支那事変で南京が陥落したのは昭和12年12月13日である。75年前のことだが、いまでは南京攻略戦よりは”大虐殺”だけが独り歩きして戦闘は忘れかけてきている。当時子供だった僕でさえ、日本軍が苦闘のすえ勝利した日の喜びと感激を覚えている。南京攻略戦は支那事変のヤマ場であり、その去就は国民的関心事であった。亡父の当時の日記にも”南京城に肉薄”(6日)”蒋介石脱出”(7日)”南京城まだ落ちず”(8日)”南昌大空襲”(9日)”投降勧告に応ぜず、総攻撃、脇坂部隊光華門一番乗り、大日章旗翻る”(10日)と連日戦況が記されている。陥落が大本営から発表になった翌14日、東京では昼は旗行列、夜は提灯行列が盛大に催された。僕も旗行列に参加したことを覚えている。
南京攻略戦は大激戦であった。一番乗りを果たした脇坂部隊(福井県鯖江)だけでも257人が戦死、546人の負傷者が出ている。その激戦の模様は後日”脇坂部隊の歌”(中山正男作詞、小関祐而作曲)となり、陸海軍軍楽隊の礼式歌に指定されている。その最終章を紹介しよう。
♯ 負いて怯まぬ敵勢は 弾薬尽きて石を投ぐ
城門死守の夜は明けて 世紀の朝の日章旗
一番乗りの岸隊(脇坂部隊)の誉れと共にはためきぬ
敵味方あいまじえての戦闘だったが、今はこの戦いよりは、日本軍による”大虐殺”が中国側の一方的な喧伝により知られている。専門家の研究により、この”大虐殺”が虚妄であることは次第に明らかにされているが、僅か1か月の間に日本軍が20万人を殺し、2万人もの女性を強姦できるのだろうか。あまりにも馬鹿げている。お互いに国のために戦った兵士の名誉のためにも虚妄は撤回されるべきである。
南京攻略戦は大激戦であった。一番乗りを果たした脇坂部隊(福井県鯖江)だけでも257人が戦死、546人の負傷者が出ている。その激戦の模様は後日”脇坂部隊の歌”(中山正男作詞、小関祐而作曲)となり、陸海軍軍楽隊の礼式歌に指定されている。その最終章を紹介しよう。
♯ 負いて怯まぬ敵勢は 弾薬尽きて石を投ぐ
城門死守の夜は明けて 世紀の朝の日章旗
一番乗りの岸隊(脇坂部隊)の誉れと共にはためきぬ
敵味方あいまじえての戦闘だったが、今はこの戦いよりは、日本軍による”大虐殺”が中国側の一方的な喧伝により知られている。専門家の研究により、この”大虐殺”が虚妄であることは次第に明らかにされているが、僅か1か月の間に日本軍が20万人を殺し、2万人もの女性を強姦できるのだろうか。あまりにも馬鹿げている。お互いに国のために戦った兵士の名誉のためにも虚妄は撤回されるべきである。