臓器提供者であるドナーとして登録する人は自分が死んだらとの条件でするはずである。
正しい死の定義は、心臓停止からおよそ24時間後である。
幸福の科学では、魂が体から霊子線が切れたときが死の定義である。
魂は独自に生き続けるのだ。後は天国か地獄か、
はたまたどちらも行かずに地縛霊として彷徨う幽霊になるかだ。
お通夜があるのは、心臓停止してから生き返った事例があるから習慣としてあるのだ。
霊界の存在を広く知ってもらうために、臨死体験をした人が増えている。
例えば、心臓停止して、医者からご臨終と宣言されてから生き返った人がいる。
その人は、心臓停止していたにも関わらず、医者や看護婦のそして親族の行動を記憶していたのだ。
悲しいかな、このような話は唯物論者は信じようとしない。
物でしか相手にしない人には、理解できないのだ。魂は物ではないからね。
もちろん脳は死んでいるのだから、死後の記憶はできるはずがない。
脳死を死とする人達には理解されない現象である。いや理解しようとしないのだ。
実際に考え感じているのは魂である。心である。
脳は単なる司令塔であり、痛みから守るために筋肉への指令を出すだけである。
その指令は声や体のよじれで他人に伝わる。
脳死はその指令が出せなくなっているだけで、痛みはあるのだ。
この事を理解したら、脳死による臓器移植はできなくなる。
なにせ、新鮮な臓器でなくては使い物にならないから理解したくないのである。
ドナーの決意をした人は、脳死になれば、痛みも何も感じないはずと思い込んでいるのだ。
脳死になって、実際に体にメスを入れられたら、
「まだ生きているぞー!約束が違うだろうが!」
と叫べども、もがけども、意思を伝える手段が壊れている=脳死だから判ってもらえない。
生きながら体を引き裂かれる激痛だよ。
脳死は人生の終わりだから、激痛を覚悟するならば、
よい行いであるけど。。。
以下、別の意見があったので転載する。
奄美のアマミちゃんお気楽ブログより
「隊長、うちの宗派は脳死臓器移植に反対なんですが、隊長はどう思いますか?」
隊長「どうしてキミんとこは反対なんだ?」
奄美「脳死は実際は生きてるのと同じなので、周りの会話も聞こえてるし痛みも感じてるらしいんです。生きてるうちに麻酔無しで切り刻むのと同じなので、本人にきついらしいと」
隊長「そりゃそうだろうな。でも最近は麻酔打つだろ?」
奄美「はい。麻酔なしでメスつきたてた途端に血圧が急上昇して手をばたつかせるそうですから、そしたらすぐ麻酔打つらしいですね。」
隊長「最近は臓器移植も変化してるからな。脳死だけとはかぎらない。脳死じゃなければいいんじゃないか?」
奄「そうですね」
隊長「まぁ、本人が臓器提供の意志があるなら、とやかく言わなくてもいいんじゃないか?個人の判断だからな。あとは手術のときに怖かろうが痛かろうがわめこうが本人の責任だろ」
奄美「その前に、脳死状態で臓器とりだされたら超痛いぞと・・・」
隊長「あまり反対反対というのもどうかと思うよ。個人の選択枠を強制するのもどうかと思うしな。ただ、これだけは知っておいた方がいいのは、いわゆる『人格転移』だな」
奄美「ああ、臓器をもらった患者が、臓器の持ち主の生前の記憶や性格の影響をうけてしまって、自分の肉親を肉親と思えなくなったり記憶の混同が起きたり、趣味嗜好や性格まで臓器の持ち主の影響を受けて変わってくるというヤツですね」
隊長「あれは科学的にいっても本当は当たりまえなんだよ。記憶ってのは遺伝子情報だろ?他人のデカい遺伝子の塊を身体に入れるわけだ。違う遺伝子情報に浸食されることも当然のことだよ。なんらおかしいことじゃない。
だから俺が言いたいのは、『臓器の持ち主の人生まで背負う覚悟があるなら臓器をもらえ』ということだな。自分だけの人生じゃなくなるんだよ。相手の人生を背負うということは、そのご先祖とのかかわりまででてくるかもしれない。その覚悟があるなら臓器をもらえばいい」
