あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

おふでさきに関するおさしづ 1

2022年12月21日 09時12分45秒 | おふでさきに関するおさしづ

おふでさきに関する「おさしづ」1

1)●1巻 明治20年6月24日(旧5月4日) 増野正兵衛身上伺 通巻45頁 8行目

No.1  :(1巻59頁6行)
明治20年6月24日 陰暦5月4日
『増野正兵衞身上伺』
 さあ/\何かの処、皆それ/\、皆障り、さあ/\どういう事を知らす。尋ね事情、何かの処、さあしっかり聞き分け。何よの処、どういう処、踏み止まる。取次々々、だん/\取次、しっかり取次、道付け始まる。どういう大道々々、大道の掛かり。どういう、何人々々、幾名、一人思案定め/\。泥水だん/\迫り、泥水が澄まする。治める処々、名立しかり分かって分からん道、分からん道見て分かる。ふでさき通り皆出る。今度道はいつどう、いつ見える、ふでさき皆知らせてある。大きなふし見える。大きふしなら、大きな心据える。大きなふし、大きなふしが出る。忘る一寸、どういう事、こういう事、泥水流れるなら、どういう事、いかなる水の掛かり。取次、これをしっかり聞き分け。又延びるやら知れん。今度の言わん道の処に、ちゃと掛かって居るで。
 日々一日、取次だん/\出で来る。日々事で、どういう処の道を尋ね、いかなる十分の道を尋ね。一つ泥水、取次一つ心、どういう処から掛かる。一つどういう事。一つ何時分からん。成程の道、こうなる纒まり、談示々々水の席火が出る、火の席に水が出る。そこで水の席に水、火の席に火を以て、いかなる処、談じ置かねばならん。

・・・・・・・
【読み方】
取次;とりつぎ
大道;おおみち
泥水;どろみず
名立;なたて
心据える;こころすえる
纒まり;まとまり
談示;だんじ
・・・


【割書きの増野正兵衛について】

 改訂天理教事典の「増野正兵衛」の項を見ると、明治17年2月に身上助けを頂いて入信をして、教祖にご対面した折に「いずれはこの屋敷に来ないかんで」と言葉を頂いている。その後明治20年5月14日(陰暦4月22日・おさしづ1巻55頁)におさづけの理を頂き(※1「改訂天理教事典」では明治20年5月4日となっている。)、明治22年12月31日に、教祖のお言葉通り、お屋敷に住込みとなる。
 また、それ以前の明治21年に教会本部が設置されてから、本部会計兼派出係として、年祭活動の経理運営に尽力した。
 さらに、おさしづの割書きを「増野正兵衞」で検索をすると300件以上あり、おさしづの内容を見て見ると、本人の心得違い、いんねんによる身上というよりも、刻限同様に、親神様が話しを聞かせたいがために、身上にして引き寄せたと思われるものが多くあるように思える。
 これらの事を考えると、このおさしづも、刻限同様の仕込むためのお話であろうと思われる。

増野正兵衛(ますのしょうべい)。。おさしづの理解のために。。 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

【このおさしづから思う事】

まず、「おふでさきに関するおさしづ」という事から、「おふでさき(ふでさき)」という言葉の出てくるところから見て見ます。

「治める処々、名立しかり分かって分からん道、分からん道見て分かる。ふでさき通り皆出る。今度道はいつどう、いつ見える、ふでさき皆知らせてある。大きなふし見える。」

何が起こっているのかは、これだけでは分かりませんし、「名立」がどういう意味か分かりません。しかし、「おふでさき」に記されたとおりの事が起きていることは理解できると思います。これによって、「おふでさき」が予言の書と言われても良いかと思います。

そして、おふでさきの一番最後のお歌。
このはなしあいづたてやいてたならば
なにゝついてもみなこのとふり (17-74)
「このはなし合図立てあいでたならば、何についても皆この通り」とのお言葉と、重なります。

