『ウソに追従これ嫌い、欲に、高慢大嫌い』と聞かせられまして、ウソ追従を言わない者はありません。また、欲と高慢のない人はございません。皆だれでも多いか少ないか心にありますから、行いに表れますので、ウソは言わんように、お追従はしないように、欲をかかないように、高慢を出さないように、日々注意することが肝心でございます。
人間の凡人の心では、人に悪く言われると気持ちが悪い。よく言われると気持ちがよい。また少しでも人の上に立つとか、人に立てられるとかすれば嬉しいものであります。また、人の下について通らなければならないとか、人にけなされるというと、いまいましく思うものでありまして、これはどうでも離れる事の出来ない、人情でございますので、自分もそうなら、人もそうなのです。ですから、人の事をけなせば、人も我がの事をけなし、人の頭を押さえたならば、人は反抗して我がの頭も押さえようとします。そこで互いに踏み付け合いをする事になります。そうなれば、内々もむつまじく通れないようになるのです。
だから、神様が互い立て合いと仰せられるのです。慢心(おごり高ぶる心)を出しては、互いに立て合う事が出来るでしょうか。人が失敗や、つまらないことを言ったり、したりしたならば、けなさずに教えるよう親切をかけ、悪いことを悪いとは言わず、違うことを違うとは言わず、「こうしたらどうでしょう」と言うように優しくして人を立てて、人の足らないところを補ってやるようにするのが、誠であります。
そこで神様が、「あの人は足らぬ人や、あほうな人やと言うならば、足りるよう、賢いようにしてやってくれ」と仰せられます。
人間は神様からの借り物ということを、聞き分けられたなら、足りぬ人やあほうな人を、笑ったりそしったりは出来ないでしょう。なぜならば、その足りぬとか、あほうだとか分かるのは、自分が神様のご守護を厚く頂いていればこそ分かるので、自分の力ではないのです。自分の力のように思うから、人が足らない事やあほうな事がおかしく見えるのであります。
そこで、「足らないものなら、足してやれ」と仰せられるのです。力を添えてあげなければならないのです。「あほうな者は賢くしてやれ」と仰せられるのです。同じように心を添えてやるより、他に道はございません。人間の力であほうを賢い者に出来ましょうか。決して出来る事ではないでしょう。
この理を聞き分けたなら、人を踏み付ける事も、ないがしろにする事も出来ないでしょう。この高慢の心は、積もり積もって、親をも踏み付けにする。主人をも踏み付けにする。そしてついには、理をも踏み付けにして、神様をないもの同様にするようになるのです。
そこで、ほこりという八つの中の、一番最後のトメに置いてお戒め下されたのでありまして、高慢は一番出やすくて、一番ほこりが大きいのでありますから、よくよく日々に注意しなければなりません。
高慢というほこりは、
知らぬことも知った顔で通りたい、人よりも偉い顔して通りたい、自分の言い条は理が非でも通したい。人の言い条はなるべく打ち消したい。逆らいたい。人のする事には非を打ちたい。と言うような心、
すべて一般からあの人は偉そうにする人やとか、あの人は我が強い人やとか、言われるような高ぶる心や、強情な心が高慢のほこりでございます。
この高慢の心がありますために、知らぬことを知っているように言いくるめ、粗相した事も、あやまるのが辛いために隠したり、人がバカにしたとか、頼りないと言ったと言って、腹立てたり、悔しいと思ったりして、さまざまの心を作ります事は、女の方には日々にある事でございます。そうした心の苦しみは発散できなければ身上の苦しみになるのでございます。
また、この高慢心がありますから、器量がよいものは器量自慢という心が、知らず知らず胸に出来て、人を目下に見下すようになります。女性、子供の学生などを見ましても、同じ同等の生徒であるのに、器量のよいものは何事にも先に立ち、器量の悪いものはまるでお供のように見える。その言葉の使い方でも、器量がよいものが言う言葉は、女中、身分の低い者に使うような言葉であり、誠に見苦しい事であります。これ、知らず知らずに器量がよいと言って、ほこりを立てたりするのであります。そうして、知らず知らずに心を奪われるのでありますから、よくよく注意をしなければほこりになります。
その他、何事も同様で、学生中でも少し出来がよいと、知らず知らず人に立てられるのにのってしまうのであります。
また、腕力が強ければ、腕力を持って人に自慢をする。財産のある者は、よいように見せて、よい物を持って、偉そうにします。それが、知らず知らず人を見下すようになって、知らず知らずにほこりを積むことも沢山ございましょう。また、自分の言い出したことは、間違った事でも何でも言い通したい。人の言うことを「なるほど」と言って自分の言い分を曲げる事が、大嫌いな性質の者もございます。
また、人が言い出した事は、良くても悪くても、一寸は逆らってみたいという性格の者もいます。また、人の穴を探して、非を打つことの好きな性格の者もございます。
また、目下の者と見ると、何を言うにもひどい言葉を使って、情をかけずに「自分のお陰だ」と恩に着せて、踏み付けるような性質もございます。こういう人に限って、上の人に向かうと必ず追従(ついしょう)もします。この性分というものは、なかなか直りにくいものでありますが、お話を聞いて、一つ一つ直すように心掛けなければ、結構に通る事は出来ません。
欲というほこりは、
人並よりは余計に我が身に付けたい、理にかなわなくても、人が許さなくても、取れるだけ取りたい、ひとつかみに無理なもうけ、不義な利益を得たい。あるが上にもなんぼでも(どれだけでも)我が物としておきたいというような心。
すべて、一般に欲の深い人やといわれるような心と、豪気強欲というような欲がほこりでございます。
この欲の心がありますと、人並みに物をもらっても、まだ不足に思い、どれだけあっても結構だと思えません。そこで、不足には不足の理が回ると聞かせられて、常に思うようになりません。思うようになりませんから、なお欲の心を強めるのであります。そして、欲の深い奴だと言われるようになるのでます。
そういう汚い心でありますから、人に分けてあげる物も自分は余計に取る。一割の利益が当たり前の商売でも、二割、三割の利益を得る。道に落ちた物は拾って自分の物にするばかりか、升目をかすめたり(量をごまかしたり)、田地(田畑)の境目を勝手に変えたり、勝負をしたり、相場をしたり、人が国のためとか、世のためとか言って、苦しんでいる中でも、自分はその機に投じて、莫大な利益をせしめようとしたり、貧民を苦しめて、絞り取って自分の懐を肥やしたり、そればかりか、色にふけり、酒におぼれて、色欲、食欲の強欲をとげるようになる。これが、豪気強欲でございます。
腹立ちというほこりは、
人が自分の気に入らぬ事を言ったと言って腹立ち、間違った事をしたと言って腹立ち、粗相をしたと言って腹立ち、自分の気が面白くないために、ささいな事にもむやみに腹立ち、
すべて、広く大きい心を持たずに、堪忍(かんにん)辛抱をせずに気短な心から腹を立てるのがほこりでございます。
例えて申しますならば、親が着物を用意してくれましても、自分は気に入らないと言って、むやみに腹を立て、むきになって、じだんだ踏んで怒るような子供もございましょう。
また、従業員や、家内や子供が、自分の気に入るようにしないと言って腹を立て、怒り散らして、「どうしてよいやら」と従業員や家内、子供がうろうろしなければならんような主人もございましょう。
また、目下の者が粗相でもすると、非常に立腹して、いたたまれないように怒り散らす人もありましょう。粗相は時の表裏(失敗と思っていたことが良いことになることもある)で、神様のなさる事と思えば、腹は立ちません。もし、自分が粗相をしたならどうでしょうか。黙って放っておくに違いないでしょう。
また、自分がなんとなく気が面白くないという時には、むやみに怒り散らしたり、ものに当たったり、道具を壊したりするような事もあります。あるいは、子供が言うことを聞かないと言って頭をたたいたり、小便をした、いたずらをしたと言って、ひどいめに合わせたり、子供は親の心通りのご守護という事を知らずに、むやみに腹を立ててしかる親もあります。
これはすべて腹立ちのほこりであります。
恨みというほこりは、
おのれの思惑を邪魔されたと言って恨み、人を不親切だと言って恨み、人の親切もかえってあだにとって恨み、人の粗相も意地でしたようにとって恨み、
すべておのれの悪い事を顧みず、人を恨むはもちろん、いんねんの理からなるという理を悟らずに、ただ人を悪く思って恨むのがほこりとなります。
例えば、自分が出世出来そうになったところを、他の人が登用されたために出世出来ないようになると、あの奴が邪魔しやがったと思って恨む。そうではありません。自分よりもその人のほうが事が出来るからです。
また、たとえ自分の方が事も出来、登用されるべき順序にあったとしても、いんねんという理を心に治めたならば、たんのうして、ますます慎み、行いを改めなければならないはずであります。ところが、あいつがいたために、あいつが邪魔したためにと誤解して、その者を恨む、これは大きな間違いでございます。
また、自分が心をかけた女を、人が取ったとか、または、女が他の男に心を寄せたとか言って、その女も男も共に恨み、自分が心得違いをしておったのだと、改心するところへ気が付かず、人を恨んで、その結果がケンカ、口論となり、はなはだしいことには、殴りつけたり、刃物で刺したりして、ついには殺害するに至る。恨みの刃を振りかざす例は、古今東西絶える事のないありさまで、誠になげかわしい至りでございます。
また、小さい事で申したなら、「あの人がこう言ってくれればよいのに」、「言いようが悪いために、私は人に悪く思われる、不親切な人だ、憎らしい人だ」と心を沸かす。
また、人が自分の過ちを親切に忠告してくれても、悪く取って、「あいつがいまいましい事を言いやがる。今度奴の穴を探して仕返ししてやらなければならん。」などと思って、心中大いに恨んでいる。あるいは、人が粗相で自分の器具などを傷つけても、「あいつが粗相をするなんて、これは意地からしたに違いない、ひどい奴だ」と胸に持つ。
こういうような取り違いをして、日々ささいな恨み心を起こす事が数々あるのでございます。これは、心ばかりのことで、目にも見えませんが、これがほこりと聞かせられますので、積もり積もって身上に迫るようになります。
憎いというほこりは、
我の気に入らん、またはむしがすかんと言って、罪なき者を憎いと思い、粗相をしたり、過ちがあったからと言って憎いと思い、我に無礼だとか、失礼だとか言って憎いと思い、すべて、おのれの気ままな心、邪険の心から人を憎いと思うがほこりであります。
例えば、姑が嫁を憎いと思うことは、まま親がまま子をいじめるようなものでございまして、これは邪険と申せましょう。この邪険の心、勝手、気ままの心が憎いというほこりを助けて、われの憎いと思う者へは荒くあたり、きつくあたり、無理を言い、与えるべきものも与えず、他の者は喜ばせながら、その者には泣かせるようなことをする。
あるいは、良いことがあっても、それはおくびにも出さず、少しでも悪いことがあれば、針ほどの事でも棒ほどにして、その者の事を悪く言います。あるいは、大勢の中で恥をかかすような事も致します。他人の目から見ても、むごい人や、非道な人やと言われるようになる。
こういう邪険なわがままの人に限って、一寸した事に憎いという心をわかす代わりに、また一寸した事に可愛いという隔ても致すのでございます。一列兄弟、皆可愛いという心を持って、例え過ちがあろうとも、自分に失敬な事をされようとも、悪いところは改めさせるようにして、人を憎いと思う心は沸かさないようにしなければなりません。
可愛いというほこりは、
可愛いという愛情のないものは無い。しかし、その愛情に引かされたり、おぼれたりする愛着心と、今一つだれ彼の隔てをして、その者に限り別段に可愛いという偏愛心とがほこりでございます。
例えば、我が子の愛情におぼれて、身の仕込みも十分せず、心のしつけも厳しくせず、気まま勝手に育てて、成人した後に後悔するような事もしばしばあることでございましょう。また、我が子のあやまちを人の子に塗り付けたり、人の子の手柄を我が子に横取りしたりするような、目のくらんだ親も無いとはいえません。また、我が子の愛情に引かされて、自分のつとめを怠ったり、身分不相応なものを求め与えて、罪を作ったり、はなはだしい事には、我が子可愛いために、人の物に手をかけたり、悪い了見をおこしたりする者もしばしばありましょう。
また、この愛情は、子供の上ばかりではありません。女の愛におぼれて、大事なことも打ち捨てて、家をつぶし、身を反故にするものも、しばしばございましょう。
大きく申せば国家のために忠義をつくす人でも、一夜の間にも、女の愛にほだされて、不忠不義の人となったためしも少なくはないでしょう。これらは、ただ我が身を反故にするのみではありません。家をつぶせば、家内の者を困難の淵に沈めるのであります。国家のためにあやまれば、国の人びとに災いを及ぼすのであります。どれだけ大きい罪とも知れません。
また、この可愛いという凡人の心のために、前申しましたような行いは致さなくとも、可愛い可愛いの心から我が心を苦しめ、先あんじや、嘆き、口説きを重ねて、自ら我が心や身上を病む親も沢山ございます。こういう凡人の心が、お話しの理によって自らのいんねん、事情を聞き分けて、神様にもたれるという安心を定めて、発散しなければなりません。
また偏愛というのは、例えば大勢の子供を預かっても、皆同じように心をかけずに、その中の一人二人を別段に愛すると言うような事や、または、我が子のある中へ人の子を預かって育てたり、まま子を育てる事があった時に、我が子のみを可愛がり、我が子にはよいものを与えて楽をさせ、預かり子やまま子には悪いものを与えて、辛い事をさせるというような、へだてて可愛がるのがほこりでございます。
そういうふうに致しますと、皆心がひがみ、心がいがんで、絶えず争い事が生じて、互いにむつまじく通ることは出来ません。そこで多くの人間を悪く仕込むことになってしまいます。それはどれだけの罪とも知れないでしょう。第一に、こういう隔ての心は、天の理にかないませんので、偏った愛情は心にもたず、一列同様の愛情をもって、愛着心を生じないよう通らせてもらわなければなりません。
惜しいというほこりは、
治めねばならぬものを惜しいと思い、かやさねばならぬものを惜しいと思い、人に貸す事を惜しいと思い、ぎりをするものを惜しいと思い、人に分配する事を惜しいと思い、難渋に施すものを惜しいと思い、人のために暇を費やすのを惜しいと思い、
すべて出すべきものを惜しいと思うはもちろん、人の助かる事、人のためになる事に費やす物事を惜しいと思う心がほこりでございます。
又、身惜しみと言う、横着な心も惜しいのほこりと聞かせて頂きます。この惜しいという心がありますから、人を助けるということもできません。返すものはだんだん延びる、返礼は薄くなる、納めねばならぬ金銭も怠る、義理を欠く、人が物を貸してくれと言えば、あるものも無いと言ったり、空いているものもふさいでいると言ったりして、うそをつくようになる。こうなれば、だんだん恩を重ねるばかりで、人には悪く言われ、けちんぼなどとそしられて、人のほこりのためにもなります。
また、出すものは出し、やるものはやりながらも、この惜しいという心のために、理を失ってしまう事がしばしばあります。例えば、人に物をやっても、もっと少しにすればよかったと思ったり、神様へお供えしてもああ惜しい、お供えしなければよかったと思ったり、物を買いましてもせんど値切って、向こうが負けると言うと、もっと値切ってやればよかったと思ったり、惜しいけれども義理で仕方がないと思って出したりする事がしばしばありましょう。
こういう心遣いでは、せっかく出しながら、心で取り返してしまう理で、何にもなりません。そこで神様は、そういう心を出すものは、人は受け取っても、天が受けとらんと聞かせられます。丁度、種をまいてすぐ掘り返しているようなもので、労して功なしでございます。そしてまた、事によっては、大層惜しいと思いますが、惜しいと思っても取り返しがつきません。そして惜しい惜しいの心が残念となり、心の悔やみとなって、ついに気が狂ったり、病が出たりする事も、しばしばあることでございます。
これは、惜しいという凡人の心のために、我がと我が身を殺すものと言わなければなりません。また、身惜しみ、骨惜しみという事も同じことで、例えば、どのような勤めをしているとしても、心で満足せず、つらい、うたてい(方言?)と思って嫌々(いやいや)した分には、天のお受け取りはございません。すなわち、労して功なしで、やはり恩を被るような理になります。そういう心遣いである者は、人のいる前では働くような振りをして、人のいない所ではなまくらをするに違いありません。そんなものが、人のためになる事が出来そうな事はありません。いささかな骨折りで人の喜ぶことや、または、物が粗末になる事があっても、だれかがするだろうと思って放っておく。ちょっと一足そこへ出て、捨てて来れば片付く事でも、不精にして、放っておいて、だれかしてくれるだろうと思っている。互いにそういう心では横着の勉強をしているようなものです。
人間というものは、心も体も動かさずにはおられないものです。働いて楽しむように出来ています。それなのに、心が不精になり、身が横着になりますと、神様のご守護も不精になり、横着になります。一時によい働きをしようと言ったとしても出来そうなはずはございません。一生「使いにくい人や、頼みにくい人や」と言われて、のらりくらりして果ててしまって、この次の世に持ち越す理は、恩をきた理ばかりでございます。横着の心というものは出易いものですから、よくよく注意をしなければなりません。
欲しいというほこりは、
分限に過ぎたるものを欲しいと思い、与えもないのに欲しいと思い、人のものを見ては欲しいと思い、
すべて、我が身分を思わず、たんのうをせずして、欲しい欲しいという心がほこりでございます。
例えば、分限に過ぎたものというのは、おおよそ皆それぞれの、身分相応と言う事があります。百姓は百姓らしく、月給取りは月給相応の身なり、くらし方をせにゃならん。学生は学生らしくせにゃならん。同じ学生と言えども、それぞれの財産と境遇とによってそれ相応の程度にせにゃならん。しかし、何ほど財産があると言えども、学生はその学生たるの分限を守らなねば、ほこりであります。
例えば、良い服を欲しいと思い、又はよい器具を欲しいと思って求めたり、学生には不必要な物を求めるのは、たとえ与えがあるとしても、程度の過ぎたもので、ほこりでございます。なぜならば、ほかの同じ学生にほこりをつけさせます。すなわちそれは、我さえ良くば良い、という事になりましょう。これは大いなるほこりの根源であります。
また、与えもないのに欲しいと思い、人のものを見て欲しいと思う事は、例えば友達が時計を持っていると、自分も欲しいと思います。また、人がものを食べているのを見ると、自分も欲しいと思います。これはもっともな事で、だれでも同じ人情でございます。けれども、めいめいに与えがあるとか、無いとかいうことは、天のさい配であって、めいめいのいんねんからで、決して人をうらやむのではない。心を治め、たんのうをして、欲しいと思う心をさらりと捨ててしまわにゃならん。
何事についても同じ事で、欲しいと思う心がわいても、自分の身を振り返り、ふところを探り見て、求めるだけの理が無い時には、さらりとその心を捨ててしまえば、ほこりの理は残らないでしょう。しかし、この欲しいと思う心の理がこもって、捨ててしまう事ができなければ、悪い行いにもなって来るのであります。また、行いに現れなくても心の不平不足となり、不足の理が積もり重なれば、身の不足となります。ゆえにほこりであります。
もしも、身分不相応なものや、与えの無いものに、欲しいと思うところから、次々と求めますと、人には損をかける。内々には波風が立つ。様々なほこりが生じるましょう。また、それがだんだん長じて来ますと、人に損をかけるのも何とも思わず、借りたものはもらった物のように思い込み。内々のなげき、口説きも、全く心にかけないならば、人をペテンにかけ、生みの親をペテンにかけてまでも、我が欲しいの妄念(もうねん)を遂げるようになり、果ては、盗みもする、詐欺もするようになるのであります。
そうなればもはや、法律の罪人でございますが、そうなる元といえば、罪とも咎(とが)ともいえぬ、ただささいな欲しいという凡人の心であります。
よって身分を思わず、懐を考えず、むやみに欲しいという思い、念を起こすことが欲しいのほこりでございます。