あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

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2024年01月28日 13時13分01秒 | 思った事
1月28日
天理教を知っている人で、かんろだいが立てられれば陽気ぐらしになる。かんろだいをなぜ本部が立てないのかという人がある。
 
かんろだいは、つとめ人衆が寄ったら出きると言われてきたが、寄らずにかんろだいの石の没収となり、「いちれつすます」が「いちれつすまして」となり、現在となっている。
 
親神様の望まれる神人和楽の陽気ぐらし世界は、人々の心のほこりが払われて、がとても重要な点である。
 
人々とは、個人それぞれの事である。
人任せではならない。
 
かんろだいを建てる条件を満たすのは、人間の成人が重要であり、親神様の道具衆であるつとめ人衆が、かぐらの人数とてをどりの人数、2下りずつ6交代の他に楽人など、多数の人数が必要と言われているのである。
それも3段にしてと言われる。
 
その人衆も、おやさまお隠れのときの人衆さだめを思うとき、あのような、親神様の心見定めの事情を抜けねばならないのである。
 
正文遺韻を読んで、つとめの人数についての事が出てきたので、思うがままに。。。
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1/26

2024年01月26日 13時14分34秒 | 思った事
1月26日
本部の春の大祭が終わり、名古屋に向かっています。
 
大祭のおつとめ。
先月も感じたが、何だかこれまでと違って、良い緊張感の元、つとめられてるように思えた。
 
詰所にて、同室になった先生と、政治や世の中がどうなって行くかと、トランプさんが大統領になるらしいという事から話し合った。
 
これまで日本のマスメディアでは語られなかった事を、解説しているYouTubeチャンネルを紹介して説明した。
 
理解が追い付かない様子であった。
 
ワクチンについて、免疫が下がって、風邪などに掛かりやすくなってきていると話す方が出てきた。
 
周囲でインフルエンザでもコロナでもなく高熱が出る方が増えてきていて、私もそのように感じている。
しかし、あまりそれに気をとられすぎてはならないと思う。
明るい心になって、親神様のご守護を頂いてほしいと思う。
 
これからは、些細な風邪でもおさづけで助けていただく気持ちが必要だと思う。
 
正しく、おたすけの旬であろう。
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1/26 早朝

2024年01月26日 03時15分40秒 | 思った事
人の口には戸は立てられない。
そして、悪風も良い風も起きる。
 
さらには、人は心に思っていても、言わないことが多い。
そこを知るために、色々と探る人もあり、探らない人もある。
 
歴史を振り返りその当時の人々の思いを探ることも同じこと。
 
行いをつなぎ合わせて推測をする。
 
また、まだ当時のことを知る人があれば、尋ねることはとても重要なこと。
 
周囲の人の目から見て、その人の性格や状況を探る。
 
すると、探る人によって説は異なって来て、幾つもの説が出きる。
 
それが派閥となっていく。
 
宗教ならば、宗派が分かれるのも同じこと。
 
今の世界情勢を見て、解説者によって言うことが違うのも同じこと。
 
今日、たまたま車でラジオを聞いたところ、アメリカの大統領選挙で、トランプさんが人気であることの解説がされていた。
 
バイデンさんの不法選挙や1月6日の議事堂襲撃事件、さらには民主党の息の掛かった人々の発言やマスメディアの情報統制の様子を見て、そして日本での政治家の様子を見た時、これまでの常識では推し量れない事が起きていると改めて思う。
 
そして、よく陰謀論を解く人々が、事件や災害が起きると、誰々の仕業だと首謀者を特定して話をするが、それは個々の意識のレベルになってきているように感じる。
 
つまり、それまでは命令されて実行していたものが、個人の恨みや不安から様々な事件を起こす人が増えて来ているように思えるのである。
 
こうなると社会的に、とても不安定で、恨み辛みの連鎖が起きることになる。
 
「地震、大風、水つきも月日の残念、立腹」と言われるが、こうした人々の重なった恨み辛みをリセットさせて、助け合って生き延びる心にさせようと、親神様が見せられると思う。
 
そして、その残念を晴らすのは、おつとめと教えられる。
かぐらておどりと教えられる、おつとめ。
 
これは元の神様が受け取られる「かぐら」であり「ておどり」である。
 
以前、戦争が起きることをおやさまは予見されていた。と書いた。
また、「おふでさき」にも、「おさしづ」にも、予見された言葉は沢山ある。
 
つまり、起きることは必ず起きると言うことであり、それが「なるいんねん」である。
ただその「なるいんねん」も、心次第で大難にもなり小難にもなる。
 
「つとめに掛かりたるなら」と教えられるので、つとめもその一つである。
 
先日ある人から、先日行われた「ようぼく一斉活動日に、会長からようぼくまて一切出ていない教会があるがなぜだろう」と言われた。
 
その時に私に浮かんだのは、「本部からの言葉が二転三転して信用ならん」と言う意味の言葉である。
 
私も突然の発表で戸惑った。突然方針を変えた説明がなかったからだ。
まったく政府の答弁と同じように感じた。
 
役目がら何とかせねばと、試行錯誤して開催にこぎ着けたが、たぶん。。と思っていた方は欠席だった。
 
思っても言わずに沿う人もあれば、思っても言わずに沿わない人もいる。言うなればストライキである。
 
信仰の世界は、それぞれの心次第。
 
先にのべたように、取り方でどんな宗派も出来るのである。
親神様が道を変えたとして、「いちれつすましてかんろだい」に地唄を変えられた経緯は、反対する警察がかんろだいの石を没収したことであるが、この元は、人間が親神様のお言葉を信じ切れなかった事にある。
 
「反対するのもかわいい我が子、念ずるものはなおのこと、なれどももちいねば反対同様のもの」これは、せっかく頂いたおさづけを使わぬ事についてのおさしづと解釈されるが、おさづけを頂いても、「破れ風呂敷で家に着くまでに落とすものもある」という言葉からすると、おさづけばかりでは無いようにも思われる。
 
「ちょいとはなし」では、「神の言うこと聞いてくれ、あしきのことは言わんでな」と親神様から頼まれているのである。
 
「せよ!」と強制されていないのである。
おやさまの雛形をたどれ!と言われる旬。
 
おやさまはどうだっただろうか。
「おふでさき」は「口では言わんふでさきのせめ」として書かれており、強制されずに自分で悟るようにされた。
おつとめを急きこむにしても、自分の身上を通して、せきこみ。命捨ててでもと心定めた者を見分けて、1月26日の今日のおつとめを向かえるのである。
 
すべては心次第である。
そして、「竜頭狂えばみな狂う」とも言われて、先頭に立つものの心得の重要性も説かれている。
 
天理教はダメの教え。
最後の教えである。
 
それは、それまでに説いてきた教え(占い、医術、薬学、仏教など)のその上に説かれたもの、ひながたを通して誠の心になり、陽気な世界を目指すために、理のことわりを教えたものである。
 
だから、書き物にすれば「万巻の書」となるとも言われる奥深い教えである。
1月26日早朝。
思うがままに。。。
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1/24

2024年01月24日 13時16分32秒 | 思った事
1月24日 祭典が始まる前に。。
今日は幅下大教会へ代参。
 
雪のため一寸不安だったが、思いの外順調に着いた。
 
明日は、詰所のひのきしんに行かれる方を乗せておぢばへ向かう予定。
 
雪で道路がどのようになるか分からないが、成るよう、行くようつとめたいと思う。
 
今日も一日よろしくお願いいたします。
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1/23

2024年01月23日 13時17分12秒 | 思った事
1月23日 午後3時過ぎ
愛知大教会の春の大祭が終わりました。
 
世話人の増井先生がお話しくださいました。
 
先生のお帰りを待っています。
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1/22

2024年01月22日 09時19分35秒 | 思った事
1月22日 朝
昨日は巡教に行かせて頂きました。
 
真柱様の年頭あいさつの全文を元に話をさせて貰いました。
 
帰る間際に、「一信者です」と言われる方から、良かったです。と満面の笑みを湛えて言葉を掛けて貰いました。
とても嬉しかったです。
 
その後、部内教会へおさづけに行き、喜んでもらいました。
後継者の表情を見て、嬉しかったです。
 
今は、昨日客間で貰った宿題で法務局に来ています。
ちょっと時間が掛かりそうです。
 
終わったら、大教会へ大祭の準備に向かいます。
今日も一日、よろしくお願いいたします。
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心建て替えの歩み。。。を。。

