あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

干し柿

2020年11月29日 10時09分04秒 | 思った事

今年も、今月の半ばに、信者さんから渋柿を頂いたので、皮をむいて、玄関先のポーチにつるした。

今年は、あまりならなかったそうで、一回り大きい柿だった。

今からつるせば、12月の大教会、本部月次祭には、お供えさせて頂けると思う。

コロナで大変なこともあるが、例年通りに出来ることもある、

美味しい干し柿になりますように!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご本部の月次祭で。。。

2020年11月27日 10時36分53秒 | 思った事

昨日はご本部の月次祭で、中庭で参拝をさせてもらった。

パイプ椅子の数が少なく、立っての参拝だったのだが、立ち続ける事が辛くなり、後半下りの途中で帰った。

こんな事は、ここ数年来ない事だったが、どうも居続ける事が出来なかった。

帰る途中で息子の寮へ差し入れを届けに行ったところ、ちょうど出かける処で、直接手渡すことが出来た。

神殿講話も聴かずに帰る事になるが、息子に直接会えたことが嬉しかった。

 

また、こんなことはあまり気にしないのだが、前半下りの女鳴物の調子がとても気になった。(後半下りはほとんど気にならなかった。)

そして、スマホの動画で前半下りと後半下りを録音して、帰りの車の中で聞き比べて見た。

すると、前半下りの女鳴物の間違いから気になって、女鳴物の調子がおかしいと思い込んでいた事が分かった。

どういうことかというと、前半下りも後半下りも女鳴物の調子(音程)は違っていなかった。

原因は地方の音程にあった事が分かった。

後半下りは、地方も女鳴物も音程に違和感がなかった。けれども、前半下りは違和感があった。

そこで、私は地方の音程を主として聞いていた事から、女鳴物の音程がおかしいように感じていたのだった。

 

また、傍にいた妻と、前半下りの音程について話しをしていた時に、気にしている音がとても大きく聞こえてくることも感じた。

つまり、同じように聞いていても、私と妻との聞こえ方が違う事を知ったのである。

私は琴の間違いから琴の音ばかりが気になっていたのだが、妻は胡弓は良い音だと胡弓の音が良く聞こえると言ったのだった。

 

以前、テレビか何かの情報から、人間の視覚や聴覚は、意識によって変わると聞いたことがあったので、この事か!と思った。

そして録音を聞いた時に、冷静に比較分析する事で、善悪などが良く分かるものだと思った。

 

今、アメリカ大統領選挙から、報道の裏事情がこれまた表に出てきている。

元の理に、「五分五分と成人して三度で直した」とある。

このお道の教えは、約束の年限の到来により始まった。人間の身体はドロドロとした混とんの中から、天地が分かれて、9億9万9千9百9十9年かけて、現在の身体へと進化してきた。

そして魂は、その進化する体に生まれかわりして、知恵文字を使って文明をはぐくんできた。

これまでは、表面に現れた形ばかりで判断してきたように思う。それが表面に現れた形だけでは判断できないようになってきている。

目に見えない心が、魂が、混とんとしていると思う。

この混とんとしている心・魂を澄みきるために必要なのが、この教えだと思う。

世界は鏡である。二つ一つである。

それぞれが善悪を知り、変わらなければ、良くなるはずはない。自分を変えずに良くなるはずはない。

 

その場だけの治めを願っていては、片手落ちであろう。

大きな治まりを願って、その場の治めを願う。また、大きな治まりが成就するから、日々の安定、治まりの御守護がある。

天・地は、男・女の理。などなど、思案する事は多々あると思う。

 

さて、今日は布教所の月次祭で、その後大教会の神殿当番です。

どうか無事に勤められますように。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親神様の思いはいずこ。。。

2020年11月25日 08時39分16秒 | 思った事

首の手術をしてから、かれこれ10年になろうとしている。

最近では、結構寝込むこともなく、日々を過ごしていた。

そうした中に、11月の22日は久々に、朝、おさづけをしてもらって、大教会へ行ったものの、頭の痛みや胸が詰まる感じが治まらずに、お供えを届けるだけで教会に戻り、横になって過ごした。

翌日の大教会月次祭には、楽になっていたが、いつ辛くなるか分からない不安があったので、役割を交代してもらってつとめた。

月次祭がすべて終わったところで、とても楽になり、片付けは勇んでさせて頂いた。

用事が無い時に、体が辛くなって横になって凄く事は頻繁にあり、とてもありがたく感じてこれまで来たが、大教会の月次祭の準備の日という、行事のある時に、このような事になるのは、本当にない事なので、何事かなぁと思いながら過ごした。

「なってくる理を思案せよ」と教えられる。

自分として、やりたいと思っても出来ない事がある。

この時の思案の仕方で、「自分がやりたく無い」と思う時は、自分の意識から、体調を悪くすることがある。しかし、反対にやりたいと思う時は、そうならないものである。

そして、このやりたいと思う事が、他人の意思で妨害されることならば、その人に何らかの思惑があることになる。

これが、自分の意識からではなく、人の思惑からではなくて、自分自身の身体が動かないという事ならば、

それは、親神様の思惑を思案する必要がある、身の知らせという事になる。

と私は考えている。

「いんねんならば通らにゃならん。通って果たさなやならん。」わけで、ここで「いんねんの現れ」と悟り、「たんのう」してそのまま置いておくことも一つあるだろう。

けれども、この場合は、慢性的な病状が主で、それでいえば、私が首の手術を行う事となった「後縦靭帯骨化症」という疾患がそれにあたり、今回の事例とは違う気がする。

この文章を書きかけたのが、11月の24日で、今は25日である。

今、身上が突然楽になった時を、何があったかと、思い返した時に、一つ思い当たる事があった。

それは、月次祭をWEB配信できるようにと、機材の準備を進める中に、月次祭終了後にWEBカメラを購入すじに行こうと約束した事が思い当たる。

その約束をした時には「その時に体調が良ければね」と言っておいた。その後、祭典講話になり体調が良くないので、自室へ戻り横になった。少し楽になったので、大教会長さんの挨拶には神殿に戻り、「この挨拶が全部内に届くのは、会報を読んでもらっても、2カ月後だなぁ」と思いながら、話を聞き終え、やっぱりWEB配信は必要だと思って、終了の挨拶をしたところで体がすっきりしたのであった。

そして、片付け後にすぐにWEBカメラを購入しに行ったのだった。

親神様が望んでおられると思い、創立130周年の記念祭に向けて、そのようになっていくだろうと思う。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さあ。新型コロナの第三派ですね。。。。おびやづとめ。。

2020年11月21日 10時44分20秒 | 思った事

11月3日に、マイクロバスで、家族と信者さん2名とでおぢばがえりをした。

その時には、全員で本通りへ買い物に行った。

祝日にも関わらず、神殿のみならず本通りも閑散としており、信者さん方は、「もっと人が多いと思った。これだけ空いていれば、コロナも大丈夫じゃないかなぁ。」と言っていた。

その本通りで買い物をしている時の写真を、今月の会報に載せて、帰られなかった方々に説明した。

部内の信者さんに、毎月月次祭は仕事を休んでつとめて下さる方があり、その方は、舌癌、喉頭癌になられてから、これまた毎月休みの時に、おぢばがえりをされていた。そしてその方は、ガンが発症してから、20年余り経つ、今も小さな癌が検診の時に見つかり、抗がん剤を飲んでいるが、通常の生活をされている。これがとても不思議なことで、部内の教会の皆さんの心の支えともなっている。

しかし、この新型コロナが蔓延してから、おぢばがえりを止めている。その方に、おさづけを取り次がせて頂くときに、「おぢばはこういう状態ですので、人と接しないようにすれば、車で行かれるのですから、大丈夫ですよ」と話をした。

 

11月27日におびやづとめが行われる。今年に入ってから初めてではないかと思う。

4月に、はえでづとめに行かせて頂いたが、昇殿して参拝する事は叶わなかった。

次女が高校を卒業してから今日まで5年余り、はえでつとめとおびやづとめは、ほぼ欠かさずに参拝させて頂いて来た。

今回のおびやづとめはどうしようかと思っていたのだが、布教所の月次祭がその日になったことと、大教会の神殿当番が重なったことから、行くことを止める事とする。

 

道あけとしての「おびや許し」で、これまでにも多くの方が、不思議な安産を願っておぢばへ参られた。

そして不思議を見せて頂いた方も多々あると思う。

けれども、不思議を見るだけで、本来の親神様の思いは、まだまだ伝わっていない。

伝わっていても、実践できていない。実践できる心の人がまだまだ少ない。これが、現状のように思う。

これがまた、親神様の「ざんねん」の一つだと思う。

 

世界中の裏が表に出ている。一目見ただけでは、なにが本当で、何がうそか、それすら分からないようになっているようにも思う。

すべては親神様はお見通しである。理の筋道もすでに教えられている。

表面的な事に惑わされることなく、歩むことが大切ではないかと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久々の団参(ほんの少しの人数だけど。。。)

2020年11月04日 09時59分30秒 | 思った事

昨日、11月3日、マイクロバスで団参をした。

うちの家族7人と信者さん2名のほんのささやかな団参である。(一人は前日に都合が悪くなり欠席)

でも、この新型コロナのこの時には、とてもとてもありがたく、嬉しい団参だった。

そしてさらには、前日は雨だったのが、とても気持ちの良い天気の御守護を頂いた。

私や家族は、おぢばでの御用や学校などで、毎月のようにおぢばがえりはしているが、信者さん方はそうではない。

特にお年を召された方は、自分で車を運転してという事はなかなかできない。ましてや家族の理解がなければ連れて行ってもらう事も出来ない。

そうした中にも、私の都合と信者さんそれぞれに「都合のつく日におぢばがえりしましょう」と、8月ぐらいから話はしていた。

そうした中に、10月の支部例会で、奈良県の規制緩和で団参が許されたとの話を聞いた。

速攻で、10月の大祭に信者さんと相談をして、大教会のマイクロバスを借りて団参をする事とした。

家族などの理解を得た人のみ、感染対策のマスクをして、参加してもらう事。少しでも不安に思う人は、無理に参加しない事を条件とした。

元々少ない人数だから、こんな大げさな事を言う必要もないのだが、これまでの認識からすると、団参というと、人を誘わなければならない。何としても参加しなければならないという意識が働くために、わざわざこのように話をした。部内の信者さん方にも同じように話をした。

そして、結果、前述の如く、大変良い天気の元、人が少ない神苑をゆっくりと参拝させて頂いて、二人の信者さんが行きたい本通りのお店へと、子供たちと共に散歩して、おぢばをあとにした。

そして、帰りのバスの中で、このように静かなおぢばへの団参ならば、安心しておぢばがえりが出来るよね。と信者さん。

そしてグループラインで写真を送ると、参加できなかった信者さんも、次回はぜひ参加したいです。とのメッセージを貰った。

少人数での団参なので、1時過ぎにはおぢばを出て、信者さんを送り届けても5時前には大教会に到着して、家族で洗車をして教会に戻った。暗くなる前に洗車を終える事が出来て本当に良かったです。

こんな事が出来るのも、大教会に借りられるマイクロバスがあり、自分が運転できる体を借りているからである。

かりものに感謝です。

今日は、支部の総会資料の添削をして分を作らなければならない。作って下さる方のために今日中に仕上げなければならない。

無事に出来ますように。。。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神と人間。その間をつなぐ立場について。

2020年11月01日 23時53分10秒 | 思った事

ご本席様は、綾錦の仕事場と言われて、本席となられた。

それ以前は、ほこりの仕事場と言われて、神様のお話を取り次がれていた。

この「ほこりの仕事場」と「綾錦の仕事場」これの区別を理解し、自ら行う事が、大切なのではないかと思う。

 

また、教祖のお側におられた方々は、「取次ぎ人」として、教祖から聞かされたお話を、参拝に来た方々に取り次がれた。

ここで、「取次ぎ人」と「仕事場」との違いも考えておく必要があるとも思う。

 

これらの役目は、今、どのような人が担っているのだろうか?

と考える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親神様が不思議な働きを見せても。。その時だけは覚えている。なれど。。。

2020年11月01日 15時05分57秒 | 思った事

確か、教祖120年祭の時だと思うが、杖を突きながら歩いていた方が、突然杖もなしに歩けるようになった様子がVTRに収められて、それが紹介された事があった。

当時、親神様の不思議が、映像に記録されたものでは初めての事だろうと思った。

そして、この映像から親神様を知る人が増えて、お道の教えも伸びる事だろうと思った。

ところが、この映像で教勢が伸びたという話は聞かなかった。

あれからかれこれ20年近くなろうとしているわけだが、その後、私自身は不思議な働きを感じさせて頂きて今日まで来ており、自分の徳相応の御守護を感じて、それなりの行いをと、「信者の栞」を心に日々を通らせて頂いている。(周囲から見たらどのように映っているかはわからないが。。。)

私が親神様の不思議な働きを間近に感じたのは、教祖100年祭の時である。

畳一畳も自分で歩く事が出来ない方が、本部の神殿でおさづけをして頂いて、杖も突かずに歩けるようになったことである。

それから数年、大教会にいる間、そうした不思議を見ることは全くなく、実際に、周囲を見ていると、教祖が教えられたとおりの歩み方をしている人は全く見受けられず、「こんな事では教会も、天理教もどうなることか分からない」と思い、「こんな事ではたすからない。」と常々口にしていた。

ところが、「こんな天理教をしていても良い事はない。やめた方がいい。」と親戚などからいわれると、「でも、親神様はあるから。。。」と自然に口から言葉を出していた。

この「でも、親神様はあるから」という言葉は、自分の心に響き、不足ばかりをしてしまう今の状況を変えて、一からやり直したいと思った。そこで、やり直すために、どうするかと考えたところが、布教の家だった。

そうしたところ、大教会長さんから、布教の家へ行くようにと、話を貰った。自分から頼むことなく、行って来いと言われた事に驚いた。

そして、布教の家に行き、自分は何のために信仰をするのか。「いんねんを切り替えるために」という事を、身をもって感じた。

そうしたことを感じても、大教会に戻れば、同じ環境で、以前のように不足になってしまう。何とかしなければと思い、人のために、教会のためにと行えば行うほど、周囲の事が目につき、不足になってしまうのである。

そして、大教会を出て、自分で生活をする事になる。ある時に大教会長さんから、「ここを出て生活をしていけるのか」という言葉を言われて、「この人はいったい何を信仰しているのだろうか?」「何のためにこの教会にいるのだろうか?」と思った。

そして一年弱、建築会社で働く事となる。大教会から出ても、鼓笛隊の指導も月二回行い、青年会の行事なども参加していた。その中に、見合いをして、結婚する事となる。そして建築会社で世話になりながら、結婚生活をして行こうと思っていた。

しかし結婚が決まると、父親から「大教会へ戻れ」と話があり、「父親が喜こぶならば」と再度大教会に住み込むこととなった。

すると、数カ月もたたずに、今の教会の会長さん夫妻から、教会を出たとの連絡を受け、留守番役として教会に入る事となる。

ただただ神様があるだけの、空っぽの教会に、一人で留守番に入った。妻は修養科に行っている最中の事だった。

そこからは、何も分からない新婚生活と教会生活が同時に始まった。

そんな不安な中だったが、唯一嬉しかったのは、両親が大教会の用事の無い時に来てくれて、夫婦揃って上段を掃除している姿を見た時だった。

最初の一年余りは、信者さんが来るのは月次祭だけという教会だったので、それ以外は、信者さん宅への訪問や大教会でのひのきしんに明け暮れた。(月次祭前になると、料理をしたことがなかった妻が、料理の本を出して、大教会の母へ電話をしながら、直会の準備をしていた。)

そして教会に入って1年半が経ったある時、突然父が倒れたとの連絡を受ける。吐血と下血をして救急車で運ばれたとの事。家族・兄弟が寄ってお願い勤めをするも、原因が分からず、母から「大教会長さんは大丈夫だと言っている」と聞くだけで、大教会としてのお願いづとめもなかった。

25日の夕方、本部でお願い勤めをしていると、専修科の時の校長先生から「おい長谷川」と声を掛けられた。私の事を覚えていてくれたことが嬉しく、父親の事を話したが、「私には分からん」と言われて、「ひょっとしたら助からないかもしれない」と、心によぎった。そして数日後、手術の甲斐もなく出直した。

私には、頼れる人もなく、頼れるとしたら親神様だけだった。

ある時、こんな言葉を聞いた。「人に凭れたらその人は倒れる。凭れて良いのは親神様だけだ」というものである。

それからは、親神様の思いはどこにあるのか。という事を常に考えて歩む日々となった。

そして今日、親神様の思いのままに、今日一日がある。どれだけ人間が望んだとしても、親神様の思いに叶っていなければ叶わない。と思うようになった。そして、おさしづを探るうちに、親神様の思いに叶っていても、その旬が来なければ芽が出ないという事も知った。(ただ、この兼ね合いがまだ分からない。悟れない。)

そして、いくつもの親神様の不思議を見せて頂き、また事情身上を通して、心を変えた分だけ、悟れた分だけのものがある事も知った。

けれども、次には、こうした事が周囲には伝わらない事が、今の悩みと言えば悩みである。

ここまでを振り返って、60年の歳月がかかっている。

 

おふでさきを読んでいると、「ざんねん」ばかりが目に付くのも、同じことのように思えている。

親神様の思いが周囲に伝わらない。

人間がどのようになっていくか、親神様には見えている。こうなったらこうなるだろうと、幾筋も見えている。

そして、何もせずに、そのままにしておけば、どうなるかも見えている。

だから、何とかしたいと、どんなときでも導きの手を出して下さっていると思うのである。

これは、一人だけの事ではない。また、全体の事だけではない。

一人ひとりが良くなって、全体が良くならなければならないと思う。

自分は何もせずに、周囲が良くなる事ばかりを願っていては、ダメなのである。

 

一人ひとりが助かりたい、よくなりたいと願い、心の向きを変えて、全体が良くなる。これが、争うことなく陽気ぐらしに向かう歩だと思う。

あこがれは、勇気と育つ力を与えると思う。

あこがれるヒーロー。それがひながただと思う。

しかし、親神様の理想と、現在の人間の理想が違いすぎて、教祖のひながたが、あこがれの対象にならなくなっているようにも思える。

 

世界中にまた、新型コロナが蔓延し始めて、ロックダウンが始まった。

日本も、東京からのGOTOキャンペーンが始まり、広がりが顕著になってきている。

11月3日、マイクロバスを借りて、12,3人でおぢばがえりの予定をしている。無事にいけますように。。。。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする