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あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

『別席教話の古記録』(書き換え)3完。。「復元」1号。。思った事。

2021年08月21日 08時12分26秒 | 復元 別席教話の古記録

第2稿を一つで投稿しようとしていたのだが、書換え作業中にどうも、ブラウザがおかしくなってせっかくのデータが消える。(ブログの投稿は、ブラウザで行っているため)

このコンピューター上にも親神様のお働きはあると思っている。そこで、消えた部分を再考する事にして、分割して投稿した。

また、ここ数日左足が痛む、別にこれと行った事もないのだが、どうも気になり、ただ資料を提示するだけではなく、私の感じる事を記すことが必要かと思い、少しだけ記すことにする。

さて、先の部分では、

教をする者が、教を外すようになって来ているから入り込んで自由用が出来ない。この度これまでの教えと言えども、今の教えと言えども皆目(別段に)変わった事を教えるのではない。けれども今までの教えは慣れっこになってしまって、神が入り込んで教える事が出来ん。

皆よい心を持って暮らす者が無くなったから、余儀なくこの度元の屋敷へ天下った。

と、世界中にある天理教以前の宗教などの教えについても言及された上で、新たな教えとして始めだした理由ものべている。(ここに「余儀なく」と出てくるが、この言葉はおさしづにもよく出て来て、「仕方なく、どうしようもなく」と理解している。)

この状況は、今の天理教に大いに当てはまっていると思われる。

そのようになる理由は、ここから先の話に書かれてある、応法についてや、講社の意味、そしておさづけの意味合いについてで述べられていると思う。

その外、先の「永尾芳枝祖母口述記」同様に、教祖当時の信仰に自分たちを「復元」する上にはとても重要な資料だと思った。

そして、心して書き換えをやり直した。

書き換えをするほどに、気づきが多くなり、それまでの書き換えでは不十分だった点も見つかった。

『別席教話の古記録』(書き換え)1。。「復元」1号。 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

『別席教話の古記録』(書き換え)2。。「復元」1号。 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

不十分な書き換えだと思うが、皆さま方の参考になれば幸いです。

・・・・・・・・

(26頁より)

 神のさしづ、神の支配と仰るから、この別席順序が始まったからは、足場が無くても(足場はおさしづにもよく出てくる)高いところへ上がる事が出来る。

 神の道は胸三寸、心の道。その中、おうぼう(応法)の道を付け始めた。

応法の道となり、渡りやすくなったら胸三寸の道が切れかける。存命中の苦労艱難の理も失って、誠を付け切る事が出来ない。そこで高いところへ登るために、足場固めをしておかねばならない。

あなた方が所々でお助けをして下さる事も、神様の自由用で、お働きで道がつく。これが無ければ世界の道と同じ事。

そこで心定めと仰るのは、取次ぎ取次ぎと仰る。あなた方がお話を取り次いで下さるのは、教祖から聞いた話である。所々で手本雛形と言えば、教祖を世界の雛形と思わなければならない。

 高いところへ足場も無くて上がるというのは、世界応法の道として渡る事。前から段々の順序で、今日、別席も運ぶに違いないて・・・・年は5年か7年か尽して下された事は、神様皆お受け取り。(意味がよく分からない。)

 「我々が9度呼んだら(運んだらではないか?)神様がおさづけを下さるそうな。このおさづけは、我々が効能を貰った」と思っては徳を失う。今一時は助け一条のために下さる。やれやれという心になっては、さづけを頂いてから気がゆるむ(4)。

やれやれは油断の理。お道はやれやれという心にはなれません。我々はお道について、三年五年以前に初めてお話を聞いた時に、この世での良し悪しをさんげもした。それからこちらへ(今日まで)は神様のご恩を果たして来ている様には思うが、神の話を聞けば今一代のことではない。そうしてみれば今一代のさんげはしても、以前の理はどうも謀りがたない(考えようがない)。そうならば今日まで三年五年の間、人のために尽したと言っても徳を積んだのではない。今までの恩を返したか、まだ返さないのかも分からない。

