あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

押せるのは、ひっぱる働きのお陰。。「おうとのべのみこと」

2021年12月15日 20時56分26秒 | おかきさげ

数日前からずっとこの事が頭の中で巡っている。

以前から思っていたのだが、確証となるものが見当たらなかったので、保留にしていたのだが、今日それがまとまった。

まず、親神様(天理王命)の守護には、引っ張る働きがある。

姿は「くろぐつな(黒蛇)」、神名は「おうとのべのみこと」、方角は「西」、天では「宵の明星・明けの明星(金星)」

そして、人間生まれる時には「子供を引き出す働き」、農作物・虫から動物に至るまで背が伸びる・成長するのもこの「引き出しの働き」と言われています。

引っ張る働きの反対は、押し出すと思ったのですが、その押し出すという働きが、十柱の神様には無くてずっと不思議でした。

私の周辺では押す事の方が、引くよりも多く目にしており、押すことが主のように思えていたのです。

 

ところが、先日パワーショベルを見ていて、油圧を思いました。

油圧は、油を押すことによって大きな力を出します。

 

けれども、この油圧、圧力をかける元はと考えると、引っ張っているのです。

シリンダーのピストンにロープをかけて引っ張ると、それによって中に圧力がかかるのです。

その圧力を油を介して他のピストンへ伝えて、強い押す力を出しているのです。

元は引っ張る力だとその時思いました。

 

人間の身体を見ても、筋肉は引っ張り合って、縮むことで動きます。

だから、動く元は引っ張る力が元だと思ったのです。

お産も、子どもが出ることを思うと、押し出されてくるように思えますが、今言った筋肉の収縮で押し出される事を思えば、引き出しのお働きなのです。

 

けれども、今一つ得心がいきませんでした。

それは、木や骨などの硬いものが立っていう場合はどうかと思っていたのです。

 

それが、今日、得心した事でした。

これは、地球が引っ張ってくれているから押し合えると思えたのです。

地球に引力がある事は、今では周知の事実です。

この引力によって引っ張られているから、ものが立ち、それが斜めになれば倒れ、それを支えるものがあれば、それらは押し合うのです。

この地面と物とが引き合わなければ、物はずれて支え合う事も出来ないのです。

 

もう一つ細かい所へ目を向けると、全ての物は分子で出来ているという事も、これも周知の事実です。

この分子、そして原子と電子。

これらを模型で見ると、丸いものの間に棒があって、押し合っているように見えますが、反対に引きあって一つのものになっています。

地球と月・太陽・金星・木星等などすべては、引き合って一つの惑星・銀河系・宇宙全体が作られているのです。

この引き合うバランスが安定しているかどうかで、さまざまな事が起きてくるのです。

 

地球上での硬いものに話しを戻すと、

引き合う分子が細胞となり、その細胞が引き延ばされて、増えて、固く安定したので、固い木や骨になったと言えるでしょう。

それが一つの支えとなり、引く力を押す力へと変換する道具となったと言えるのです。

 

そしてもう一つ、引力も引く力ですが、それに逆らって植物は育ちます。

これがまた、目に見えない引く力・働きです。

引力を超える引く力が、植物が育つ上には働いているという事です。

だから「おうとのべのみこと」は、農業の神様としても言われると思うのです。

 

また、これも、先ほど言った地球という土台となる、大きな引く力があればこその話なのです。

こう考えると、すべての力の元は、引く力。

「おうとのべのみこと」の働きです。

 

ところで、もう一つ、これは沢山おたすけをされた人の助け話に出てくることですが、

この「おうとのべのみこと」の嫌いなほこりの心遣いは、「こうまん」であるとの事です。

 

どうして、そのような悟りになるか、考えて見るのも良いかと思います。

 

今日はここまでにします。

何かの参考になれば幸いです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アクセス解析。。から振り返って。。。心の成人。。支配から導へ。。

2021年11月30日 09時34分04秒 | おかきさげ

このブログの、アクセス解析を何気に見たら、

タイトルに「心の守り、身の守り」が。。。この時に話したかった事。

この記事だけが表示された。

読み返してみると、2020年04月22日 16時39分28秒 | 思った事

去年の4月に書いたものである。 

思い返せば、一昨年の2019年11月 愛知一斉団参をした折に北礼拝場でおさづけを取り次がせて頂き、不思議を見せて頂いてから今日まで、不思議の連続である。

まぁ。このブログを見れば、私の人生そのものが不思議の連続のようなものと言えるだろうが。。。

もし、あの団参で不思議を見せて頂かねばと思う事が何度もある。

それは、社会の動きと親神様の思召しのはざまに立つ時である。

どちらを取るか決断を迫られるのである。

信仰するのにしても、ワクチンにしてもしかりである。

この4月に書いたものは、お守りの話から、梅谷四郎兵衛先生の「お守りはいらぬ」と教祖に言われた根拠から、教えのを守る事の大切さを伝えたかったのであった。

世間ではまだまだ、医者薬を頼りにしている。

医者薬は先日書いたと思うが、修理や肥なのである。

自分たちの身体の状態を知る事。植物や動物と同じように自分たちも作られている事を知る事が、最大の目的であろう。

それを理解できたならば、これら体を借りるために必要な心について考えるのが、次の段階だと思えるのだが、どうもそこへはなかなか行けないようである。

心通りの守護である。

心について研究せねばならないだろう。

ところが、心を操る、洗脳という方向へ行ってしまっているようである。

洗脳と心の成長とは全く異なるものなのだが、支配したいという欲望から、教え導きたいという愛情へ成人しない事にはならないのかもしれない。

お道のお話は奥が深い。

(とても簡単に、仮名の教えとして誰でも分かるように書かれているのだが。。。上面だけで分かった気になってしまい、深いところまで分かろうとしない人間の浅はかさも、近頃特に感じている)

これを説けば、万巻の書になると教祖は言われた。

世の中には様々な教えがあり、様々な事が説かれているが、「おふでさき」を読んでおけば良いと言われたところの意味が最近分かって来たように思う。

これを知っていれば、どんな話を聞いても、迷うことなく意味を理解し、それに対応できるという意味に思えて来たのである。

天理王命と言えば神名である。様々な神と同じように思えるが、親神様といえば様々ある神の親であると分かるだろう。

元なのである。

元を知っていれば、理解できて、正しい事、間違っている事の分別が出来るのである。

しかし、元を知らず、自分たちの考えから出発するから、間違っている事を正しいとして、どんどん悪事を重ねる人も出てくると思う。

もう一つ、「親神様」の親から、親になる事を学べと言われているように思う。

ただただ生んだだけでは親とは言えないのである。

特に、生物の頂点に立ち、生物を思うがままに出来る知恵を授かった我々人間は。

と思えるのである。

小説を書き出して、親神様の苦労をすごく思うようになった。

今日も一日楽しんで生きたいと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「おふでさき」は、「みかぐらうた」の後。。。

2021年10月10日 09時42分49秒 | おかきさげ

「おふでさき」の冒頭の8首は、「よろづよ八首」であることは、だれでも知っている事であるが、

「よろづよ八首」が、「みかぐらうた」の一番最後に出来た事は知っているだろうか。。。

まず、「よろづよ八首」と「おふでさき」を記しておく。

《第四節》【よろづよ八首】
よろづよのせかい一れつみはらせど 
むねのわかりたものはない

そのはずやといてきかしたことハない 
しらぬがむりでハないわいな

このたびはかみがおもてへあらわれて 
なにかいさいをときゝかす

このところやまとのぢばのかみがたと 
いうていれどももとしらぬ

このもとをくはしくきいた事ならバ 
いかなものでもこいしなる

きゝたくバたづねくるならいうてきかす 
よろづいさいのもとなるを

かみがでゝなにかいさいをとくならバ 
せかい一れついさむなり

一れつにはやくたすけをいそぐから 
せかいのこゝろもいさめかけ

(なむてんりわうのみこと)(よしよし)

 

【おふでさき】
1号 72才老女 明治2巳年正月従  

よろつよのせかい一れつみはらせど
むねのハかりたものハないから (1-1)

そのはづやといてきかした事ハない
なにもしらんがむりでないそや (1-2)

このたびハ神がをもていあらハれて
なにかいさいをといてきかする (1-3)

このところやまとのしバのかみがたと
ゆうていれども元ハしろまい (1-4)

このもとをくハしくきいた事ならバ
いかなものでもみなこいしなる (1-5)

きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
よろづいさいのもとのいんねん (1-6)

かみがでてなにかいさいをとくならバ
せかい一れつ心いさむる (1-7)

いちれつにはやくたすけをいそぐから
せかいの心いさめかゝりて (1-8)

だん/\と心いさんてくるならバ
せかいよのなかところはんじよ (1-9)

このさきハかくらづとめのてをつけて
みんなそろふてつとめまつなり (1-10)

みなそろてはやくつとめをするならバ
そばがいさめバ神もいさむる (1-11)

「おふでさき」は、その後のつながりが分かるように、11首まで書いておいた。

次に、作成順を示すために、「改訂天理教事典」の年表を示しておく。

慶応2年(1866年)に第一節「あしきはらいたすけたまへてんりわうのみこと」が教えられる。

慶応3年(1867年)にみかぐらうた「12下り」の歌(正月から8月)と手ぶり(以後3か年間)を教えられる。

そして、

明治2年(1869年)におふでさき第1号を(正月)に、 第2号を(3月)にご執筆になる。

明治3年(1870年)に「ちょとはなし」及び「よろづよ八首」を教えられる。
このちょとはなし」は「かぐらづとめのだし」として、「よろづよ八首は12下りのだし」として教えられた。
だしとは、出だしという意味で、その事により、12下りの前によろづよ八首が歌われている。(かぐらづとめの順序については、今回は省略しておく)

「よろづよ八首」の意味が分かりやすいように、次に「おふでさき註釈」を記しておく。

よろつよのせかい一れつみはらせど
  むねのハかりたものハないから ( 1号001)

  註釈 1
親神がこの世を創めてから永い歳月の間には、幾億という数知れない人々が生を享けて来ているが、いつの時代を眺めても、広い世界の中に、たれ一人として胸の分かった者がない。

そのはづやといてきかした事ハない
  なにもしらんがむりでないそや ( 1号002)

  註釈 2
それも無理のない事で、今までこの真実の教を説き聞かした事がなかったから、止むを得ない事である。時々その時代の聖賢を通じて説き聞かした事はあるが、是等は総て時宜に応じた神意の現われであって、最後のものではない。これは、未だ旬刻限が到来しなかったからで、止むを得なかったのである。

このたびハ神がをもていあらハれて
  なにかいさいをといてきかする ( 1号003)

  註釈 3
しかし、この度こそはいよいよ旬刻限が来たので、親神である天理王命が、この世に現れて、親神の意中を万事詳細に説き聞かそう。

註 このたびとは、天保九年十月二十六日、旬刻限が到来して、教祖様をやしろとして、この教をお始め下さった時をいう。
 神がおもていあらハれてとは、教祖様を親神様のやしろとして、即ち、教祖様のお口を通じて、親神様のお心を、世の人々へお話下さることをいう。

このところやまとのしバのかみがたと
  ゆうていれども元ハしろまい ( 1号004)

  註釈 4
ここは大和のぢばのかみがたであると言うているが、何故ぢばがかみがたであるかという元は知るまい。

 しバは、ぢばで、親神様が人間を最初に宿し込まれた所、即ち、我々人間の元の親里を指す。
 かみがたは、神館の詰まったものと解す。

このもとをくハしくきいた事ならバ
  いかなものでもみなこいしなる ( 1号005)

  註釈 5
大和のぢばがかみがたであるその元来の訳を詳しく聞いたならば、どんな人でも自分達の元の故郷であるぢばが慕わしくなるのであろう。

きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
  よろづいさいのもとのいんねん ( 1号006)

  註釈 6
この根本のいわれを聞きたいと思うならば、尋ねて来るがよい。この世の成り立ちを初め総ての理を詳しく教えよう。

かみがでてなにかいさいをとくならバ
  せかい一れつ心いさむる ( 1号007)

  註釈 7
真実元の親神がこの世に現れて、無い人間無い世界を創造した親神の恩ちょう、たすけ一条の道を詳しく説き聞かしたら、世界の人々の心は、真実の教によって皆いそいそと晴れやかになる。

いちれつにはやくたすけをいそぐから
  せかいの心いさめかゝりて ( 1号008)

  註釈 8
たれ彼の差別なく総ての人々を、一日も早く救けたいから、親神の胸の中を悟れるように世界の人々の心を勇ませる。

註 以上八首は、「みかぐらうた」の「よろづよ八首」にあるものと殆ど同じである。ただ「おふでさき」に於ては五七五七七となっている和歌調が、「みかぐらうた」に於ては五七五七五となっている。

 

と、示されている。1下り目が「正月こえのさづけはやれ珍しい」と始まるわけだが、不思議な農作物の豊作、そして助けを表す話が出てくることと、そのためにおつとめを勤めさせたい思いが、次のお歌から出てくることを思えば、よろづよ八首が12下りの出しとして、はじめに歌われる事も理解できるように思う。

次の3首も記しておく。

だん/\と心いさんてくるならバ
  せかいよのなかところはんじよ ( 1号009)

  註釈 9
世界の人々の心がだんだんと勇んで来るならば、煩もんしたり焦ったりするような心持は無くなり、皆が、互い扶け合いの精神で、各々自分の仕事に励むようになって来る。従って親神もその心に添うて守護するから、世の中の生産は豊かになり家業は繁じょうして、何処へ行っても争いなどは無くなり、人々は平和に幸福に暮らせるようになる。

註 よのなかは、よんなかとも言われ、豊じょう満作の意。

このさきハかくらづとめのてをつけて
  みんなそろふてつとめまつなり ( 1号010)

  註釈 10
これから親神は人々にかぐらづとめの手振りを教えて、人衆そろうてつとめをするようになるのを待ち望むのである。

註 かぐらづとめとは、かぐらづとめでかんろだいを中心にして、元初まりの十柱の神様の理をたたえて、十人の人々によって奉仕するおつとめであって、このおつとめによって親神様にお勇み頂き、済世救人のお働きをお願い申すのである。
 このおつとめは又、場所の上からかんろだいのつとめとも、又、神人共に勇むという理の上からよふきづとめとも、又たすけ一条のつとめである上からたすけづとめとも仰せられている。(第六号30註、第十号25-27註及、第十五号52註参照)
 このおつとめは、ぢば以外に於ては許されない。「おさしづ」第391-392頁、第405頁参照。)

みなそろてはやくつとめをするならバ
  そばがいさめバ神もいさむる ( 1号011)

  註釈 11
人衆そろうて一日も早くかぐらづとめをするならば、親神は人間の実の親であるから、子供が喜び勇む有様を見ると親心として親神の心も勇んでくる。

と記されている。

「おふでさき」は、読まねばならぬが、「みかぐらうた」はいつでもどこでも唱えて、踊る事も出来る。

「よろづよの世界一列見張らせど、胸のわかりた者はない」

である。

胸が分かるようにしてやりたいのが、親神様の思いでもあろうかと思う時、「つとめ」と「原典」に親しむことで、成人の歩みが進むのだと改めて思った。

「人が神やで」とも聞かせてもらう時、それぞれに親神様は入り込み、導いてくれているとも思う。

 

今朝のおふでさきが、一号の最後の区切りだったことから、このような事を書いた。

悟りばかり。。。である。

 

今日も一日頑張りましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日投稿した「逸話編」について。。近況から。。思うがままに。。

2021年10月03日 10時00分31秒 | おかきさげ
ずっと気になっていた『逸話編』を投稿しておく。
郡山大教会初代会長 平野楢蔵先生が、おぢば「お屋敷の常詰」になられた時の話である。
 
 
力のある者には、それなりの力のある者が対応する事を教えられているように思う。
「教祖におすがりする」というが、「教祖を身を挺して守ろう」とする心も大切である。
 
これは教祖ではなく秀司様の話であるが、
 
教祖が「そんなところへ願い出に行くのやない」と止められた、金剛山地福寺の時に、「教祖が止められたのだから」と、教祖に反対されても行こうとされる秀司先生に、誰も付き添おうとされなかった。
その中、一人だけ岡田与之助先生が、「わしは、親神様からおしかりを受けてもよい。どうなっても良い。足の不自由な秀司先生を一人では行かせられない」として秀司先生に付き添われた。
 
二人で無事に帰って来られた後、岡田与之助先生を教祖はとても喜ばれたという話しがある。
 
様々な事柄がある。
 
その事柄の善悪もあるが、その善悪の中に親神様の受け取られる誠真実があるという事だと思っている。
 
郡山大教会初代の平野楢蔵先生が「屋敷の常詰」となられた事から、昔聞いた事で覚えている事がある。
それは、本部の境内係の事である。
 
私は今から40年近く前、第2専修科という所に入って、一年間境内係をさせて頂いた。
その頃の境内係は、神殿内で立っている時には必ず靴下を脱いでいた。
 
寒い冬の中でも必ず靴下を脱いだ。
それは、いざという時に靴下では滑って走りにくいからである。
実際に、裸足で走るのと、靴下で走るのとでは、特に畳の上では初動が違う。
 
おぢばはどんな人が来るか分からない。
聖地だからよい人ばかり集まると思う事は間違いである。
いつも書いているが、人間は知らず知らずにほこりの心を積むのである。
そのほこりを払うために、おぢばへ足を運ぶのである。
 
ほこりが払えればよい心で善い行いとなるだろうが、払いきれていなければ、どんな心を使い、どんな行動をするか分からないのである。
 
そうした時に、大切な方々、大切なかんろだいを守らせて頂くという事、そのためには多少冷たくても、裸足で30分立つことが、とても誇りに思えていた。
 
青年会歌に「教祖の右翼」という言葉が出てくる。
この「右翼」という事がには、教祖をお守りし、教えを守るという意味があるように思っている。
 
右翼という言葉が出たので、左翼という事にも触れておく。
 
世の中には左翼「リベラル」という事も言われている。
そうした団体が、自由・平和などという事を言いながら、右翼団体に化けたり、特定の団体を使って暴動を扇動する姿を、アメリカ大統領選挙の暴動の真相について個人が発信する実況を見ながら感じた。
 
自由という事を自分の都合の良いように解釈して、長年親神様が作り育てた秩序を破壊しているように私には見える。
 
これまたいつもの話になるが、「八つのほこり」の後に、「うそと追従これ嫌い」と教えられているのである。
うそをついて、人をだまして、自分たちの思いのままにしようとすることは、親神様の教えの中では、大罪であろう。
「うそをつかない」という事も一つの秩序であるはずである。ところが「うそをつくのも」自由という言葉で肯定して、進めているように思われる。
 
先日「自由民主党の総裁選挙」があったわけだが、あの時のマスメディアの報道が、完全に誘導する報道であった事は、ネットで冷静に情報を集める人々には明確になったことだと思う。
 
テレビしか見ない人には分からない話だが、ネットと両方から情報を得る人には見えたはずである。
これが事実であり、真実である。
 
これまたいつも書く事だが、すべては「かしもの借りもの」で、それぞれの心通りに、与えられているのである。
そうした事実を見て、どのように思い、どのように行動するかを親神様は受け取られて、それぞれに返して下さるのである。
 
ユーチューブがワクチン関係についての批判的な報道は削除すると公表した。
世界中でワクチン接種によっての障害の事例が報告されているが、マスメディアは報道しない。
治療薬についても、「イベルメクチン」が大変有効であるとの、北里大学の治験報告も名古屋で行われたと、ユーチューブ配信された動画に巡り合った。
 
 
ともかく、親神様のお受け取りは、それぞれの誠真実である。
誠をどのように出すか。
それに尽きるだろう。
 
親神様のお導きという観点から見ると、私の周囲は親神様の御守護だらけである。
 
今日は、昨日の支部長会議から、支部例会の資料を作らねばならない。
10年以上使ったICレコーダーが壊れたので、このために買って来た。
 
新型コロナ対策で自由に会えない中だから、よけいにこうした文書での連絡が大切だと感じている。
 
長々と思うままに書きました。どうぞお許しください。
そして、何か皆さまの参考になれば幸いです。
 
親神様・教祖、どうぞ大難は小難にとお守り下さい。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする