あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

旧山名大教会史より 第1篇第2章第4節警察と初代会長1(書換え)。。(原初天理教 表明文書)

2021年08月01日 18時38分55秒 | 旧山名大教会史

丁度一年前の6月から、旧山名大教会史を書換えて紹介はじめた。
そして、この第4節まで来た。これを半分まで書換えていたのだが、警察への「上申書」を書換えながら、とても辛くなった。

なぜかというと、この上申書は、当時説き分けられた親神様のお話を、諸井国三郎先生が直々に書かれて、とても今伝えられている教理よりもとても厳しいもので、自分自身が歩めていないのに。。。という思いが凄くしたからである。

とても読みずらいために、この部分はほとんど読まずにいたのが正直なところである。

その点をお詫びしておきたいと思う。

しかし、先日「復元」のグループを作り、表統領先生の思いに応えよう、これが親神様の今の旬に求めておられることだと、思い定めて「復元」を徐々にスキャンしている。

その中に、4号「原初天理教に於ける表明文書 諸井慶徳」というものがあった。

これは、教祖が現身を隠される明治20年までを原初として、「本教の内容の如何なるものであるかを表明せんが為に、特に対外的な考慮から記された書き物を意味するのである。」と明言されて、諸井慶徳先生が知りえる文書を掲載されている。

リストを記しておく。

1)就御尋手続上申書 山澤良次郎

2)手続書 中山マツエ 母 中山ミキ

3)神の最初の由来 

4)神の古記

5)天輪王講社信心道書抜 諸井国三郎

6)天輪王講社成立ヨリ事状上申書 諸井国三郎

7)最初之由来

このうち6)天輪王講社成立ヨリ事状上申書 諸井国三郎 が、ここに出てくる警察署への上申書である。これがとても気になっていた。

今日は、2021年8月1日 朝三時ごろから目が覚めて、どうも体がふらつく。

ひょっとしたらと、書き換えを始めたところ、スムーズに筆が運ぶ。

半分くらいまで来た。今日はこれから、ご本部へ参拝に行く予定である。帰って来てから残りを仕上げたいと思う。

12時の「新型コロナ収束のお願いづとめ」を南礼拝場でさせて頂いた。

帰って来て、何とか仕上げたが、漢文がやはり難しい、間違いがあるかと思います。
お気づきの点がありましたらコメントでお知らせください。訂正させて頂きます。

また、文中内の、身上の表現は、当時の表現にしてありますので、その点ご了承ください。

参考になれば幸いです。

・・・・・

【第4節警察と初代会長 (その1)】

 ほとんどすべての宗教は、その初期において必ず受難の歴史をもつ。受難は公私より来る取り締まり、嘲罵(ちょうば)あざけり、干渉、圧迫、迫害などである。天理教もまたこの受難の道すがらを免れる事はなかった。すでに前にも一言記したごとく、天理教に対する民衆の嘲罵は、天保9年10月、教祖立教の当時より、すでに表れていたのであるが、これが真っ向から官憲の取り締まり、干渉となって加えられてきたのは、明治7年からである。逐年(年を追うごとに)、「天理王命」の道の伸展拡張するに及んで、干渉、圧迫の度は次第に加わり来り、最初おぢばにのみ加えられた手は、道が近村より大和国一円、さらに近国にまで及ぶに至りては、いたるところに干渉が現れたのであった。ために、おぢばの方々は言うまでもなく、各地の講元と言われる人々、および講社の人などは、伝道の上に、はたまた本教を信仰する上に、実に惨憺(さんたん)たる苦心を払われたのである。

 しからば、おぢばから百里の山河を隔てたる、遠州の地においてはどうであったか。

 ここもまた、受難の道すがらは避けがたかった。左に、当時の模様を略記して、その輪郭を知る資とする(たすけとする)。

 山名郡広岡村を中心として「天理王命」のお道は、放射線状に四方に伸び広がり、村々町々、霊救はいやが上にもあがりくるに及び、講社に加入する者、日に多きを加えるのありようであった。

 これは項を改めて後段に記すことにするが、明治17,8年の頃になっては、後年山名分教会(後に山名大教会)の柱石となって、本教布教のため南船北馬、もって今日の山名の大をなさしむるに、力となった人々が次第に信仰に入り来り、講元の股肱(ここう)、手足となって、布教伝道の上に力を注ぐに至ったのである。これらの人々は、あるいは、講元のひざ元に置いて、あるいはその各自の村に置いて、あるいは他の村に出越して、次第にその家業も放置しがちに、おたすけに上に精進した。

 明治17年の夏、7月のことである。

 講元は、突然見付町の警察署からの召喚に接した。(見付町は下貫名より西方へ約2里)。この時、初代会長は家内の者に向かって、

 「わしは今から見付の警察へ行くが、三日経って帰れれば良し。もし三日経っても帰らなかったら、拘留されたと思ってくれ。」

 と言い置いて出ていかれた。が夜に入って講元が帰宅したので、家族の人たちも安堵の思いをした。その夜講元は、長女のたま女に、背を撫でよと言われるので、たま女は背後へ廻って父の背を撫でていると、背中のあるカ所が、ぶっくりと腫れあがっているのに気が付いた、それでたま女はそのことを話しすると、講元は、

「渡辺(喜作氏の事)の所で酒をよばれたが、その時縁から落ちて打った痕だ」

と言われた。しかし、たま女は講元のいう事が、偽りである事を明らかに察していた。再三再四、これまで警察が、天理教の信心を止めても、これに服せず依然信仰を続けていたため、警察の感情は日頃から良くなく、その日講元の不屈な気質と、一徹な信仰から警察の怒りを買い、器物をもって殴打された痕跡であることは、余りにも歴々とたま女にも推察がつくのであった。

『こんなご苦労をなさるのも、この信心をしているためであろう。いっそ、信心を止めて下さればいいのに』

 と心に思って、当時17才のたま女は父、講元の背を撫でつつ、ほろほろと涙を流した。

 この時の召喚で、講元は結局、斎藤警部から、

 『お前の信心はどういう信仰であるか書いて出せ』と言う事になり、その月の28日に、左記の如き、「天輪王講社成立より事状上申書」をしたためて、見付警察署へ提出したのである。

ーーーーーーーーーー

天輪王講社成立より事状上申書

        静岡県遠江国山名郡広岡村無番地平民

                    諸井国三郎 印

 1、這般(しゃはん)このたび、天輪王講社の成立よりこれまでの事情お尋ねに付、詳細申し上げます。(奉り候(そうろう))

 1、私共、信心講天輪王講社の成立は、明治15年10月14日に、安芸国広島県下第八丈区15小区丸山村68番地屋敷 平民常三郎長男 吉本八十次と申す者(28才)が、出稼ぎ寄留証所を持ち、私方へ来て、桑畑耕作の雇い入れを依頼したことにより、依頼に応じ留め置きしたところ、同年12月上旬に至り、前もって雇い入れてあった須機織物教師、

井上まん(神奈川県相洲高屋敷桐原村の者)という者が、にわかに歯が痛み、2昼夜に渡ってなおも苦痛が耐えがたく、折り柄、彼、八十次が言うには、「いまだに治らないのは気の毒である。今夜のうちに痛みの治まるように願って見よう。疑う事はしないように。」と言って、表へ出て、しばらくの後、茶碗に水一ぱいを持ってきて、「これを頂けば必ず治る。私は今、月日様にお詫びを致した。早く寝るように」という間もなく眠りについた。夜明け前にまん女が目覚めて見れば、少しも痛まず、全く治った。それから、八十次を起こして、礼をいって尋ねた。「神様へのお詫びとか、月日様へのお詫びとはどのような訳であるか。またお水は何の水であるか。教えてくれ」と言って、あらかじめ信心の道を聞く。夜も明けたので、その日出勤し、私の妻そのと共に、須機物の下掛けをしながら、前夜八十次に助けられた次第をそのに語れば、そのは又、私に聞かせたところが、あえて信心せずに過ぎる処、7、8日も過ぎた頃、また妻そのが言うには、彼八十次の信心は、どのような難病でも、心次第に助けられない事はないという。よって、村内にて、村松弥八というものは、痛風で伏したままで、やや1か年半にもなり、医薬はいうに及ばず、祈祷や術や種々手を尽くしても、その功はなく、未だ寝返りも出来ず、難渋の事ゆえ、知らしてやりたいというので、事実をただしてからとの思いに至った。そして彼八十次に信心の道を尋問したところ、右八十次は、明治11年10月中、丸山村を出立ち、その後大阪にて日雇いで稼ぎをするうちに、眼病にて長く難渋を致し、これには医薬の功はなく、両眼は見えないようになりし時に、友人の話に、大和国山辺郡三島村中山氏の老母の伝えに、天輪王命を唱えて願えば、人間身の内、痛み悩みは助からないという事は無い、我も同道して助けを願おうという事になり、両人は人力車に乗り、中山氏へ行って(三島村中山氏平民農家当戸主は新二郎)願えば、取次の者が出て、この所は参詣所でなく、また祈祷するわけでもない、ただ話一条、助け一条と言って話を聞かすから、銘々の心次第、助かると助からないのがある、また利益の遅い早いがある。態度正しくして話を聞かねばならない、先の人間というのは、この世の元はじまりを知りたる者は、さらにない、

銘々の身勝手の事を計り言って、自分の身体は自分の物、我が子は自分の拵えたものと思っている、気まま勝手な事をするのは皆心得違いである、この世の始まり、天地がまだ開けざる時に、くにとこたちの命様がご苦労下され、いざなぎ、いざなみ様へ初めて夫婦の情をおさづけになった、人間を拵え、それより世界万物をお造り下さり、くにとこたちの命様より、いざなみの命まで十柱の神々様、それぞれが受け持って、御守護を下さるゆえに、何不自由のない御代(からだ)となり、人間体五輪六台、皆神の借り物である、人間というは、神と上との御恵みを頂くから、自由自在に暮らせる者である、それを知らず、わがまま身勝手をいう、これが心得違い、また人間に病というのは無いけれども、八つのほこりが積もり、それ故に病発するのである、それ欲しい惜しみ恨み腹立ち可愛い憎い欲に高慢、これ全て、神様のお嫌いになるところである。この八つの思いがあるために、公事故障(訴訟)喧嘩、口論、密夫、諸勝負、これを神様が悪く受け取るから、身の内の痛み悩み、憂い災難が起こり我々は皆願い出るのである。これはすなわち、我が心から招く事である。世界の親は天地である。すなわち月日様である。人間の元の親は、いざなぎ、いざなみ様である。神のためには人間は子供である。そう考えれば、世界中の人間は皆兄弟である。他人というのはさらさらない。それを知らずに欲しい惜しいの思いから、公事(くじ)博奕(ばくえき)(くじやばくちの意味と思われる)はなはだ心得違いである。この悪い心を打ち捨て、真を尽くし、お互いに人を助ける心になり、夫婦睦まじく、我が子の頭も叩かぬように、家業大切に勤めをして、仮にもうそと追従、欲にこうまん無いように、心を改め、これまで知らずに暮らしてきた心得違いを神様へお詫びをして、身の内の難渋を助けて下さいと願えば、長い願いをせずとも、三日三夜の間、天照大神様の大幣を祭り、神酒、お水、洗米、野菜、掛魚などを供えて、おのれのこれまでの悪しきを懴悔して願えば、速やかに利益を下さり助かるのである。また15才前は両親の罪である。よって両親が願わねばならない。なおまた、この世におし、めくら、いざり、らいびょう、ろうしょう、ちょうまん、ちゅうきなどがあるが、これらは皆前世の持ち送りなので、慈悲善根を深く人を助け、ご恩を報じ、神の心に叶うように、つとめてお詫びをするべきである。また水、火災ならびに洪水や干ばつ、虫の害を避けて、作物が実り豊作になるのも、すべてそれぞれの心次第である。

真をつくして勤めをすれば、何なりと助けの道に叶わない事はない。と言い聞かせてもらい、大阪へ帰って心改めて、一心に願ったところ、結果4日目の朝に、目が見えたという。もっとも、この信心の道は、前にもある助け一条、話一条、勤め一条と言って、難渋で困っている人に話しは聞かせるが、我が身の信心、すぐに助けを受けるとして、礼物は申すに及ばず、人の恵みを受ければすぐに我が身の罪は増す。善悪ともに全て天から七層倍(7倍)の返しがあるという教えである。と、右八十次から聞いた。実に感服し、村内の村松弥八へ通知をして、右八十次を使わしたのが、この信心の最初であります。

そして、唱え言(唱える言葉)は左の通りであります。

 あしきはらい たすけたまえ 天輪王のみこと。

これを21編。

 ちょとはなし 神のいう事きいてくれ、あしきな事はいわんでな、この世うの地いと天とをかたどりて、夫婦をこしらいきたるでな、これがこの世のはじめだし 南無天輪王の命 ようしようし。

これを1編。

 あしきはらい たすけせきこむ、一れつすましてかんろだい。 

これを3度唱え、願い事を言い、3度ずつ3編、9編になる。ただし3,3,9編は九(く)を祓うともいう。九の世界、九の胴を治るともいう理である。

一つの唱え言に、いずれも手品(手ぶり)があり、これ人間の口と心と手の揃わぬ者が多い、この三つが揃わなければ真実に至らず、口と心と手が揃う事で真の人という。それゆえ口で言うとおりに手品をさせるのである。

 前に掲げた通り、村松弥八の家へ15年12月23日夜に初めて右八十次が行き、信心の話を聞かせ、本人は寝返りも出来ないので、家内の者は、八十次と共に三日三夜のお詫び願いをしたところ、印(良くなる兆し)が無いので、三日三夜を3回にと及んだ9日目、すなわち16年1月1日である。昨夜まで寝返りも出来なかったのに、1日の朝、たちまち自由になり、本人も家内も驚き喜んで、幼児が初めて立ったようで、さながら一歩もはう事が出来なかった。またその後12日の夜、又八十次を頼み、お詫びの願いをしたところ、翌13日の朝、不思議にも庭から表の方まで歩く事が出来、便所から先へは出る事が叶わないために戻り、座敷に着き、そのまま3月14日まで少しも変わらずであった。また3月15日弥八家内が一統一心不乱に願いを上げて、千遍の唱えをすると、翌16日朝、6,7丁ほども歩く事が出来た。そして段々と快方に向かった。これが助けの始まりであります。右八十次は1月20日私のところを出発して大和の国めざして行きました。そしてまた、その頃村方に5,6名も右八十次の話によって信仰し、利益を頂いたものがあったので、右の人々には伊勢神宮を参拝し、大和国へ廻り、三島村の中山へ尋ねた。八十次の話の実状を知りたいと、私の方へも誘いがありましたが、私は家事が忙しいので断り、右5名が参宮に1月27日出発しました。ところが、その頃私の3歳になる女の子の喉が痛みだしました。折しも私は他へ出かけており、2月1日に帰宅したところ、どうしたことか、女子の喉の痛みは増して、30日から乳も飲まず、食も断っており妻も当惑しておりました。けれども夜になっているため、翌朝医者を迎える事に決めて、ともかく八十次に聞いた信心をするべきと、御神へ供え物をして、夫婦にてお詫び願いをしたところ、翌2日朝快方に趣き、乳も飲み、また食事も進んだため、翌3日には常の食事になりました。もっとも声の様子によると、のどの痛みは全快とは至らないようだが、大丈夫と見た利益が速やかに表れた事によって、翌4日に一人で伊勢参宮に出発し、それから大和の国へ廻り、三島村中山氏へ尋ねに行きましたところ、吉本八十次の話に変わらず、実に懇ろに話を聞かせてもらいました。その時に、大阪府下西区本田町3丁目井筒梅二郎、同所橘善吉という両人に初めて出会いましたところ、右井筒は天輪王講社大阪真明組講元で、橘はその周旋方とのことで、また右八十次も居合わせて、色々と承ったところ、両人が申すには、この近国には講社も何組と区別して多分にある。大阪にも数組ある。

ぜひ遠江国にも講社を結び、助けの道を開いてもらい、我々も参っておつとめの歌、並びに手品全て信心助けの道を知っているだけはお伝えする事が出来ると言い、旅費やお礼を申し受ける事はさらに無く、助け一条のために、願わくば我々真明組にいることから、遠江真明組と称して下されば、社中皆喜ぶであろう。ご帰国の上はしかるべくご尽力頂きたいと懇ろに申されたので、帰国の上、以前参宮した者と話合い、有志10名で結社し、大阪へ知らせたところ、その後右井筒、橘両人が秋葉山参詣のついでとして、3月14日に私の方へ立ち寄られたので、幸いとして信心の道を聞き学び、その事のうわさが立ち、諸所から尋ねに来るものが多分にあるため、前に記した話を聞かせて、信心の道を伝えたところ、皆々利益を受けないものは無く、よって、社入する者72名(両人のとう留は14日から24日まで)合わせて社員82名となる。その節も見付警察署より、巡査2名のご出張があり、追及されたので、前の記した通り橘善吉よりお答え申し上げたところ、ただ信心の話を聞くばかりで、お礼も受け取らず、かつ燈明料とか、あるいは草履銭とか名付けてしかも受け取る事は無い。その事がなければ、不都合な事はないので、よって今後なお不都合の無いようにすべし、と申し置き帰られました。かつまた右の追及があり、社員も82名にもなったため、取り締まりのために講元を一名、周旋方を5名、投票する事に協議取り決まり、則私が講元に当選し、その後右梅二郎、善吉両人も帰国し、なお引継ぎ所から信心したいと尋ね来るものが多分にあるようになったため、懇ろに話を伝えたところ、利益を受けるものが多く、また真を厚くするのをもって、一家の治まりも良いため、入社を乞うものが多くあるため、よって、講社中の規則を定め、毎月26日、社中集会を開き、共に真の天理人道を明弁研究して、人の人たる道に到り、真義をを厚くし、各業をつとめ、互い助け合い、国家の幸福を祈り、神徳皇恩を慎んで報告し、ゆえに信心を名として、他の妨害をせぬよう、所々に周旋方と名付けて、取り締まり注意をするにつけ、近々入社した人もあるため、16年5月より、本年に至り、毎月26日多少の社員集会を行い、役に立つ真義を厚くし、怠惰驕奢(なまけ、おごりぜいたく)の無いように社則を守り、勤めは分外に進ませ、倹(つましい)は分内に退かせ、社員をして御国恩を志したく願い報告する。

目下、社員は別冊の通りであります。

1.毎月26日集会の時、神を拝むお勤めと言って、12下りという、一下り毎に1より12まで歌が10ずつあり、その前に8つの歌があり、合わせて128の歌に、それぞれの手品を行い、これは手踊りではなく、舞でもなく、前にもあるように、人間の口と心と手と揃わなければ、真の人ではない。ゆえに、真の学びをする、神の御心に習わせて真義を厚くするという理である。鳴物は太鼓、笛、拍子木の3品

 その勤めの人員は6人、いずれも講社員に限り、もっとも社員の家族は社員同様であります。

 前書の通り違いありません。以上。

明治17年7月28日

                 右 諸井国三郎 印

見付警察署 御中

=============

これが第1回目の召喚であった。

 

・・・・・・・・・・・・

以上となります。

何とか書いてみました。とても難しかったです。

しかし、当時の信仰の形と教えがとても良く分かりました。

それぞれが信仰を深めるとても重要な資料だと思いました。

参考になれば幸いです。

 

親神様、教祖、どうぞ大難は小難にとお守り下さい。

 

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旧山名大教会史より 第1篇第2章第3節お神楽面のお許し(書換え)

2020年07月03日 07時58分42秒 | 旧山名大教会史

これも、書き換えて見たいと思う。

この「神楽面のお許し」と言う題名を見ると、昔、ネットを始めた頃、「山名にはかぐらめんがあるから、かぐらづとめをつとめてもいいのだ!」という議論が盛んにされていたのを思い出す。

この節にもしっかりと、お許しを戴いたけれども、教会の設立の時には、「お面はぢば限り」とお許しを止められたことが書かれている。一度許されたのだから、それは永遠に許されたものと、思案する人もあるかと思うが、親神様は心次第にいつでも止められる。以前、断食の事から、針ケ別所の助蔵事件の事を書いた。また、ココでは書いたことはないが、扇のさづけなどを渡された事もあったが、これも止められて、今のおさづけになっている。さらに大きく言えば、神様の模様替えと当時は言われていたようだが、かんろだい没収から、おつとめのお歌を「あしきはらい」から「あしきをはろうて」に、「いちれつすます」を「いちれつすまして」に変えられている。

こうした親神様のお導きをしっかりと見据えて、思案をする必要があると思う。

最後に、おさしづについて書いておいた、最後まで読んで頂ければありがたいです。

第三節 お神楽面のお許し

 明治17年1月30日である。教祖の前には高井猶吉氏、井筒梅次郎氏、諸井講元の三名の者が襟を正して端座していた。この時、井筒氏は恭々(うやうや)しく手を仕えてお願いの趣きを申し上げた。

『神様へ恐れ入りますお願いでござりますが、遠州では郡長とも懇意でござりまして、話の上、12下り立ちづとめが出来ます故、お神楽道具のお許しを願いとうござります』

3人の方々は手を仕えたまま頭を下げていた。

稍々(やや)しばらくの間、教祖は静としてあらせられたがやがて、

『さあ/\許す/\。私が許すでない。神が許すのやで』

 とのお言葉が下がったのであった。お願いの「お神楽道具及びお面お許し」の儀はかくして、鮮やかにお許しを戴いたのである。講元の歓喜は、いかばかり深いものであったろうか。井筒氏、高井氏も共々わが事のように喜ばれたのであった。

 ここは実に破格の理であって、山名大教会の歴史上、特筆されるべき重要毎であると同時に、山名大教会末代に伝えて尊重され感激されべき、理の宝であらねばならぬ。重ねて記す。実に明治17年1月30日の事である。

 早速にも「お面」及びお神楽道具一式を新調させて頂こうという事になり、翌31日講元は井筒氏と同道で大阪に出で、同氏方に一泊し、翌2月1日、井筒氏の外に周旋方2名の案内で、梅谷四郎兵衛氏方へ趣き、神様から結構に「お面」のお許しを戴いた事を話して「お面」とお神楽道具一式の調製方を同氏に依頼したところ、梅谷氏も『前例のない珍しいこと』と非常に喜ばれて早速快諾された。同氏の宅で一同昼食の御馳走になり、その夜7時7分発の汽車で、講元は京都へ発ち、同地に一泊、その翌日は大津へ出て、竹内方へ泊まられた。そこから東海道を歩いて、2月の8日に帰宅された。

 こうして、おぢばへ参拝をして帰るごとに、講元の宅の方はお願い人は数を増して、日一日と忙しさを加えて行った。

 その年の6月24日、さる2月1日に大阪の梅谷氏に依頼した、「お面」とお神楽道具の一式が講元の宅へ到着した(註、このお道具は船で遠州の福田港へ着いた)。その中には大阪真明講社より贈られた、三味線一挺も入っていた。

 この日は朝から雨が降っていた。「雨あづけ」のお願いはしたが一寸には晴れそうな模様も見えなかった。講元は周旋方の田村権氏に、フラフを揚げるように言いつけたが、田村氏は依然として雨が降っているので、

『なんぼ講元さんが願ってもダメだ・・・』

 とぶつ/\つぶやいているのを聞かれた講元は『小言を言わずと早く揚げよ』と言う。雨の中を田村氏が出て行き旗を結えてする/\紐を繰り上げる頃から、にわかに小雨となり見る/\晴れ始めて、田村氏が家の内に入るころには、全く空は晴天に晴れ渡っていた。講社の人らはこれを見て子供のように喜び勇んだ。この時掲げたフラフは、大幅2布の真ん中へ、日の丸を描き中に「天輪王講社」と記しその左下方へ「遠江国、真明組」と書いたもので、嘗(かつ)て豊橋で作らせたのと同様なものであった。これを門内の所へ高さ8間の旗竿を立てて掲揚したのである。

 午前11時、今言ったお神楽道具の一式が到着した。酒1斗を買って講元及び講社の人々は、祝の宴を張って共々に喜び合った。

 この「お神楽面」は翌明治22年正月の大祭まで、毎月おつとめに使用された。

 この「お神楽面」を用いての「お面勤め」が山名の部下でたった1カ所だけ勤行された事実がある。

遠江国引佐郡都田村滝沢の講元、故山下丹蔵氏(現鹿玉分教会長山下長五郎氏の養父)は心にかけられて「お神楽面」を納める容器(唐櫃)の献納を思い立ち、見附町でこれを調製の上奉納した。この一事が機縁となって、明治19年旧3月4日に、丹蔵氏宅において勤行されたものである。この時は講元をはじめ主だちたる周旋の人々が出張された。勤められた役割の中で今日判明しいる者は左のごとくである。

国床立命(くにとこたち) 諸井講元

面足(おもたり)命 諸井茂三郎

国狹土(くにさづち)命 氏名不詳

月読(つきよみ)命 同上

雲読(くもよみ)命 同上

惶根(かしこね)命 同上

大食天(たいしょくてん)命 同上

大戸邉(おおとのべ)命 同上

伊弉諾(いざなぎ)命 山下多四郎

伊弉冊(いざなみ)命 山下小菊

 なおこれは後の事であるが、明治21年4月天理教々会本部が認可され、翌22年3月18日、神道天理教会山名分教会所が許可となり、同年4月25日にその開延式を挙行するに当たり、当日この「お神楽面」を用いる事を、改めておぢばへお願いのため、役員伊藤源吉を登参せしめて、4月24日に神様にお願いすると、こういうおさしづであった。

 

 明治22年4月24日(旧3月25日)

 遠州山名郡分教会所に於て、お神楽面を開延式に付お許し伺い

『さあ/\たづねる処、たづねて一つ心の理があれば、たづね一つさしづしよう、どういう事であろう、さあさあとどまるじつさいたづねるまで一つ理、つとめ一条の理おおくの中、いくえ心得もだん/\はじめ、鳴物一切道具許そう、第一人間一つ始め、人数一つの理、だん/\話一つ/\、一時尋ねるまでの理であろう、めんはぢばかぎり、このお話しておこう。』※

 と言うお言葉で「お神楽面」は「ぢばかぎり」という事に改まり、したがって開延式当日には「お面」は、神前におかざり申し上げたのみであった。

 初代管長公よりも、

『これは山名の宝として大切にして、虫干しだけして大祭には飾らぬように』

 とのお言葉があった。それ以来この「お神楽面」は山名大教会の宝物として秘蔵されてあったが、大正12年11月山名大教会から名京大教会が分割された際、前山名大教会長故諸井清磨氏によって、同教会へ分割して行かれた。したがって現在の山名大教会には、男神5柱様の「お神楽面」のみが保存されてある。

 とにかく、たとえ一時の年限の間であったとは言え、このような重大な「お神楽面」のお許しを戴いた事は、実に「山名」に許された尊い理であって、特に前記のお言葉によって「お面」は「ぢば一つ」に限られるに至りて、この破格の理であった事を、より一層痛感せざるを得ないのである。

 講元は後年、

 -ーこうして特に「山名」に「お面」をお許し下されたというのは、われわれを励まして下さるための深い思し召しに相違ないーー

 と心に悟られて、深くも感激されたのであった。

※このおさしづは、読みやすく書き換えた。以下に本部公刊のおさしづを記しておく。

No.  :(1巻405頁9行)
明治22年4月24日 陰暦3月25日
『遠州山名郡分教会所に於て、御神楽面を開筵式に付御許し伺』
さあ/\尋ねる処、尋ねて一つ心の理があれば、尋ね一つさしづしよう。どういう事であろう。さあ/\止まる実際尋ねるまで一つ理、つとめ一条の理、多くの中、幾重心得もだん/\始め、鳴物一切道具許そう。第一人間一つ始め、人衆一つの理、だん/\話一つ/\、一時尋ねるまでの理であろう。面はぢば限り。このお話して置こう。

※※山名大教会史のおさしづと本部公刊のおさしづの違いに、不思議を感じる方もあると思う。

本部で公刊されたおさしづを「正とする事が重要」と言う点を示しておきたい。

おさしづは、数人の先生方によって書きとられたもので、その一枚が願い人に渡されたとの話を聞く。書きとられた先生の聞き方によって、漢字や言葉が違う事も予測できる。

 つまり、山名では「第一人間一つ始め、人数一つの理」とあるが、本部公刊では「第一人間一つ始め、人衆一つの理」となっている点などを考える時に、良く分かると思う。

 かぐらづとめは、人間創造の時の姿を現して勤められている。そこでつとめる人々は、その創造の時の神様の姿を現して、人衆として勤めているわけであり、人数よりも人衆が重要な点は明らかである。

 おさしづを理解する上には、こうした点を知っておく必要があると思う。

いつもながら、私の文章は、読みにくいと思う。

申し訳ないですが、どうぞお許しいただきたい。

今日は、これまでにします。

 

人々に、親神様の思いが少しでも伝わり、陽気ぐらしへの心の建て替え、心の切り替えが進む一助となりますように。。。

親神様・教祖、新型コロナが、日本にまた広がり始めています。このままでは、せっかくおぢばがえりが出来ると楽しみにしている方々が、また帰られなくなります。

どうぞ、大難は小難にとお守りください。

 

 

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旧山名大教会史より 第1篇第2章第2節フラフを立ててくるで(書換え)

2020年07月02日 09時09分19秒 | 旧山名大教会史

前節同様に、書き換えて見たい。

その前に、自分の身体の事をまず話すと、うちの会報を作る時など、キーボードを長時間打つことは、すぐにしんどくなって、全然進まないのが現状である。けれども、昨日の書き換えをする時は、余りしんどくならずに出来た。

これは親神様が喜んでくれることだと思ったので、今回も書換えて見たいと思う。どれだけで出来るだろうか。

第2節 「フラフを立てて来るで」

 明治17年1月21日、講元は第三回目のおぢば参拝を志し、同行者10名と連れ立って出発した。この日は、新居の紀の国屋いうところへ一泊。翌22日は豊橋へ着いたが、発船時間が夕刻であったため、豊橋の町内を見物して歩くうち、一軒の提灯屋が講元の眼についた。すると講元は何を考えられたか、天竺木綿の大幅4尺ほどを買い求めて来て、その提灯屋へ行き、旗の注文をした。その旗はすこぶる珍しいものだった。白地の布の中央へ日の丸を描かせ、日の丸の中に「天輪王講社」。その日の丸の左下へは「遠江真明組」と墨で黒々と書かした。かくて一行は豊橋より船で伊勢へ渡り、参宮をすまして山田泊まり、翌日は畑町、25日は伊賀の名張泊まりと日を重ねて、26日に丹波市市の扇屋庄兵衛方へ到着したのであるが、この道中途次、11名の一行の先頭には、例のフラフが一月の朔風(さくふう)に翩翻(へんぽん)とはためいていた。

 翌27日の朝、丹波市の扇屋の門口からは、一人乗りの人力車を先頭に、二人乗りの車が5台、威勢よく走り出して丹波市の通りを北の方角さして急ぐ。先頭の車には例のフラフが、これまた威勢よく風にひるがえる。前夜投宿した講元他10名の一行が、お屋敷は参拝に繰り込むのである。先頭の車には講元が悠然として身を置いていた。6台の人力車は、丹波市の警察署の前を通り、やがて右折して庄屋敷へ入り、お屋敷の表門通りに差しかかると、一人の巡査が見張っていた。その前を通り抜けようとすると巡査は突然、

『待て!』

と呼びとめた。そして講元の車に立ててあった、旗を抜き取ると声を励まして詰問した。

『この旗は何か。お前たちは天輪王へ来たか』

『これは講社の目印。天輪王へ参りました』

講元はあらかじめ期(き)していた事※が起こったという悠揚たる態(てい)で、車上のまま沈着払って応答した。(※予期していた事)

『こら、降りろ』

『今そこまで行けば降ります。車や、豆腐屋までやれ』

 車が豆腐屋の門へ着くと、巡査は旗を持ってついて来た。そして巡査と講元との間には、しばらく次のような問答が交わされた。

『天輪王へ来るには何かもって来たであろう。ここは参り所ではない。婆あが赤い着物を着て、愚民を惑わし、金平糖を食えば腹痛が治るとか、水を飲めば腹下りが止まるとか言っているから、大阪府では厳重に差し止めている。なぜ来たか。すぐ帰れ』

『拙者は何も持っては参らぬ。昨夜扇屋へ一泊すると女中がこの旗を見て、天輪さんへお詣りですかと尋ねるから、天輪さんがどこにあるかと聞くと庄屋敷にあります。おばあさまでございます。と言うから、そんなら明日人力車を雇って、案内をさしてくれと申しつけました。只今参りますと、あなたが天輪王へ来たかと申されたからこれ幸いと思い、参りましたと答えましたが、実は、初めて聞いて喜んで参りました次第であります』

『貴様は一体どこの者か』

『その旗にある通り、静岡県遠江国。天輪王講社の講元を、父の代から致しているが、拙者父に死に別れてまだ、天輪王がどこにあるか知らなかったが、図らずここに天輪王のあるという事を聞き、尋問致したいと思って参りました』

『静岡県のどこか』

『山名郡広岡村・・・・』

『名前は何というか』

『未だ番地が落ちています。無番地。諸井国三郎』

『む番地?む番地という事があるか。6番地か』

『いいえ。む番地』

『む番地という事があるか。不都合な事を申すな』

『不都合な事は申さん。む番地とは無番地と書きます。拙者も役場へも勤める人間で詐(いつわり)は申さぬ。拙者、この度新宅を設けたから、戸番の改正まで無番としておきました。お疑いあらば、静岡県庁へ照会下されたい』

『参詣はならぬ。帰れ』

『拙者はもとより参詣には参りません。当所のババアでもジジイでも良いから、天輪王の由来を尋問したく思って参ったのであるから、得心の出来るまで尋問する心算ですから帰りません。その代わり拙者の滞在中は、この旗をこの家の表へ出しておきますから、御用の節は何時なりとお招きに預かりたい。お招きに預かり次第警察へ上がって、どんな事でもお答えいたします。もし又この旗がなくなった時は、拙者が当地を出立したものと心得て頂きたい』

 巡査もしまいには、どうする事も出来ないので、手帳に住所と姓名を記して帰って行った。

 この巡査と講元との問答の間、その場の様子があまり穏やかならぬ態に見えたので、飯降伊蔵氏(後のご本席)はご心配なされて夫人のおさと様をして、豆腐屋の裏手にてひそかに様子をうかがわれられたという。右のような次第であったので、講元は翌日(明治17年旧正月元旦)は警察からの召喚を予期していたが、その日、丹波市の西尾という酒屋が来て『今日は警察は屹度(きっと)来ません』と言う。『なぜか』と聞くと、西尾はこう言って話した。

『昨夜警部と部長と巡査と三人で種々話しをしていましたが、明日は止めに行かんけりゃいかん、と一人が言うと、一人は、放っておいたら5か国も7か国も集まるだろうから、止めに行くがよかろう、と言う。すると巡査が、いくら5か国の者が集まっても、今日のように頭を押さえれば尻へ抜ける、尻を抑えれば頭へ抜ける。スベコベ/\問答しても、しまいには立場がないような事になっても困るから考えものです。と言うと警部がそんなら明日は放っておこうか。それがよかろうという事でありましたから、今日はきっと来ません』

 講元もこの話を聞いて、召喚もされぬ、巡査も来ない理由が、なるほどと合点が行ったのであった。この前夜お屋敷では神様がお下がりになって、西尾の話したような、警察における三人の問答を、お聞かせになられたとの事であった。

 この一件があってから、

『遠州の講元は偉い!』

 という評判が村中に広まった。今でも村の古老で、その時の様子を実地に見聞きしていた人たちの中には、存命でいる者もある事だろう。

 話は少し前後するが、講元などの一行が、1月26日に丹波市へ到着する前の事である。神様は、

『あゝだるい/\。こうだるうては叶わない。遠方から子供が来るで、あゝ見える/\。フラフを立てて来るで』

 という事を仰せられたとの事であるが、近待(近くに使える人)の方々は何のことか、お言葉の真意を了解するに苦しまれたのであったが、講元らの一行がフラフを押し立てておぢばへ到着するにおよんで、初めてそのご予言の意が判然とされたのであった。この時から以降、講元がおぢばへ参るごとに必ず刻限があった。そういう訳から『また遠州の講元さんが来たから神様がお出ましになる』と言うて他から来た参詣者も、足を止めて一日滞在するという風であった。

 この時のおぢば滞在は、27日、8、9、30日の4日間であった。この最終日の30日に、諸井講元は実にこの上ない一つの尊い理を許されたのである。

いや~~。出来ました。調べながらして、2時間弱でここまで出来ました。

すごいです。こんなに楽に出来る事なんて、最近は全くないです。自分で感動してます。

また、多少の間違いはあっても、画像があるので、それぞれで確認をしてもらえるので、昔間違えないようにと何度も読み返して苦労した、ホームページに文章だけを掲載した時の事を考えると、ありがたいです。

 

さて、こうして当時の事を思う時に、『稿本天理教教祖伝』や『稿本天理教教祖伝逸話編』は本当に、間違いのないようにと、骨の部分を書かれたものと感じる。

人間にはそれぞれの見方があり、感じ方がある。

ご本部の中の方々の感じ方、そして村の人々の感じ方、またその外から来る信者の人々の感じ方。さらに言うならば、ここに出てくる止め立てをする警察などの人々の感じ方がである。

こうしたすべての人々の感じ方、心を親神様はちゃんと見定めて、陽気ぐらしに向けて歩みを進めておられると思った。

これは、今の今でも同じ事であろう。

新型コロナで、おぢばへ大手を振って帰るわけにはいかない。けれども、である。この「言わん言えんの理」これがとても大切だと思う。

世界中の人々の平和、成人を願って、自分の出来る事、役割を頑張りたいと思います。

 

親神様・教祖、どうぞよろしくお願い致します。

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旧山名大教会史より 第1篇第2章第1節国六分の人を寄せる(書換え)

2020年07月01日 14時02分23秒 | 旧山名大教会史

第2章に入りますが、この第1節では、第2回目のおぢばがえりの様子が書かれています。

この中で私が気になるところを書いてみます。

①34頁後ろから3行目に

 かくして、講社の激増するにつれて、講元はさらに深い十分なる教理と、「12下り」のおつとめの手の仕込みを受ける必要を痛感され、第2回目のおぢば登参をされるに至った。(読みやすく書き換えました。)

とあります。不思議な働きにより信者さんが増える中に、ただ助かればよいというだけではない、初代会長さんの心がここに分かると思います。

②34頁後ろから1行目に

 明治16年8月29日に自宅を発足し、あらかじめ約束をしてあった木村林蔵氏、(後に山名大教会役員)と、浜松で落ち合って、この日は舞坂まで行って一泊した。(書き換え)

とある。この中の木村林蔵という方は、後の山名大教会役員でもあるが、愛知大教会においては、土岐分教会が設立される時に、初代会長になられた方でもある。(愛知大教会史第1巻 268頁)

②35頁は、とても不思議な事が書かれている。ご本席様に親神様が入り込まれてお話を下さる様子である。読みやすいように書き換えておく。

 月を越して9月の3日に庄屋敷へ到着し、豆腐屋こと村田長兵衛氏方へ宿った。翌日から、高井、宮森の両氏が暇を見ては、るる豆腐屋へ来り、種々と深い教理を伝えては帰られるのであった。こうして教理の仕込みを受ける一方に、講元は村田幸助氏のご家内おすま様を師として、「12下り」のおてふりの稽古に力を注ぎ、わずか4日間にて全部を習得された。

 この時のおぢばご滞在中に、講元は神様から、非常な結構なお言葉を頂いたのであった。

 講元がおぢばへ着いて5日目、すなわち7日の夕方、飯降伊蔵氏(後のご本席)は、豆腐屋の前で、涼み台に腰を下ろして、夕涼みをされていた。するとにわかに、非常な腹痛が起きて、お苦しみの様子である。驚いて人々は小二階へお連れ申し、夫人のおさと様は直ちにこの事を、教祖に申し上げた時に、教祖は、

『そんなに、びっくり慌てずとも良いで』

と仰せられて、仲田儀右衛門氏を呼ばれ、

『早く扇を、伊蔵さんに持たせてあげなされ。それから遠州の講元さんも連れて行きなされ』

そこで、講元は呼ばれて、急いで二階へ駆けつけると、飯降氏は蚊帳の中で、たってのお苦しみである。その時仲田氏が、

『神様の仰せでありますよって、どうぞ扇を持って頂きたい』

と申し上げると、飯降氏はむくりと起きて座られた。そこで、仲田氏が扇を飯降氏にお渡しになると、その時、次のようなお言葉があった。

『さあ/\国を越し山を越し川を越しはるばる訪ねてきて見れば、ああこんなとこかいな、野原みたいな所と思う者もある・・・』

 お側の方にもどういう事を仰せられたのか、分からなかったという。

 その翌朝、すなわち8日の朝早く、講元はお屋敷へ呼ばれたので、急いで伺うと、その時、神様がお下がりになった。

『ウム、、、、、ン』という、非常に響きの籠った、力強いうなり声を発せられたかと思うと、飯降氏の顔色は神々しいくらいに活き活きと輝いてきて、身体のようすも盤石のようにしっかりとして来て、

『さあ/\めずらしい事や/\、くにへ帰って、つとめをすれば、国六分の人を寄せる、なれど心次第や』

とのお言葉を下されたのであった。講元は、この頼もしいお言葉を頂いて、非常に感激に打たれた。

 ところが、先の『国を越し山を越し』云々のお言葉のあった7日の晩に、遠州から清水重作、中山吉三郎、田村権三郎、太田善五郎、守屋国蔵の5名が丹波市の宿、扇屋へ着いたのである。これには一すじの話がある。

 この明治16年の8月の初め頃、遠江真明組の講社の仲間の間で、5円掛け程の無尽講(※)を拵えて、これをもっておぢば登参の費用に充てる計画が出き、その最初第1回のくじが落ちて、今の5人の人たちの大和行きとなり、講元の発った29日から4日遅れて遠州を出発し、伊勢をめぐり初瀬に出て、9月の7日に丹波市の手前の柳本付近にまで来ると、一行の中の清水重作氏がこう言いだした。

『聞くところによると、おぢばでは警察の干渉がやかましくて、参詣人をいちいち差し止めているという話であるが、一体どんな具合だか様子を探ってみて、それから参拝する事にしよう』

※無尽講(むじんこう) 出典:デジタル大辞泉(小学館)

むじん‐こう【無尽講】 の解説 ⇒頼母子講 (たのもしこう) 
たのもし‐こう【頼母子講】 の解説

金銭の融通を目的とする民間互助組織。一定の期日に構成員が掛け金を出し、くじや入札で決めた当選者に一定の金額を給付し、全構成員に行き渡ったとき解散する。鎌倉時代に始まり、江戸時代に流行。頼母子。無尽講。

・・・・・

 するとこれを聞いていた一行の中の守屋国蔵氏が、

『俺はそんなやかましい所とは知らずに来た。そんな、警察で止めるような所なら、何も俺たちは参拝せんでも良い。俺はこんなり今から国へ帰る』

 と腹を立てて苦情を言いだした。何でも帰ると言い張るのを、皆で種々なだめて、しばらくして丹波市の扇屋へ着いた。早速お屋敷の様子を尋ねるため、村田、太田、清水の三氏が出かけ、守屋は調髪に行き、中山氏は一人留守居のために宿に居残った。夕方になって4人の者はそれぞれ宿へ帰って来た。その夜、講元と高井氏とが宿へ来られて5名の者に、

『今夜は早く寝て、明朝早く薄暗い中にお屋敷へ参拝されたがよい』

 と注意して帰られたので、その夜は、一同は早寝をして、翌8日の朝未明に裏道をたどって、お屋敷近くの豆腐屋へ行き、講元の見えるのを待ったのであった。ところがその朝から、守屋国蔵しは急に胸が閊(つか)えてきて、物が食べられなくなった。食べても皆吐いてしまうのである。こんな訳で、守屋氏はとうとう三日間というもの、起きる事も出来ず床に横たわったままであった。

 一行が8日の朝、豆腐屋へ来て待っていると午頃、講元が見えて種々話しのあった末に、

『昨夜、神様がお下がりになって、斯く斯くのお言葉があったが、何の事か自分にはどうしても分からぬ』

 と前夜の『・・・国を越し山を越し、はるばるたずねて来てみれば』云々の事を話された。この話を聞かされた時に、5人の者は内心びっくりして思わず顔を見合わせた。そして一同の者から、昨日の守屋国蔵氏の一件をお話した。それを黙々と聞いていた講元は、

『そうか』

と言って深くうなずかれた。

11日の夕方になってお屋敷から『遠州の参拝者は皆来るよう』との使いがあったので、一同揃って伺うと教祖は

『ご苦労であった』

という温かいお言葉を賜り、続いて月日の模様の入ったお盃で御親から召し上がられた後、その盃を講元にお下げ下された。このお盃は現に、諸井家の家宝として丁重に保存されてある。この時から守屋氏も食事が食べられるようになり、当人も衷心恐れ入って、

『申訳がなかった。どうか皆様とご同道さして頂きたい』と懺悔をした。5名の者は勇んで帰国の途に就いた。

 11日の夜9時、大阪真明講の講元、井筒梅次郎氏が諸井講元を尋ねて来て、明け12日河内、大阪、兵庫の各講社中よりお屋敷へ「おかぐら面」を献納するという事を話されたので、講元は、12日に帰るつもりで神様にお暇乞いまで済ませてあったが、1日出発の日を延ばした。翌12日の夕刻、「おかぐら面」は献納されたので、13日の朝これを拝見して、その日の夕刻、井筒氏と同道で大阪へ赴き、同氏方に三泊の後、15日の夜明け前にここを出発し、京都へ廻って19日に帰宅された。この登参から帰国する時、講元はその当時、講社の目当として祀られた「天輪王命」と記された、紙のお札と戴いて帰られた。

 なお、ここに一言書き添えておきたい事がある。講元がまだおぢば滞在中の10日の午後に、講元は鴻田忠三郎氏に伴われて、長原村というところの、中村直助なる日本農会委員をしていた人の、試作田を見に行かれたが、その時講元は籾種数種を約束して帰られた。この一事が証明する如く、当時の講元は、まだお道一方で通るという考えはなく、何とかして宿志たる殖産興業をもって、国富を図りたいという考えに傾いていたものであった。この事は講元自身がその「自伝」(42頁)においても語られている。

今日はここまでにします。

どうか親神様、教祖。大難は小難にとお守りください。

 

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旧山名大教会史より 第1篇 第1章 第9節 遠江真明組の結講

2020年06月30日 22時12分24秒 | 旧山名大教会史

第9節 遠江真明組の結講

長いので、第9節のみとしますが、ここでは、不思議なおたすけが上がり、人々が集まる事により、警察や村の人とのやり取りが細かく書かれています。

親神様の不思議なお導きや、人々の受け取り方などが感じられると思います。

第1章はここまでです。

次から、第2章となります。

 

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旧山名大教会史より 第1篇 第1章 第7節初代会長の入信 ・第8節初代会長最初の地場帰り

2020年06月28日 19時11分22秒 | 旧山名大教会史

第7節 初代会長の入信 ・第8節 初代会長最初の地場帰り

とても細かく書かれています。

 

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旧山名大教会史より 第1篇 第1章 第5節初代会長入信当時の本教 ・第6節道のかかり

2020年06月28日 19時08分17秒 | 旧山名大教会史

第5節 初代会長入信当時の本教 ・第6節 道のかかり を掲載します。

この第6節 道のかかりが 「新山名大教会史」の第3節にあたると思われますので、どうぞ読んでみてください。

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旧山名大教会史より 第1篇 第1章 第3節村民としての初代会長・4節吉本八十次来る

2020年06月28日 19時04分11秒 | 旧山名大教会史

第3節 村民としての初代会長・第4節 吉本八十次来る を掲示する。

新山名大教会史では簡単に書かれていたものが、とても細かく書かれている。

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旧山名大教会史より 第1篇 第1章 第1節初代会長の誕生・2節初代会長の人となり

2020年06月27日 20時47分01秒 | 旧山名大教会史

今日から、旧山名大教会史を掲載する。

字体や文章が分かりずらいと思う。私自身も判読が難しく、推測で読んでいる場所もある。

しかし、新山名大教会史を読んでからならば、分からないところも分かるのではないか。また、山名から見た当時の事が分かると思う。

もし分からない文字や言葉があったら、コメントに書いていただいて、みんなで研究できれば良いのではないかと思う。

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山名大教会史 第1章 第5節相次ぐ講元のおぢばがえり

2020年06月25日 11時37分48秒 | 旧山名大教会史

まずは、第4節で私が思う事を記述する。文章をうまくまとめる事が出来ないので、メモ書きのように記載する。参考に読んでいただきたい。

①山名の初代講元と諸井国三郎先生がなられるわけだが、この講元になる経緯は、諸井国三郎先生が助けの元であって、講元になったわけではなく。同じように吉本八十次氏に助けられた人々の推挙によって、講元になっている。この点も注意する必要があると思う。

②おぢばの高井先生方は、諸井国三郎先生ではなく、山名の人々からの願い出・依頼によって山名へ来られている点。そして、この山名へ行く道中も、親神様、教祖の不思議に導かれている点。

③おぢばの先生方が、山名へ来てのおたすけの様子。諸井家の仕事をすべて休みとして、使用人たちにおぢばの先生方の話を聞かせている点。村の長に道が付けば、その村中の人は「長がいう事ならば間違いはない」と信じて、反対することなく話を聞く。上の者に道がつけばという言葉通りだと思う。これは会社の社長に道の教えが入り、日々の訓示にまた経営に教えが生かされれば、自然と従業員は教えを身につける事となり、陽気ぐらしが広がる。それとも重なる事だと思う。

④「天輪講」と付けた名称を「真明講」と改めた理由。人々が信仰の系統を重視していた証と見れると思う。

⑤諸井国三郎先生が留守中でも、奥さんの話でおたすけが上がった点。話の旨い下手ではないという証と思う。

などが、私が気になった点である。これらの詳細を述べるのには時間がかかるために、省略するが、「おふでさき」や「みかぐらうた」はたまた、先人の先生方に教祖が話された事が、これらに現れていると思えるのである。

では、第5節を掲示する。

大変長いので、途中に思う事を書いていきたいと思う。

①おぢばの先生方によるおてふりでは1下り目までしか学べなかったので、講元自ら2回目のおぢばがえりにて12下りまで学んでいる。

そしてこの時に承るお言葉「さあ/\珍しい事や/\、国へ帰ってつとめをすれば、国六分の人を寄せる。なれど心次第や」の「心次第」という言葉、これがとても気になる。

②明治17年、3回目のおぢばがえりには、今の団参の元となるようなことをされている。この時の話が、『逸話編』「137 フラフを立てて」 に書かれているが、この逸話編の詳細をここで知る事が出来る。

③お面のお許しのところでは、この時に教えられたおつとめは、すわり勤めではなく、立ってつとめるかぐらづとめの手を教えられていたことが分かる。

そして、月々のつとめにかぐらづとめが行われたが、明治22年の山名分教会の開筵式には「面はぢば限り」とかぐらづとめの理を明確にされている。

この32頁の「面はぢば限り」と書かれている後に、「山下丹蔵氏宅で、一度だけ勤められたことがある。(中略)明治19年に講元へ願い出たものであった。」とある。この「講元に願い出た」という点も気になるところである。

④33頁の家業がうまくいかなくなった時に、奥さんの口から「いくら働いても、これでは楽しみがありません。いっそ商売をやめて、わずかでも農業をしながら、信心に来るお方をたすけさせて頂く方が、よろしゅうござります。もうお金も衣類も、何もいりません」とでた言葉が、一番大切な事ではないかと思う。

このだいぶん後になって、愛知大教会において、会長不在で2代会長が決まるまでの間、山名初代会長が直接指示をしていた時に、負債の事情が起きており、その事情解決のために、熱田の3代会長は渥美に行くこととなり、熱田分教会はまた会長不在となる事もあった。

④家業をやめてからの苦労。長女たま様の後押しで暮らしを立てながらの信者の丹精。これは、お屋敷が貧のどん底にあった頃、また信者が出来ても、その信者たちがお屋敷の暮らしを支えるようになるまで、梶本家に嫁いだおはるさんが、なにくれとなく支えた姿と重なるのである。

そして、奥さんの苦労は、色々な事しながら教会を守りながら、来る人々に話を取り次きおたすけをする、住み込み人の姿と重なるのである。

そして、半年間、心を決めて共に歩む信者が入り込み、教会の元を作っていく。これは、青年づとめともいうものではないかと思える。のちに長男政一氏が、おぢばへ青年として入り込み、多くの先生方から教祖のお話を書きとり、教えをまとめる一助となるのである。

⑤37頁 末代の伏せ込みとして、明治17年におびや許しを願い出た話があるが、これは、『逸話編』151 をびや許し に書かれている事柄である。そのおびや許しの結果とそれによって、その夫人が願って、他の人がおびや許し通りの御守護を頂いている記載がある。

おびや許しはご本部に帰って、願い出るものであるが、ご本部の出張場所としての役割ゆえの不思議な働きのようにも感じる。

⑥39頁 埼玉県から来た人とおぢばの人々との言葉の違いから、その間を取り持ったという事は、今の通訳と重なり、それによって「諸井さん、東の方はあんたに任すで。」とのお言葉は、今でいうところの海外での伝道庁や出張所の役目を言われているようにも感じる。

⑦40頁 娘の突然の出直しという節を見せられて、即座におぢばに帰り、自分の間違いを正そうと願って、教祖のお言葉を頂いている。この話も『逸話編』187 ぢば一つに に記されているが、その悟り方がここに記されている。

そのお言葉「さあ/\小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで。」の「一方流れても・・・二方流れても・・・」という言葉が、私は以前からずっと気になっていた。

私たちは出たものすべてが十分にある事を望む。しかし、自然の中では様々な事が起こる。現在の新型コロナしかりである。この時に、十分ある事ばかり、完璧に出来る事に心をとらわれて、本当の事を見失って先に進めない事が多いのではないかと思うのである。教団でいえば教会や信者さんの数など、また家庭では子供もそうであるが、寿命や仕事など、様々な事についてこれは当てはまると思う。

何よりも大切な事、それはここに記された「太い芽」を出す事ではないだろうか。そのために必要な事は、教祖の言われるように「ぢばに心を寄せる事」「心をつなぐこと」だと思う。そうすれば、必ず残るものがあって、そこから太い芽が出るのである。

また、おぢばに心を寄せている先生の、小さい子供の出直しについては、『逸話編』184 悟り方 に、梅谷四郎兵衛先生の娘さんが無くなった話で、「それは良かったなぁ」「大きい方でなくてよかったなぁ」と、いんねんの中にあって喜べない中も、喜びにかえる事を教えられていると思う。

⑧ 明治20年4月14日に五女として「ろく」様が生まれる。そして親神様は、明治21年2月13日に、この生後10か月のろく様に、「水のさづけ」をお渡しになり、山名に置いてのさらなる不思議をあらわされることとなるのである。

世の中には、幼くして、自ら望むわけでもなく、不思議を見せるようにな人も良く聞く。そうした人々の心情や、神様からの役目を持つ人について、このろく様の話を読む中に色々と思える。

・・・・・

私が思い感じる事は、簡単に書いて上記のような事である。皆様方はどうのように感じられるでしょうか。

さて、山名初代会長、また共に歩まれた先生方の苦労と、親神様に対する心得の仕込みについては、あらまし知って頂けたかと思い、ここで愛知大教会史に戻りたいと思っていた。

ただ、旧の山名大教会史を読んだ自分としては、初めてのおぢばがえりのところでも、もっともっと山名初代会長の心を見定めての、親神様のお導き、また周囲の先生方への導きを感じる事が出来ると思えた。

旧の山名大教会史は、字体や言葉遣いが現在の元とは多少異なり、読みにくいところがあり、本当に興味がなければ読むのは難しいのではないかと思う。けれども、新の山名大教会史を読んだ後ならば、読めるのではないかと思った。

そこで、現在提示した部分のみ、次に数度にわけで提示しておこうと思う。

 

一人でも多くの人が、親神様の御守護が感じられることを願って。。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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