そして、この「合図立てあい出る」という事は、教祖のひながたが万人のひながたと言われ、人々が陽気ぐらし実現できるための手本という事と、そして、おふでさきはその道中での仕込みの書である事も考え合わせると、時旬はその時だけではなく、状況が重なれば繰り返し出現すると考える事も出来ると思います。

そうした時に、「取次々々、だん/\取次、しっかり取次、道付け始まる。」と言われる「取次ぎ」という役目の人々が重要になってくるとも思われるのです。

そして、この明治20年は、教祖が現身を隠されて、世界の人々は天理教はもう終わりだと思う中です。しかし、次々と不思議な身上事情の御守護が現れて、おたすけ人はご存命の教祖のお陰として、教祖の一年祭に向けて歩む時でもあります。

そして、身上事情を頂く人の中には、この増野先生のように、逐次おさしづを伺う方もあり、そうでない人もあった事でしょう。

そうした人々の中に「取次ぎ」になる方があり、その方々への注意を述べられているように思えます。

 

このおさしづの内容は、

「道付け始まる。どういう大道々々、大道の掛かり。どういう、何人々々、幾名、一人思案定め/\。泥水だん/\迫り、泥水が澄まする。治める処々、名立しかり分かって分からん道、分からん道見て分かる。」

この「道付け始まる」の「道」とは?と考えた時、教祖が現身を隠される時に許された教会を芯として歩む道とも思えますが、従来からおふでさきにも述べられているかんろだいを建立する道、かぐらづとめを完成させる道などとも思えます。
 ともかく、そのような道がはじまり、その道というのは一寸した道ではなく、大道になる道であり、その大道になるための始めだしであると言われていると思います。

次に、「何人々々、幾名、一人思案定め/\。」ですが、道についての話と、取次ぎについての話と考える時、取次ぎ人の人数が何名もあり、その中で一人ひとりの思案定め(心定め)が重要と言われているように感じます。

そして、「泥水だん/\迫り、泥水が澄まする。治める処々、名立しかり分かって分からん道、分からん道見て分かる。」の「泥水」をおふでさきに言われる水から思案すると、欲得にまみれた者と考える事が出来、それらの人々が起こす事情が現れて来る事を「泥水だん/\迫り」と予言されているように思えます。そしてそれらの泥水を澄ます事、治める事、これが「泥水が澄まする」で言われて、これを取次ぎに求められている。その様にも思えます。

次の、「名立しかり分かって分からん道、分からん道見て分かる。」は、「名立」は分からないものの、このように泥水を澄ます道は、分かるようで分からない道であるが、この分からない道を順序だてて見て行けば泥水を澄ます道理が分かる。と言われているように感じます。

そして、「ふでさき通り皆出る。今度道はいつどう、いつ見える、ふでさき皆知らせてある。大きなふし見える。」と、前に書いたように、おふでさきとの関係について述べて、その中で「大きな節が見える」とこれから先の事を予言されています。

さらに、「大きなふし見える。大きふしなら、大きな心据える。大きなふし、大きなふしが出る。」と、この大きな節に対しての心構えを、「大きな節に対しては、大きな心を据える事が必要」と述べられています。

次に「忘る一寸、どういう事、こういう事、泥水流れるなら、どういう事、いかなる水の掛かり。」
とありますが、ここの「忘る一寸、どういう事、こういう事・・・」これは、まったく意味が分かりません。
ただし、「泥水ながれるなら」とありますので、今話題にされている「泥水が迫る」ことに関しての事だと思われます。

 おさしづはリストの頁で上げた、同じと思われる、おさしづ「m30.8.14」『永尾よしゑ身上願』(4巻2804頁12行)と「m31.8.14」『永尾よしゑ身上願』(4巻3067頁9行)を細かく比較すると、とても良く分かるのですが、聞き取れずに書き洩らしていると思われるところがあるのです。
 他のおさしづに、早すぎて聞き取れない、書き取れないと申し上げるものもあり、重要だからゆっくりと話すといわれる物もある事からも、この点は理解できると思います。

そして、「取次、これをしっかり聞き分け。」とこれで、正しく増野先生個人に対するおさしづではなく、「取次ぎ人」に対する話であり、とても重要な話しであることがハッキリすると思います。

