今年の櫻は長持ちしている。東京では開花してからそろそろ二週間もたつのにま
だ花を残している。が、さすがに今日あたりから散りかけてきた。そんな花吹雪の
中で、71年前、同じ小学校の門をくぐった仲間6人と同期の会を催した。すでに喜
寿を祝った老爺ばかりだが、会えばお互い”オイ、お前”の昔に戻る。
僕らが入学したのは昭和12年4月1日、校門横の櫻が全開だったのを覚えている。
みな新しいランドセルに学帽、胸に折りたたんだハンカチをつけ、希望に燃えていた。
まだ平和の時代だったが、三か月後の7月7日には日支事変が起こり、5年生の12
月8日には大東亜戦争が勃発した。小学校6年間は、まさに激動の時代だった。学
制も1年から4年までは小学校、5年、6年は国民学校であった。
母校は昭和20年5月の空襲で焼け、戦後は校名だけは残り、別の場所にあったが、
その校名も都会過疎により廃校になってしまった。僕らの仲間も空襲と疎開でバラ
バラになり、消息の取れているのは12人にすぎない。そのうちの半分が集まったわ
けだ。級長だったS君は東京大学の名誉教授、副級長のK君は名古屋で企業の社
長さんで、わざわざ遠くから駆けつけてくれた。新幹線の車掌さんだったI君も安曇野
からきてくれた。ほかに一級建築士のO君、中小企業の現役経営者のA君、それに
僕が出席者だ。
残念ながら幹事役で、最近まで六本木でビブブラフォンのライブ演奏していたY君は
病気で欠席、かってA級競輪選手でならしたS君も顔をみせなかった。やがてお世話
になろうと思っていた葬儀屋のS君も昨年先に逝ってしまった。散る花をめでながら
同期の桜は世の無常を知りながら適当に酒をのんだ。
だ花を残している。が、さすがに今日あたりから散りかけてきた。そんな花吹雪の
中で、71年前、同じ小学校の門をくぐった仲間6人と同期の会を催した。すでに喜
寿を祝った老爺ばかりだが、会えばお互い”オイ、お前”の昔に戻る。
僕らが入学したのは昭和12年4月1日、校門横の櫻が全開だったのを覚えている。
みな新しいランドセルに学帽、胸に折りたたんだハンカチをつけ、希望に燃えていた。
まだ平和の時代だったが、三か月後の7月7日には日支事変が起こり、5年生の12
月8日には大東亜戦争が勃発した。小学校6年間は、まさに激動の時代だった。学
制も1年から4年までは小学校、5年、6年は国民学校であった。
母校は昭和20年5月の空襲で焼け、戦後は校名だけは残り、別の場所にあったが、
その校名も都会過疎により廃校になってしまった。僕らの仲間も空襲と疎開でバラ
バラになり、消息の取れているのは12人にすぎない。そのうちの半分が集まったわ
けだ。級長だったS君は東京大学の名誉教授、副級長のK君は名古屋で企業の社
長さんで、わざわざ遠くから駆けつけてくれた。新幹線の車掌さんだったI君も安曇野
からきてくれた。ほかに一級建築士のO君、中小企業の現役経営者のA君、それに
僕が出席者だ。
残念ながら幹事役で、最近まで六本木でビブブラフォンのライブ演奏していたY君は
病気で欠席、かってA級競輪選手でならしたS君も顔をみせなかった。やがてお世話
になろうと思っていた葬儀屋のS君も昨年先に逝ってしまった。散る花をめでながら
同期の桜は世の無常を知りながら適当に酒をのんだ。