奄美「・・・・・・・・」
正しい死の定義は、心臓停止からおよそ24時間後である。
幸福の科学では、魂が体から霊子線が切れたときが死の定義である。
魂は独自に生き続けるのだ。後は天国か地獄か、
はたまたどちらも行かずに地縛霊として彷徨う幽霊になるかだ。
お通夜があるのは、心臓停止してから生き返った事例があるから習慣としてあるのだ。
霊界の存在を広く知ってもらうために、臨死体験をした人が増えている。
例えば、心臓停止して、医者からご臨終と宣言されてから生き返った人がいる。
その人は、心臓停止していたにも関わらず、医者や看護婦のそして親族の行動を記憶していたのだ。
悲しいかな、このような話は唯物論者は信じようとしない。
物でしか相手にしない人には、理解できないのだ。魂は物ではないからね。
もちろん脳は死んでいるのだから、死後の記憶はできるはずがない。
脳死を死とする人達には理解されない現象である。いや理解しようとしないのだ。
実際に考え感じているのは魂である。心である。
脳は単なる司令塔であり、痛みから守るために筋肉への指令を出すだけである。
その指令は声や体のよじれで他人に伝わる。
脳死はその指令が出せなくなっているだけで、痛みはあるのだ。
この事を理解したら、脳死による臓器移植はできなくなる。
なにせ、新鮮な臓器でなくては使い物にならないから理解したくないのである。
ドナーの決意をした人は、脳死になれば、痛みも何も感じないはずと思い込んでいるのだ。
脳死になって、実際に体にメスを入れられたら、
「まだ生きているぞー!約束が違うだろうが!」
と叫べども、もがけども、意思を伝える手段が壊れている=脳死だから判ってもらえない。
生きながら体を引き裂かれる激痛だよ。
脳死は人生の終わりだから、激痛を覚悟するならば、
よい行いであるけど。。。
以下、別の意見があったので転載する。
奄美のアマミちゃんお気楽ブログより
「隊長、うちの宗派は脳死臓器移植に反対なんですが、隊長はどう思いますか?」
隊長「どうしてキミんとこは反対なんだ?」
奄美「脳死は実際は生きてるのと同じなので、周りの会話も聞こえてるし痛みも感じてるらしいんです。生きてるうちに麻酔無しで切り刻むのと同じなので、本人にきついらしいと」
隊長「そりゃそうだろうな。でも最近は麻酔打つだろ?」
奄美「はい。麻酔なしでメスつきたてた途端に血圧が急上昇して手をばたつかせるそうですから、そしたらすぐ麻酔打つらしいですね。」
隊長「最近は臓器移植も変化してるからな。脳死だけとはかぎらない。脳死じゃなければいいんじゃないか?」
奄「そうですね」
隊長「まぁ、本人が臓器提供の意志があるなら、とやかく言わなくてもいいんじゃないか?個人の判断だからな。あとは手術のときに怖かろうが痛かろうがわめこうが本人の責任だろ」
奄美「その前に、脳死状態で臓器とりだされたら超痛いぞと・・・」
隊長「あまり反対反対というのもどうかと思うよ。個人の選択枠を強制するのもどうかと思うしな。ただ、これだけは知っておいた方がいいのは、いわゆる『人格転移』だな」
奄美「ああ、臓器をもらった患者が、臓器の持ち主の生前の記憶や性格の影響をうけてしまって、自分の肉親を肉親と思えなくなったり記憶の混同が起きたり、趣味嗜好や性格まで臓器の持ち主の影響を受けて変わってくるというヤツですね」
隊長「あれは科学的にいっても本当は当たりまえなんだよ。記憶ってのは遺伝子情報だろ?他人のデカい遺伝子の塊を身体に入れるわけだ。違う遺伝子情報に浸食されることも当然のことだよ。なんらおかしいことじゃない。
だから俺が言いたいのは、『臓器の持ち主の人生まで背負う覚悟があるなら臓器をもらえ』ということだな。自分だけの人生じゃなくなるんだよ。相手の人生を背負うということは、そのご先祖とのかかわりまででてくるかもしれない。その覚悟があるなら臓器をもらえばいい」
奄美「・・・・・・・・」