あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

今日の出来事。。教祖のお隠れから、本席定めの間について。。

2021年08月25日 21時03分58秒 | 復元 永尾芳枝祖母口述記

今日は、8月25日である。

数日前から、左足が痛みおかしいなぁと思っていたら、足の指の間が裂けている。

これは水虫だ。(これまでにも経験済み)

水虫の傷口から、ばい菌が入ったら大変な事になる。

そこで午前中、皮膚科へ行ってきた。案の定であった。

 

その道中、お堀を見ると、石垣の除草をしている。

これは良い機会だと思って、動画を撮る。

Facebook 【動画】名古屋城お堀、石垣の除草

石垣の草をそのままにしておくと、石垣が崩れる原因になると以前聞いたことがあった。

文化財を維持する事も大変な事である。

 

帰って来てから、いつもの如く、ユーチューブやニュースのチェックをする。

YouTubeも規制が厳しくなったのと、代わり映えしないので、新型コロナの事はあまり出なくなってきている。騒いでいるのはテレビばかりのようである、

そうした中に、新しくイベルメクチンの有効性を説いた動画があったので、記録しておいた。

また、最近は海外のニュースサイトを見るようになって、その自動翻訳を見ている。そして気になったことをFacebookに共有するようになった。

ニュースも、書く人や掲載する会社の主義主張によって意見が全く違う事がある。これをしっかりと考えて見ないと、大変な事になりかねない。(アメリカ大統領選挙から痛感している)

その後、先日から掲載しているおさしづについて調べ物をしていると、これまた発見をしたので、表題の如く、今日はそれを掲載しておく。

 

「教祖のお隠れから、本席定めの間の事」

 先日の「永尾芳枝祖母口述記」に書かれていた時の事を詳しくまとめてあったので、それを紹介しておきたく思った。

その本は「教史点描 ”おさしづの時代”をたどる」である。

その部分だけを写真で掲載しておく。

この本は書店、WEBでも販売しているのでぜひとも、購入をお勧めしたい。

調べたら、中古で2000円近くで販売されて、楽天ブックスでは1650円だった。

今回、目に付いたのがラインを引いたところである。

教祖が現身を隠されて、大変な中に、初代真柱様は置かれていた事が、良く分かった。

分かりやすいと思って、おさしづの表も、以下に載せておく。

 

親神様のお導きの中に私たちはいる。

世界では、キリスト教の予言に沿って物事が進んでいるとも言われたりする。そして、キリスト教の教義の解釈を問題視する事も言われたりする。

そうした中に、天理教ではこの世界をどのように解き明かしているのかとして、「元の理」を紹介し、自分の感じている事を書いて来た。

先日から書いている「人足社」は、神様の言葉を述べるという事から、色々な問題になり、「おさしづ」を伺っているのである。

世の中には、霊的にそのような事を発言する人も多々ある。そうした人々に対する考え方を、史実、教えから求める事も大切だと思って、作業をしているのである。

結論が出るかどうかは、現段階では分からない。

しかし、様々な気づきをもらっている事は確かである。

私に限らず、私の提示した資料から、新たな事を感じておられる方も多いかと思う。

「おふでさき」にある、世界助けのための「こうき」を作る一助になれば良いかと、そんな夢を抱きながらいる。

 

今日も一日ありがとうございました。

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永尾芳枝祖母口述記。。。「復元」3号(書き換え)6 (完)。

2021年08月11日 10時00分12秒 | 復元 永尾芳枝祖母口述記

いよいよ。このシリーズも最後になりました。

教祖と共に歩まれた方のお話はやはり違う。「鳴物」のところで出て来ますが、親神様が見定められた方だと思いながら、書き換えを続けて来ました。

私には、その当時の様子が事鮮やかに目の前に起こっている如く、思えました。

とても辛いお話もありますが、なんでそんなんことが起きるのと思うような事が実際に起こり、親神様が人々を導いた。そして、今なおこの資料を通して、私たちに親神様が導いているのだと、語りかけているように思えました。

今回は以下の3つの質問です。

『かぐら勤めの初めはいつ頃からでございますか』 

『鳴物はどういうところから起こったのでございますか』

『教祖ご在世中に行われたと聞かせて頂いております、雨乞いのお勤めについてお話しくださいませ。』

・・・・・・・・・・・・・

『かぐら勤めの初めはいつ頃からでございますか』
 明治13年旧8月26日が始めや。
 それより前、慶応2年あたりは「あしきはらい 南無てんりわうのみこと」一点張りで、教祖も参拝者も区別なく、皆一様にぼてこ(渋紙張りの行季(こうり、入れ物))に入れてある拍子木を出して、たたきながら、「あしきはらい、たすけたまえ南無てんりおうのみこと」と唱えるだけのお勤めだったそうや。

 それが明治元年、初めてお手をつけられてから、だんだん12下りのお手もついて、(当時は隠れ忍んでのこと故、2年3年で出来たものではないと聞く。伊)前にも話した通り明治13年旧8月26日、仏式教会(転輪王講社)の社開きの日(?為)かぐら勤めをせよとおっしゃって、初めて本勤めをされたのや。
 このお勤めの手をつけて頂いたのは、初めから終わりまで教祖が、自然にお手の動く方へ運ばれて教えて下さったのや。足の運び方も同じや。
 そして教祖は『この勤めは理で振るのやで、遊び事や気晴らしに振るのやない、みな理で振るのや』とおっしゃった。また『勤めというものはなかなか軽いものやないで、勤め一座で如何ような事でも治めさすで』と、また『ちょとはなしの終わりと、よろづよの終わりに、ようしようしという言があるが、これはどうでもこうでも言わねばならん、悪い事にはようしようしと言わんやろ、どうでもこれは言わんといかんで』とおっしゃったのや。

 『鳴物はどういうところから起こったのでございますか』
 鳴物人衆としては、初め3人お定めになったのや。(明治9年頃だったかと聞く。伊)その3人というのは、私と上田ナライトさんと辻留菊さんとで、それは皆身上のお障りによってお知らせを頂いて、教祖にお伺いするとお言葉があったのや。
 そのうちで私が一番先にお言葉を頂いたのやが、私のお障りは右手の人差し指が痛むので、教祖にお伺いすると『三味線の稽古させよ』とおっしゃった。
 上田ナライトさんは、不思議にも身体がフラフラとふらつくのやった。お伺いすると『胡弓を稽古させよ』とのことやった。

 辻留菊さんのは、当人にお障りは無かったのやが、父親の忠作さんにお障りがあった。それは右手に腫れ物が出来たのや。お伺いすると『娘の留菊に琴の稽古をさせよ』とおっしゃった。(忠作先生は早速郡山の古道具屋で琴を求めて来られたと聞く。伊)
 これで3人やが『一人の控えを置く』とおっしゃって、増井おりんさんになったのや。
 そこでこの4人に、赤い着物を着る事をお許しになって、『これは先のまなびやで』とおっしゃって、さて3人がそれぞれ稽古をする事になったのやが、誰もその道は知らんので、当の私などはもとより親たちも心配して『せめて師匠について地歌の稽古からはじめて、お勤めの鳴物の手を教えてもらったら』と教祖にお願いしてもらうと、教祖は『習いにやるのでもなければ教えに来てもらうのでもないで、この屋敷から教え出すものばかりや、世界から教えてもらうものは何もない。この屋敷から教え出すので理があるのや』とおっしゃって、続いて私に『芳枝さんへ、これから先になれば会った事も見た事もない人たちに教えにゃならんで、今は仮名に(やさしく)手を付けておくで』とおっしゃった。
 それからは毎日教祖の御前でお教え頂いたのや。
 教祖は、また『これから先になれば、われもわれもと出たがる者があるで、それは代わりに出してやったらよい、けれども三味線だけはこっちで持たんといかんで、外の鳴物は出る者が無かったら並べといても役に立つで』とおっしゃった。

 こうしてお勤めの手も鳴物の手も、教祖御自ら教えて下さったのだが、お歌の節だけは村田幸衛門という人が浄瑠璃が好きで、多少できるところから歌ってみて思召しに叶ったのやが、やっぱり教祖のお手入れがあって稽古したのやった。
 このようにそれぞれ稽古したのやが、教祖は『まさかの時に間に合わせにゃならんから、しっかり手合わせをせよ』とおっしゃって、みんな一生懸命にしたのやが、いよいよ初めて本勤めしたのが、前々から言った通り明治13年の旧8月26日だったのや。

