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「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

関東大地震から92年 亡父の残した記録

2015-09-01 06:05:27 | 2012・1・1
9月Ⅰ日は「防災の日」だが、その制定のいわれの関東大震災は92年の歳月を経て当時を体験した方は少なくなった。亡父は地震のあった大正12年(1923年)9月1日、東京の有楽町にあった報知新聞社の地下の社員食堂で1人でランチを食べていて地震にあった。亡父はその地震発生から数日間の模様を手書きの「記者生活30年」の中で記述している。

”その日は朝からどんよりとした曇り空で、蒸し暑く、時折驟雨がやってくるという、なんとも無気味な日だった”。”突然ドッドッドッーと細かく下から突き上げるような動揺を感ずると共に、今度は左右に大きく揺れ始め、まだ出来たばかりの鉄筋コンクリート五層楼の建物がミシリ、ミシリと音をたてている””瞬間、大地震だと、びっくりしたが、神経が鈍いのか、ランチの食べ残しを食べ、地上に出ると、皆難船した艦上の人のように、よろめきながら歩いている。”

当時、報知新聞は今の「ビッグカメラ」店の所にあったが、地震から倒壊も免れ、火災にも会わなかった。しかし、四方から迫る火の手に危険を感じ、編集スタッフは社屋から離れ、近くにあった放置された市電に椅子や机を運びこみ、ここを臨時の編集局として善後策を練った。当時、報知の社会部長は後年、評論家として有名になった御手洗辰夫氏だったが、彼の方針はまず人心の安定であった。電気が停まり輪転機が動かぬ中で、気象台のもう大きな地震がないという発表と戒厳令本部ができ、治安は大丈夫だという一報を校正用の印刷機で刷り、これをトラックに載せ号外にして市民に配った。

亡父は地震当日は帰宅できず、翌2日、自宅のあった五反田まで歩いて帰って家族の無事を確認した、母は乳飲み子(12年1月生まれの姉)を抱えて大変だったが、当時五反田は郊外(荏原郡大崎町)であり、大きな被害には会わなかった。亡父の残した記録は、地震発生から数日間の新聞社の模様を書いているが、一方、わが家の古文書の中には、当時の大崎町長の父宛ての感謝状がある。文面をみると、地震発生直後の”不逞鮮人”騒ぎの際の自警団活動に対してのようである。生前、僕は自警団活動について父から聞き逃したが、多分勤めの後、夜間ボランティアして詰めていたのであろう。92年も前の昔の話だ。