そうしてみれば、おさづけを頂いたのは徳で頂いたのではない。これから例え一命がすたろう(亡くそう)が、どんな事があろうが、これからはあくまでも道のために奔走させてもらうという心で通らなければならない。

 この話の聞こえない所(伝わっていないという意味だろう)といえば、どこへでも、海山越してでもかまわない。身の続く限り、心の及ぶ限り行って、取り次がしてもらわなければならない。

草山を地ならしてして種を撒く。撒く種はみな生えて、みな実ると言えば誰でも皆撒くだろう。けれど撒いただけでは実りを取る事は出来ないだろう。

 六月の炎天下に草取りをする、これを修理という。これ炎天下に遊んでいれば楽であろう。けれどそれでは草山になってしまうだろう。そこで段々と百姓一年の楽しみ(一年の楽しみとは、収穫の事と思う)があるから、草取りをして修理をするだろう。又この修理をするばかりではならないだろう。肥を置かなければ十分な(実り)とはいかない。

 神様の道もこれと同じ事で、あなた方がにをいがけに出て下さる。どんな悪人でも話の理で感心する。その心誠を撒く、その種が生えるというのは講社ができた事である。講社が出来ても反対が起きる。その講社は理が分からなければいづむ(落ち込む)。いづましてしまうような事だったら雑草のために、しこらしてしまう(田畑を造るという意味と思う)ようなもの。

そこであなた方は、それを進んで、反対のある、行きにくいところであれども、そこを行くのが、これ百姓が炎天下に草取りに出るようなものである。

悪と言えども悪にも強けりゃ善にも強い。修理は百姓の理を言う。百姓の理から考えたら同じ事や。「天理教はよい教やな」と、世界の人からいうように説いて下されば、又講社の人には、段々と教えの深いところを仕込んで下さる事は、これが修理で、田の草を取ったのも同じ事。

 第一に先立つは旅費を使う。これ肥を百姓が置くようなものである。この度、段々と道を通さしてもらって、尽す運ぶ旅費というものは、これ皆自分の力で尽してくれ、人の物を持って尽しては、肥金を人に借りておいたようなもの。平常節倹(節約)を第一として、それから理を出して通って下さるなら、一粒万倍の理に返えすと仰る。

よく教祖が仰ったが、「世界でに一厘の銭を与えても、敷居の下から帰れといって、やる人もある。これがおかしい」と仰った。そりゃどういうものなら(……)。


 あなた方も段々と尽す運ぶというが、「我々も徳を積ましてもらう」「教祖の大恩送らして貰う」と思って尽して下さらなければ、ただの付き合いである。負けん気で着いて来たのでは、真実が薄い。
どんな人でも徳をかえしたい者はないが、そこの運ぶ事情が、崩して行くようになりやすい。その心、どうなろうともどうなってもと、と思って尽しては、徳を崩す(5)ようなものや。

 これは、あなた方がお話を伝え下さるお方ですから、尚も踏み(6)違いの無いように通って下さいと、これまでの世界の教えも、「教えは良くても教えを説く者が通らないから、理が消えてきた」と仰る。

 そこでそうゆうようにならないよう。

 教祖のご存命中は十分心の定まった「命張っても」と言う者でなければ、ついて通る事が出来なかった。そこで教祖が存命の末方(教祖が現身を隠される前当たりの意味だろう)に、皆おさづけを頂戴しました。人間心は神の足場。

 神様のお話は老若男女の隔てはない。誠の心を定めたら同じ理を渡すと仰る。けれども年寄りの人はお話の取次ぎは楽であるが、少ないもの(若い者)が年の行った人に取り次ぐのは難しいものである。神様のお話は変わらないけれど、聞く人の心持ちが違うから難しい。なぜならば、年の行った人は経験があるし、少ないものは経験が無いから人が信じてくれない。そこで難しい。

 お道は「どうせこうせえ(あれをしろこれをしろ)」と言わないけれども、お話を伝えて下さるあなた方であるから、何分お道は固く尽すお方は、なお尽すようにしてもらわなければならない。「尽すのに、まだ尽せ運ぶのにまだ運べといわれる。どういうものであろう」というのは、心の浅い付き合いのお方のいう事。

