あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

8月26日の神殿講話から。。思うがままに。。

2021年08月28日 10時01分08秒 | 思った事

8月本部の月次祭を中庭で参拝させて頂いた。

神殿講話を聞かせてもらってから、なんだかすごく気持ちが重たい。

テレビを見ても、ネットニュースを見ても、どんどん暗くなるばかりである。

せっかく、安く効き目のある薬があるのに、それを使わさずに、効果がほとんど無く危険な薬を無理やり使わせようとする。

利権によるものが明白になってきているのに、強引に進めようとする。

多くの命が。。。と思えて仕方がない。

 

さて、今月の本部の神殿講話は「原典における感染症」について話をされたが、資料を提示されただけで終わったようで、妻と「結論が無かったね」と話し合った。

それを聞きながら一つ思ったのは、「ほうそ」については、「ほうそ守り」をお守りと共に出されている事が言われなかったように思え、ワクチンということよりも、この「ほうそ守り」が大きいのではないか。と思った。

15才以下の子供に対して「証拠守り」と共に「ほうそ守り」を付けて下さっているのである。

これまで、どれだけ多くの人々がお守りを頂いたのだろうか。

どれだけ多くの人々がおぢばへ足を運んだのだろうか。

そして、それらの人々の魂には、その印が刻まれている。

先に出した資料の中に、「反対する者であっても、知らず知らずにおぢばへ引き寄せられて、心を見分けられて、印を頂いている」という話しがあったと思う。

親神様の視点は、人間の生まれ変わりも含めた、魂の成人を見極めるものである。

しかし、人間は今世だけの事に囚われている。

ここをしっかりと思案しておかなければ、せっかく「かしもの・かりもの」を聞かせて頂いていても、いらぬ迷い、いらぬ不足をつまねばならなくなると思う。

 

私の両親は、二人とも結核にかかった者である。

母親はそれによって、一年留年している。母親は詰所で軍医さんからもらった薬でたすかったと言っていたが、父親からはそのような話は聞いていない。

ともかく、両親は結核から助かった。

私はその長男である。そして、私はその結核の予防接種は受けていない。

ツベルクリン反応で陽性が出ていたからである。

つまり、生まれた時からその耐性を持っていたという事になる。

このような事を考えると、大騒ぎする必要はない。

成ってくることを受け止め、しっかりと親神様に凭れて、自らの心の切り替えをする。

そして、御守護を頂いていくことが、一番重要だと思うのである。

 

みな、死ぬことを、出直すことを嫌がる。

また関係する人々が亡くなる事を悲しがる。

しかし、親神様からすると、こうした事も、前世からのいんねんによって起こる事と言われている。

「三才で出直すも一生」として、諸井国三郎先生にまた、多くの方におさしづをされている。

問題は、出直した方よりも、残された方の心にあるのではないか。

この悲しむという心。これがとても重要ではないかと思うのである。

 

また、もし殺人を犯す人があった時、その殺人者の心が問題であると思うのである。

自分の欲得のために、殺人を犯すことがあれば、それは陽気ぐらしとは全く違った心であることは明白である。

ならば、その罪は、ほこりは何倍にもなって、その人に返ってくる。

このほこりの多さ、大きさは、人の上に立つ人ほど、大きくなることは、ほこりの説き分けに書かれている。

八つのほこりの理。。。『正文遺韻抄』より - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

そして、

その魂が、生まれ変わりをするたびに、その罪をつぐなう状況になってくる。そしてそれは詫びて許しを得て、人助けへと心を切り替えない限り、繰り返される。

この事は、逸話編の199[「一つやで」を読めば明らかである。

このような理の筋道を知っていても、それを日々に活かして行かねば何にもならない。

これは、おたすけ人の身上に対するおさしづで、「自分の説く事を自分に当てはめて見よ」と言われることからも分かる。

 

ともかく、助かりたいと望むか、望まないか。

心の身上でも同じである。

医術も薬も、一時的なものとして教えられたものである。

一時的なもので、その時を乗り切りながら、心を変えて行く。

それを、教えられた親神様に望むか望まないか。ここが問題だと思う。

 

何よりも大切なのは、誠真実の心を使えるようになる事である。

そうなれば、「医者も薬もこれはかなわん」という身上も、親神様がすぐにふしぎを表して下さる。

身上も事情もなくなる。思ったら思ったようになってくる。

 

親神様と人間、人間と人間との共生。「神人和楽」と真柱様は言われたようである。

そのための修行が、日々であると思えば、また見方が変わるのではないかと思う。

 

昨日、午後3時すぎ、余りにも空から雲が無くなり、この空を記録にしたいと外へ出た。

しかし、雲の無い空は、ただの青い紙と同じで、その素晴らしさは表現できないと思った。

そして、どうしたものかと思いながら、公園内を歩きながら撮影をして回った。

 

赤いサルスベリを見て、これだと思って、思わず撮った。

空の青さが際立った。

近くに白いサルスベリがあり、試しに撮ってみたが、どうも違っていた。

そして、家に帰って来てから、写真をみたら、芝生広場に木々の影が映りこんでいる写真に目が留まった。

これもそうだ。と思って、Facebookに投稿した。

今の私にはうまく表現が出来ないが、人間が生きる事もこのようだと思った。

 

思うがままに書きました。

どうぞお許しください。

コメント
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