珍島沖の旅客船沈没事故の政府の対応の不手際にからんで韓国国内では、自国は「三等国」だとする自虐的な論調が出始めている。遺族の悲しみの表現まで大げさで「三等国」なみだという意見までネット上に現れ、投書者の父親の議員がテレビの画面で謝罪していた。「三等国」であるかどうかは、控えるにしても、事故後2週間経過してもいまだに百人近くの人が沈船に閉じ込められている事態は「一等国」ではありえない。
「三等国」とは久しぶりに聞く言葉だ。戦前、子供だった頃、道端で立小便をしたり、路上にツバを吐いたりすると大人から”そんなことは三等国民のすることだ”と叱られたものだ。「坂の上の雲」の時代、日露戦争に勝利するまでは、日本は三等国扱いされていたようだ。当時の日本人は、これから脱けだそうと懸命に努力した。アジアの国の中には、日本人を現地人扱いにし、鉄道は三等車にしか乗せなかった。手元に戦前、蘭印(インドネシア)にいた日本人の写真集があるが、ボルネオ(カリマンタン)の町の日本人会の集合写真を見ると、皆白い麻服を着てネクタイを着ている。日本人としての誇りを持ち服装から気を付けていたことが解る。
”人のふり見てわが身をただせ”という諺がある。珍島沖の旅客船事故の船長の短パン姿で船から脱出姿を見てはたして日本人は大丈夫だろうかと思った。書きたくないのだが、杖をついた老人が目の前に来ても、優先席でお化粧直しをして、知らん顔をしている女性がいたり,平気で車内でものを食い、飲んだ空き缶を置いたままにして下車する若者もいる。
行方不明の認知症老人が1万人近くいて、あまり問題にならない国は果たして一等国であろうかー。
「三等国」とは久しぶりに聞く言葉だ。戦前、子供だった頃、道端で立小便をしたり、路上にツバを吐いたりすると大人から”そんなことは三等国民のすることだ”と叱られたものだ。「坂の上の雲」の時代、日露戦争に勝利するまでは、日本は三等国扱いされていたようだ。当時の日本人は、これから脱けだそうと懸命に努力した。アジアの国の中には、日本人を現地人扱いにし、鉄道は三等車にしか乗せなかった。手元に戦前、蘭印(インドネシア)にいた日本人の写真集があるが、ボルネオ(カリマンタン)の町の日本人会の集合写真を見ると、皆白い麻服を着てネクタイを着ている。日本人としての誇りを持ち服装から気を付けていたことが解る。
”人のふり見てわが身をただせ”という諺がある。珍島沖の旅客船事故の船長の短パン姿で船から脱出姿を見てはたして日本人は大丈夫だろうかと思った。書きたくないのだが、杖をついた老人が目の前に来ても、優先席でお化粧直しをして、知らん顔をしている女性がいたり,平気で車内でものを食い、飲んだ空き缶を置いたままにして下車する若者もいる。
行方不明の認知症老人が1万人近くいて、あまり問題にならない国は果たして一等国であろうかー。
老人は社会との接点が少なくなり、視野が狭くなつていますが、今の日本の社会は少し変です。叙勲で菊花大勲賞?を貰った男[民主党]は、大震災の直後、震災復興の責任者でありながら、フィリピンでゴルフをしていました。どこか狂っています。テレビの画面を見ると、確かによい大人が、まるで子供みたいです。
残念ながら、国で道徳の規準を作り教科で教えたほうがよいです。道徳が人によって価値基準が違うことなどありえません。公共の場所にごみを捨てるのは、どこの国でも同じです。
日本には、ここ二百年の間で2回ほど、大きな断絶の転換期・・・江戸時代と明治、大東亜戦争と敗戦後・・がありましたが、江戸時代からも連綿として続く伝統に根ざした「日本の公徳心」も日本食と同じく、その底流があると思います。今一度原点に立ち返り、新たな時代環境に適合させて、これらの日本精神を活かせばよいと思います。
5箇条の御誓文
①広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ
②上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行ウベシ
③官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシテウマサラシメンコトヲ要ス
④旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ
⑤智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇貴ヲ振起スベシ
教育勅語
『爾臣民,父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ,朋友相信シ,恭儉己レヲ持シ,博愛衆ニ及ホシ,學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ,徳器ヲ成就シ,進テ公益ヲ廣メ,世務ヲ開キ,常ニ國憲ヲ重シ,國法ニ遵ヒ,一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ.是ノ如キハ,獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン』
日本が、天皇を中心とした宗教的背景をもった立憲共和国から外れた異例の時期は、満州事変から大東亜戦争の敗戦までだったのではないかと思います。大東亜共栄圏と称して、明治以来の西洋文物を貪欲に吸収していた和魂洋才路線から逸脱したのもこの時期でした。
敗戦後の教育基本法では、
その第一条(教育の目的)
『教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない』となっていますが、父母、家族、兄弟、友人、地域共同体、世間において、具体的な公徳心のあり方について、かつての教育勅語や五箇条の御誓文の方が具体的であったと思います。敗戦后、日教組の先生方自身が、左翼利権集団化してしまい、教育勅語を否定するだけで、一方で、この教育基本法の体現者(聖職者)からもほど遠く、現在の韓国のように、幼児からの受験勉強やスポーツ強豪校、芸能人なども含めて、「他人を押しのけても自分さえ生き残って勝ち組となり得をするのが最重要。花より団子で、長いものには、まかれろ」と本音では、親も先生も世間も教えてきてしまったのではないか?
ご高説感謝。同感です。先日NHKテレビで論説委員による道徳教育についての討論番組を見ましたが、道徳の教科化に反対の意見が多かったです。僕自身も修身教育を受けた一人で、修身の教科書から直接道徳を学習したとは思っていません。しかし、当時は家庭を含め社会全体が一つの基準を持っていました。しかし、戦後はこれが崩壊してしまいました。従って、今の日本では、一定の道徳基準を設け学校教育の中で学習する必要があります。残念ながら家庭で道徳を教えるべきだというのは無理です。
「戦前マカッサルの日本人会」
http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/mks/doi2.html
戦前日本国内で流行していた盛生薬館の薬売りまで蘭印では、一等国に恥じない恰好でカンポンを売り歩いたそうです。昭和41年、ジャカルタの大使館に急用があってベチャで出かけたところ、寺田さんから注意を受けました。戦前の日本人を知っている寺田さんから見れば、日本の新聞記者はそんな現地人みたいなことをしてはいけないといことなのでしょう。
たとえば、江戸、明治、大正、昭和、平成という歴史の流れの中で脈々と伝わるようなものが望ましいと思います。
たとえば、良寛和尚、二宮尊徳、伊能忠敬、宮沢賢治、松下幸之助、本田宗一郎などのような具体的人物を題材に物語風に、「日本人の公徳心」(価値観:やるべきこと、やってはいけないこと)を教材や動画を通じて教えてはどうでしょうか?
教材は整っても、肝心の教える側の人物が、昨今のイジメ自殺問題で登場する担任教師、校長先生、教育員会のように、隠蔽体質や責任回避の反道徳的な言動が露骨に見え見えの場合には、道徳教育は不可能だと思いますので、教師は「聖職(私=自分自身より公=生徒を優先する職業)」であるべきという原点がぶれないようにしないと、韓国セウオール号の船長と同類となってしまいます。