「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

朴菫恵大統領と菅直人元首相の判断

2014-04-20 06:30:42 | Weblog
韓国の旅客船事故についてその直後日本は海上保安庁から韓国の海上警察に対して掃海艇や潜水器具など支援を申し入れたが断ってきたという。理由は明らかではないが、恐らく救助活動への自信と面子があったに違いない。しかし、テレビの画面を見ていると、事故直後は海面にみえていた船体が完全に水面下に没してしまった。素人の目には、なぜもっと早く犠牲者の救出は出来なかったのかと思いたくなる。

韓国側が日本の支援を断ったと知り、僕は3.11大震災の後,菅直人首相(当時)がとった福島原発事故対策の失敗を思い出した。事故直後、米国から廃炉を条件に原子炉冷却についての技術的支援があったが、菅首相はこれを断ったという。この段階で、米国の技術支援を受け入れていれば、、今のような高濃度な放射能漏れは防げたという。事故直後、なまじっかの原子力の知識からか事故現場を視察したりしていたが、多分これが原因したのであろう。

しかし、朴菫恵大統領の失政だけを責めるのも酷だ。19年前阪神淡路大震災の時の村山富市首相(当時)の地震発生時の対応は朴大統領よりもひどかった。地震が発生したのは午前5時46分だったが、、村山首相が、自衛隊に対して正式に救援活動を命令したのは午前9時過ぎ。韓国の「日本関西地区大地震対策」本部よりも後であった。

今回の韓国の旅客船事故は、危機管理に対して指導者の判断がいかに大切であるかを改めて知らされた。同時に乗客を置き去りにして、いち早く船外に脱出した船長の存在を知り、普段からの道徳教育の必要性を痛感した。

徴用工慰霊碑と謝罪

2014-04-19 05:43:23 | Weblog
群馬県高崎市内の県立「群馬の森」公園内に「朝鮮人追悼碑」がある。戦争中朝鮮半島から県内の工場や工事現場に徴用され事故や過労で死亡した朝鮮人をを追悼する目的で平成16年に建てられた。外国人の森林研修で10年ほど前、僕はこの公園を訪れたことがあるが、静かな環境の中にあり、樹種も多く子供の森に対する関心を深めるには最適の場所だ。「朝鮮人追悼碑」は県の許可を得て建てられたそうだが、何故、県が直接、戦時徴用には無関係な碑の建立を許したのか理解できない。

産経新聞の記事(4月18日首都圏版1面)によると、県内の複数の団体から「朝鮮人慰霊碑」の許可取り消しを求めて県議会に請願が出ている。理由は”平和団体”が、慰霊碑の前で、日本政府は徴用工の強制連行に対して謝罪せよ、と政府の歴史認識を批判する行事を定期的に開催している―ことなどである。ご存知のように韓国の裁判所は昨年11月、戦時中、日本の企業で働いていた徴用工に対して謝罪すべきだという判決を出しているが、この問題は1965年の日韓基本条約で解決済みである。

「群馬の森」の「朝鮮人慰霊碑」的な碑は九州のかっての炭鉱地、大牟田をはじめ各地にある。数年前、長野市の松代旧大本営跡を訪れたが「朝鮮人慰霊碑」が入口にまるで”庇を貸して母屋を取られる”形で立っており、碑文には”朝鮮植民地の象徴となる日本のアジア侵略の歴史とその反省を永久に刻む”とあった。

戦争末期、僕の従姉の亭主であった呉服店店主も徴用工として軍需工場で”強制的”に働かされた。日本人であった朝鮮半島の人たちも同じであった。僕が学徒動員されて働いていた多摩川のガス橋近くの軍需工場にも大勢の朝鮮半島からの徴用工が働いていた。工場から近い武蔵新田駅の近くには「慰安所」があり、日本人に混じって朝鮮人の慰安婦も働いていた。当時はこういった時代であった。