 『教祖ご在世中に行われたと聞かせて頂いております、雨乞いのお勤めについてお話しくださいませ』
 それは明治16年の夏(8月15日、旧7月13日と聞く。伊)で、私の18才の年やった。
 この時は大変な旱魃で、各家の井戸水までも干上がる程で、人畜にまでその害が及ぶというようなあり様だった。ことに百姓衆は困り切ったのや。
 そこで困り切ったあげく(土地の風習で、氏神に祈願する事が随分行われたと聞く。伊)いつもは見向きもしないのに、とうとう足達さん(石西さんではなかろうか。為)が代表になって、雨乞いのお願いをしてくれと頼みに来たのや。
 教祖にお伺いされるとすぐにお許しになったので、皆支度にかかったのだが、この時教祖は私をお呼びになって、ご自分のお召しになっている赤衣を私に下さって『代理をせよ』とおっしゃった。
 そしてこの時、『守護するで、なれどもどんな者連れて帰るやら分からん。その時は決して逃げ隠れしてはならんで』とおっしゃったのや。

 そこで人衆揃って三島庄屋敷村の領分を南からひと回りお勤めをして回ったのやが、初めは雲一つなかったのが、2度目には東から曇って来て、3度目にはどしゃ降りの大雨が降って、4度目を終ってみんなずぶぬれになって戻って来たのやった。
 そしてそのまま直ぐに、甘露台の前にお礼申し上げたのや。ところが、警官がこれを聞きつけてお屋敷へ出張って来て、勤め人衆を皆拘引するという事になったのやが、不思議な事には他の人等は皆黒の着物を着ていて、私ただ一人が赤い着物を着ているのだから、一番目立つのが当たり前なのに、何と私だけは眼に付かないと見えて、警官は他の人々の名前を一々手帳につけているのに、わたしだけには何にも言わなかった。そのうち私はにわかに小用をもようしたので、すぐそばの便所へ入ったのや。ところが便所の石段を登ればどうでも警官の目につかなければならないはずなのに、とうとう目に止まらなかったのや。私が出て来た時には、他の人たちは皆拘引されて門の外へ出られた後だった。
 私はただ一人になって、そのまま教祖の前に行って、お礼を申し上げたような次第やったが、ほんまに出がけに教祖のおっしゃった通りやったのや。(祖母はこの時の感激を、繰り返して最もよく語る処でした。伊)
 一方警察ではお勤めに使ったお道具から、おつとめ着までも取り上げられてしまったのや。その上水利妨害として一人50銭ずつの科料を取られたのやが(一部の方々は62銭5厘だったと聞く。伊)何で水利妨害かというと、一般にまんべんなく降るはずの雨を、祈祷によって三島庄屋敷村の領分にだけ集めたのやから、他の村に対しては水利妨害やと言うのや。
 なるほどそうかもしれん。お勤めをして回った以外の方は、しょぼしょぼと降っただけやったそうや。
 そやけどこの時も、結局教祖に警察へご苦労頂いたのは申し訳ない事やった。

 色々と長話ししたけれど、これはみな私の憶えているだけのほんの道筋のあらましを言ったのや。今日はこれくらいにしといてもらおう。


(以上)

・・・・

ここまでですが、

私はこの部分で一番気になったのは、「雨乞いづとめ」の時に、教祖の代理として赤衣を着られた芳枝様が、警官の眼に止まらずに、拘引されなかったという事です。

この証拠は、拘引した時のメモなり調書がそれになるでしょう。(おつとめをする人数が決まっていますので、その人数が足りないはずです)

読む方によっては、

ただただ拘引されずに良かったと思う方もあるでしょう。

「なぜ警官に見えなかったのだろうか?」とその理由を探す方もあるでしょう。

「赤衣は隠れ身の術を使えるのか。」と思う方もあるでしょう。

この「赤衣が隠れみの術のようになったのかも」と思える話が逸話編にあります。

逸話編 91『踊って去ぬのやで』で、

岡本シナさんに、
「着て去にや。去ぬ時、道々、丹波市の町ん中、着物の上からそれ着て、踊って去ぬのやで。」
と仰せられて、言いつけ通りに行ったところ、何も起こらなかった。

という話しを思い出したのです。

ともかく、教祖は身上を助けるだけではなく、不思議な事を次々とお見せ下さいました。

教祖は親神様であります。

つまり、親神様の働きは「あるものも無いようにしてしまう事も出来る」という証と思われます。

「大和神社の事件」でもそうでありますが、警察に拘引されるのですが、その時の事がチャンと記憶に残るように、見せられた事とも考えられると思います。

今回、このお話をネット上で公開をしました。

全世界の方々に読んで頂けます。世界だけではありません。おぢばで住む方でも、このようなお話があった事は知らない方が多い事でしょう。

その時だけの不思議を求めたり、不思議が無いと嘆く人も多いかと思いますが、このような不思議もあるのです。

大和神社事件で「後々の話の台であるほどに」と教祖がこかん様に言われた言葉が、とても大切だと思うのです。

先ほどの逸話編に

「今日は、家へは去ぬことが出来ぬかも知れん。」と、思った。ようやく、覚悟を決めて、「先はどうなってもよし。今日は、たとい家へ去ぬことが出来なくてもよい。」と、教祖から頂いた赤衣の襦袢を着物の上から羽織って、夢中で丹波市の町中をてをどりをしながらかえった。

と出てきます。

この「我が身どうなっても」と定めた誠真実によって、親神様の不思議を見せて頂き、話の台を頂けるのではないでしょうか。

 

読まれた感想など、コメントで共有できれば、ありがたく思います。

 

Facebookの「復元」グループへは毎日少しずつ、スキャン画像をアップしています。

今日、『復元』3号 教祖御伝稿案(2)が終わるところです。

また、多くの方に見て頂きたいと思うものがありましたら、書換えて見たいと思います。

 

ありがとうございました。

 

世界が陽気ぐらしになる一助となりますように。。。

 

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永尾芳枝祖母口述記。。。「復元」3号(書き換え)5。

2021年08月10日 09時12分16秒 | 復元 永尾芳枝祖母口述記

さすがに、前回の「おさしづ」34本は大変でした。

次々と「こんな事があったら良いのに」と思い浮かぶので、ついついやってしまいます。

それでも、大教会の会報や支部の連絡報を作る事を思うと、ぜんぜん体が動くのです。

背中が痛まないのです。とっても不思議に感じながら作っています。

さて、今回は、次の2つの質問を掲載します。

3『本席様がおさづけをお授け下さいました最初の事をお聞かせ頂きたく思います』

おさづけはそれぞれの心を見定めて、お渡し下さった事が克明に描かれています。
別席の成り立ちについても話されています。
今の別席の話は、はじめはおさづけを戴いてから聞かせてもらっていたと記されています。
(別席台本は、別席制度を作るようにおさしづ下された時に、おさづけを頂戴した時のおさしづを元に作り上げられ、親神様にご承認いただいたものです。この時、教祖しか知らない黒疱瘡のおたすけの話を入れるように、おさしづを戴かれて、その話が入っています。けれどもその助かった人は誰かという事は言わないようにともさしづされています。)

4『刻限のおさしづについてお話し下さいませ』

「ほこりの仕事場」について話されています。
刻限話の意味合いについて話されています。

・・・・・・・・・・

134頁から138頁までです。

 『本席様がおさづけをお授け下さいました最初の事をお聞かせ頂きたく思います』

 それは明治20年旧3月1日の事で、この日、夜の12時少し過ぎた頃、突然父様が一里ほどもある園原という山村の西浦弥平さんを呼んで来いとおっしゃった。母様も私も何分こんな夜更けの事やから、とまどっていると、父様は「早く早く」とお急き込みになるので、それはてっきり(必との意)この間からの身上のお疲れだろうと思って、母様と私とはとにかく甘露台へ参ってお願いするつもりで表へ出たのや。

 すると、かすかに人影があるようなので、よくすかして見ると、それは西浦弥平さんが、父様のお居間の方に向かって手を合わせて拝んでおられるのやった。ビックリして「まあ西浦さんですか。よくまあ来てくれました。今の今お父さんが、あなたを呼んで来いと言われたところや、さあ入ってください。」というような事で、西浦さんも驚いて飛ぶように内へ入られた。
 すると父様は「さあさあ さづけを渡そう渡そう」とおっしゃる。今の今まで、ただ父様の言われる事だとばかり思っていたら、それは神様のお言葉だった。
 この時、その西浦弥平さんに「甘露台のさづけ」をお許しになったのやが、これが初めや。
 そうして西浦弥平さんがおさづけを頂かれてからは、お屋敷の人たちや古い講元さん達が、身上にお障りが付くと、すぐおさしづを頂いて、それによって、おさづけを頂いたのや。
 しかし、誰でも彼でもすぐに頂けるとは限らなかった。2へん3べん、それでもあかん(ダメな事)時は、(何もおっしゃらぬ時もあり、また「出直せ出直せ」とおっしゃったこともあると聞く。伊)何べんもお願いして、やっとお許し頂いた人もある。またお願いしたのに、どうしてもお許しが無くて、そのうちに出直してしまったり道を離れた人もあるのや。そうかと思うとお願いもしないのに、神様からお呼び出しになって、お許し下さったものある。
 それは魂の因縁と、その人銘々の精神によって、それぞれ違うのや。なかなか今と違って、ちょっとやそっとの信仰では頂けなかった。今なら信仰して少し熱心になれば9度の別席を運んで、お話が分かっても分からなくても満席になっておさづけを頂くやろ。それから教校の別科へでも入って教師に補命されたら、まあ先ず一人前としたものや。信仰と言うよりもその気さえあったらとんとん拍子や。
 その時分は、おさづけを頂いたら一人前やった。そやけど今の一人前とはてんで(全くの意)桁違いやで。においがけして信徒もつけ、部下の助け人衆もあるのにまだようお許し頂けない人もあったくらいや。

