍船団も戦争末期の昭和18年になると、南方へ向かう通り道で、次々と敵の攻撃に会い、沈没され犠牲になった。義兄も高雄沖で船が沈み九死に一生を体験している。しかし、I氏から冊子を頂戴して改めて調べると、バーシー海峡では10万人以上の方が亡くなっているのを知り驚いた。まさに水漬く屍で慟哭である。

Iさんは、いつも日本からお線香とお供えを持参、今回もバーシーか海峡を臨む地へ行き合掌、潜水艦攻撃で4000人が犠牲になった中で助かった玉津丸乗り組みの中嶋秀次さん(故人)が戦後自費で建立した潮音寺にも参拝されてきた。Iさん冊子によると、海峡を見下ろす丘には大陸からの中国人観光客が多かったが、日本人はいなかった。今年も11月20日に慟哭のj慰霊の旅が計画されているが、観光パンフにも紹介され、思いを犠牲者に馳せて貰いたいものだ。