解からないことが多い韓国の旅客船沈没事故

2014-04-18 07:25:59 | Weblog
ネットで韓国の聯合通信の記事を見たら「ワシントン、北京発」で珍島沖の韓国旅客船沈没事故について米国政府と中国製政府が、それに潘基文国連事務総長がそれぞれ哀悼の意を表した電文を朴菫恵大統領に送ってきた、とあった。日本政府も当然隣国であり、儀礼的に哀悼電を打ったと思うが、僕が知る限り、聯合通信も日本のマスコミにもその記事はない。

今回の事故は発生から解からないことばかりだ。500人近くも乗客が乗っていて、しかも隣国で起きた大事故なのに発生時の日本のマスコミの扱いが小さかった。これは韓国の事故対策本部が、発生直後に救出者の人数を間違える初歩的な誤りからきていた。テレビの画面には転覆した船体の周辺を救助船が動きまわり活躍しているが、沈没船の救命筏が見当たらない。救出者も毛布を肩からかぶっているが救命具は付けていない。

一番驚いたのは、これだけの事故なのに船長ら船の幹部が事故から40分後、救命活動の真っ最中に早くも船から脱出していることだ。日露戦争で最後まで部下の杉野兵曹長のを行方を捜して船とともに殉職した軍神広瀬中佐の話を学んだ僕らには信じきれないことだ。

韓国の一部のマスコミは事故にあった旅客船が日本製で、かって鹿児島―那覇間に就航していた中古船だと伝え、それがあたかも事故原因に関係があるような報道もあるようだ。しかし、日本での就航時は定員804人だったのが、平成24年に韓国では921人に改造されている。韓国の法規に基づいての改造だろうが、素人の僕がみても船のバランスに問題がありそうだが。

韓国に行ったことがない僕だが「珍島」という名前を聞いて、天童よしみの歌う「珍島物語」を何故か思い出した。歌のバックに使用されていた珍島の海割れ現象が目に残っていた。その海割れ現象は今がシーズンで、韓流ブームの当時は日本からも観光客も多かったらしい。今回の事故で、日本から韓国への観光がさらに減少しなければよいのだが。

東横線渋谷駅が地下に潜ってこの一年

2014-04-17 06:03:14 | Weblog
JR渋谷駅の移転大改造が17日夜から本格的に開始されると、新聞に載っていた。現在の山手線内回り、外回りのホームを恵比寿寄りの現在の埼京線ホーム近くに移転し、駅周囲に46階建てなど三つの高層ビルを建てて、渋谷のイメージを一変させる大工事だが、完成は2027年、東京五輪よりさらに7年後で、その時、僕は百歳近くになっている。果たして、この恩恵に預かられるかどうかだがー。

早いもので東急東横線と東京メトロ副都心線が相互乗り入れし、渋谷駅のホームが地下に潜ってから1年である。東横線沿線に住む、わが家近くの駅を「川越」行きの急行電車が通過するようになった。「川越」なんて昔は一日がかりの”旅”だったが、今は1時間足らずで行ける、便利になったものだ。が、一方では「渋谷」が遠くなった。いまでも乗れば15分の距離だが、東横線の駅からJRなど他線への乗換が不便になったため、この1年間、僕は行ったことがない。どうしても「渋谷」に用があれば、バスで目黒に行きJRに乗り換えて行くが、交通渋滞があれば1時間近くかかる。

戦前渋谷駅前にあった初代「忠犬ハチ公」の銅像のレプリカが発見された、とテレビが紹介していた。戦前「八チ公は都電の乗り場の前の駅前にあった。当時のJR駅舎は小さく、ホームも現在の内回りホーム一つだけだった。今は若者の町だが、戦前は青山の連隊兵舎が多かったので、休みの日には軍服を着た兵隊たちであふれていた。昭和の初期には唱歌「春の小川」が近くを流れていた、のどかな町であった。

2027年の完成予定図を見ると、まさに渋谷は”滄桑”の変りようだ。渋谷ばかりではない。僕が子供時代、海洋少年団で泳いだお台場は今や埋め立てられて、どこだったか、まったく判らない。

なんとはなく空々しい「みどりの羽根」

2014-04-16 06:17:56 | Weblog
テレビの画面を見たら安倍総理をはじめ閣僚たち、NHKのアナウンサーの胸にまで「みどりの羽根」がつけてある。「みどりの日」はたしか5月だと思っていたのに、今年はなんと手まわしよい事かと思ったところ、昨日から5月14日まで1か月間、国をあげてのの「みどりの月間」なのである。たしか国の祝日「みどりの日」は昭和天皇の誕生日、4月29日と記憶していたが、いつのまにか5月4日と変わっていた。大型連休が先行して「みどり」は”つけたし”、といった印象を国民に与えている。

東京のような大都会に住んでいると、日常「みどり」はほど遠い存在だ。。周りからは年々「みどり」が喪失してきている。その東京の区報に”ともにつくる、みどり豊かなまちに”というお知らせがあった。区内の建物の屋上や壁面、接道部、ベランダを”緑化”すれば、区から助成金を出しという制度である。わが家でもネコの額ほどのベランダがあるので、申し込もうとしたが、”土の厚さ15センチ以上はダメとか、道路上に連続して1メートル以上なくてはダメとかいろいろ条件がつている。相変わらずのお役所仕事である。

最近、旅に出る機会がすくなくなったが、地方の町で気になるのはシャッターダウンの駅前商店街と放棄された田畑、手入れの行き届かず荒れた森や林である。「みどりの羽根」運動が始まったのは昭和25年であった。戦争中の乱伐で、ハゲ山が多かった森林に植樹しようという国民運動であった。当時東京の大学生であった僕も駅前の街頭で募金運動をした記憶がある。

総理や閣僚が胸に「みどりの羽根」をつけるのにケチをつけるのではないが、ネットで植樹を呼びかけるだけでは「みどりの月間」の名前がそらぞらしい。TPP交渉が大詰めにきている。結果次第では、日本の農林業の危機になる。国民が直接「みどり}の大切さを体験、実施できる運動にしたらどうだろうか。

”従軍慰安婦”より仁川アジア大会

2014-04-15 05:46:15 | Weblog
日韓の外務省局長クラスの会議が16日からソウルで始まる。冷え切ってしまった両国の関係打開の第一歩と歓迎したいが、会議の前から韓国側からは議題は”従軍慰安婦””竹島””戦時徴用工への賠償”の三つだと、いずれも1965年の日韓基本条約で解決済みの問題だけを持ち出してきている。言葉は悪いが韓国側はいつまでも日本に 対して”謝罪と反省”を要求、カネをゆすり取ろうというのであろうか。

日韓関係が今のように悪化したのは2012年8月、李明博前大統領が日本の領土の竹島に上陸、韓国旗を掲げてからだ。以来、それに輪をかけたように新しく就任した朴菫恵大統領の異常なまでの反日言動が目立ってきた。それまでは”韓流ブーム”で象徴されるように両国関係はよく、ピーク時には日本からの韓国への観光客は年間36万人もあったが、今では20万人に激減している。

こんな時期も時期、熊本県にH5N8とみられる鳥インフルエンザが発生、11万羽のニワトリが焼却処分にされた。ウイルスの分析結果はまだ明らかではないが、韓国からの渡り鳥がもたらした可能性が強い.韓国では今年1月以来、国立畜産試験所で発生したアヒルのH5N8が、農家のニワトリにも感染し大流行しているという。鳥インフルだけではない。中国大陸からの大気汚染源、PN2.5も日韓共通の環境問題である。

日本側が解決済みとしている問題を議題にしても進展はない。村山談話でわが国は、すでに”謝罪と反省”をしている、安倍政権はこれを引き継ぐと明言している。もっと前向きの話し合いをしたほうがよいのではないか。とりあえずの問題として9月に仁川で開かれるアジア大会へ向けて日本からの観光客誘致に協力依頼したほうがよいのではないか、