 さて後にお願いする人が増えて来て、一日一席3名とお定めになり、次に一日6名ずつおさづけを頂く事になったが、段々と増えるにつれて、一日一席9名となったのや。
 ところがお道はだんだん盛んになって。一日に何十人という人が願い出るようになった。
 そこで、それまではおさづけを頂く時は、それぞれお言葉の違ったおさしづがあって、これを一名1人毎に取次ぎ人からお諭しをしていたのが、それではとてもわたらない(行き届かない)ので、これからは一日に何十人でもお許し頂く代わりに、このおさとしを9回に切って、勤め人衆からさとしてやれとのお言葉によって、9度の別席というのが出来たのや。
 まず9度の別席を運んでいる間に、よくお諭しの理を聞き分け心をつくって、その後、本席様からおさづけを頂くというようになったのやった。

 

 『刻限のおさしづについてお話し下さいませ』

 明治8,9年の頃、父様が櫟本の家からお屋敷へ運んでおられた頃からや。
 ある夜の事、不意に「見えん先の事、見えてない事をひと言うておくで」とおっしゃった。
 その時のおさしづ
  国々所々名称の旗提灯を立てにくるで、立てに来たら世界の人たちが来て評判する、なんと天理さんはえらいものになったなぁと評判するで
それからしばらくして

  国々所々しるしのない所はないやないか、いかにも無い、これは江戸やないか、これは長崎やないか、長崎やのう、これは阿波の国やのう、そうや阿波の国や、それで無い所ないやないか
とおっしゃって、父様はそのままスヤスヤと眠ってはる。
 翌朝になって、母様がこのお言葉や様子を話されると、「そうだったか、ちょっとも知らなかった、けれでも国々から旗提灯立てに来るなんて、そんなことがあるのだろうか」と言ってあきれておられた。
 またある時のおさしづに
  あれは櫟本の高品にいた大工やないか、うん大工や、なんとえらい出世しよったのう、日本で一人やないか、うん一人や、あいだ(常の意)でも黒の紋付を着て、大勢のお伴を連れて歩いているがのう、うちへ行ってみろ、大きな金の火鉢を据えて座っている、なんと偉いものになりよったのう
とおっしゃった。
 神様がお引きになってから母様が、この事を父様に話されると「そんなうまい事を思って、あてにしててはいかん」と言われたのだが、この頃が父様に、神様がお入込になる初めやった。(この時分から、教祖は「ほこりの事は仕事場へまわれ」とおっしゃって、人や物に関するような事は、本席様にお伺いして、その裁決得たと聞く。伊)
 明治20年旧3月1日、本席様になられて後の事やが、
  神は社ともらい受ける
  神の入り込んでいる間は神の心、神が退けば人間の心
とおっしゃったが、また
  席に絶えず神が入り込んでいる
ともおっしゃった。

 刻限のおさしづは、昼となく夜となく不意に、お知らせ下さったり、お諭し下さる神様のお言葉やが、本席となられてからの刻限のおさしづは知っての通り、いつも取次ぎの衆が詰めていて、一言半句も漏らさんと書き取られているけど(永尾楢次郎祖父、上田民蔵先生などはその中でも大の

筆達者だったと聞く。伊)以前のは、ほとんど書き物にされてない事は惜しい事です。
 本席様にお成りになってからは、平常でも黒羽二重の紋付(丸に隅立井筒の飯降家定紋)をお召しになるようになったが、明治21年神道本局天理教教会本部を認可されて、同年10月26日開延式には国国の各名称の旗提灯を立てたのや。こんな事は初めてやから、そのあり様は、夜などはちょうど空が焼けたようで、今よりも数が少ないのに、もっともっと明るかったように思う。
 本席様は、それはそれは大変お喜びだった。

次回はかぐらづとめ・鳴物・雨ごいづとめについての事です。

最後5頁あまりですので、次回で終わりにしたいと思います。

今日出来るかなぁ。、、

・・・・・・・・

昨日、書き換え4の追記を夕方に投稿して、338の閲覧数|118の訪問者でした。

多くの方にご覧いただき誠にありがとうございます。

 おたすけの渦が巻き起こる一助となりますように。。。

 

 

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永尾芳枝祖母口述記。。。「復元」3号(書き換え)4(追記・修正)。

2021年08月09日 17時05分15秒 | 復元 永尾芳枝祖母口述記

今回は、129頁から134頁までを掲載します。

質問形式となっていますので、質問ごとで区切りたいと思います。

前回の続き(128頁)の最後より書き始めます。

今回は、 『ご本席様は大工の仕事をいつ頃お止めになりましたか』『ご本席様とお成り遊ばされた時の御模様をお話下さいませ』という質問ですが、この質問に対する答えというよりも、その当時の様子を話されており、これまた当時のお屋敷の様子、そして教祖が現身を隠された時の様子を知る上にも、とても重要な資料と思われます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 (芳枝祖母の連鎖した話しはここで終っており、次には誰かが質問したのに対して答えた事が書かれている。伊)

 『ご本席様は大工の仕事をいつ頃お止めになりましたか』

 それは教祖のお居間を建てられたのが最後だった。この建物は教祖が「休息所とも言えば遊び場所とも言うで」とおっしゃったもので、これは父様と弟子の音松さんとが建てられたのや。壁は梅谷四郎兵衛さんが左官だから、自分の弟子を連れて来て引き受けられた。

 明治15年の春頃から始まって、16年の秋に出来上がって教祖はここへお移りになったのや。(旧10月26日の夜だったと聞く。伊)
 この頃の事についてだが、以前中山家では祖先伝来の田地のうちで、少しばかり抵当にされていたのが戻って来て、人に貸して小作をさせてあったが、お屋敷へ伏せ込ませてもらった頃から父様がこの田地を引き受けて、暇さえあれば「もったいない、もったいない」と言って働かれた。
 しかし、これは神様の思召しではないので、教祖はしきりにお止めになったが、当時はまだまだ窮乏(きゅうぼう)が続いている事から、父様はお言葉にうなづきながらも暑い日も寒い日も田畑へ出られた。
 ある時などは、身を切られるような寒い日に、その上父様は1時間も経たないうちに、3回も4回も便所へ通うお障り(下痢と思う。伊)を頂きながら、それでも休まず、畑で仕事をされて近所の井口さんという家の便所へ一鍬(ひとくわ)しては走り、また走りするので、井口さんは見かねて「時もあろうに今日のような、達者なものでも堪えられないような寒い日に、具合が悪いのに無理に仕事をせんでもまた明日という日があるのだから、まあ今日はゆっくり休んで薬風呂へでも入りなされ」と言ってくれたが、父様はただ「おおきに、おおきに(ありがとう、ありがとう)」と言って、なお仕事を続けられた。
 お屋敷にいる人の中にも、飯降の家族は大人数で、ことに子供の食いつぶしが多いとか、毎日遊んでばかりいるとか、口やかましく言う人もある。父様は「人を不足にしては教祖に申し訳がない。神様に不幸や」と言うて、身体の悪い時でも休まずに仕事をされていた。けれども、色々言い散らした人は教祖のご在世中に出直された。
 こういう風で、父様は出来る限りに不足させぬように、また少しでも満足を与えるようにと、どんな日でも田畑へ出られたが、一方教祖は父様の働く事がご本意ではないので、時々お身上が迫る事がある。

 教祖は父様が仕事をされるのは、身体を使う事よりも心の苦労が多い事をよくお察しや。神様は教祖のお身上に見せられるのや。
 教祖はお身上が迫ってくるとすぐに「伊蔵さんを呼んでくれ」とおっしゃって、扇の伺いを立てさせられる。また教祖は「さあ仕事を止めてくれ、何もすること要らん。そんな仕事をして居ては、神の用事の邪魔になる。早く止めてくれ」とおっしゃると、お身上が直ちに治る事もあった。
 けれども父様は、実際上どうしようもないので、昼は百姓をして夜は神様のお家形を拵えられるという風だった。
 扇の伺いというのは、最初は23人の人達がお許しを受けたのだが、皆”一名一人限り”と言って、自分の事の他はお伺い出来ないのに、人に頼まれて他人の事までも伺う人がある。それだから御守護がない。まるで間違ったことをお知らせになる。それでせっかく許された扇の伺いも、たいがい教祖はお取り上げになったのやった。


 『ご本席様とお成り遊ばされた時の御模様をお話下さいませ』

 言うまでもなく、父様は、天にも地にも教祖ただお一人を頼りにしておられたのだが、教祖は知っての通り明治20年正月26日の正午にご昇天になった。
 その時の様子をあっさりと(簡略に)いうと、その朝父様は内蔵へ入って扇の伺いをしておられたが、その時のおさしづに、
  ほんづとめせいせい、してもかかる、せいでもかかる
とおっしゃった。

 お勤めをすれば警察へ引っ張られなければならないが、しなくても引っ張られるのだったらお勤めに掛かろうと、みな相談して、甘露台のところへ荒むしろを敷きまわして本づとめに掛かったのだが、警察へ行くどころかちょうどお勤めが終るころに、教祖はご昇天になったのや。
 それから間もなく、旧2月17日(この日、本席様は以前、仲媒(ちゅうばい・仲人)をされた菊池安太郎という人のお祝に招かれて行かれ、酒宴の途中から少しご気分が悪くなったので、お帰りになり、そのままお休みになると、にわかに熱が出てお身上になられたと聞く。伊)の午後から、父様は身上にお障りを受けて、同日の暮れまで寝付かれたのだが、その間の父様の苦しみはとてもとても激しいもので、ことに熱が高くて玉のような汗が拭く暇もないほど流れ出る。その汗を拭いては絞ると、飴のようなものが流れて糸のように引っ張るので、人々はこんな不思議な病気は見た事が無いと言っていたくらいだった。
 そんな中にも神様は父様にお入込になって
  真柱を呼べ、早く真柱をここへ連れてこい
とおっしゃる。
 父様のお障りは熱ばかりではなかった。それはどうにも奇妙な病気で、父様はこの時の事を「あばら骨が一本ずつ、ぶちぶちと折れて、その折れる間に、骨と骨との間に煮え湯が沸いて、しばらくじっとすると、また次の骨が折れてゆく。こうして右がみな折れると、こんどは左もみな折れてしまった。それからコチコチと音がして元の通りにはまっていったが、何ともかとも言われないほど痛かった」と後になって言われたのだが、本当に側にいた私たちにもその音が聞こえたのだった。

 そんな苦しい中にもおさしづが下がった。おさしづの下がる時の父様の声は常よりも強い語気やった。その時のお言葉に
  今や屋形の真の柱を入れ替えたで
つづいて
  これからは黒衣をきせて5人いても6人いても働くで働くで
とおっしゃった。
 23日の夜はことに厳しく、この時のおさしづは
  真柱を呼べ真柱を呼べ
つづいて
  どうしてもいかん、こうしてもいかんといえば、赤衣二つ並べてしまうで
とおっしゃったのだが、それまでにもまだ教長(前管長)さんは来られなかったのだった。
 その23日の夜は、とてもとても心配でたまらず、母様と私は石西さんの風呂へ入れてもらってくると言って、そっと家を出て石西さんの風呂場の隅で泣きながら相談し合って決心したのやった。父様があの通り身上が迫っては、とても3日の日も持つまい。あれほど神様がお呼びになっても、どうした訳か真柱様は来られず、もしもその内に父様が出直されたら、後に残った家族の者などはどうしようか。教祖は「一つの世帯。一つの家内と定めて伏せ込んだ」とおっしゃったけれども、今の状態では案じられる。今更櫟本へ帰ることなどは出来ず、いっそのこと、親子4人(母親と私と妹の政枝と弟の政甚の4人や)河内の国の方へでも行って、乞食をしようとも大和の土地は踏まないでおこうと言って、母子泣き泣き語りあったのやった。

 

 このように言うと、いかにも弱い精神だと思うだろうが、教祖のご昇天になった後のお屋敷というものは人間心ばっかりで、長の年月、教祖ただお一人を頼りとして、またお言葉を信じて連れて通らせてもらったのに、その教祖はこの世のお方ではなく、そんな時にこのあり様だから、とてもとても苦しみはひと通りやふた通りではなかったのや。口ではとても言う事が出来ない。
 この時のあり様を詳しく言えば、人を恨むようになるから言わないでおくが、それはそれは苦しいものやったで。
 それからも度々、神様が父様にお入込みになって「早く真柱を呼べ」とおっしゃるが、どうしてもお越しにならん。とうとう辻忠作さんと桝井伊三郎さんの二人が、どうしてもお呼びしてくると言って行かれたが、やっと前管長さんが来られた。それは3月1日の夜明け頃やった。
 その時のおさしづ
  さあさあ あちらこちら、つまんだようなことを聞いていたぶんには分からんで、これしっかり聞き分けねばならん、神が今に下がる、出るというたところが承知でけまい、紋方の分からんところから神がこの屋敷に伏せ込んだ、さあこの元が分かれば、さあ知らそう、承知でけねばそのままや、さあ返答はどうじゃ、無理にどうせとは言わん
 いかにも承知致しましたとお答え申し上げると、
  さあさあしっかりと聞き分け、今までは大工というて仕事場をあちらへ持って行き、こちらへ持って行った、それではどうも仕事場だけよりでけぬ、・・・・・・・
  今のところの仕事場と言うた事を消して、本席と定めて渡そうと思えども、このままでは残念残念、さあさあ本席と承知がでけたかでけたか、さあ一体承知か

 真柱が「おおぢいの身体は天に差し上げまして、飯降家の家族は、私の家族として引き受けますから、どうぞご安心下さいませ」とお答えされると
  ちょと頼みおくと言うは、席とさだめたるといえども、今一時にどうせいと言うでない・・・・・
  さあ人は変わっても理は変わらん、理は一つやで、これからは別火別鍋
というお言葉だった。
 時は明治20年旧3月1日やった。
 間もなく、父様の身上は元通りに全快されたが、今から40年の昔を思い返すと、父様も色々な道を通られた。
 明治15年旧2月8日、教祖のお側へ引っ越しさせて貰ってから、20年に本席と成られるまでは、一日の日も長い着物を着られた事などなく、いつも窯の側で立ったまま、食事をされたのだった。

この次は、『本席様がおさづけをお授け下さいました最初の事』となるが、一旦ここまでとして、次回は、ここに出てくる「おさしづ」の公刊本を示しておきたい。

明治20年3月11日(旧2月17日)より、明治20年3月25日(旧3月1日)までである。

少しだけ検索をして見たが、大体35件ほどある。とても重要な事を次々と話されていると思われる。

(以下、2021年08月09日追記)

以下に、おさしづを列記しておく。別ウィンドウで開くので、見比べる事が出来ると思う。

本席定まる関連おさしづ 1 明治21年3月11日~15日(陰暦2月17日から) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

本席定まる関連おさしづ 2 明治21年3月16日(陰暦2月22日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

本席定まる関連おさしづ 3 明治21年3月17日~18日(陰暦2月23日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

本席定まる関連おさしづ 4 明治21年3月19日(陰暦2月25日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

本席定まる関連おさしづ 5 明治21年3月20日(陰暦2月26日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

本席定まる関連おさしづ 6 明治21年3月22日(陰暦2月28日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

本席定まる関連おさしづ 7 明治21年3月23日~24日(陰暦2月29日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

本席定まる関連おさしづ 8 明治21年3月25日(陰暦3月1日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

本席定まる関連おさしづ 9 明治20年3月4日(陰暦2月10日) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

 

とても多いので、9頁に分けた。
その内、9頁目は、この3月11日の身上を予言していると思われるおさしづを上げている。

これを見て思われるのは、

「真柱呼んで来い」と何度も言われても、来られなかったわけだが、「明治20年3月20日午前4時 陰暦2月26日」 に「真柱の代理」として伺いをしている点から、身上でありながらも、本席様から出るお言葉は書き留められて、真柱様へ伝えられていると思われる。

No.18 :(1巻24頁11行)
明治20年3月20日午前4時 陰暦2月26日
『真之亮代理伺』
幾重の話聞く。大工というて知ったは神一条、仕事場は神一条、北は鍛冶屋南は大工で、神一条。さあ/\尋ねる処事情知らす。又々心で知らし置く。どうでも皆その日来るなら、働きも十貫目渡るもあり、二十貫目渡す者も皆心次第。これ心尽せし程、目札を付けて渡す。さあ/\付けるとも。刻限事情を知らす。大勢ではざわ付く。誰が筆執れは言わん。さあ/\一人ではよいのやで。大層せいとは言わん。神のさしづ言わん。

ところが、このよしえ様が言われる。「真柱呼んで来い」という言葉は、一連のおさしづには記述されていない。

 