 まあまあ人間同士でも、子供が覚えれば覚えるほど、何もかも仕込む。覚えない者は仕込まない。結構やな。

 結構であると思えば十分尽せる。お道は「上になるほど難儀(7)する」と思うようなのは、世界並みと言おうか、誠に浅い浅いものである。

 あなた方がご奔走下さるのは、根に肥を於き、又通って下さるのは(……)

 上の方も下の方も共に心を合わせて通るのは、銘々に「これだけの徳を積ませて貰おう」と思うて通らにゃならん。

 親が手を引いて上がれば、どんな高い所でも恐き危なき(こわきあぶなき)はない。けれど、それまでに待ちかねて、駆け上がるような事をするから転げ落ちなければならない。

 不足をつけないよう。不足は思わず知らず出るで。

 心定めのお話、心定めは「足場のこしらえ(足場を作る)」という。

 人間を神様が道具に使って下さる。一度使って捨てる道具もある。日々使う道具もある。一度使って捨てられるような道具にならないよう、いついつまでも使ってもらわなければならない。

 (註)(一)この社という字は不用とも思われる
    (二)この「へ」は「を」の誤と思われる
    (三)こうげき即ち攻撃のこと
    (四)気が「ゆるむ」の誤と思われる
    (五)「くずす」と読すべきであろう
    (六)「うみ」は「ふみ」の誤と思われる
    (七)難儀

 以上二つの稿を掲載したがこれ等を通じて文字の用い方は総て原文そのままとした。但し先に述べた如く変体仮名は総て通常の平仮名を以て書き直したことは印刷上止むを得ない所である。(書き換えをしているので、このようにはなっていません。長谷川)句読点は総て筆者の加入によるものであつて原丈には全然かかる点は顧慮されていない。読み下しの便宜上かく訂正したのである。しかしながら各段の区切は全く原文通りにしておいた。これは稿者の記録し方のそのままの姿がしのばれて興味あることであらう(これも書き換え上変更してある。長谷川)
 その他筆者の筆による変化としては次の諸点がある。
 括瓢( )の中に記してあるのは筆者の加入。

 円印〈 〉は原文にはあるも不要だと思はれるもの及び原文にはあるも判読出来ないもの。
 左の言葉は下欄の様な文字で原文に書かれてゐるものが多い。
   ございます   ムます
   下さる     被下
   ……は     ハ…………
   ……を     ヲ………
   ……ます    升
 この二つの稿は略々内容が同一のものを骨子としていることは一読して察しられる所であらう。第一稿が第二稿よりも短いのは記録が不備に終つた為であると思はれる。しかし両者共後半には断片的な言葉が記録されているのみである。これは稿者の速記がつづかなかつたことを示す。かくして十分まとまつた記録とは申せないであらうが、しかしかなり参考資料として役立つことは疑ない、筆者の想像をたくましくすれば、恐らく稿者はかかる不備の記録だったため、浄書するに到らなかつたのではあるまいか。更に機会を改めて同様な記録を繰返し、しかる後にまとまつた稿として作成する意図ではなかつたのであらうか。 ともあれ別席教話の一定になつた最初の頃のその内容を伺ひ知るよすがとしてしみじみとした懐かしさを抱きつつこの二稿を味わいたいと思う。
                         (21、1、13)

・・・・・・・・

ここまで、書き換えをして、全く、ここで話される通りだと思います。

けれども、私自身が十二分に誠の心が使える者ではないので、

親神様の思いに沿った、誠の心が使えるように心したいと思います。

 

また、このお話しは、当時別席を聞かせてもらった人への話であります。

注意しなければならない事は、当時は今のように「別席の誓いの言葉」を読むだけで聞かせて頂けたのではありません。

「永尾芳枝祖母口述記」で書かれていたように、おさづけが始まった時には、いただける者頂けないものがあり、頂いた後にお取次ぎがあったのです。

それが別席制度が出来、今とは違い、「十全の守護」や「八つのほこりの説き分け」の試験があり、それに合格した者が、別席を受ける事が出来たのです。

また、別席の話にしても、取次ぎ人がそれぞれに話しをしていました。

それを後に、親神様からのおさしづで別席台本を制定して、統一化されたのが今のお話しです。

 

