「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「食品ロス」 71年前の飢餓の日々を想う

2017-06-01 05:15:50 | 2012・1・1
孫の男の大学生がアルバイト先のスーパー―店から”賞味切れ”期限が迫った握り寿司を頂戴してきた。わが家ではめったにお目にかかれない高級品だ。こういった”賞味切れ”食品の事を業界言葉で「食品ロス」というのだそうだ。昨日テレビ番組で、この「食品ロス」の特集をしており、デパートの食品売り場に大勢の客が押しかけているのを見た。まさに飽食の”もったいない”時代である。「政府オンライン」のHPによると、わが国では年間630万トン、日本人一人当たり、お茶碗一杯分(136グラム)「食品ロス」が出ているとのことだ。

戦中戦後の食糧難時代に育った僕は中でも日本が飢餓寸前に陥った71年前のことが忘れられない。昭和21年(1946年)5月から6月にかけて日本列島は飢餓寸前であった。”米寄こせメーデー”(5月19日)があり、群衆が赤旗を掲げ皇居前広場に押しかけた年である。亡父の残した日記によると、わが家3人の5月1か月分のコメの配給は5キロと小麦粉少々であった。6月9日には、遅配の小麦粉にかわって”マ司令部”(マッカーサー連合軍司令部)から牛肉のカン詰の配給、6月12日には”空腹と寒さ(この年は雹が降るなど異常気象)に耐えられず、夕刻5時就寝”とある。僕も連日、母親が小麦粉に乾燥芋の粉などを混ぜたスイトンや雑炊でハラペコだった記憶がある。学校は午前中だけの授業だった。

横浜新港の一角に昭和天皇の御妃、香淳皇后が昭和24年、昭和天皇と共にLALA(米国の民間救済団体)の倉庫を視察された時に詠まれた御歌二首の歌碑がある。
▽ ララの品積まれたるを見て、とつくにのあつき心になみだこぼれる
▽ あたたかき とつくに人のこころつくし、ゆめな忘れそ
戦後の学校給食の始まりとなったララからの救援物資を積んだ初めての船が横浜港に着いたのは昭和21年11月30日である。亡父のの日記は、わが家の緊急備蓄食糧も底をつき、亡母が遠い祖先の地までSOSで買い出しに出かけ、ほっと一息つくとある。思えば空前絶後の厳しい時代であった。