次に、「又延びるやら知れん。今度の言わん道の処に、ちゃと掛かって居るで。」とありますが、この「又延びるやら知れん。」という言葉は、この話を刻限話とした時に、刻限話にはよく「遅れてある」などと、本来定めた時とはずれて物事が起きていたり、言いたいけれども遅れていて言えないなどという言葉が見受けられる事から、「この泥水が迫る事情が起きるが、それが遅れるかもしれない」と言われているように思えます。

そして、「今度の言わん道の処に、ちゃと掛かって居るで。」から、道には「言う道」と「言わない道」がある事が分かります。そして今回分かるであろう道は「言わない道」であることも分かります。しかし、「ちゃと掛かって居るで。」は全く理解できません。

 

これは、おさしづを研究する方法に関してになりますが、

今回話題になっているのは「取次ぎ」とその取り次ぎに教えたい「泥水の迫るふし」についてです。

そこで、この前後のおさしづを読む事で、この時に何が起きたのかという事が推測できると思います。

おさしづは個人的であったり、今回のように特定の人々、また外部には漏らさないようにというものがあります。

ですので、天理教事典で書かれている年表では分からない事柄もありますので、様々な教会史などを調べる必要があると思います。

そしてこの作業によって「泥水の迫るふし」を理解でき、泥水の意味もよく分かると思います。

そしてまた、「取次ぎ」でおさしづを検索して、こんかい「おふでさき」に関して書いているように、「取次ぎ」に関してどのように述べているかをまとめる事も一つでしょう。

私も時間があったら、これらについても調べてみたいと思いますが、こうした事を考えておくと、他のおさしづを読んだ時に、結びついて理解が深まる事が良くあります。


次の段落を変えての

「日々一日、取次だん/\出で来る。日々事で、どういう処の道を尋ね、いかなる十分の道を尋ね。一つ泥水、取次一つ心、どういう処から掛かる。一つどういう事。一つ何時分からん。成程の道、こうなる纒まり、談示々々水の席火が出る、火の席に水が出る。そこで水の席に水、火の席に火を以て、いかなる処、談じ置かねばならん。」
は、これまでの部分とは違い、ブツ切れの言葉のように感じて、まるでメモのように思えます。

先に書いたように、書き取り人が書ききれずにこのようになったとも考えられますが、他の話題による一連のおさしづを読んでみると、最初はおおざっぱで訳の分からない話しが、「押して願い」や「○○という事でありますか」などと尋ねたり、後日「以前に言った通り」などと言って、後に意味が分かる事があります。

ですので、ここについては、今回は触れずに置きます。

 

私は、おさしづを読んで気になると、次々と調べたくなります。すると、どんどん深くなって書く事が出来なくなってしまいます。

ですので、おさしづに親しみ、研究する一端をと思ってのこの投稿ですので、

今回は、私が読んで思うがままに、書きましたので、その点をご了承いただきたいと思います。

 

そして、最期に「取次ぎ人は、その内容を理解して、人々を導く事が重要」と思いました。(復元の研究グループにはこの感想だけを書いています。)

以上とします。

大変な世の中ですが、親神様の思いが世界へ広がりますように。。。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

