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「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

陸軍船舶部隊築城班に属していた過酷な日々

2017-06-08 05:56:59 | 2012・1・1
昨日、日本列島はほとんどの地で梅雨入りしたが、僕はこの時季になると毎年、人生最大の過酷であった昭和20年6月から7月にかけての梅雨の季節を想い出す。当時中学(旧制)3年生であった僕らは焼跡の東京を後にして、千葉県東葛飾郡梅郷村(現在の流山市)の利根川と江戸川を結ぶ運河の河口で、敵の本土上陸に備え、浚渫工事に学徒動員されていた。沖縄戦は最終段階を迎え、次は九十九里浜への本土上陸だといわれていた。僕らは広島に本部がある陸軍船舶部隊(暁2492部隊)の築城班に配属され、軍隊さながらの生活をしいられた。

僕らは江戸川の堤の上に仮設された”掘立小屋”の兵舎にに詰め込まれ、軍隊の内務班さながらの生活だった。起床ラッパで起こされ就寝ラッパで寝る生活。食事は三食、堤下の農家の納屋の前の広場で食べたが、、食器はなく孟宗竹が2個支給され、まさに一汁一食の毎日であった。ただ救いだったのは、その頃東京では”米のメシ”は食べられなくなっていたが、ここでは雑炊ではなく”米のメシ”が食べられたことだ。それでも育ちざかりの僕らには足りず空腹の毎日で、農家の畠の野菜を盗んで食べた。

仕事は、敵が上陸してきた際、迎撃の味方の船舶を自由に運河を運行させるための浚渫工事であった。当時、シャベルカーなどなく、すべて人力で、僕らは二人、組になってモッコを担ぎ浚渫した泥を地表に運んだ、体力のない子供である。疲れて休むと監督の兵隊から”沖縄を思え”と怒声がとんだ。ドラムカンを改造した屋外の五右衛門風呂に入り、星空の下で軍歌演習をした楽しい想い出もあるが、甘味欲しさに薬局から糖衣剤の胃腸薬を買ってきて食べ、黒い便が出て驚いた苦い想い出もある。14,5歳の子供にとっては過酷すぎる日々であった。