60歳代を高齢者と呼ばないことにしよう

2014-04-14 06:51:32 | Weblog
国立社会保障.人口問題研究所の将来推計によると、2020年、つまり東京五輪の年には全国都道府県の高齢者世帯が30パーセントを越えるという。秋田県に至っては、52.1パーセントと、なんと半分以上の世帯が高齢者世帯だ。国の定義では「高齢者」は65歳以上を言い、高齢者が人口全体の21パーセントを越えると”超高齢者社会”というそうだから、まさに日本全体が”超高齢者社会”に突入する。しかし、何故か僕にはその実感がない。

神奈川県大和市が今年4月「60歳代を高齢者と言わない都市」宣言をした。人生80代の時代を迎えて60歳代を高齢者と呼びお年寄り扱いするのはおかしい。家庭でも地域でも、もっと担い手になって活躍してもらいたい、という意識改革だ。僕もこれにはまったく同感だ。大和市民の一人で、僕の友人のYさんは70歳近いが、現役のフラメンコ.ダンスの先生をされている。彼女の事を高齢者扱いしては失礼である。

人生50年だった昔は”今年60の舟頭さん”はお年寄りだったが今は違う。一昨年スポーツセンター通いをしていた時、驚いたのだが、定年を終えたばかりの60歳の”若年寄り”が,筋肉たくましく、バーベル上げに挑戦していた。自分の60歳代を顧みてもそうだ。僕は65歳まで現役として働いていた。70歳まで働ける職場で、そのつもりなら働けたが”老後”が楽しみたいので、僕は辞めたが。

65歳以上を高齢者とするのは時代に即していない気がする。大和市の宣言は正しい。60歳定年制の会社がまだあるらしいが、まだまだ元気で働けるのに隠居させるのは社会の損失である。65歳以上を高齢者という定義を改め、せめて70歳以上に引き上げるべきである。今でも少子化で、一部の職場では働き手がなく、外国人に頼り始めてきているではないかー。

”聖職”意識がなくなった教師

2014-04-13 06:09:46 | Weblog
埼玉県の50代の女性教師が自分の長男の高校入学式に出るため、担任している学校のクラスの入学式に出なかったという。女性教師はあらかじめ学校に対して”やむをえない事情”により出席できないと、届け出を出していたそうだが、果たして、自分の子供の入学式出席が”やむをえな事情”であるかどうか、古い世代の僕には疑問だ。

先日、孫の大学入学式に娘婿夫婦も、仕事を早引きして出席した。会場が狭く一杯で、遅く行った二人は会場の外でビデオを見ながら式に参加したという。大学の入学式にまで親が参加するという習慣は昔はなかった。60年前、僕が入学した当時は、戦後の焼け跡が残っていた頃で、親は食べるのに精いっぱいだったのか、そんな余裕がなかった。僕らも親が式に参加することに対して恥ずかしく抵抗もあった。

戦前、学校の先生は社会から聖職視され、卒業式には”仰げば尊しわが師の恩”と歌われた。教室の中にも一段高く教壇があった。先生は日常的にも服装にも気を付け、背広にネクタイを着用していた(戦争中は国民服であったが)。ところが、戦後、父親参観などで学校へでかけると、先生の中には体操の時間でもないのに、ジャージ姿なのに驚かされた。どうも、これは戦後の”民主主義”の影響ではないだろうか。戦後、大学で米国人教師が机に腰かけて教える姿をみて、びっくりしたのを今でも覚えている。

母親であり、自分の子供の入学式に出たい気持ちは好く理解できる。しかし、自分が教師である自覚がなかったのだろうか。まして聖職意識などなかったに違いない。古いといわれるかもしれないが、やはり先生は学校内では、きちんとした服装で、子供たちから尊敬される人であって欲しいものだ。

お遍路路での”外国人排斥”騒ぎ

2014-04-12 06:43:38 | Weblog
四国のご遍路路88か所で”外国人排斥”が起きている、といったテレビの報道番組で見たような気がした。”ながら”での視聴なので”なんで、こんなバカなことをするのか?と思いつつ、あとでネットで確認してみた。すると、真相は若干ニュアンス的に、僕が思っていた、一方的な”外国人排斥”ではなくて、ご遍路に張られたハングル文字の道案内を剝がそうという抗議文書が休憩所に置かれてあり、その文言が韓国人を侮辱しているーというようなことである。

このハングル文字の道案内は88か所を4回もめぐり、ご遍路めぐりの「先達」の公認を得ている韓国人女性(38)が、韓国人観光客の便利のためにご遍路の各所にハングル文字のラベルを張ったのが騒ぎの発端のようだ。ラベルがどこに張られたのか、明らかではないが、一般の日本人にはハングル文字は理解できない。かりにお寺の建物や山門などに無許可で、これが張られていたら、抗議文書のように”礼儀知らず”の韓国人と思われても仕方がない。

ご遍路は元々は宗教的な行事だが、昔から観光的な色彩の強い庶民の楽しみである。残念ながら僕はまだ出かけたことがないが、JICAの研修旅行で外国人を連れ、何か所かの札所を訪れお茶のおもてなしを受けたことがある。しかし、その時の印象では、外国人に由緒などを説明する外国語の文書がなかったことだ。韓国人女性の先達は、おそらく善意からハングル文字の道案内を作ったのであろう。

スペイン協会の文化交流の会、ドンキホーテの集いで、世界遺産の巡礼路「サンティアゴ.デ.コンポテ―ラ」を2回徒歩で巡礼した日本人の話を聞いたことがある。その方は敬虔なキリスト教徒ではなく、全く観光目的で行かれたのだが、スペイン語が出来ない外国人でも十分、楽しめる旅だったそうである。四国88か所のご遍路についても世界文化遺産登録への動きがあるそうだが、今回の”外国人排斥騒動では、とても、とてもといった感じを受けた。

”つまらなければテレビではない” 田舎のホテルのバイキング料理

2014-04-11 06:36:48 | Weblog
フジテレビの昼間の看板番組であった「笑ってもいいとも」の後継番組「バイキング」の視聴率が低調で、ついに3.1%と最低を記録したそうだ。最近テレビ離れしている僕も野次馬根性から,タモリの後番組がどんなものか見てみようとチャンネルを回したが、番組の制作意図は不明、やたらと人気タレントを登場させているにすぎない。田舎のビジネス.ホテルのバイキング料理みたいだ。   

「バイキング」だけではない。ここ1,2年フジテレビの番組は低迷している。開局55年番組と銘打って特番を編成しているが、視聴率的には今一つのようだ。数年前までは全日、ゴールデン、プライムの視聴率三冠王を誇っていた勢いはどこへ行ってしまったのか。その昔、FNN系列の地方局に席を置いた一人としては嘆かわしい限りだ。その理由は何なのか。ネットの評(IROPIO)に”マンネリ、おバカ、しょぼタレント”という厳しいものがあった。僕も同感である。長年の王座にいた”おごり”である。

フジテレビが開局したのは昭和34年は天皇皇后両陛下が結婚された年で、テレビでその模様を見たいと一気にテレビの購買台数が増えた。月給3万円ほどの安サラリーマンだった僕も、1台5万円もしたテレビセットを月賦で購入した。そのテレビブームを背景に誕生したフジテレビは「鉄腕アトム」「スター千一夜}「おとなの漫画}「ヒットパレード」などなど新鮮な魅力ある番組を登場させた。そして、その後も時代にマッチした”母と子のフジテレビ””おもしろくなければ、テレビではない”などのスローガンで、独特の局イメージを作り上げてきた。

極言すれば、今のフジテレビはつまらない。つまらなければテレビではない。自分たちだけの世界に閉じこもり、時代を読む力を失っているように僕には見える。