こうした変遷を考えますと、今の別席のお話しはどんな人が聞いても無難なお話しと思えます。

ここに書かれてあるお話は、先も申したようにとても厳しいお話です。

この差がどうしてあるのかという事も、考える必要があると思います。

 

教祖が渡された「肥のさづけ」では、「肥まるまるのさづけ」「半肥えのさづけ」があったと聞いています。

(記憶だけで書いていますが、教祖伝にあったと思います。)

これは、それぞれの行い、心に応じて渡されたと聞きます。

 

さらには、つとめ人衆を決める時に、菊の紋を作り、幼いたまえ様から渡された話があります。

この時、身上になって私は持てないと思って、返しに来たら身上が良くなったという話しもあります。

つまり、すべての人が同じように出来る。同じようにしなければならない。と思う事は違うと思います。

 

それぞれに、陽気ぐらし実現への役割があり、それぞれの魂、徳分、いんねんによってその役割に当てられている。

そして、その役割を通して、それぞれの悪いんねんを白いんねんに切り替える道を歩んでいる。

とそのように思うのです。

 

「私には無理、出来ない」というのではなく、「私にできる事はなんだろう」と考えて、行動する事が大切だと思うのです。

何よりも、誠真実の心になる事。

そのための日々の修行ではないでしょうか。

 

親神様・教祖、どうぞ、陽気ぐらしに向けてお導き下さい。

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『別席教話の古記録』(書き換え)2。。「復元」1号。

2021年08月20日 11時05分22秒 | 復元 別席教話の古記録

前回第1稿 

『別席教話の古記録』(書き換え)1。。「復元」1号。

 を投稿したが、どうして、PCのデスクトップにファイルがあったのか思い出した。

昔、ホームページに出していたのは、字だけを新字体にしたもので、今回出したのは後2年半ほど前に、書き換え始めたものの、意味がつかめずに書き換えが途中で止まっていた物であったのだった。

その意味が分からなかった所は、今回の『第2稿』に出てくる。そして今回見直したところ、理解できて書き換えをしている。

一応、そうしたところや、特段気になったところには下線をつけておいた。

また、註1では「社」について削除とされているが、「おふでさき」を考えると、教祖のみならずつとめ人衆などの体を社と考える事も可能と思われて、そのままで書き換えをした。

【第二稿】(25頁まで)

 どなたもこの別席のお話はお聞きの方もございましょうが、前に変わった話でございません。心定めのお話を段々代わり代わりさしてもらうのでございます。

 所々でご奔走下されて心定めのお話を申します。その心定めのお話は何分一時にはゆかん。

それぞれに私心を沸かして日々に知らず知らず心を沸かす、そこでまた日々に我がと我が心から招いているようなもの、その招いている事を知らず刷らずで、その場で起こったように思う。なるほど「その場で起こったという、成るという」は、これを神様はどうもいじらしくて見ておられんと仰る。

 日々に知らず知らず暗がりを走り歩いているような者を、黙ってはおられないと仰る。この理をどうもいじらしくてならん。人間を創ってから、何不自由無いようにしてあるこの人間である。

 身上が壮健であっても日々に与えがなくて難儀不自由する者もあれば、日々与えがあっても身に不自由不足があって難儀する者もある。これはどちらも不自由でならない。これを勝手気ままな心を持って通るから、元々無い人間・無いところを初めた元なる親で、元なる親が元人間初めた屋敷へ天下りたので、ただ一名一人の真実の心を受け取りってどんな働きもする。

 身の内は神様がご守護下されているから社(1)は神様の物。人間が日々支配をさして貰っているには違いない。成程という、かりものの理も分かる。日々理が分かればいかなる守護もしよう。

この度の道をつけるのは、心通りという神の望みという、この度の思惑があって道をつける。人間の真実これが望みや。真の心の理を受け取って自由用をする。

これまで神が人間に入り込んで教えてきた事を知らずに、面々が考えてしたように思って、はびこっている(のさばっている)。これが残念でならん。

教をする者が、教を外すようになって来ているから入り込んで自由用が出来ない。この度これまでの教えと言えども、今の教えと言えども皆目(別段に)変わった事を教えるのではない。けれども今までの教えは慣れっこになってしまって、神が入り込んで教える事が出来ん。

皆よい心を持って暮らす者が無くなったから、余儀なくこの度元の屋敷へ天下った。教祖が第一のひながた、教祖を(2)神の社と貰い受けた。元々人間初めた時の深き理があって、真心が天に通じて天より神の社に貰い受けてのお話、ほこりがつもっているような者に神様が入り込みそうな事はない。この話は無理にどうせこうせと言うのやない。

 今まで人間の通って来たあり様も、証拠なくして用いはしない。今度の証拠も話し通りに致したら、いかな自由用もする。これが証拠。無理にどうせと言うのではない。

自由自在に出来たのなら、人に助けの理を力だけやるのやで。今までの道とは違う。この度は言葉の理を守ったら、力と助けと共にやるのやで。お道はお助けいただけば、自分の助けの段取り(助かった方法)を人に伝える。助かった話を聞いて人がまた助かる。助かった話をすれば助けるだけの力が出来ている。

 なかなかどんな結構なお話を下されても、長く容易な(たやすい)事で人が用いなかった。元人間初めた結構な屋敷が現れても、皆敵(かたき)のようにする者が多い。お道は苦労の道を先に通らにゃならん。

子供がこの屋敷へ寄り来て、何も知らずに、魂の内へ無理やりに帰ったようなものであるその者には、心にたんのうさして返すのやで。寄り来る者は四方正面という。

 どんなに悪く言って来ても一寸もその者の事を悪く言うのやない。この事を詳しく聞いたならばどんな者でも着いて来なければならないようになる。知らないのだから、これは無理はない。

この話をどんな者でも小口から守れば何にも言う事ない。

神が入り込んでどんな自由用もし、段々年がたつその上に、色々勝手気ままの事をして、生れ替わり立ち替わりして難儀不自由で通らねばならん。又そこそこの心を持って通っている者もある。

 そこで人間には、高い低いが出来たけれども、神の目には高い低いはない。我がと我が心より難儀の道へ入ればどうもしようがないと仰る。

 教祖をあちらこちらへ連れて行って懲らしめるという。色々様々な圧力の中を、教祖がなされた数十年のご苦労は、ご婦人の身の上であるのに、監獄のアラムシロの上でご苦労下されたのは一度ではありません。又夏の炎天にご苦労下された事も度々である。人間の浅はかな姿をかるしめた(軽く見た)のや。誠といえば一時守る者はない。そこで無理はない。

 人間が我が子を育てるのも同じ事。親が苦労艱難と言えば、言うに言えん苦労もしなければならん。親が着なくても着せて通る、その親の苦労を子は何と思うか。子供は何とも思いはしようまい。子供は親を恨むであろう。

親の心によって子供に物芸(習い事の意味だろうか?)を仕込むについては、親が食べずとも食べさせて、苦労するであろう。これは親のためか、子のためかよく思うて(考えて)見よ。これも同じ事やで。10人育てても10人すべてが思うように行くものではない。

 身の不自由、難儀。今来て今なったように思う事が、どうもいじらしくて(けなげであわれで)ならん。親の家を、尻向けて出るような者もある。親のいう事を用いる者は杖柱として何時いつまでも親が付きまとう(連れ添う・寄り添うという意味だと思う)

その子供が成人の後、人の中で踏みつけにされてから思い出す、親の事を。これは後の間(後の祭りの意味に思える)であろうがな。

親さん(教祖の事と思われる)が艱難苦労された時に攻撃(3)した人は、今は、真実の人と、これをあほという人とがいる。なれども、なれどもその中を、日々年々月々と教祖が身の行いをしてお通り下さるから、世界が関心をして世界の教えといえども、話は良いが行が出来ん。

そうすると今度は自分が楽どころではない人によっては、「あれだけの教えをして」と自ら日々教えの行をする理を感じて、道についた人もある。

なお言うに言われない事は、今日では教会もあり、職もあり、心は安心で通れる。なれどその自分(教祖の当時)は何の名所も無きゆえ、なかなか(人が)寄り付く事も出来なかった。その中の苦労艱難を思ってみよ。道すがらとなった教祖のその道中を暗がりの道という。

 「この度、身を隠して道を早くするで」と仰る。教祖が、人間の目に見えないけれど、「存命より一層厳しく早く道をつけたい」と仰る故に、本部も直ぐに出来、より来る人も心懸かりない(心配ないの意味と思う)。またそれぞれお助けに出るのにも教職を拝命して、公然と出来る段々の道がついて(出来ての意味と思う)来ました。

 この屋敷はどんな事も人間心でしてはならん。この屋敷は神のさしづより外に理はない。

・・・・・・

ここから先の書き換えをしていたのだが、どうもブラウザの調子がおかしい、折角書き換えをしたものが消えて、やり直しとなる。

そこで、今回はここまでとする。

この後は、別席の事について、応法の道について、おさづけについて、おたすけについての話と、今の私たちが聞いているような安易な話ではない。

教祖がお付け下された、誠の道を受け継ぐために必要な事が言われているように私は感じた。

医者が見放した身上を御守護頂く事は、親神様・教祖のお働きを頂くしかない。

そのために必要な事、必要な精神を培う事も大切な事だと思う。

 

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『別席教話の古記録』(書き換え)1。。「復元」1号。

2021年08月19日 08時37分12秒 | 復元 別席教話の古記録

『復元』創刊号から、「別席教話の古記録」を、昔書換えてあったので、数回に分けて投稿しておきます。

これは、別席のお話をメモしたもののようであります。

完全な物ではありませんが、その時のお話の様子なりを身近に感じる事が出来ると思います。

先ずは、諸井慶徳先生の言葉からとなります。

◆◆◆◆◆◆

別席教話の古記録

諸井慶徳

『復元』創刊号p1631

 別席の創められたのは明治21年8月6日の刻限御はなしを転機としてであることは略々明らかであるが(1)、これが更に制度らしくなって来たのは明治21年1225日の「御本席身上の伺」に於けるおさしづによるものであり、然〔しか〕も現行の如く、九度の別席を運んでおさづけを頂くようになったのは、翌明治22年3月21日のおさしづに続いて同年3月26日の「取次中当番を定める事の願」をした後、会議の結果決定したものである(2)。

 ところで、その別席における教話は何時頃から一定されたものであろうか。これも既に知られている如く、明治31年5月12日夜「昨日辻留菊身上願ひより夜ぶかといふ御指図に付願」に引続く「日々のあたへ配与方の願」に於ける刻限の結果であると思われる(3)。

 これらの事柄については、既に考証せられているのでここでは格別に触れないことにする。

 しからば、この明治31年頃に於いて略々一定のものになった別席の教話はどうゆう内容であったであろうか。これは興味ある問題である。そうした内容を窺〔うがが〕い知るべき資料はないものであろうか。こうした思いでいた際、それに該当するらしい政一伯父の筆録の2書が見出されたことは望外の喜びであった。ここにその内容を広く同好の士に味読して頂ければ幸いである。

 この二つの筆録は、政一伯父遺墨〔いぼく〕の筐底〔きょうてい〕から発見されたものであるが、最近に到るまで十分眼がとめられなかった。それはこれが全く走り書の程度の断簡であったからである。

 政一伯父の各種の筆録は既に先年「正文遺韻」として出版せられたところであるが、これにも別席記録の一節は掲載されている(4)。しかしここにあるのは稿者自ら別席漫筆〔まんぴつ〕と称するごとく、それぞれの先生の話について二三の特徴ある要点を書き記したものに過ぎないのである。これも一つの資料としてもちろん多大の価値は有するとしても、別席の教話として一貫して速記せられたものではない。この点今度新たに見出されたものは独自の価値を持っている。何となればここには別席の教話がその始めから記載せられているからである。

 もちろんこれも二時間の教話を残らず記したものではない。分量から推察してこのことは自ら明らかである。しかし、それはそれとしても、かなり委〔くわ〕しく記している点はやはり得がたい記録に違いない。この点は予〔あらかじ〕め了解せられねばならない。

 この原文は明治33年前後に書かれたと思われる、35年頃には稿者は既に病のため床に就くようになったことと思い合わせ、この他の事情を考えるとほぼこのことに間違いはない。ここに別席教話の一定化せられた明治三十一年以後の初期の資料として確認せられるであろう。

 原文は、画用紙のごとき厚紙を数枚仮に綴じて作った故人手製の筆記帳へ、鉛筆で書き流してある。故人自分の手控え程度のものである。正文遺韻に収められているものは総て故人が手製の罫紙に墨書をもって清書されていた稿であるが、これはそれ等に反して全くの下書きであり草稿である。しかも鉛筆のくずし字体で速記的に走り書いてあるものであるから、かなり読み解きにくいものである。かかる点から考慮されて、即ち一つは余りにも下書きであり草稿であること、他の一つは容易に読み下し出来ぬこと等々から、結局正文遺韻には掲載せられなかったのである。この点正文遺韻の補筆という意味も兼ねて本稿をあえてする所以〔ゆえん〕である。

 原稿の体裁をついでながら言えば、縦19糎〔センチ〕横28糎半の大きさの綴り帳で第一稿のものは2枚綴り、第二稿のものは8枚綴りである(5)。前者は後者よりも更に一層細かい字で書き記されている。しかし何〔いず〕れも綴り込み全紙数を費やしているのではなく、この2稿が記されているのは前者においてもほとんど一枚の裏表のみであり、後者に於いても4枚の裏表だけである。(6

 以下その本分を示してみよう。

  註(1)白藤義治郎「御本席によりて授けられたるおさづけ考」日本文化第1358頁~59

   (2)前田道治「お授けの歴史的考察」日本文化第1568

   (3)前掲書70

   (4)別席傍聴漫筆「正文遺韻」272頁~292

   (5)ここに第一稿、第二稿という名は筆者の仮称に過ぎない

   (6)その他の紙面には余白の外に、他の断片的な記載があるがこれは今は触れない

 

【第1稿】

 どなたもこの別席のお話はお聞きのお方もございましょうが、別にかわったお話をするではございません。あなた方が国々処々でお尽くし下さる心定めのお話を、かわり/\さしてもらうのでございます。

そこで心定めというても何分一時にはいかん。一度や二度聞いた分にはわからんから、かわり/\てお話をさしてもらう。

日々にこれまでというものは、皆それぞれにわたくし心をわかして、知らず知らず勝手気ままの心を出して天の理を曇らすから、憂い災難、病気病難やさまざまの難儀不自由がかかって来る。知らず知らず我が心から災いを招いているのである。これを今までは、ただ一時その場でなって来たように思って「ああどこそこへ行かねばよかった。ああこうせねばよかった。誰それがこうしたから、誰それにああせられたからこんな事になった。」とその場でしてその場でなったようにみな思うている。

「これがどうもいじらして見ていられん」と仰る。何も一時なるではない。今まで通りた理が、出て来ていかなる事もなってくるのである。それを知らんから人を恨んだり、憎んだりしている。

これは暗がりの道で、その場でなったように思っている道である。日々は人間身の内へ神が入り込んで自由に道を走っているようなものである。(しかしこれを知らずに暗がりの道を歩んでいるので、)これをどうも黙ってはいられんと仰る。

そこで神様は「無い人間拵えて自在をさし、何不自由無きよう万物皆与えている」と仰る。その与えに高い低いの隔ては無い。なれど日々与えありても身に不自由不足ありては難儀する者もあれば、又身上は壮健でも日々与え無くして難儀不自由している者もある。これは、「皆面々の心の運び方、日々長い間に通って来た心の理が知らず知らず天の理に背いて来たからそこで重い軽いも高い低いも自然/\に出来て来た」と仰る。

そこで、この度これが気の毒であるから話一条の道をつけてきた。この話の理が分かって成程と思うて、今までと心入れ替えて付き来るならば、大難は小難、小難は無難と心相応心通りの働きをして、いかな守護もせんとゆわん。だから、心の理を入れ替えるなら話一条で自由用という。