常々私が気になるのは、

「おふでさき」は秀司先生の足の身上を良くしたいという話しがある。

そのために、神のいう事を聞いてくれと言われている。

しかし、秀司先生は、親神様のいう事をそのまま素直には実行されずに、足が治ることなく出直される。

先の飯降家がお屋敷へ入り込むときでもそうであるが、親神様の言葉を素直にすぐには実行されていない。

この点を理解して行くことがとても重要だと思われる。

親神の言葉を告げる人と、それを受ける人、決断する人との意識の差がこうしたところに出て来ていると思われる。

人間の理想と現実。これも当てはまるのかもしれない。

教祖が現身を隠される時の問答からしても、親神様と人間の間に立つ役目である、秀司様、真柱様の苦悩というものは、並大抵なものではないと推察する。

 

おさしづの頁には、おさしづの本を画像にして掲載しているので、色々と研究するための資料になると思う。

 

親神様の思いが世界の人々に伝わりますように。。。

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永尾芳枝祖母口述記。。。「復元」3号(書き換え)3。

2021年08月05日 18時21分50秒 | 復元 永尾芳枝祖母口述記

今回は、125頁から128頁までを掲載します。

警察へのご苦労と共に、お屋敷への乱暴狼藉、また信者さん方への対応などが克明に記されています。

文中に「御供」という語が出て来ますが、「お供え」という言葉もある事から、今ではお洗米を包んで下さっている「ごく」「ごくさん」「ごふうさん」の事と思い、(ごくさん)と書いておきました。

また(・・・・伊)(?為)という表記がありますが、これは「伊之助先生の但し書き」「為次先生の但し書き」だと思われます。

それ以外の( )は私が分かりやすいようにと記しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 その後は毎夜毎夜、警官が止宿簿調べに出張って来たのや。ところが教祖が奈良の監獄からお帰りになる前々日(23日)(?為)の夜父様のでっさん(弟子さん)の音松という者が客人と同じ部屋で寝ていたのを警官が見て「これは止宿簿に記入の手落ちや」と言うから「この者は宅の使用人でございます」と説明されたが、どうしても聞きいれてくれず、翌24日(?為)警察から父様にさし紙が来た。父様は急いで出頭されたが、夕方になっても戻って来られない。皆大変心配して丹波市警察分署へ尋ねに行くと、もう監獄へ送ってしまったという事だった。
 その翌25日(27日ではなかろうか、為)は教祖のお帰りになる日や。私と妹の政枝は梅谷四郎兵衛さんに連れてもらってお迎えがてら父様に会えたらと、みんなと一緒に行ったのやが、監獄では「そんな者は来ていない」と言って相手にしてくれなかった。すると向こうから腰縄付きで警官に送られてくる人を見るとそれが父様や。びっくりしてしまって物が言えない。父様はたった一言「行って来るで」と言われた。私は「うちのことは心配せんと、ゆっくり行ってきなされや」と言ったが、まるで無我夢中で、これも後から梅谷さんに聞いた事やった。
 父様は、昨夜は帯解の警察で拘留されたそうだったが、教祖は朝の8時ごろ監獄を出られ、父様はそれより少し早く9時前に入られ、ちょうど教祖と入れ替わりでやっぱり10日間の拘留やった。
 仏式教会が急に解散されて、教祖が奈良の監獄へご苦労下さった10日間(教祖は12日間、他の人々は10日間、初代管長様御手記による。為)の間というのは、警官の臨検が激しくて、昼は空風呂の中へ薬をいれるかどうか調べにくる。夜は夜で止宿簿の調べに出張ってくるありさまだったが、ちょうど教祖が奈良からお帰りになる日、すなわち明治15年旧9月25日に参拝者の一人が空風呂に入ったところが、きつい薬のにおいがするので驚いて母様に知らせに来たのや。母様はびっくりして早速急いでお湯を捨てられたが、本当にちょっとの間をおいて制服3名、和服2名の警官が出張ってきて空風呂を検査した。しかし薬のにおいがしないので、案に相違した(思っていた事とと違った)ような顔をしていた。実は先に密かに人を使って薬を投げ入れておいて、早速出張って来て検査をして、難題をかけるつもりだったに違いない。警官は「今日は婆さんの帰る日で、さぞ忙しいだろ」と皮肉を言って帰って行ったという事だった。

 そこで、この後はどんな手段、どんな圧制を加えるかも知れないというので、この日の節を限りに、空風呂業を廃業されたのだが、お道を誤解している人たちは色々と警察に讒訴(ざんそ;事実をまげてその人が悪いように訴える事)したりするので、地の人たちの反対攻撃はもとより、時の政府からの圧迫で、教祖や父様を度々拘留して大変苦しめたのや。
 この時分の事を今から思うと、”ようまああんな中を通り抜けたものや”とつくづく思い出すで。
 これからはますます反対攻撃、政府の弾圧が激しくなってきて、松恵さんが出直された時(明治15年旧9月30日)などは警官が出張って来て家族の取り調べをして、中山家と飯降家の家族の他は一人も寄せ付けなかった。ちょうど梶本松次郎さんも来ていたが警官に「お前は何者や」と問われて、松次郎さんは「私は櫟本の親類の者で葬式に来ております」と答えると、警官は「葬式が済んだら用はないだろう。早く帰れ」という。松次郎さんはまた「ご存じの通り飯降さんは拘留されて、(伊蔵様は25日(?為)以来奈良の監獄に10日間のご苦労中であった。伊)家には年寄りや女子供ばかりでございますので留守番しております」とただ頼んでやっと滞在する事が出来たのだった。次におひささんにも「お前は誰や」というので、おひささんは「私は松次郎の妹でございますが、お葬式の手伝いに来ております」と答えると、警官は「葬式が済んだら用はあるまい。とっとと帰れ」と厳しくいうので、おひささんはやむなく帰らなければならないようになった。お政さんは教祖の御長女として特に許され、重吉さんは百姓男といって大罪を許されたのだった。

 なにしろ当時は、中山家と飯降家の家族の他は一人も出入りできず、滞在などはもとより出来ないので、熱心な人達は絶えず逃げ隠れしてお参りしに来たのだった。
 一番心配なのは、毎日毎夜お参りしに来る人を隠す事や。ちょうど中川勘平さんと清水さんの家が表と裏になっていたので、警官が調べに来るとすぐにお参りの人等をこの2軒の家に隠れてもらって、誰も参拝者が無いように見せたのだった。そんなふうやから、ほんのひと言の話しをするにもまるで内密話しをするように、耳へ口を寄せて小声で話し合って、家の中はひっそりとしていたのや。この当時のありさまは、何ともかとも言いようのない程やった。
 明治16年旧4月26日の御命日やった。父様が丹波市警察分署へ行って「今日はひょっとすると参拝者があるかも知れませんから出張って下さいますか」と願い出られると、すぐに制服の巡査が一人出張って来て、参拝者が門内に立ち入らないように見張をしていた。警察からの通達で、参拝者がある事が確かに分かっている日は、こうしてコチラの方から願い出て、警官に出張ってもらう事になっていたのや。
 その折り柄、3,4人の和服の警官が、櫟本の紡績工場(?為)からの帰りかけと言って、酒に酔って入って来て、上段の間へ自分たちが一銭玉をばら撒いて置きながら、それを拾って「この賽銭があるからには、参拝人を引き入れたのに違いない」と言って怒鳴ったり暴れたりして、しまいには御供(ごくさん)に封を付けて、ちょうどその時、教祖のご休息所が建築中だったが、その壁のためにコネてあった泥土の中へ投げ捨てて、三宝などは火鉢の中へ放り込んで焼いて、そのまた火鉢を外へ放り出して、割ってしまうという乱暴狼藉やった。
 あんまりのことに母様とお政さんは「この火鉢は貧乏人飯降の家の後にも先にも無いたった一つの大切な火鉢です。これが割れてはあとにかけ替え(代わりのもの)がありません。どうして下さいますか。あんまりの無茶でないですか。この事を警察の偉い人に訴えますから、名前を聞かして下さい。」と言うと、乱暴を極めた警官もはじめて気が付いたのか「警察から取りに来るまでこの御供(ごくさん)に触ることはならん」と厳しく言って帰って行ったが、酒の上とは言え、乱暴すぎた事に気が引けたのか、その後いつまで経ってもその御供(ごくさん)を取りに来なかった。

