「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

           「脱原発」と戦後のエネルギー革命

2012-12-04 06:54:36 | Weblog
衆院選が今日4日、公示され16日の投票日に向けて選挙戦が展開される。自民党の安倍晋三総裁は大震災と原発事故の被災地福島で第一声を上げ、震災からの復興と原発政策が同党にとって今回の選挙の争点であることを印象づける。選挙直前に飛び込み立党した「日本の未来の党」は”卒原発”を政策の売物にしているが、今一つ僕には如何にして原発から卒業できるのか解らない。日本人なら誰でもが原子力に頼らない発電を望んでいる。”卒業”までの工程を示すのが公党としての責任だと思うのだが。

”脱原発””卒原発”論争を聞いて僕は戦後すぐの石炭から石油へのエネルギー革命を想起した。今は盆踊りの一つに定着している「炭坑節」が国民的に大ヒットしていた昭和20年代初めの頃である。当時石炭は”黒いダイヤ”とか”黒い宝石”ともてはやされ、最大なエネルギー源であった。最盛期の25年には全国に800以上の炭鉱があり、年間産出量は5000万トンもあった。

この石炭ブームは昭和30年代に入って、中東を中心に石油が大量に生産され、石炭もコストの安い外国産が輸入され始めてブームは去った。平成4年には釧路の海底炭鉱一つを残して日本の炭鉱は完全に姿を消した。「黒いダイヤ」時代の石炭ブームがまるで嘘のようだ。戦前、僕らが子供だった頃、学校の暖房は石炭ストーブで、昼の弁当はストーブの上の金網の上で温めて食べた。

石炭から石油へのエネルギー革命は、今思えば戦後の復興期にあった日本の経済にとっては大変なことだった。しかし、先輩たちは「経済安定本部」を中心に、精細な行程表を作成、見事にやってのけた。”脱”とか”卒”とか言葉遊びをするのは簡単である。今必要なのは先見性を持った計画による持続可能なエネルギーを如何にして確保するかである。

       笹子トンネル事故 高度成長時のインフラ構造物

2012-12-03 07:54:03 | Weblog
山梨県大月市から甲州市に抜ける中央高速道トンネルで起きた天井コンクリート板の大規模な崩落事故は痛ましい。天井板の落下は120㍍に渡り、車3台が下敷きになって9名が亡くなっている。事故の原因については、これからの調査によって明らかにされようが、この天井板が昭和52年トンネル開通時のもので、35年間、一度も変えられていないと聞き驚いた。

昭和52年という年は、僕にとって忘れらない。8月友人たちと伊達カントリーというゴルフ場でプレイ中有珠山が爆発,降灰の中を車でほうほうののていで帰宅した想い出がある。記録によると、この年の日本経済は回復基調にあり、公共事業への投資が拡大したとある。個人的にはついこの間のようにも思われるが35年も経過している。あのころは僕も若く一日に2ラウンドもプレイしたほど元気だったが、今は歩くのに杖の世話になるほどになってしまった。

事故の原因の一つに当然のことながら老朽化があげられている。僕はこの道の権威ではないが、長年の歳月で腐食が起るのは素人でも考えられる。しかし、高速道路を管理する会社によれば、今年9月の"目視検査”では異常がなかったとしている。この笹子トンネルの上り道は開通当時から渋滞が発生しやすく色々手段を講じてきた。それほど交通量の多いトンネルである。これも素人判断だが、大量の排気ガスによってコンクリートや天井を支える金具の腐食を速めたことはなかったのだろうか。

それより心配なのは現役世代の間に例の民主党マニフェストの”コンクリートより人”の考え方が潜在的にあるのではないかということである。この笹子トンネルだけではなく高度成長期に造った道路、橋、港などのインフラ構造物がそろそろ老朽化してきている。人間サマと同様長生きするためには、徹底した定期診断が必要である。”人”への配慮は周囲の安全から始まる。

             波乱万丈 大正一桁生まれの半生

2012-12-02 05:39:49 | Weblog
昨日のブログで有料老人ホームで”心穏やかな”一生を終えたSさん(93)の事を書いたが、改めてSさんの前半の半生を顧みると波乱万丈であった。Sさんは大正8年、鹿児島県生まれだが、当時の日本では、その時代を象徴するような「流浪の旅」の歌が流行していた。
           ♯ 「流浪の歌」(宮島郁芳作詞 後藤紫雲作曲 大正10年) 
              流れ流れて落ち行く先は 北はシベリア南はジャバよ 
              いずこの土地を墓所と定め いずこの土地の土とならん

Sさんは日支事変の始まる直前の昭和11年、地元の旧制中学を卒業すると、単身当時蘭印といわれたジャバ(現在のインドネシア)のスマランへ渡った。スマランはスラバヤ、バタビアに次ぐ港町で、Sさんは日本人経営の小さな商社に入社した。戦前、蘭印にはこういった日本の商社や商店が多く「Toko Jepang」(日本人商店)と呼ばれていた。仕事は日本からの安い雑貨や薬を輸入し現地人に売り込むことであった。

昭和16年12月8日、大東亜戦争が始まると、Sさん他の蘭印在住日本人約2000と共に一斉に逮捕され、着の身着のままのまま、オランダの貨物船に積みこまれ、南オーストラリアの砂漠地帯にあるラブダイ(Loveday)という抑留所に収容された。幸いSさんは翌17年、英国との間の抑留者交換で解放されたが、そのままジャバに連れて行かれ、20年には現地召集で自動車隊に二等兵として入隊した。

21年Sさんは復員帰国できたが、戦後の焼け野原で仕事もなく苦労された。でも前半の半生に比べれば波乱はないので割愛させてもらうが、Sさんに限らず大正1ケタ世代は、過去の日本人の中でも一番苦労が多かった世代である。

           有料老人ホームでの心穏やかな日々

2012-12-01 07:07:54 | Weblog
早や師走である。このところ”喪中につき新年のご挨拶失礼させて貰います”といった喪状が毎日のように届く。若かった頃は遺族の方から自分の年老いたご両親の逝去に対する欠礼が多かったが、最近は逆にご本人の逝去を、そのご遺族から知らせて頂くものが多くなってきた。やはり自分自身が高齢になってきた証拠である。

昨日もご夫婦で有料老人ホームに入居されているSさんから次のような喪状が届いた。喪状というと、大体は印刷屋さんのサンプルにそった通り一遍のものが多いが、残されたご夫人からの文面があまりに心こもったものなので紹介させて頂く。「4月の終わりに夫が満93歳を前に永眠しました。この3年余、緑に囲まれたホームで暖かいスタッフの方々にお世話になりながら、ゆったりと心穏やかな日々を過ごしておりました。これまでの皆様のご厚情に御礼申し上げます」

Sさんご夫妻の有料老人ホームは閑静な武蔵野の一角にある。施設のHPによると、200人も入居できる本格的な施設だが、ご夫妻はこの夫婦だけのの居室に住まわれていた。ゲスのやっかみをかねて使用料を調べてみると、居室の賃貸料、管理費、食事代で計、一人最低235,000円が必要だ。これに部屋の電気、水道料金、テレビ代などは別料金である。これでは、やはり限られた恵まれた人たちしか入居できない。

超高齢化時代である。僕の周囲にも80歳代はおろか90歳代でも夫婦元気で生活されている方もいる。しかし、90歳代になるとやはり、夫婦どちらかが老化から介護が必要になってくる。国の高齢化政策は、介護によって自宅で最期を迎えることのようだが、残念がら一部の恵まれた人を除けば、自宅の構造がが高齢者向けにはできていない。すべての老人が”心穏やかな”日々を送れるのは残念ながら、今のところ夢である。