それ無い人間無い世界初めたもこの屋敷から初め、またこの度あう人間に珍しい道つけるのも、この屋敷から元なる親が天下っていかな話も皆して聞かして下さるのである。

これまでのいかなる教と言えども、やはり神が人間に入り込んで教えて来たのである。だから、みないかな教えと言えども、悪気を進めるような教えはない。しかしこれを知らずに、皆銘々に自分が考えて教えをするように思うて、口には教を布いてもこれを守らず、自分から外すようになっている。

だから、そこでこの度元なる親が天下って、段々と元のいんねん・人間身の内神の守護・神の自由用をお説き下されて、口と心と行いとが違わんように、話通りの道を通らんならん。

そこでどうせこうせ言わん、誠真実を定めて付き来るならば、いかな自由用もするで、いかなる事も「これかなわん」とはゆわん。「これ助けん」とはゆわん。心の与え通りの守護をする。

なれど神の方にはどうせこうせは言わん、願いがあれば分かるように話し、一通りしておいて、後は一名一人の心通りであると仰る。その心の理によって神が働くので、決して人間が人間を助けるのやない。

この度この話が違わん証拠に、いかな自由用もしてみせる。今までも証拠なくては人が用いない。じゃから証拠にいかな働きもしてみせる。さあこれを見ていかな者でも得心せよ。神の守護でいかなる事もなるのや。

それ人間が人間助けるなら、どういう事でも出来るであろう。よう世界でも言うであろう、医者と言えば病気助ける看板上げている。病気助ける看板上げているくらいなら、人を助ける者が、他人のみか我が身も助かりそうなものや。なれどいかなる利巧発明な医者と言えども、薬が無くば誰一人も助ける事は、これ出来ようまい。

そこでその人より、これ皆元は神様の守護で出来たもの。いかなる利巧発明剛的たる者でも、神の守護が無くしてはどんな事も出来るか。神が守護して働けばこそ、何よの事も皆出来るであろう。それを「皆俺がする。俺が物や」と思って気まま、癇癪、得手勝手を言うたりしている。

さあ、この度人間が自由用しているのか、神が自由用しているのか、これをよう思案してみよ。人間が勝手に自由用しているなら身上不足になって、難儀不自由するものもなけりゃ、又その日/\に困って難儀不自由する者もあるまい。いかほど剛毅剛敵で「俺がどうするこうする」と言うても、神が退けばどうしようもあるまい。いかな者でもどうしようもあるまい。

それでも尚、神の目には可愛い一杯、助けてやりたい一条である。けれども、我がと我が難儀の道に入れば、どうもこれは余儀なき事情である。神の目には高い低いの隔ては無いが、知らず知らずして、悪気に悪気が重なりて、生れ替わり出替わりして、ほこりを積んで、これまで通りて来た理の曇りがある。理の曇りたところへは入り込んで神が自由用する事が出来ん。そこで身に不足という、あちらが不足になり、こちらが不足になる。あれも外れ、これも外れとなり、自分の思うことも立たず、心で思うても自由用する事でけんから、又不足を供えて、不足に不足を重ねて通らにゃならん。

(以下断片的に記してある)

 

丁度ゆわば人間は、

この度の話一条はこの世始めのお話

教祖様は第一世界のひながたと成りてお通り下された

もとなる深きいんねんの理があって万事お話下さるのであります。

この結構な屋敷も結構なお方もわかりませんから

身びいき身勝手のものがこの話聞けば勝手が悪成る先

人を倒したならば自分が倒れるようになるで

それだから程ほど様々な悪い事を言いはやす

段々とご苦労遊ばしたというは右の道

一寸聞くとすれば人間を始めて下された親ならば、この様なものその場で口が利けんようか、足が動かんようかなりそうな者やというけれどそうや無いで、人間の親子の情を思うてみよ、

それを世界にわからんから暇いると仰る。

註(1)国々処々と書くつもりの所である、かく読むべきであろう

 (2)災いの誤りと思われる

 (3)だまつて即ち黙ってと読むべきである

 (4)稿者は「難儀」と書く所を「難義」と省略して書いたものか。

 今回はここまでとします。

次回は、2稿とまとめの話です。

教えを求める参考になれば幸いです。

 

親神様・教祖どうぞ結構にお導き下さいませ。

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