 こうゆうようなあり様で、明治21年までというものは御供(ごくさん)やお守りさん(御神符)を隠したり参拝者を隠したりして、警官の眼を逃れたりウソを言ったりするのが大変な仕事だった。警官は毎日毎晩時を構わずに、いつでもくるのだから、本当に心の休まる間というのはひと時もなかった。
 夜明けやらに来ると、まだ床について居なくても寝ているように見せてしばらく戸を開けずに、その間に御供(ごくさん)を隠したり参拝者で泊っている人に逃げてもらったりしたのやった。
 このように、警察の弾圧が激しいのに暮らし向きもちょっとやそっとの困窮ではなく、神様へお供えするお酒などは日々少しずつの賽銭を貯めておいて、当時子供では一番年上だった私が毎日徳利を持って、わずか5銭のお金を握って清水利与門さんの家へ買いに行ったのやった。
 明治21年旧1月26日、教祖の一年祭の日、祭官さんたちが装束を着て今から式に掛かろうという時になって警官に妨げられて、とうとう年祭も勤まらずに終った。

●●●
 (芳枝祖母の連鎖した話しはここで終っており、次には誰かが質問したのに対して答えた事が書かれている。伊)

 『ご本席様は大工の仕事をいつ頃お止めになりましたか』
 それは教祖のお居間を建てられたのが最後だった。この建物は教祖が「休息所とも言えば遊び場所とも言うで」とおっしゃったもので、これは父様と弟子の音松さんとが建てられたのや。壁は梅谷四郎兵衛さんが左官だから、自分の弟子を連れて来て引き受けられた。

今回はここまでにします。

次は、質問に答える話でありますが、飯降伊蔵先生に神様が入られて刻限の話をされた事や、お勤めの事、おさづけのお許しの事など、様々な事が語られています。

一度読んだのですが、今回書換えながら、その時に感じたこと以上のものを頂いている気がしています。

そして、親神様のお導き・御守護を頂くか頂かないか、と言うよりも、親神様は何とかして陽気ぐらしへと導きたいと、身上や事情で印を見せておられても、私たち人間が、その時の身上事情のたすかりだけに囚われすぎて、親神様の仕事(陽気ぐらし世界への段取り)を考えていない事をすごく感じました。

親神様のお働きの一助となりますように。。。

・・・・

これまでのリンクを記しておきます。

永尾芳枝祖母口述記。。。「復元」3号(書き換え)2。 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

永尾芳枝祖母口述記。。。「復元」3号(書き換え)1。 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

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永尾芳枝祖母口述記。。。「復元」3号(書き換え)2。

2021年08月04日 11時52分33秒 | 復元 永尾芳枝祖母口述記

120頁から124頁までを掲載します。

飯降家が教祖のお言葉と櫟本の周囲の人々との板挟みにあい、身上の御守護から何度も心定めをしながらも、その実行がなかなか出来ず、最後には自分の子供の命をも思案に入れて、お屋敷へ入り込まれた様子がありありと書かれています。

書き間違いがあるとも思われますので、お気づきの方がありましたら、コメントでお教えくださいませ。

また海外の方で、自動翻訳で読まれる方も、意味が分からないところがありましたら、コメントでお知らせください。

では、

・・・・・・・・・・・・

 明治5年、父様にとっては当時たった一人の男の子で、私のすぐ下の弟、政治郎が出直した。(7月1日近所の子供と”鬼ごっこ”をして遊んでいた時に、転んで頭を打ち、10日目に出直されたと聞く。伊)一時は父様も母様も大変気を落としておられたが、教祖は「何も案じる事は要らんで。今度は木の芽の吹くように返すで。先に名前をつけておくで。木ではジンほど固いものは無いやろ。”政甚”とつけておくで」とおっしゃったのや。
(この時、教祖は次の事を紙にお書きになって、本席様に授けられたと聞く。伊)

  風よけはできてあれどもしまりなし
   早くしまりのもようするなり
  いつまでも暮らす場所を思案せよ
   心定めて早くおちつけ
  おちつけば着物食い物不自由なし
   早く小人を返すことなり
  この小人こんど返したことならば
   これ日の元の棟梁となる

(現物は見せて頂いたことはないが、もっと仮名書きではなかろうか。為)
 教祖のお言葉に間違いはなく、明治8年12月26日男の子が生まれたのや。教祖は「それ見や。男の子やろがな。先に名前つけたるで」とおっしゃって、お膝の上に抱き上げられ「この子はな、前生は便所の中に落ちたるご飯粒までも拾って、破れ衣で諸国を巡り歩かれた上人さんの生まれ変わりや。今生は一生楽遊びをするのやで」とおっしゃった。(はっきり弘法大師の生まれ変わりとおっしゃたとも聞く。とにかく政甚祖叔父は理のある御魂、またこのお言葉によって、おさづけの理は授けられなかったと聞く。伊)

 それからも父様はまだ櫟本におられたが、不意に父様の眼が一夜の間に両方とも、ちょうど梅干しのように真っ赤になって、大変痛むので、すぐに教祖の許へ走ってお伺いすると、「案じる事は要らん。すぐに治るで。この屋敷へ帰る心にさえなったら何も思う事要らんやないか」とおっしゃった。
 父様も母様も一度ならず幾度も心を定めて教祖のもとへ家族もろとも引き移る決心はして見るけれども、人々から止められたり自分でも迷ったりされたが、思い切ってその人たちには一時逃れの口実に、父様は「何分家族が多いので家が狭くて叶わんし、また金銭にも不自由するので行きますのや。」(一日も早く帰れという教祖のご催促が日増しに激しくなってくるので、伊蔵様も出来るだけ仕事を手控えられ、また日に何度も教祖のもとへ通われるので十分な仕事も出来ないため、事実、家の内は火の車で苦しく、近所の子供たちの不自由ないのと比べて、せめても子供のためにと駄菓子屋を始められたが、――この時、神様がお入込になり、伊蔵様は「せっちん紙(トイレットペーパー)か落とし紙(ゴミ紙)みたいな物を楽しんでいる。そんなもの、外の真中へ持って行って、捨ててしまえ」と言ったと――正直過ぎて月末の支払いを踏み倒されたりして却って借金をするばかりで、止められた事もあったと聞く。伊)と言うと「いや長年住み慣れた櫟本を出て、庄屋敷あたりへ行くことは要らん。あんな庄屋敷みたいな所へ何をしに行かれるのか。あんたは騙されているのや。お金がいるのならお金を出してあげる。家が狭ければ木材をどれだけでも出してあげるから、決して庄屋敷などへ行きなさるな」と、父様にとってはありがたいやら困るやらだが、みんな色々と親切に言ってくださる。そこで「これは神様のお言葉やから」と言うと、「どうでも行くというなら乞食する覚悟で行きなさい。そんなことはさせたくない」となおも止められる。

 父様も、神様の思し召しと義理や人情とに挟まれて、一旦心を定めたものの、また心が戻ったりされたのや。
 ある日の事、櫟本の神田武三郎という人にぜひにと頼まれて普請をしていた時、父様がいつものように手斧で木を削っていると、その木くずが右の足の親指の爪と肉との間に、1寸ほども入ったのや。すぐに教祖のもとへ帰ってお願いすると「案じる(心配する)事は要らんから、早く家族皆一緒に戻って来てくれ、わし一人放っておいてどうするのや。早く帰ってくれ」と前と同様の事をおっしゃって、父様の足に刺さった木くずを引き出して下さると、そのまま少しの痛みもなく助けて頂いたのやった。
 この時も大決心して教祖のもとへ帰らせて頂くつもりだったのが、また一日延ばしになってしまったのや。
 またある時、櫟本の高品という所の染物屋(紺屋の前田清兵衛という。伊)の普請中、今までにない事なのに、足場を踏み外して地面に転げ落ちられた。腰が抜けて自由に動けない父様は、すぐに戸板に載せられてお屋敷に帰ると、教祖は「何も案じる事は要らん。わし一人に任せといてどうするのや。今度こそは皆連れて帰ってくれ」と、前と同じ言葉だった。
 (その後、二階堂村前栽の馬喰という所から、またも普請を頼みに来たのでお屋敷へ伏せ込まれるにしても少しのお金くらいは用意してと思われた本席様は、それをお引き受けになったが、木積もりが、間違ってやり直しをしなければならなくなったりして、かえって300円からの損をされたと聞く。伊)
 その折りから、妹政枝は風眼という眼の病のお障りを受け、弟の政甚はものをいう事が出来ない、どもりとも、おしとも分からないお障りを頂いたのや。7日間ほど病んだだろうか。
 今度こそはいよいよ父様も、どうでも教祖のもとへ帰らせてもらう決心をされると、二人の身上はケロッと助けて頂いた。本当に不思議な御守護やった。

 母様はお礼参りに二人の子供を連れてお屋敷へ帰ると、教祖は「お里さんへ。政治郎ちゃんの事を覚えているか」とおっしゃるので、母様は「はい。覚えています」と答えると、教祖は「覚えていたらいいけれど、これからもしっかりしなさいよ」とおっしゃった。
 なお、母様は「一日も早く教祖のお側へ帰らせて頂きたいのございますが、何分櫟本の人たちがあまりにも惜しがって下さいますので、その親切を振り切るわけにも参りませんので、教祖のお言葉を心にかけながらも、一日送りに日を過ごしているような始末でございます。」と申し上げると、教祖は「人が好くから神も好くのや、人が惜しがる間は神も惜しがる。人からあれは年寄りや怠け者やと言われるようになれば、神も望みはしない。人の好く間は神も楽しみや」とおっしゃった。
 母様は重ねて「何分小さい子供がございますから、子供が成長するまでお待ちくださいませ」と申し上げると、教祖は「子供のあるのが楽しみや、親ばっかりでは楽しみがない。早く帰っておいで」とおっしゃたのだった。
 その頃、お道に対する世間の反対に加えて、時の官憲の圧迫が激しいのでやむなく秀司先生は、人間心とは知りながら、金剛山にある地福寺という寺の住職、日暮宥貞を社長とし、自分は副社長になって一つの仏式教会(転輪王講社と言った。伊)を設けて、明治13年旧8月26日(旧8月18日ではなかろうか。為)に社開きとして、門内で護摩焚きを行い、家の中では初めてのかぐらづとめをしたのだった。このために一時は少し世間の反対も穏やかになったけれど、また色々の事から反対圧迫された。その前(明治9年、なおその前、慶応3年には吉田官領允許願いの事あり。伊)から空風呂と宿屋業をしておったのだが、もとより教祖のご本意ではないが、何事につけても災難が教祖お一人の身にかかるのだから、人間心とは知りながらも手を変え品を変えて教祖の御身をかばおうとされたのや。

 ここで大きな決心をされた父様は、母様に向かって「とても櫟本にいては教祖の御身を守る事が出来ないから、せめてお前だけでも教祖のお側へ常詰させてもらえ」と言って、明治14年11月(旧11月17日)だったと聞く。伊)(「ひとことはなし」の”翁の話”の中には、「明治14年9月頃より里女には子供を連れて屋敷へ来る」とあり。為)母様は妹政枝と弟政甚とを連れて、教祖のもとに帰らせて頂く事になり(この時、里様は48才、政枝祖母は10才。政甚祖叔父は7才だった。伊)父様と私は当分櫟本にとどまったのや。
 そうして父様は、お屋敷へ通う暇に後々の片づけをして、いよいよ明治15年旧2月8日(太陽暦3月26日)すっかり櫟本の家を引き払って、これで皆んな教祖のお側へ帰らせてもらったのや。
 この時、教祖は「これからは一つの世帯、一つの家内と定めて伏せ込んだ、万劫末代動いてはいかん。動かしてはならんで」とおっしゃった。
 明治14年秀司先生が出直されてから(松恵様名義で経営されていたと聞く。伊)一時中断しようとしていた宿屋と空風呂業は、15年4月1日から母様の名義で営業されることになったのだった。
 明治15年旧9月16日、さきに認可されていた仏式教会(秀司先生御出直し後は、松恵様が副社長であった。伊)が、にわかに解散を命ぜられて、その時出張ってきた警官の言うには「転輪王命というような神は絶対にない神や、また神仏混淆はいかん。故に今後はどこまでも圧制してしまえという政府の命令だからそのつもりでおれ。」と言うて、その日すなわち9月16日、早速教祖を奈良の監獄へ引っ張って10日間の拘留にしたのや。(16日に刑事出張し来り、翌17日召喚状を発したるにより、18日御出頭、「ひとことはなし」の”毎日づとめ”参照。為)

以上です。

・・・・・・・

121頁に、

(一日も早く帰れという教祖のご催促が日増しに激しくなってくるので、伊蔵様も出来るだけ仕事を手控えられ、また日に何度も教祖のもとへ通われるので十分な仕事も出来ないため、事実、家の内は火の車で苦しく、近所の子供たちの不自由ないのと比べて、せめても子供のためにと駄菓子屋を始められたが、――この時、神様がお入込になり、伊蔵様は「せっちん紙(トイレットペーパー)か落とし紙(ゴミ紙)みたいな物を楽しんでいる。そんなもの、外の真中へ持って行って、捨ててしまえ」と言ったと――正直過ぎて月末の支払いを踏み倒されたりして却って借金をするばかりで、止められた事もあったと聞く。伊)

と記されている。
明治8年に飯降伊蔵先生は「言上の許し」を頂かれているが、時折神様が入り込まれて言葉を出された事例だと思う。

「改訂天理教事典」55頁に

「明治9年9月、こかん出直し。伊蔵は中南の門屋の普請に掛かっていた。さとは子供の小遣いにでもと小店をだしたが、貸し倒れなどで間もなく廃業。
 この頃、伊蔵はよく夜中に起き上がり、「国々所々名称の旗や提灯立てに来るで。」などと言ったが、自分では覚えていなかった。この前後に、伊蔵は「言上の許し」を頂いた。

と記されている。

ともかく、自分の家業と共に、神様への伺いなど、どのような生活をされていたのだろうかと思う。

・・・・・・・・・

参考までに、飯降家の家系図と、おさと様、政甚様、よしえ様の事を

「改訂 天理教事典」から張り付けておきます。

 

・・・・・・・

次回は、

監獄へ拘留される様子や警察からの弾圧の様子などが、克明に記されています。

今、個人がリアルタイムで発信が出来る時代でありますが、中国共産党の人権弾圧のみならず、権力者が検察などを使って不当に弾圧する情報も出されており、教祖の時代と変わらない事が行われていると思いました。

そして、その不当な弾圧の言葉を信じて、それに加担をする周囲の人々の様子も同じと思われました。

 

陽気ぐらし世界実現の一助となりますように。

 

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永尾芳枝祖母口述記。。。「復元」3号(書き換え)1。

2021年08月03日 10時46分45秒 | 復元 永尾芳枝祖母口述記

8月1日に、一年以上も止まっていた「旧山名大教会史」の書き換えを投稿した。

数カ月前に(「復元」のグループを作る前)この「永尾芳枝祖母口述記」は、ぜひとも多くの人々の目に触れて欲しいと、書き換えを始めていた。

しかし、色々と忙しく、なかなか進まなかった。

昨日一日かけて数頁出来た。今朝も書換えているのだが、右目がどうもゴロゴロする。

全部で27頁ほどある。全部書き終えてからと思ったが、出来ただけ投稿したいと思う。

読み進めると「稿本天理教教祖伝」で疑問に思われていた事が、次々に「そういう事だったのか」と、理解できる。

また、私たちが身上や事情を頂きながら信仰を深め、ようぼくとして導かれるその具体的な事例を示してくれているようにも思う。

書き間違いもあるかと思います。コメントでお教えくだれば幸いです。

・・・・

永尾芳枝祖母口述記   
         『復元第3号 115頁より143頁まで』
  飯降伊之助  

 これは祖母が、誰かの求めに応じて語ったのをその人が筆記したらしいものです。古い一閑張りの文庫から出て来ました。
 『わしは無学やから、本もよう読まんし、字もよう書かん』と、常に言っていた祖母ですが、それだけに記憶力は確かでした。しかも晩年は――女としてはずいぶん多事な生涯を送った為でありましょう――記憶の堆積が多くて錯綜するのか、ちょっとちぐはぐなことも言ったようです。
 これは老境に入る前(老年になっても壮者以上に動いた祖母でしたが)の談話の記録です。
 何の装飾もなければ、美辞麗句もなく、坦々として、ありのままを語っているようです。
 祖母はもっと、大和の訛りや方言で語ったことと思いますが、それは大分改めて書かれているようです。
 祖母が教祖の事を話す時は、にわかに顔の相を和らげてにこにこして語りました。祖母の機嫌の悪い時に出合いますと、機を伺って『教祖のお話をして下さい』と言いますと、『こっちへきい』と言って自室へ連れて行きましたが、もうその時は、今先と打って変わって全く上機嫌でした。
 当時は私も20才前で、十分な心構えもなく聞いていたのですが、今にして色々な事やもっと詳しい事を聞かしておいていただけばよかったと残念に思っています。
 その祖母が出直しましてから、この4月29日は満10年でしたが、偶然それを見だしたのです。あの文庫には色んな書き物が入っているとは母から聞いていたのですが、開けて見たのは初めてだったのです。
 今更私は改めて、祖母の前に手を膝に置いて、その語るのを傾聴した気持ちがしました。けれどもこれ以上の事を尋ねることの出来ないのはくれぐれも残念に思います。
 しかしこれだけの事でも、再びあの一閑張りの文庫へしまい込むのは惜しいと思っておりました。
 それにちょうどこの6月9日は、本席様の40年目の御命日でした。
 なにかしらお手引きのように感じまして、幸い本誌に稿を呈した次第であります。

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 今日は私に、本席様のご苦労時代の事や、色々と聞きたいということやが、まあぼちぼち話しするさかいに落ち着いて聞いてや。
 元治元年の半ば頃、私の母様が流産をしたのや。その後は気分が良くならず、だんだん身の自由も叶わないようになって大変難儀していたところ、小田中村という在所に家伝の産薬を売っている家(木村吉次という漢方医だったと。伊)があると、いう事やので、ある日父様はそれを買いに行く途中、知り合いの永井の大工さん(高ひしの大工か長池の大工だとも言い、また椿尾の喜兵衛という大工だったとも言う。伊)に出会った。
 その人は『伊蔵さん、今日はどこへ行くのか?』と尋ねるので、父様は『実はな、家内が流産して、近頃ちょっと病んでるから、小田中へ産薬を買いに行くとこや』と答えると『そうか、それはさぞかしお困りやろ。けれども産薬よりもよく利く物があるのや。それは庄屋敷に”おびや神さん”と言って、それはそれはよう利くという話しや。そこへ一ぺん行って見たらどうや』と言うので父様は、早速その足で庄屋敷へお参りしたのやった。
 これが、父様のおぢばへ帰られたはじめや。
 父様はすぐに教祖にお目にかかると(一説にはこかん様のお取次ぎともいう。伊)教祖は「よう帰って来てくれた」と喜んでくださった。父様は「私の家内が流産の後わずらいで、大変困っておりますので、どうか一日も早くたすけて頂きたいと思ってお願いに参りました。」と申し上げると、教祖は「何も案じる事要らんで、すぐにに良くなるで、さあこれ(じきもつの御供やった)を頂きや。これは三ぷくあるから、一ぷくずつ3日に頂くのや。無い寿命でも心次第で踏ん張ってやるで」とおっしゃった。

 父様は喜んで帰って、教祖のお言葉のままを母様に話しすると、母様も大変安心して「心次第で、無い寿命でも踏ん張って下さるなら、どんな心でも定めさせてもらいます。」と言って、頂いて来た御供をその場で1ぷく頂き、あとの2ふくは、1ぷくずつ2日間で頂いたところ、4日目には久しぶりに床から起きて身の自由が叶うようになった。鮮やかな御守護や。
 早速その日の午後、父様は、母様を連れて教祖にお礼に参られた。(時に本席様は32才、里様は31才。伊)
 この時、教祖は『おもわくの大工が出て来た。八方の神が手を打ってお喜びになっているで」とおっしゃった。
 それから父様は絶えず教祖の元へ通わせてもらうようになったが、その頃は神様と言っても、中山家の残った建物の三尺の床の間に御幣が一本立ててあるだけだった。
 そこで父様は、教祖に『このようなありがたい神様を、このままではもったいないと思いますので、別に神様をお祀りするところを拵えてはどうでしょうか。私は大工でございますから、普請はどのようにでもさせて頂きます。』と申し上げると、教祖は『大きなものは要らん。1間四方のくらいの小さいもので良いから拵えてくれ』とおっしゃった。
 いよいよ普請にかかりはじめられた。(元治元年9月13日がチョンの始め。伊)
 この時、教祖は「これは上段の間の普請とも言えば、つとめ場所の普請ともいうで。この普請は30年目に仕換えるのやで」とおっしゃったので、父様は「30年目には、きっと建て替えさせて頂きます。」とお誓いして、普請にかかられたのやった。


 その時の木材は、坂(今の滝本や)の大新という材木屋、瓦はもりめんどう(守目堂)の瓦幾という瓦屋から買われたが、もともとから前借りや。その年の暮れになっても、とても払えんので父様は、断りに行くと「正直なあんたのいう事や。いつでも良いわ」と両方とも、心良く承知をして下さったのは誠に結構なことやった。(本席様はこの時の恩をお忘れにならず、質が悪いという評判にも構わず、ご在世中建築の際には必ず瓦幾の瓦をとってやれとおっしゃったと聞く。現存する古い建物の瓦はほとんどそれである。伊)
 さて棟上げの日(元治元年10月26日)当時は余り熱心な人が無かったので、わずか一升の酒も買いかねるありさまやった。母様は、魚を買った残りのたった6銭を持って布留の「みあか」という豆腐屋を本業として酒の小売りもしている家へ行って、少しの酒を買って来て、15,6人の手伝い衆に飲んでもらったが、ちょっと喉を潤すくらいで、中には行きわたらない人もある。母様は急いでもう一ぺん「みあか」へ行ったが、その時は一銭のお金も無い。
 母様は「今あんまり急ぎすぎましたので、お金を持って来ませんでした。後からすぐに持って来ますので」というと、「お金が後なら、よう売りません」と言って、せっかく桝に計って入れた酒を元の酒樽へ戻してしまったのや。母様はどうしようかと思案したが、とっさに思いついて腰の帯を解いて、酒代を持って来るまでの抵当にして酒を買って変えられたのやった。
 当時の教祖のご苦労は、以前から引き続いて並や大抵でなかったのは言うまでも無い事やが、山中忠七さんなどは普請中にも時々お米を2升なり3升なり持って来て下さったが、その普請がすっきり出来上がらんうちに事情が起きて(この事情というのは、ご承知の大和神社事件である。伊)熱心な人たちまで、いづんで(心落ち込んで)、道はちょうど消えたようなもので、誰一人寄ってくる人もないと言ってよいくらいやった。

 その中父様は、たった一人でも踏ん張らせてもらうのやと言うて、それから満9年(もちろんそれからもやが)おぢばと櫟本との1里の道を、日に何べんも通って勤められた。また母様もよく家の事を放っておいて教祖の許へ通われた。弟(政治郎、明治元年生まれ)や妹(政枝、明治5年生まれ)の守りをしながら、私がご飯炊きを覚えたのは7つの時(芳枝祖母は慶応2年8月17日生まれ。伊)やった。
 明治6年頃から、あちこちを力を入れて下さる人が、追々出来て、だんだん結構になって来たのや。
 明治6年(明治8年ではなかろうか。為)私の8つの時や。教祖のお言葉によって、お居間(中居間とも言い、10畳の座敷で、教祖はここに明治16年ご休息所にお移りになるまでお住まいになり、16年から21年までは教祖と入れ替わりに本席様がお住まいになったと聞く。伊)と、窓無し倉とを建てられたのや。
 この窓無しの倉を建てられる始めに、教祖は「一体倉というものは、どこの土地でも皆窓があるやろ。そやけどこの倉は窓無しにしておいてくれ。末では75人の勤め人衆の生き姿をおさめる所やで」とおっしゃった。
 その後、秀司先生のご相談で、空風呂を拵え(明治9年)、続いて内蔵1棟(明治10年)に、二階建(明治12年)を建てられたのやが、このように度々の普請をするにも、今とは違って大勢の大工さんや手伝い衆を雇う事は出来ないから、父様とでつさん(弟子さん)のわずかな人数でかかられたのや。
 これらの普請中、教祖は絶えず父様に「一日も早ようこの屋敷へ戻ってこい。わし一人で困るから早よう帰れ」とおっしゃった。けれども、父様は櫟本や方々に沢山の得意があるので、彼方からも普請やこちらへ来てくれというありさまやから、お言葉を心にかけながら、つい月日を送ってしまったのや。

 以上。119頁まで

以下は、参考までに、記しておきます。

元治1年旧10月26日 つとめ場所棟上げ(旧10月27日 大和神社事件)
明治8年9月に「中南の門屋」が落成され、それから明治16年まで教祖はこの門屋に住まわれる。
この頃、飯降伊蔵、言上の許しを頂く。
この明治8年6月29日(旧5月26日)ぢば定め。
この明治8年9月27日(旧8月28日)こかん様お出直し。

と「天理教事典」にある。また、

※上記の記念建物の案内図で、建物の位置関係が分かると思われるが、
2のつとめ場所は、最初の大きさではなく、明治21年にかんろだいを屋内に取り込んだ神殿を増築して、この大きさになっている。

また、1の中南の門屋が、
 明治6年(明治8年ではなかろうか。為)私の8つの時や。教祖のお言葉によって、お居間(中居間とも言い、10畳の座敷で、教祖はここに明治16年ご休息所にお移りになるまでお住まいになり、16年から21年までは教祖と入れ替わりに本席様がお住まいになったと聞く。伊)と、窓無し倉とを建てられたのや。
と言われるお居間と窓無し倉と思われる。

その他に、

明治14年9月 飯降さとと子供たち、お屋敷へ移り住む。
明治15年3月26日 飯降伊蔵、お屋敷へ移り住む。
明治16年11月 ご休息所落成。

と「天理教事典」にある。

 

この後、数頁は飯降伊蔵先生ご家族が、お屋敷へ移り住む様子が克明に記されていますが、次の機会にします。

 

親神様・教祖、どうぞ大難は小難にとお守りくださいませ。

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