2024年01月20日 23時36分47秒 | 思った事

アメリカの大統領選挙の予備選が始まり、80%以上で、トランプ大統領が支持されていると話題になっている。

数年前より、アメリカが弱体化するとの予想が、スピリチュアル系で話題になっており、本当だろうか?と思っていたが、現在正しくそうした事態になり、アメリカに対抗する国々によるブリックスが力を持ち始めている。

このトランプ大統領に人気が集まっている話題が、ようやく日本のマスメディアにも出るようになって来た。

これまで、こうした話題は、日本の主なマスメディアでは発信されず、ネットにて他国の情報を収集する個人が、日本人に注意喚起をするために発信されてきていた。

しかし、こうした発信に対して、妨害するような発信も見受けられて、情報戦が行われている様子がまざまざと感じられ、戦争中と私はこのブログにも書いて来た。

そして、面白い事に、どんな情報でも自由に発信できるようになった「X」(旧ツイッター)を、フェイスブックへ共有しようとすると、画像などのサムネイルが共有されない状況となっている。

つまりは、共有のボタンがあり、共有するウインドウが出て来ても、簡単に情報を共有させないようにしている状況にある。

また、「x」に、投稿に関して注意喚起をする「ノート」という機能があり、これは書きたい人が投稿できるようだが、明らかに妨害をするために書いていると思われるものが存在する。

また、歴史や科学について、重大な発見があったりするものも、妨害する情報を流す事も感じている。

 

こうした状況がなぜ起きるのか。

民衆の意識を、誘導したい。誘導されたくない。という人々がある証拠である。

宗教的な事柄ならば、興味がある人々やそれに属する人々が読めばよい。と放置されるであろう。

ところが、この宗教が政治に絡んで、個人の生活に直結してくるならば、これまた問題に成ってくる。

 

以前より、「ウソとついしょうこれ嫌い」として、ウソをついていたならば、親神様は善としては受け取られない。

ところが、ウソを本当だと信じて、発信する人々もある。

こうした時に、どのように対処するかが、とても問題である。

 

例えば、数年たって姿かたちで善悪が見分けられれば、周囲も分かり、本人も納得できる。

しかし、姿かたちに現れない事(考え方など)は、難しい。

やってみて、不都合を対感じなければ分からないのである。

しかし、これも体感できれば、周囲も分かり、本人も分かる。

この証明をしたのが、トランプ大統領で、不都合を感じたアメリカの人々は、トランプ大統領の言ったことが正しかったとして、今回の予備選の結果となったのである。

これに4年以上膨大な時間がかかっている。

しかし、日本ではテレビや新聞でしか情報を得ない人々、これまでの価値観だけで物事を見ている人々には、このアメリカの状況は理解できずに、ウソにウソを塗り固めて来た人々を信じている。

 

私の周囲にも、そうした人々が多くある。

みな良い方ばかりなのだが、会社など周囲の状況から、意識を切り替える事が出来ずにいる。

 

天理教の歴史と、教えを勉強していくと、いつも書いているように、政府などの上の人々の弾圧を避けるように表向きの対応と、親神様の説かれる神一条の対応との2重の対応をしてきている事が分かる。

しかし、こうした歴史を学ばなければ、表だけの事で、親神様がいんねんを切り替えさせてやりたいと導かれる事柄が分かり難いと思う。

 

いんねんという言葉も、世間の風潮に押されて、言われなくなった時期がある。

チャンと教典にも書かれているのに、恐れて言わない。

これで良いのだろうか?とずっと思い続けての今日である。

 

自分自身の善悪をチャンと見分ける事。

それらを認める事。これがとても重要なのだが、こうまんの心が強いと、自分の悪い性分がなかなか認められない。

そして、「わがみうらみであるほどに」と示されているように、すべてはそれぞれの心どおりの守護なのに、うまく行くことは自分の手柄にして、うまく行かない事は他人のせいにする。

こうした心の動きに気がつかない人々が多いように思える。

 

自分自身が、かつてそうであり、今でも気を許すと、物事を人の性にしてしまう。

これに気がついたから、自らの心を変えるために、態度を変えるように努力をして来た。

子供たちを怒鳴って怒ってきたものを、切り替えたのもその一つである。

すぐには変われないが、時を経て、色々と身上事情を見せられて、徐々に変わって来たと思う。

 

その他にも様々な醜い性分があり、その性分をお詫びするために、何度もおぢばへ足を運んだ。

どうかお許しください。と願うのではなく、何とか変えて下さいと。

 

そうした中に、おつとめが「あしきをはろうて」唱えて、胸を払う手ぶりをする事に気が付き、「神が箒や」のお言葉が胸に治まった。

更には、信者さん方の事情・身上の治まりを願っておぢばへお願いに帰った時に、不思議な身上のお知らせをもらい、おつとめの大切さをも自覚させてもらった。

 

おつとめは、はじめから今のようなお歌と手ぶりを教えられたのではない。

一番初めは、拍子木を叩いて「なむてんりおうのみこと」「なむてんりおうのみこと」と唱えるだけであった。

他の宗教で、神名や短い言葉を繰り返して祈る事を目にするが、正しくそうした事が始めである。

この事は、逸話編でろうそくを半分に切って願っていたところ、なかなか御守護を頂けずに、教祖から「つとめ短い」とご注意を頂いて、線香を半分に折っていた事に思い付、お詫びして改めた話がある。その時がそれである。

その後、狼藉物がお屋敷を荒らして、「あしきはらい たすけたまえ てんりおうのみこと」のお歌を教えられて、今の手ぶりを教えられたのである。

その後、人間宿仕込みの「ぢば」をさだめ、かんろだいを目標に願う事を教えられて、「あしきはらい いちれつすます かんろだい」を教えられて、

その後に、かぐらの出しとして「ちょいとはなし 神のいうこと聞いてくれ あしきのことは いわんでな このよの 地と天とをかたどりて 夫婦をこしらえきたるでな これはこの世のはじめだし なむてんりおうのみこと」を教えらえたのである。

そしてその後に、かんろだいの石が没収され、石工が捉えられて獄中で出直す事となり、「あしきはらい」が「あしきをはろうて」となり、「いちれつすます」が「いちれつすまして」と改めて、人間の救済の方法を変えられたのである。

この事柄を当時の人々は、「神様の模様替え」と呼んでいた。

 

天理教の歴史の中には、何人ものおたすけの名人と言われ、多くの人々を導き、教会の元となり、教祖の代わりに、神様と慕われた人々が多くいる。

こうした人々は、教祖の教えを実直に受け止め、教えられた通りに歩まれたように思える。

しかし、それに続く人々、私もそうであるが、教祖から教えられた教えを伝えられずに、ただおさづけで人が助かる事のみを教えられたり、そのおたすけ人が発した一部の言葉だけを信じて歩む人々も多々あったのである。

そんな未熟な者でも、時折不思議なたすけを見せられて、親神様を信じて歩んできたのである。

 

いんねんを悟れずとも、お詫びを言えずとも、「何とか助かりたい。」「何とか助けたい。」という、一心不乱の願いを聞き届けて、親神様は不思議を見せて下さった。

これは、教祖の歩まれた道を思うと、月日の社となられる前の、何も親神様のお話を知らずに「黒疱瘡」の子供を助けるために、一心不乱に神社仏閣へと願われた事と重なるのである。

 

教祖が「通い帳を見てもならん」と親神様から言われて、筆をもって書かれた「おふでさき」。

自然にひとりでに筆が動いて、後で読み返して意味の分からないところを親神様に尋ねて、入れ筆をしたと言われる「おふでさき」を見ると、陽気ぐらしが出来るためには、胸の掃除が欠かせない事が分かる。

ただ単に、辛い身上が助かること。助ける事が主眼ではなく、心の掃除をする事が親神様の主眼である。

しかし、人間がそこまで理解できずに、今日まで来ているだけのように思えてならない。

 

本当に、自らの心のほこりを掃除したいと望むならば、それなりの動きをしてもおかしくないのだが、そのような雰囲気は感じられない。

 

 

教祖が最後のご苦労、監獄から出られてから、一時期、目も見えず耳も聞えずに、寝床に休まれたままであった。

この時の様子は、山田伊八郎文書に記されている。

この寝床に休まれたままだったのは、親神様からすれば、社の扉を閉めて、不思議な働きを見せるために、世界を走り回っていたのだと、それを読んで理解できた。

その時には、大和のみならず大阪あたりまでも、不思議なお助けが次々と現れて、毎月の月次祭には人がどんどんと集まるようになってきていたのである。

そして、参拝者が増える中、警察を恐れてお屋敷ではそれを断る事におわれ、親神様が「おつとめをせよ」とわれる言葉もなかなか実行できず。するとまた教祖の身上が悪くなり、床に就く、そして親神様にお願いをする。という事を繰り返していたのである。

 

誰しも、神様に願って、人が助かれば、これほどうれしい事は無い。

どんどんおたすけに出かけたいと思うものである。

ところが、この不思議な助けが現れるのは、親神様が働いてこそなのだが、それを自分の手柄と思い違えて、教祖の説かれた事と異なる事を言い出す者も出てくるのである。

これの最初が、針ケ別所の助造であるが、教祖が現身を隠されてからも、そうした者たちは次々と出てくるのである。

そして、様々な人間思案で、様々な事情が起きてくるのである。

 

そしてまた、教祖が現身を隠されて、警察からの干渉が無くなったと思ったところ、当時の上の人々と、親神様が説かれる教えとの食い違いから、弾圧される事となるのである。

 

親神様は、陽気ぐらし実現のために、心のほこりをはらい、心の成人を望まれている。

しかし、世界を見ても、まだまだ物に囚われて、心の動きにまで目は向いていない。

スピリチュアル系でようやく、心の動きを波動と言う言葉で表して、明るくしようとしているが、それはまだまだ個人のレベルで、人のためにという心の動きまで説く事は見受けられない。

しかし、人のためにと動く人々によって、世界の情勢は変わりつつあるが、大衆にはまだまだそうした心は届いておらず、それがために政治や医療などの変化が遅いように思われるのである。

 

心の問題は、他人がどうしろと言って変わるものではない。

それぞれが気がついて変わるものである。

三才までの子供は、親の言われる通りにする。

何の疑いもなしに。

しかし、それを過ぎると、自分が出てくる。

この自分が出てからが重要である。

自分を自分で育てる必要があるのである。

 

これをしなければ、子供を育てる事が出来ないのである。

自分は好きな事をして置いて、子供は他人に任せる。

もしそんな親がいたならば、それは本能のままに生きる動物と変わらない。

 

人間には知恵があり、その知恵を育てる事が重要なのである。

この知恵が良い方へ向くか、悪い方へ向くかで、その人の人生は変わるのである。

その経験が重要なのである。

 

生まれ変わりを説かれて、前生どんな人間だったかと思案する時、

「前生見たけりゃ、今世見よ」と昔は良く言っていた。

今世現れている事から、前生を悟れという事であり、それは貸し借りの考え方から悟る事を教えられていた。

 

これをしっかりと心に治めて、どんな苦しい中も、たんのうして、人助けに心した人々が、大きな教会の元となった人々である事からも、この考えはとても重要な事だと思う。

 

真柱様が、年頭あいさつで、教祖140年祭に向けて、年祭当日にどれだけ成人で来たかと思えるような歩みをして欲しいと言われたように私は思った。

信仰も代を重ねて、すでに前生でお道の話を聞き、それなりに通った人々もあるだろう。

また信仰はしても、心得違いの道を歩まれた人、

さらには反対攻撃をした人々もあるだろう。

また、すでに前生でひながたを歩んだ人もあるだろう。

それぞれによって、現れている姿は異なり、

ひながたを再度通る人、その次のひながたの道を通る人もあるだろう。

そして早く悟りのつく人、つかない人の差もあるだろう。

 

そう思う時、すべての人々が同じことをするという事は、難しい時代であると私は思う。

それぞれに、教えを聞き、それぞれの心に留まった事を心に定めて歩んでみる事。

ただ考えるだけではなく、考えた事を実践する事が何よりも重要だと思うのである。

 

「心定めてついて来い。末は頼もし道があるから」

 

これまで何回年祭活動をして来た事だろうか。。

と思い、これまでを振り返ると、その時その時で異なる事をしてきた。

そしてその度ごとに学びがあり、それが今の私の思案の糧となっている。

 

「喜べば喜びの理が回る」と聞かせてもらっても、喜べなかった自分が、今は何を見ても「ありがたい」と思える事が、何よりもありがたい。

思うがままに。。。

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1/20

2024年01月20日 17時47分52秒 | 思った事
1月20日
逸話編に、種を売り歩く人の助かった話がある。
この話のなかに、「色々と遠回りして。。ここには皆おいでになるのに」という話がある。
 
この人は、信心深く、助けて貰うのに、色々な神社などを巡っていた。その中に、おやさまの話を聞いて、お助けを願われた時の話である。
 
この「皆おいでになる」という言葉を、若い時は沢山の人々が参詣する。と思っていた。
 
しかし、十柱の神様がおやさまに入り込まれ、親神様のとして働かれているということ、また、神社仏閣を参るときには、天理王命の神名を唱えるようにと言われた話、また元の理の話をこうき話で掘り進めると、人間が沢山集まるという意味ではなく、すべての神様の元になる十柱の神様がおられて、どんな守護も出来ないことはないと言われる意味だと思うようになった。
 
「おふでさき」を読むと、月日が「一の神様」として、「あとは道具」と言われているが、神名を授けられ、人間の成人のために、知恵を授けるために生をうけて功績を残し、神として称えられ社などで奉られた事を考えると、月日様からすれば道具であっても、人間からすれば神様であると思う。
 
その神様たちが集い、かんろだいを中心に、つとめるかぐらづとめは、とても重要な意味があると思う。
 
そして、かぐらづとめとは異なる12下りのおつとめ、これも意味があり重要なものだと思う。
 
人を助けたいがために、年限を掛けて教えられたおつとめである。
思うがままに。。。
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1/19

2024年01月19日 17時48分22秒 | 思った事
1月19日
アメリカが変わると、ようやく多くの日本の人たちも変わり始めるだろう。
 
しかし、神の教えを守ろうとする人と、神の教えに対してそんなことを言っても!と守らない人々の差は必ず出る。
 
これまでの歴史で、その一つが愛町の初代さんだと思う。
 
「私はいんねん深きもの」として、「すべては神様からのメッセージ」としてどんな中も、苦しい中も通り抜かれた。
 
周囲の人々、同じように信仰する人々は、「そこまでする事はない」と、笑っていた。
 
その結果が、初代さんを神として称える程の教会を、社を作り、信心する人々が付いている。
これに対して、当時笑っていた人々の末は、戸惑っている。
 
この姿は、本席様と重なる。
 
また、天理教が神道の一派となり、そこからなかなか独立出来なかったのには、金銭の問題が多大にある。
それは、政府、神道本局より多大の寄付を要求されていたことから分かる。
 
これに対して、おさしづで、「あいそ。あいそ。」と許されている。
 
許されてはいても、この「あいそ」という言葉が重要である。
 
面白いことに、愛町その他、地方の教会に人が集まるようになると、教会本部も政府や神道本局と同じことをされていたようにも思っている。
 
親神様は、乞食はささぬと言われて、おやさまとその家族を導かれた。
だから、貧のどん底になって、夜なべもされたのである。
 
また、梶本家へ嫁に行ったおはるさんも、何くれと無く面倒を見られたのだろう。
 
ある時、おはるさんの夫が腹を立てて、「いんでくれ(帰ってくれ)。庄屋敷の偉い者から嫁を貰って大変だ」と言い放ち、その後おはるさんは出直されて、「思うようにしてやった」と親神様から言われ、「切り口上は言わぬよう」と言われる逸話から推察できる。
 
子供が親を思い、世話をすることは親神様は喜ばれる。
 
それもまた、親から請求すること無くである。
 
この時、親から請求すると子供には、嫌々ながらの心が沸くこともある。
 
さらには、その子供の家族の心はまた複雑となる。
その複雑な心の現れが、おはるさんの出直しに繋がり、こかん様の出直しに繋がっていく。
 
話は逸れたが、「あいそ」と言われて、金品の要求に対応された親神様のお心はどんなものなのだろうか?
 
今、世間では、寄付を募りその使い道が、寄付者を騙す事であったことが話題になっている。
 
金に困ると、騙してでもと、親兄弟さえも騙して、その場だけをしのぐ考えだけに陥る。
これは、依存症と同じである。
 
そして、常にウソがばれないかと、心休まる事がなくなる。
 
依存症に対する処置で、「本人が気がつくまで手を出さないこと」、これが本当の助かる元だと言われている。
 
まずは、自ら本当に反省をしなくては変われないのである。
(これは、依存症でなくても、性分を切り替えることについては同じことである)
 
遠くから見守ること、親なればとても辛いことである。
我が子がそのようにならぬよう、親として心したいものでもある。
 
「あいそ」と言われた親神様のお心は、そこに携わる人間たちの心を見定められたと思われる。
 
おやさまに直に接して、日々の歩み方を仕込まれた、郡山初代の逸話のなかに、ご本部へお供えしたかったり、おたすけに行く旅費がなく困ったときに、人に頼むことはなく、周囲の人がその困った顔を見て用立てられたと言うものがある。
 
それまでの通り方から、喜んで出された金品は、真実の心で使われ、その種はまた心から出した人へと一粒万倍となって返ってくるのである。
 
これが理である。
 
ところが、親神様のお話、おやさまのひな型を聞きながら、違うことをしている人が多くあるように思える。
 
思うがままに。。。
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神について

2024年01月18日 06時44分15秒 | 思った事

人間が敬う対象が神であろう。

では、

人間が自分中心の願い。人を殺めても、自分に利を得たい。と願い

それを叶える存在があれば、それはその人間に対して神となる。

 

この人間の心が、人と人が争う事を望まず、自分も他も共に楽しむ事を望み、

それを叶える存在があれば、それも神となる。

 

ここまで極端にならずとも、知識を得たい、力を得たい、物を得たいなどと

人間の望みは様々であり、それを願い、それを叶える存在がその人間の神となる。

 

この時に、神と人間とをつなぐ存在がある。

これをシャーマンとか、霊媒師として来た時代があり、現在もそうした人々が活動する情報も多々ある。

神社の神主・お寺のお坊さんや様々な宗教者もその一端となるだろう。

また日本の神社では、優れた功績のあった人物を神として社を立てて奉ってもいる。

そしてその神々に、人間は望みを願う。

 

願いの叶うものもあれば、叶わぬ者もある。

その差はどこにあるのか。

考えたものはあるのだろうか?と思う。

 

その答えは、その神のみぞ知る。というところだが、

天理教の元の神、親神 天理王命 様は、「誠の言葉しか聞こえない」とも言われている。

 

「誠ならば受け取る」として、助からぬ母親を思う子供の心を受け取って不思議なたすけをいただいたという、逸話編からも理解できることである。

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