増野正兵衛(ますのしょうべい)。。おさしづの理解のために。。

2022年12月20日 16時43分38秒 | おふでさきに関するおさしづ

おさしづを読み、内容を理解する上に、願い人がどのような人であるかはとても重要な事である。

そのために、「改訂 天理教事典」から抜粋して、今回は割書きに300件以上の名前が出てくる「増野正兵衛」先生を書いておく。

・・・・・・・

 【増野正兵衛】ますのしょうべい

   嘉永2年(1849)3月1日、現在の山口県萩市において、長州萩藩士増野庄兵衛を父に、その妻ふさを母として生まれ、幼名を友次郎といった。
 武士の子として藩校明倫館で学問と武術を仕込まれ、頭脳明晰、柔術にすぐれていたといわれるが、12歳にして城内の記録係に取り立てられ、13歳で明倫館の書物係に任ぜられた。幕末の激変の中で青年期を送ったが、15歳頃には倒幕軍に加わり、明治2年(1869)に天皇の親衛隊員に選ばれて東京に移住した。
 間もなく護衛兵を辞職し、鉄道に関する理論や知識を学んで明治5年、日本最初の鉄道開通とともに鉄道員として再出発。早くも明治11年には神戸三宮駅の助役に昇進した。
 しかし、この頃から持病の脚気が再発し、その上妻いとが「そこひ」を患うという状態になって、鉄道を辞職し、三宮元町に洋品店「東京屋」を開いて自営に転身した。商売の繫盛とは裏腹にいとの病状は医薬の効なく悪化して失明寸前となった時、ふと幼ななじみの吉田蝶子を訪ねたのが入信の動機となった。夫婦が心を決めて親神の話を聞き、お願いしてもらうと、翌日には妻が視力を快復し、正兵衛の病状も好転しはじめた。驚喜した二人は熱心に信仰しはじめ、20日程後には二人とも全快したのである。明治17年2月のことであった。
 翌月神戸の信者達と共に初めておぢば帰りした正兵衛は初対面の教祖(おやさま)から、「正兵衛さん、よう訪ねてくれました。いずれはこの屋敷に来ないかんで。」と言葉をかけられ、身の震える感動を覚えたという。
 その後、正兵衛は家業を妻に委せ切り、何かと言えば、おぢばに帰って教えを受け、儲けをつぎ込んで教会公認運動を助けた。明治20年5月4日にはおさづけの理をいただき(※おさしづには、明治20年5月14日(陰暦4月22日・1巻55頁)とある。)、明治22年12月31日には神戸を引き払って元の屋敷に住み込むことになる。この時、結婚15年目にして妻は懐妊し、長男道興を安産した。
 明治21年に教会本部が設置されると、彼は本部会計兼派出係に任ぜられて教会本部のおぢば移転や、年祭活動の経理運営に尽力した。さらに明治29年に発令された内務省訓令下の厳しい状況下で不振に陥った中河、敷島、日本橋、兵神等の教会の教勢再興に力を尽くした。また、明治34年に教区制度が発足するや第一教区の担当者となり、教区内の全教会を巡回して、第一線で苦心する教友を励ましながら自らもにをいがけ・おたすけに励みつつ布教力増進に努めた。そのような努力の中で大正3年(1914)11月21日、65歳をもって出直した。正兵衛がこの世の限りとした所は巡教地大阪の教務支庁であった。

以上

・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おふでさきに関するおさしづ 0 リスト

2022年12月19日 16時58分36秒 | おふでさきに関するおさしづ

「復元」を研究する という、Facebookのグループで、「おふでさき」に関して書かれていた「続ひとことはなし」を順次投稿して、私の感じる所を書いていた。

その最後の所で、「おふでさきに関するおさしづ」のリストが書かれていた。

そのリストを乗せるだけで、ひとことはなしは終わりにしようかと思ったのだが、このおさしづに関して思うところを書いたら、おさしづを勉強するきっかけになるのではないかと、今公刊されている7巻本で調べて、順次投稿して来た。

それを、これから順次このブログに公開して行きたいと思う。

おさしづに関して書く事は、すべて現在の私が感じる事であって、教会本部が公式に出している解釈などではなく、あくまでも共々に考える「参考」になればと思って書くものであることを承知して頂きたい。

また、このリストは、8巻本でのリストである。

そこでまず、おさしづの8巻本と現行の7巻本の違いについて書かれてある「改訂 天理教事典」の「おさしづ改修版」の項目に、註釈をつけて下記のように書いておく。

【おさしづ改訂版】
 公刊本「おさしづ」の公刊初版は、昭和2年(1927)から6年にかけて、33巻の分冊で出版された。これを昭和11年から12年にかけて8巻にまとめ、両年祭記念として全教会に下付された。
 ところが、昭和の革新によりやむなく回収廃棄となった。第2次世界大戦終了後、直ちに復元を打ち出した中山正善2代真柱は、「おさしづ」の再販再下付を指示したが、紙型が使用に耐えなくなっていたので、再編集を企画、その業をこふき委員会に託した。
 こふき委員会は、再度「おさしづ」の書き下げを収集し、筆蹟と紙質の鑑定を行い、従来の8巻本のものを
(1)本文については、
 ①平仮名を可能な限り漢字にあらため、
 ②読点(とうてん「、」)だけであったのを、句読点(「。}「、」)を併用し、
 ③重複を省き、
(2)割書については、
 ①教祖以外の人名は敬称を省き、中山様とあるのは眞之亮に、
 ②教理にしたがって用語を統一し、
(3)旧暦、新暦とあるのは陰暦、陽暦に改め、
(4)8巻目の補遺は各当該年に配当して、新しく収集されたものを以て新たに補遺とし、
(5)教会事情は、その目次を増補すると共に、明治26年(1893)以降の同じ言葉は、巻末に一括して50音順に配列したものである。これは、昭和38から41年にかけて7巻にまとめて出版・下付され、改修版と称した。教祖90年祭の折には、この改修版の縮刷したものが出版された。

とある。

 つまり、ひらがなで書かれた8巻本の「おさしづ」が昭和12年までに発刊されたが、それが政府の方策により回収されて、昭和21年以後に漢字交じりの7巻本として再度発刊されたという事である。

さて

 ここで一つ注意が必要と私が思う事は、元はひらがなで書かれていたものであることと、そしてそれを再編集する当時の人々の解釈で漢字が当てられているという事は、当てられた漢字が親神様の思いと違っている可能性もあるという事です。

 その様に思う一つの要因は、

 年数だけが違って、同じ日にちで同様の内容の物が、7巻本にある事からです。(※1 おさしづ「m30.8.14」『永尾よしゑ身上願』(4巻2804頁12行)と「m31.8.14」『永尾よしゑ身上願』(4巻3067頁9行))

 重要な事は、正解を憶えるのではなく、正解を導く作業をする事だと私は思います。
 その作業とは、調べて、ねりあうことで、これによって、それぞれが様々な悟りを得る事が出来、さらに実践する事で、成人の歩みの糧となると思われます。

・・・・

次に、本題の

『続ひとことはなし』に記されている『おふでさきに関する「おさしづ」』のみリストを以下に書き出しておきます。

ここに8巻という数字が出て来ますので、現行の「おさしづ」7巻本ではなく、その前に公刊された8巻本です。
・・・・
(1)●1巻 明治20年6月24日(旧5月4日) 増野正兵衛身上伺 通巻45頁 8行目
(2)●1巻 明治20年  松村栄次郎へ御指図  通巻59頁 8行目
(3)●8巻 補 明治20年7月23日(旧6月3日) 増野正兵衛体内あちらこちらうづくに付伺 通巻7648頁 13行
(4)●1巻 明治21年4月17日 夜9時 刻限 通巻86頁 8行
(5)●1巻 明治21年7月24日(旧6月16日)上段の間より本席様の台所を境とし渡り家取払ひ建家新築の願 通巻131頁 7行目                                                                                     (6)●1巻 明治22年3月10日 松村吉太郎3月6日の御指図に『生涯の理もさとそ』との事に付伺 通巻307頁 12行目
(7)●1巻 明治22年4月28日(旧3月29日) 兵神分教会新築の事に付所々へ名をかたり行く者ある故、新聞に広告を出す伺 通巻343頁 4行目
(8)●1巻 明治22年5月7日(旧4月8日) 梶本松次郎二女みち夜泣き障りに付伺 通巻348頁 11行
(9)●1巻 明治23年9月7日午後10時30分 刻限 通巻792頁 5行目
(10)●3巻 明治26年1月13日夜2時45分 刻限の御話 通巻1714頁 12行目
(11)●3巻 明治26年7月12日夜 前の御指図12行目に付願 中山会長様の御身上願(久しく座りていられると目まいして座りていられる事出来ぬに付) 通巻2019頁 12行目
(12)●3巻 明治27年3月4日12時半頃 刻限の御はなし 通巻2289頁 3行目
(13)●3巻 明治27年4月3日午後2時 刻限のおはなし(但し政枝縁談の話) 通巻2331頁 5,6行目
(14)●3巻 明治27年7月26日朝 日清間事件に付朝鮮国へ人夫5百人本部より出す願 通巻2460頁 10行目
(15)●5巻 明治31年6月3日 先般梅谷たね、永尾御指図より本部員会議の上、農行衆なり日々本部で御勤被下青年の御方に、月々一度宛御話する事、本部長様の御許しに相成りしに付神様の御許頂き度願 通巻4229頁 13行目
(16)●6巻 明治33年9月14日夜9時 刻限の御話し 通巻5418頁 3行目
(17)●同巻 同日 同割書き 通巻5419頁 7行目
(18)●6巻 明治33年10月31日午前2時 刻限お話し 通巻5561頁 10行目
(19)●6巻 明治33年11月22日 安堵の飯田岩次郎の事情に付九州地方へ桝井政次郎派出する事願 通巻5619頁 7行目
(20)●8巻 明治37年2月25日(旧正月10日)此度神道本局より天理教会長に対し内務省よりの達しには教長是非上京せよとの事に付明日より御上京被下事御許の願 通巻6863頁 7,11行目
(21)●8巻 明治37年8月23日 日露戦争に付天理教会に於いて出征軍人戦死者の子弟学資補助会組織致度願 通巻6954頁 3行目
(22)●8巻 明治40年5月21日(旧4月10日)午前2時半 刻限御話し 通巻7581頁 8行目

以上

・・・・
※1 参考;おさしづ「m30.8.14」と「m31.8.14」『永尾よしゑ身上願』

この二つの資料から、様々な事がわかると思います。

No.1 :(4巻2804頁12行)
明治30年8月14日 
『永尾よしゑ身上願』
さあ/\尋ねる事情/\、身上にどうも心得ん事情という。心得ん事情尋ねば事情はもうこれなか/\。これ何ぼうとも積むに積めん、事情つかえたる事情諭す。あちらこちらどんとどうもならん。今日は尋ねにゃならん日に成ったる。事情積むに積めん事情に成ったる。身上障り身上障りもだん/\ある。だん/\事情中にどうもならん事情ある。明日は今日はと思いながら、日々夜々堪えられん事情、この事情聞き取って悠っくり書き取って、さあ多く事情あちらでこちらで、これはどうも何とも言えん。言えんと言うて、諭せんと言うは分からん。これまで道すがら、善い道ばかりやない。艱難苦労いつ/\通り、よう/\日及んだる。よう聞き分け。深い話する/\。心という理をそれ/\互い/\理以て運ばにゃ、善い理というは埋みよい。理は埋みよいというはどうであろ。これ皆勝手という。勝手という理は、このやしきには一つも無い。長い年限杖柱という理は、深い理か浅い理か、これ聞き分けば何のさゝわりも無い。皆俺も/\勝手通りたる。この日が出てからどんならん。あちら又通りこちら又通り、怖わい/\と言う。今度通ろうと思て居て、その道変わりてありたら、いか程通ろと思て通れん。よう聞き分け。長い年限何処にどうという事あったんやない。杖柱という、天より入り込み始め掛けたる理聞いて居る。これまで長い年限今日から始め掛けようかと言う。杖柱という理聞き分け。聞き分けにゃならん。聞き分けして皆それ/\治まれば一時も治まる。これはこうやけれどこれでこうと、運んでからどうもならん。どんな道付けても取れて了たら通れん。三十年以来親子諸共という、これ杖柱という理、聞き分け。聞き分けば、これ重い理か軽い理か聞き分け。金銭で買われば相当の金を持って行けばよいもの。この一つ理聞き分け。今日の障りは、ほこり強いのやろうと言う。言う者は有ろまいなれど、心の理から今一時聞き分け。西とか分からん、東とか分からん。大難という中でも舵の取りようで行く。これ聞き分けにゃ分からん。今日の日明日の日分からん。続いて行けば、何処までも行けるなれど、変わりた事やと言う。世界有りてはならん。これ聞き分けて治まれば身は何でもない。出る者は勝手に出てると言う。入る道は、どうでも我が一名以て日々送り来たる。大難からおき中にさあ危ないという。どんな中でも舵一つの取りようで治まるという。

『押して、政甚の事』
さあ/\話し掛けたら理を分かる。何でもないよう思て居たら、ころりと違う。末代伏せ込んだ理は、親子貰い受けて伏せ込んだ。傭人とは違う。傭人なら何ぼかやればそれで十分。親子の理それ/\ある。これ話し掛けたら、ほんに成程の理分かるやろ。もう一段話。席という、席の心さしづは、席の心のさしづと必ず思うな。今日の席と言うたる。万事一時に尋ねば一時にさしづ。さしづは何処からさしづ。皆理持ったるさしづ。席と言うたて、心映りて話すれば、話する。人間心ある。人間心持っては、舵という理は何処にあるか。聞き分けてくれにゃならんで。

・・・
No.2 :(4巻3067頁9行)
明治31年8月14日 
『永尾よしゑ身上願』
さあ/\尋ねる事情/\、身上にどうも心得ん事情という、心得ん事情尋ねる。事情はもうこれなか/\これ何ぼうとも、積むに積めん事情つかえたる事情諭す。あちらこちらとんとどうもならん。今日は尋ねにゃならん日になったる。事情積むに積めん事情になったる。身上障り/\もだん/\ある。だん/\事情中にどうもならん事情ある。明日は今日はと思いながら、日々夜々堪えられん事情、この事情聞き取って、悠っくり書き取って、朝多く事情、あちらでこちらで、これはどうもならんとも言えんと言うて、諭せんと言うは分からん。これまで道すがら、良い道ばかりやない。艱難苦労いろ/\通り、よう/\日及んだる。よう聞き分け。深い話する/\。心という理恐れ/\、互い/\理以て運ばにゃならん。善い理というは埋みよい。善い理は埋みよいというはどうであろう。これ皆勝手という。勝手という理はこのやしきには一つも無い。長い年限杖柱という理は、深い理か浅い理か、これ聞き分けば何の障りも無い。皆俺も/\勝手通りてる。この日が出てからどんならん。あちら又通りこちら又通り、怖わい/\と言う。今度通ろうと思うてその道変わりてありたら、いか程通ろうと思うても通れん。よう聞き分け。長い年限何処にどうという事あったんやない。杖柱という。天より入り込み始め掛けたる理聞いて居る。これまで長い年限今日から始め掛けようかと言う。杖柱という理聞き分け。聞き分けにゃならん。聞き分けして皆それ/\治まれば、一時に治まる。これはこうやけれどこれはこうと、運んでからどうもならん。どんな道付けても、逸れて了たら通れん。三十年以来親子諸共という。これ杖柱という理聞き分け。聞き分けば、これ重い理か軽い理か聞き分け。金銭では買われん。金銭で買われば相当の金を持って行けばよいもの。この一つの理聞き分け。今日の障りはほこり強いのやと言う者はあろまい。なれど、心の理から出るものは、勝手に出てると言うて居る。道はどうでも、我が一名以て日々送り来たる。大難から多き中に、さあ危ないという、どんな中でも一つの取りようで治まるという。

『押して、政甚の事』
さあ/\話し掛けたら理を分かる。何でもないよう思て居たら、ころりと違う。末代伏せ込んだ理は、親子貰い受けて伏せ込んだ。雇い人とは違う。雇い人なら何ぼかやれ。それで十分。親子の理それ/\゛ある。これ話し掛けたら、ほんに成程の理分かるやろう。
もう一段話、席という席の心、さしづは席の心のさしづと必ず思うな。今日の席と言うたる。万事一時に尋ねば、一時にさしづ。さしづは何処からさしづ、皆理持ったるさしづ。席と言うたて、心映りて話すれば、話する。人間心ある。人間心持っては、舵という理は何処にあるか。聞き分けてくれにゃならんで。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする