あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

全教一斉ひのきしんデー

2022年04月29日 22時36分40秒 | 思った事

今日4月29日は、全教一斉ひのきしんデーでした。

昨日より雨の予報。

結構強い雨が降るだろうと。。。

新しい支部長さんから、ラインで9時には雨が降る予報なので中止にしますと8時に連絡が来た。

皆さんに配るお茶などを積み終えた矢先である。

どっちみち、連絡が行き届かずに来られる方を待たねばならないので、気にせずに出発する。

集合場所に到着すると、ひのきしん係の先生が箒を並べていた。

もう一人の先生から中止になったとの連絡を受けられたところでもあった。

集合時間にはまだ30分以上ある。

空には黒い雨雲である。

妻を含めて4人で、雨が降るまで落葉掃きをしようという事になった。

始めたところ、公園の所長さんが来られて、「どこの方ですか?」との事。

「お願いしていた天理教の者ですが雨が降ってくるので中止にしました。

それまでここを掃除させてもらいます。」と申し上げる。

ずっと掃除が出来ていなかったようで、落葉の下には沢山の草が生えていた。

30分ほどして、集合時間近くになったころ、落葉はほぼ袋に入れた。すると一人二人と近づいて来る方がある。

「ひのきしんデーに来てくださいましたか?」と声を掛けると、「そうです。どうなるかと思いましたが来ました。」とのこと。

「いつ雨が降り出すか分からないので中止にしたのですが、雨が降るまで草抜きをお願いできますか?」と申し上げて、ビニール袋とお茶を渡す。

ある教会の会長さんが来られて、「中止と連絡をもらったけど、信者さんが勇んでいるので来ました。雨が降るまでやらせてもらいます。雨が降ったら自由解散ですね。」と言って、ゴミ袋とお茶を持って行って下さった。

みなお年寄りだが、次々と集まって来られて、最終的には20名を越した。

落葉の下に隠れて居た雑草を抜くひのきしんとなった。

10時近く成ると、広場はとてもきれいになった。

私たちはさすがに疲れて来た。

みなで休憩しましょうと、子供たち用に用意したお菓子を「みんな教祖の子供だから」と言って渡して回って、一休み。

予報の時間が過ぎても雨が降らない。

もう少し頑張りましょうと、30分ほど作業をした。

これだけやれれば良いでしょうと、予定の時間より早めに終わりにして、集めたごみ袋を前に記念撮影を撮ろうとすると、後ろから「私が写真を撮りましょうか?」と声を掛けられる。

女の方である。よく見ると公園の係りの方であった。

終る様子を見て出て来てくれたようである。

お願いをして、私も入って記念撮影。

後片付けをして車に乗った途端に雨が降り始めた。

そしてどしゃ降りになった。

去年は緊急事態宣言まん延防止で、予定を変更したのだが、「もし誰か来たら」と、どしゃ降りのために作業も出来ずに、待っていた。結局誰も来なかった。

しかし今年は皆さんと気持ち良く、また公園の方にも喜んでもらえるひのきしんが出来たと、喜びが倍増した。

やらされるのではなく、やらせてもらおうという自主的な心に、不思議な御守護を頂いたように思えた。

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4月本部月次祭にて。。「やまさかや」とかしものかりもの

2022年04月27日 09時21分35秒 | 思った事

4月26日 本部の月次祭を参拝した。

今月はこれで4回目のおぢばがえりとなる。

今回も長男次男が休みをとっており、一緒に出掛ける。

長女も休みだったようで、アパートに迎えに行って神殿へ。。

9時開始の月次祭ではどうしても、後半下りの到着になる。

なんとか12下り目前に中庭に入り、神殿講話を聞いた後、礼拝場へ上がりおつとめをして、所用を済ませる毎月のパターンである。

天理へ入る道中、雨が降っていたが、駐車場についたら上がった。

中庭につくと、少し雨が降った様子だが、多くの人がパイプ椅子に座っていた。

4月18日のご誕生祭よりも、少なく感じた。

昇殿参拝は、各直属教会へ人数が割り当てられているが、その人数に到達しないのが現状でもある。

祭典後に昇殿しておつとめをする人々のようすを見ると、マスクはしているが、新型コロナどこ吹く風。という感じで、おつとめをしている。

世界の事情を見ていて、様々な人々がある事をすごく感じているが、それと同様に参拝者にも様々あり、それを取りまとめる役の人々の対応が、なにをするにも後手後手のように見えて仕方がない。

人々を自由にすればさほど問題もないのだが、規制を掛けるから問題が起きている、問題が見えてくる。

それによって人々はより学びを得ている。そんな気がする。

 

親神様は人間に、心の自由を与えられた。

心通りに動く身体を与えられた。これが「かしものかりもの」の話である。

しかし、心にほこりの心づかいを重ねて、ウソをついて、真実誠の心を失わせる心を使うと、自由に使えるはずの体が使えなくなる。

これは、親神様の働きが欠けてくるから。。というのも、「かしものかりもの」の話である。

さらには、人間は一人ではない。複数人が寄って生活をしている。

そのお互いの使う心で、人間同士の心の関係が築かれて、「天の帳面」の話の如く、人間同士にも貸し借りの関係が出来てくる。

 

さらには、ウソを平気で使って接して、それが正しい事だと思い込んで、そちらへ人々を引っ張る人になる場合もある。そして事情を起こしてさらに人々を苦しみに巻き込む。

これは、心に体を親神様が貸しているならと、頻繁に身上になる人からすれば、

どうしてそうした人々は元気で、次々と事情を引き起こすのだろうか。

と疑問がわくだろう。

ところがこの中に巻き込まれると、どうなるか、

ウソがウソを招き、自分を守るために人を殺めれば、自分が殺められないだろうかといった、不安な日々を送るようになるのである。

体が元気であるがゆえに、ドンドンと苦しみの中を歩まねばならなくなる。

金もあり体もドンドン治療して元気でありながら、心は不安にさいなまれていくのである。

私にはこうした状態は、業火にあぶられながらも生き続ける地獄のように思える。

この世に天国も地獄も出してある。といわれるところでもある。

そうした中に合って、身上や事情の苦しみから、自分のこれまでの歩みを反省して、人のためにと心を切り替える人もある。

ところが、そのように切り替えて、良い事をしたつもりでも、なかなか人から認められない。

そして、認められない事にまた不足をして、元に戻ってしまう。

いくら心を切り替えても、前生からの物があり、それを止める事は天の帳面からしても無理なのである。これが天の理である。

しかし、

それをたんのうの心で乗り越えて認められる道を、教祖は身をもって教えられた。

どれだけの事を言われても、腹を立てずに、親神様のお導きと定めて、人のためにと心尽くされたのである。

これが「信者の栞」の誠真実に書かれている。

 

この一連の流れを聞いて、「たんのう」の話を聞いていて、親神様を信じて、そのように通ろうと思うから、出来るのであるが、これを知らねば、いくら良い事をしようと思っても、自分の思い通りに是が非でも行おうとして、より一層「ほこりの心」を積み重ねるのである。

 

おふでさきの、「やまさかやいばらぐろもがけみちも つるぎのなかもとおりぬけたら」を思い出した。

このさきハみちにたとへてはなしする どこの事ともさらにゆハんで ( 1号046)

やまさかやいばらぐろふもがけみちも つるぎのなかもとふりぬけたら ( 1号047)

まだみへるひのなかもありふちなかも それをこしたらほそいみちあり ( 1号048)

ほそみちをだん/\こせばをふみちや これがたしかなほんみちである ( 1号049)

このはなしほかの事でわないほとに 神一ぢよでこれわが事 ( 1号050)

とあり、この内、中の三首は、メロディーをつけられて、演奏会などで歌われている。

1号50で「このはなしほかの事でわないほとに 神一ぢよでこれわが事 ( 1号050)」と、神一条(親神様の心に添って歩む)ならば、この道筋はそれぞれの歩みとなる。と言われている事からすれば、

山坂などと言われる苦労の道中がある事は当然の事と言える。

反対に、神一条で通っているから楽々の道が通れると思うこと事体が間違いだと分かるだろう。

なぜこの言葉を思い出したかと言えば、

自分の思い通りにならない事は、これまで前生前々生に積み重ねて来たものの清算であるとの考えと、山坂や茨ぐろう・崖路などが重なったからである。

だから、様々な困難に当たっても、我がの積み重ねたいんねんによるものとして、たんのうして自らの心を切り替えて歩む道、これが重要だと重ねて思うばかりである。

そして、過去のいんねんが切り替えられると細い道(自分の思い通りになる道)が見えて来て、それを重ねると色々な人をも導くような、大きな道を歩む事になるのである。

 

けれども、

この筋道を通るにも、まずは「かしもの・かりもの」が心に治まり、生まれ変わり出変わりを信じなければならない。

「かしものかりものが教えの台」と言われるところであると思っている。

その時だけの助かりを望むだけでは、親神様の望まれる陽気ぐらしには到底届かない。

その時のたすかりから「かしものかりもの」を得心して、末代かけての陽気ぐらしを望むことが大切ではないかと思う。

今世で悪いんねんを払いきれなくても、来生には払いきると心定める事も重要かと思う。

そうした中に、不思議と親神様のお導きを感じ、喜びを見つけられて、苦しい中にも楽しい暮らしを味わう事が出来ると思う。

 

今回の月次祭参拝では、めったに合わない人たちに会う事が出来た。

そうした中、北礼拝場の階段で昇殿を待つ間に、「すべてはいんねんによって成ってくる」その元は「かしものかりもの」と話した事から、思い浮かんだので書いておく。

 

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神の言葉を言う人・その意味を解釈する人・それを聞き実行する人、または反対する人。。。

2022年04月25日 21時41分54秒 | 思った事

表題に書いたことを理解できる人がどれだけいるだろうか。。

お道でいえば、「教祖・本席様」「取次ぎ人」「ようぼく・村方・官憲」となる。

この順番で、「ようぼく・村方」の心が定まらず、つとめ人衆が揃わなかった。

そこで道を「一列澄ますかんろだい」から「一列澄ましてかんろだい」へ変更されたのである。

 

今世界中の変革期に当たる。

多くのスピリチュアル系が、心の使い方について発信している。

古い宗教は、平和を神に願う、祈るばかりである。

この差がとても気になる。

 

そして、私が感じているのは、世界でウソをついて人心を欺き好き勝手してきた人々と、それを倒そうとしている人々の戦いである。

この戦いの勝ち負けは、ウソを見抜ける人が増えるかどうかで勝敗が決まるように思えている。

 

ようやくワクチンについても、おかしいという事が、浸透して、もしかしたら。。。人口削減が本当ではないか。と心配する人々が増えて来たように思うが、重要なのはそこではなく、ウソツキを見破るすべを会得する事なのである。

 

ワクチン接種での事は、イベルメクチンで後遺症も回復しているとの情報も出ていた。

問題はこれ以上接種しない事で、自分で判断して心の切り替えをする事である。

 

親神様のプランは既にできているが、人間の成人・気づきが出来ないと、プラン変更となりかねない。

今のウクライナの戦争。またそれに関わる世界機関の言動。

こうした事をしっかりと見聞きして、自らで考える事が大切だと思うのである。

 

親神様はこうした事で、私たちを試されている。

官憲が教祖を監獄へ連れて行かれた。

これに対して、人間は恐怖を感じて、親神様の望み通りに行わなかった。

教祖は平然と、神が連れていくとして、対応されるのに。。

 

親神様は陽気ぐらしを実現するために、かんろだいを建てて、かんろを授けて、善人と悪人を分ける計画だったのである。

これが実現できていれば、今どれだけ素晴らしい世の中になっていただろうか。とも思える。

しかし、そうは行かなかった。

人衆が揃わず、かんろ台の石は没収され、計画通りに運ばなかったのである。

 

すべての事柄は、それぞれの心を見定めるためのものである。

誠真実をつくせば、必ず親神様は受け取り、誠真実で返して下さり、普通では考えられない事をも見せて下さるのである。

 

おさしづで「研究せよ」と教えられている。婦人会の設立のおさしづにも出て来たと思う。

研究とは、自ら考えなければ研究とはならない。

教えられたことを鵜呑みにする事は、研究ではない。

研究とは、正誤を確かめる事でもある。

教えられたことを土台にして、自ら正誤を確かめる。

これも研究と言えるだろう。

 

自ら考え身につけるためには、時間がかかるのである。

しかし、求めれば与えられるのである。

幸せになるための、方程式を。。。

 

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とても気になる「おふでさき」12号。。。(4月24日追記)

2022年04月22日 08時59分51秒 | 思った事

先日より朝づとめで

おふでさき12号を読み、とても気になったので、ここに記しておく。

まず、この12号は、書かれた日付がおふでさき内に書かれている事。

そして、それを考えて読んでみると、とても重要な事を教えられていると思った。

そこで気になるところを赤字で示してみた。

(追記;この12号の日付また内容に関して気になり、捜したところ「続ひとことはなし」158頁より書かれている。

日付は外冊にて全部で15カ所あるとのことである。

後日まとめてみたいと思う。)

(1)

十二月廿七日より
けふからハせかいを月日みさだめて
むねのそふぢにかゝる事なり (12-1)

このそふぢうちもせかいもへだてない
めゑ/\の心みなあらわすで (12-2)

 

(2)

三月十四日より
いまゝでわ神のさんねん山/\と
むねにほこりがつもりあれども (12-3)

なさけないひがらもちいときたらんで
どのよな事もゆうにゆハれん (12-4)

このたびハ月日しんぢつみかねるで
どのよな事もみなあらハすで (12-5)

けふの日ハいかほとわがみはびかりて
まゝにしたとて月日しりぞく (12-6)

 

(3)

四月四日より
このはなしなにの事をばゆうならば
にほんもからもてんぢくの事 (12-7)

これからハせかいぢううを一れつに
月日そふぢをするでしよちせ (12-8)

これまでもせへいゝばいにことハりを
月日だん/\ゆうてあれども (12-9)

くちさきでゆうたるまでハたれにても
たしかしよちをするものハない (12-10)

 

(4)

五日
いまゝでも月日の心だん/\と
せへいゝばいにつくしいれども (12-11)

せかいにハたれかしりたるものハなし
とふむこのたび月日せひない (12-12)

それゆへにせかいぢううをとこまても
ことハりてをく月日しりぞく (12-13)

 

(5)

十二日
けふの日ハなにのはなしをするならば
よふ木のはぢめ事ばかりゆう (12-14)

よふぎでもにんわたれともゆハねども
もとハ壹ほんゑだわ八ほん (12-15)

この木をはやくつぎたいせきこみで
月日のむねがつかゑきるなり (12-16)

このきいも一ゑだしかとついだなら
あとなるハみなはやくさだまる (12-17)

なにもかも月日ゆう事しかときけ
心にさだめつけた事なら (12-18)

それよりもみのうちなやみさらになし
だん/\心いさむばかりや (12-19)

それしらすみなの心ハたれにても
せかいなみなる事ばかりゆう (12-20)

このところせかいなみとハをもうなよ
月日の心ばかりなるぞや (12-21)

 

(6)ここで気になるのは、「月日の心」「ざんねん」である。
気になるところを赤字で示してみた。

十四日
今日の月日の心さんねん
よいなる事てないとをもゑよ (12-22)

にんけんハあざないものであるからに
月日する事しりたものなし (12-23)

月日にハなにかよろつをだん/\と
ことハりてあるこれがしよちか (12-24)

いまゝでもなにか月日のさんねんを
たいていくどきつめてあれども (12-25)

せかいにハたれかしりたるものハなし
月日の心ざんねんをみよ (12-26)

このたびハことハりたゆへまだくどき
そのゆへなるのことわりである (12-27)

いかほどにくどきことハりゆうたとて
たれかきゝわけするものハない (12-28)

それゆへにだん/\ひがらたつけれと
いつかこれやとわかるめハなし (12-29)

けふの日ハもふせへつゝがきたるから
月日でかけるみなしよちせよ (12-30)

このさきのみちのすがらをゆてきかす
いかな事をばゆうやしろまい (12-31)

にち/\になにをゆうてもそのまゝに
みゑてくるのがこれわふしぎや (12-32)

とのよふな事をゆうやらしれんでな
そこでなんでもことハりばかり (12-33)

ことハりも一寸の事でハないほどに
いかな事をがみゑてくるやら (12-34)

どのよふな事がみゑるやしれんてな
まこときのどくをもていれども (12-35)

なんときにみゑる事やらこれしれん
月日の心つみきりてある (12-36)

こらほどに月日の心しんばいを
そばなるものハなにもしらずに (12-37)

そばなるハしことばかりをふもている
みへたるならばもんくかハるぞ (12-38)

どのよふな事でもさきゑしらしをく
あとてこふくハいなきよふにせよ (12-39)

このよふを初た神の事ならば
とのよな事もみなみゑてある (12-40)

このたびハとのよな事もつみきりて
もふさしぬきハさらにてけんで (12-41)

いまゝでハとんな事をばゆうたとて
またちいくりとしたるなれども (12-42)

けふの日ハよこめふるまもゆたんしな
なんどきとんな事があるやら (12-43)

いまゝでにふでにつけたることハりが
さあみゑてきた心いさむで (12-44)

これさいかみへきたならば一れつわ
とんなものでもよふきつくめや (12-45)

この心どふぞはやくに一れつわ
しよちしてくれ月日たのみや (12-46)

けふからハめづらし事をゆいかける
なにをゆうとも一寸にしれまい (12-47)

このはなしなにをゆうてもそむくなよ
神のをもわくゑらい事やで (12-48)

これからのあとなるはなし山/\の
神のさんねんはらすもよふを (12-49)

このさきハなんほむつかしやまいても
いきとてをどりみなたすけるで (12-50)

どのよふなむつかしくなるやまいでも
これなをらんとゆうでないぞや (12-51)

けふまでわひがらこくけんきたらんで
なにかちがいもありたなれとも (12-52)

だん/\といかな事をもといてをく
どんな事てもちがう事なし (12-53)

これまてのみちのすがらとゆうものハ
まことなんぢうなみちであれとも (12-54)

このさきのみちハなんてもきがいさむ
どんなめつらしみちがあるやら (12-55)

とん/\ととびてる事をみたとても
心あんちハするやないぞや (12-56)

あとなるハよろづ月日がひきうけて
いつ/\までもよふきつくめに (12-57)

いまゝてわなによのはなししたるとも
いつの事なるよふにをもふて (12-58)

やれこわやきくよりはやくもふみへた
どんな事てもゆたんでけんで (12-59)

このさきをにち/\心いさめるで
どんな事でもゆへばそのまゝ (12-60)

どのよふにむつかしくよふみへたとて
よふきつとめてみなたすけるで (12-61)

これからわどのよなしことするやらな
心したいにとんな事でも (12-62)

月日にわだん/\心ざんねんを
どんな事てもみなはらすでな (12-63)

とのよふな事をゆうのもみな月日
いかなしごとをするやしれんで (12-64)

いかなるの事がみゑるもみな月日
にんけん心あるとをもうな (12-65)

けふからハどのよな事もせきこんで
どんなはたらきするやしろまい (12-66)

いまなるの月日のをもう事なるわ
くちわにんけん心月日や (12-67)

しかときけくちハ月日がみなかりて
心ハ月日みなかしている (12-68)

こればかりうらみあるならとのよふな
事も月日かみなかやすてな (12-69)

どのよふな事をゆうのもみな月日
にんけん心さらにまぜんで (12-70)

いかほどにむつかしよふにをもたとて
月日ひきうけあんちないぞや (12-71)

このさきのみちをたのしめ一れつわ
神のさんねんはらしたるなら (12-72)

にち/\にむねのそふぢにかゝりたら
どんなものでもかなうものなし (12-73)

このそふぢどふゆう事にをもうかな
月日たいないみな入こむで (12-74)

このはなしとこの事やとをもうかな
高いところでみなあらわすで (12-75)

なにもかも月日ゆう事しやんせよ
なにをゆうてもこれちがわんで (12-76)

せかいぢう一れつ心すましたさ
どんな事をば月日するやら (12-77)

とのよふな事をするのも月日には
たすけたいとの一ちよはかりで (12-78)

このさきをたしかみていよ一れつわ
むねのそふちがひとりでけるで (12-79)

このそふちすきやかしたる事ならば
そのまゝすぐにまむりごしらゑ (12-80)

このみちを月日の心にち/\に
せきこんでいるたれもしらずに (12-81)

このみちゑはやくついたる事ならば
どんなものでもみないさむてな (12-82)

このはなしたれがするとハをもうなよ
月日の心はかりゆうのや (12-83)

このよふのしんちつなるをせかへちうへ
とふしてなりとしらしたいゆへ (12-84)

けふまでわ一日なりとひをのばし
とのよな事もしかゑいれども (12-85)

このたびハもふひがつまりきるからハ
どふむしかゑる事ハでけんで (12-86)

なんどきにとのよな事をきいたとて
これハ月日のざねんりいふく (12-87)

月日にわどのよなものもわが子なり
かわいばかりでみてハいれども (12-88)

いまゝでハせかいぢううハ一れつに
めゑ/\しやんをしてわいれども (12-89)

なさけないとのよにしやんしたとても
人をたすける心ないので (12-90)

これからハ月日たのみや一れつわ
心しいかりいれかゑてくれ (12-91)

この心どふゆう事であるならば
せかいたすける一ちよばかりを (12-92)

このさきハせかいぢううハ一れつに
よろづたがいにたすけするなら (12-93)

月日にもその心をばうけとりて
どんなたすけもするとをもゑよ (12-94)

このたすけどふゆう事にをもうかな
ほふそせんよにたしかうけやう (12-95)

またゝすけりうけ一れつどこまでも
いつもほふさくをしゑたいから (12-96)

このみちをはやくしこもとをもゑども
一れつ心わかりないので (12-97)

せかいぢうどこにへだてわないほどに
一れつしやんしてくれるよふ (12-98)

しんぢつに心にさだめみなついて
神のゆう事そむきなければ (12-99)

それよりも月日の心しいかりと
うけとりしだいたすけせきこむ (12-100)

このたすけ一寸の事やとをもうなよ
これわにほんの一のこふきや (12-101)

これさいかはやくしいかりみせたなら
とのよな高いところなるとも (12-102)

こればかりにんけんハさでないからに
月日ぢうよふそむきでけまい (12-103)

したるならいかほと高いところても
まねハてけまいしやんしてみよ (12-104)

月日よりやますしなすによわらんの
はやくしよこふだそとをもへど (12-105)

一れつハみなうたごふてたれにても
せかいなみやとをもているので (12-106)

このところにんけん心さらになし
月日のをもう事ばかりやで (12-107)

その事をたれてもしらぬ事やから
わかりないのが神のさんねん (12-108)

この心どふぞしんちつ一れつの
心すまするもよふないかよ (12-109)

心さいはやくハかりた事ならば
そのまゝすぐにしよこだすのに (12-110)

いまゝでハとのよなうそもきいていた
もふこれからハうそハきかんで (12-111)

これからハうそをゆうたらそのものが
うそになるのもこれがしよちか (12-112)

月日にハうそとついしよこれきらい
このさきなるわ月日しりぞく (12-113)

それゆへに一日なりとひをのばし
たいていなにもみゆるしていた (12-114)

このたびのはやくしよこふだしたいと
ゆうているのをなんとをもうぞ (12-115)

しよこふもとふゆう事にをもうかな
みのうちよりにたしかためしを (12-116)

このためしまこと月日のさんねんわ
よいなる事でないとをもゑよ (12-117)

みのうちにとこにふそくのないものに
月日いがめてくろふかけたで (12-118)

ねんけんハ三十九ねんもいせんにて
しんばいくろふなやみかけたで (12-119)

それゆへに月日ゆう事なに事も
うたこふているこれむりでない (12-120)

このたびハ此むねのうちすきやかに
はらすもよふやこれがだい一 (12-121)

この心月日のほふゑしいかりと
つけん事にハどんなはなしも (12-122)

いかなるの事をしたるもみな月日
こんな事をばたれもしろまい (12-123)

けふの日ハよこめふるまもないほどに
はやくしよこふだしてみせるで (12-124)

これみたらとんなものでもとくしんせ
なにのはなしもみなこのどふり (12-125)

いまゝでのこのさんねんとゆうものわ
くちでゆうよな事てないぞや (12-126)

いまゝでハ山/\さねんとふりぬけ
このたびこれをはらしたるなら (12-127)

あとなるハどんなやまいもいかなるの
事であろふがみなたすけるで (12-128)

このよふのにんけんもとをせかいちう
しらしてをいた事であるなら (12-129)

それからハどんなたすけもするほとに
一事までゝみなたすけるで (12-130)

これまでハたん/\くどきことハりを
ゆうてあれどもしんかわからん (12-131)

このしんハどふゆう事であろふなら
むねのしやんをこれがたいゝち (12-132)

なにゝてもむねとくちとがちこふてハ
神の心にこれハかなわん (12-133)

しんちつが神の心にかなハねば
いかほど心つくしたるとも (12-134)

こればかりいかほどたれがそふたんも
とてもかなハん月日しりぞく (12-135)

なにもかも神のゆう事しかときけ
なにをゆうてもちがう事なし (12-136)

しんちつにめつらしたすけをしへたさ
そこでとのよな事もゆうのや (12-137)

このよふを初てからにない事を
どんな事をもをしへたいから (12-138)

このよふのほんもとなるのしんちつを
しいかりしよちせねばいかんで (12-139)

このもとをしいかりしりているものハ
とこのものでもさらにあるまい (12-140)

このたびハほんしんちつをゆてきかす
なにをゆうてもしかとしよちせ (12-141)

このやしきにんけんはじめどふぐハな
いざなぎいゝといざなみとなり (12-142)

月よみとくにさづちいとくもよみと
かしこねへとが一のとふぐや (12-143)

それよりもをふとのべへとゆうのハな
これわりゆけの一のどふくや (12-144)

つきなるハたいしよく天とゆうのハな
これわせかいのはさみなるぞや (12-145)

これまでハどふぐいゝさいみなよせて
とのよなみちもとふりぬけたで (12-146)

このさきハよせたどふぐをみハけして
しこむもよふをいそぐばかりや (12-147)

このものハとこにあるやとをもうなよ
としわ十一二人いるぞや (12-148)

この人ハにんけんはじめかけたると
りうけいゝさいしゆごふどふぐや (12-149)

けふの日にどのよな事もゆうほどに
なにをゆうてもしよちしてくれ (12-150)

いまゝでも神のをもハくまゝあれど
ひがきたらんでしかゑいたるで (12-151)

だん/\ともふひがつまりきるからハ
どんな事でもゆうてをくぞや (12-152)

これまでハどこの人でもをなじ事
なにをゆうてもみなうたごふて (12-153)

このたびハほんしんぢつであるからに
これそむいたらすぐにかやすで (12-154)

せかいにわあめをほしいとをもたとて
このもとなるをたれもしろまい (12-155)

このもとをしいかりゆうてかゝるから
どんな事でもしよちするなら (12-156)

 

(7)

六月廿八日五どきよりはなし
けふの日ハこのよはじめてないはなし
なにをゆうてもこれきいてくれ (12-157)

このよふわ神のせかいとゆいながら
どんな事でもしんわしらんで (12-158)

このしんをまことしんぢつしてみせる
これみたならばみなとくしんせ (12-159)

どのよふな事をするのもみな月日
なにをゆうのもみな月日やで (12-160)

このたびハこのよはじめてない事を
どんな事でもみなあらわすで (12-161)

月日にわたいないよりもこもりいて
どんなしごとをするやしれんで (12-162)

どのよふなゆめをみるのもみな月日
まことみるのもみな月日やで (12-163)

このよふの水のもとなる事をばな
まだこれまでわゆうた事なし (12-164)

このたびハほんしんぢつの水の事
どんなはなしをするやしれんで (12-165)

この元をたしかにゆうてかゝるから
せかいなみなる事でゆハれん (12-166)

けふからわどのよな事もゆいかける
なにをゆうてもしかときくなり (12-167)

にち/\に高山にてわだん/\と
どんな事をばたのみたつねる (12-168)

これさいかみゑきたならばどのよふな
事もあふなきさらにないぞや (12-169)

けふの日ハなにのはなしをするやらな
どんな事でもしよちしてくれ (12-170)

めへ/\の心みのうちどのよふな
事でもしかとみなあらわすで (12-171)

これみたらどんなものでもしんぢつに
むねのそふちがひとりてけるで (12-172)

このたびハどんな事でもすきやかに
あらわれだしてみなしてみせる (12-173)

たいないになにがあるやらどのよふな
ものでもしりたものわあるまい (12-174)

このはなし月日のし事これをみよ
心しだいになにをするやら (12-175)

けふの日ハなにもしらすにたれにても
せかいなみなる事であれども (12-176)

あすにちハどふゆうみちをみるやらな
しんの心があらわれてくる (12-177)

この心あらわれでたる事ならば
たれもそむきわさらにてけまい (12-178)

これみたらどんなものでもしんちつに
あたまかたけてみなしやんする (12-179)

さあしやんこの心さいしいかりと
さだめついたる事であるなら (12-180)

このはなし月日の心ばかりやで
にんけん心あるとをもうな (12-181)

この事をみな一れつハしんちつに
をもてたのめばどんな事でも (12-182)

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9億9万9千9百9十9について。。

2022年04月21日 06時30分56秒 | 思った事

9億9万9千9百9十9について。。

と題した。

この言葉は、元の理に出てくる子数の人数であり、立教の時旬を示す大事な言葉である。

 

この数字について、おおざっぱに沢山と理解する人もあるだろう。

9億9万を続けて考えて、Ⅰを足したら10億になる。と考える人もある。

私も昔はこの考えだった。

 

ところがよく考えると、違っており、9億9万が続いていると考えると、世界でいう発掘調査の年数などと同じだからと、いう人たちの数字と異なる事となる。

 

私が9億9万を続けて考えていたのは、ただ単に深く知ろうとしておらず、おおざっぱにしか元の理を読んでいなかったためである。

 

このパンデミックの御守護を念じて「元の理」をここに記す少し前に、

この数字は90,0099,999と思うようになった。

そして、イザナギとイザナミ様が食べられていない事に気がついたのである。

 

9という数字は、1を足すと10となる。

10とは一杯という事になり、0に戻るとも考えられる。

これは10進法を考える時に、とても大切で、また勘違いしやすい事でもある。

 

教祖のお話で、10は十分たっぷりと教えられる。

9については、苦が無くなるとも、教えられる。

両手、両足、目口鼻耳、男女一の道具。これで9つの道具と教えられる

男女一の道具が合わさって、10となり、子供が授かる。

そして幸せを頂けると私は理解している。

 

そして10は、器に考えると、水が満水になったイメージがある。

満水の所へいくら水を入れても、あふれるばかりなのである。

これではもったいない。

そして、このままでは11にはなれないのである。

別の空の器を持ってきて、初めて11となるのである。

 

今の世の中。。十分すぎて。。。と重なったりする。

 

教祖のお言葉については、出展を調べていないので、覚書としておく。

ご注意頂きたい。

 

先日から「あかき・しろき・くろき」について書きたいと思いながら日が経っている。

この事はどこに書いてあったかと探しているところであったが、「山田伊八郎文書」の「教祖のお言葉」にあった。

 

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ひのきしん。。

2022年04月17日 09時39分55秒 | 思った事

15日が部内の月次祭。

後継者の方が、全教一斉ひのきしんデーへの案内をして下さった。

部内とは支部が違う。

そして、私がひのきしんについての話をした。

ひのきしんは、親神様への感謝の心があってこそひのきしんである。

その心があるかないかで、全く違うと話をした。

さらには、同じ事をしても、人の心は全く違うとも話をした。

自分のためにと思ってする人もある。

体裁だけを思って、嫌々やる人もある。

人のためにと思って、我が身を捨てて行う人もある。

 

この心によって、親神様の受け取りは違い、その後も違ってくる。

しかし、目に見える事は同じなのである。

世間では、目に見える事だけで評価し、批判をする。

 

ここが違うのである。

 

だから、ひのきしんは、何をしてもひのきしんになり、常がひのきしんでもある。

そして、自らの心がチャンと親神様の方へ向いているか。

それを確認するのが朝づとめ、夕づとめでもある。

とも話をした。

 

そして、全教一斉ひのきしんデーについては、同じ地域に住む人々が、親睦を深めるためのイベントにしか過ぎない。

けれども、この月次祭のように、みなでおつとめをさせて頂けば、嬉しく楽しいだろう。

それと同じで、みなでさせて頂く中にまた喜びを与えてもらえるものである。

楽しんでください。

とも話をした。

 

そして昨日、支部内で、所属教会が支部内に無く、所属教会へ訪問して欲しいと確認した方のお宅へ「全教一斉ひのきしんデー」の案内チラシを届けに行ってきた。

うちの支部では、毎年ひのきしんデーの案内チラシを、郵送している。(支部内に教会が無く、天理時報を購読していないようぼく家庭へ)
そして、返送された住所は削除しているので、200余りになっているが、こうした事をしていない支部では、3000余りの名簿に手を焼いているという話も聞く。

今年は本部から直接案内を手渡すように指示が出ているが、これまでの年祭活動でこうした事を経験して、直接捜していくと「うちはもうやめた」などという家庭も多く、そうしたところへ行くのは無駄であるし、気分も悪い。との声が上がり、まず、所属の教会へ連絡を取ることにした。

発送する住所200件余りを手分けして、所属教会などへ電話連絡を取ったところ、やはり教会と切れている家庭が多く、80件余りに減った。

それを教会ごとで均等になるように分担したのである。

私の割り当てはたった4件だが、留守の事を考えて、封筒へあて名を書いて準備をして、住所を頼りに車を走らせた。

一軒は全く分からず、郵送に代えた。

一軒は留守で、郵便ポストへ入れた。

一軒は部屋番号が違っており、隣だったが、おられて渡すことが出来た。そして「参加します。時間は?」と言ってくださった。

一軒はおられて、チラシを渡した。

うちの支部は、私が支部長の間、新型コロナで一昨年は家庭の周りを。そして昨年は外での行事だから出来るだろうと計画したのに、雨で中止。

今年はようやく出来るかなぁと思っている。

 

毎日がひのきしん。親神様と共に。。。

今、町内会の公園掃除に行ってきた。

昼から妻が、支部婦人会でなごやかハウスのひのきしんに行き、

それが終わってから、大教会の母親の所へふすま張りに夫婦で行く予定にしている。

 

親神様・教祖ありがとうございます。

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4月月次祭を無事に終えました。。。戦争ばかりを進めるのならば、一層。。

2022年04月13日 08時03分24秒 | 思った事

無事に月次祭を終える事が出来ました。

準備をしながら、以下の事が浮かびました。

戦争が絶えない。起こしてもそれを治める手立てが思いつかない状況を見て、腹立たしく思うばかりです。

・・・・・

日本を核武装する必要はない。

日本を侵略したら、日本人を攻撃したと認定したら、日本にある原子炉総てを爆発させる。

と公言すればよい。

そして地球を一からやり直す事にすればよいのである。

そして、

ここに、いくつかの条件を加えても良いだろう。

各国が隠している不都合な事を、公開する事や、テレビなどが情報を操作している事などを条件にする事も可能だと思う。

その他これまでの事をリセットするための条件を提示するのも一つだと思う。

日本の原子力発電所マップ 2021年版 | nippon.com

日本にある原子炉54基すべてを爆発させれば、消化も出来ずに、地球は放射能で汚染される事は必至であろう。

 

そうなりたくなければ、すべての戦争は中止して、和解をする事をも要求できるだろう。

日本国民は、第2次大戦中、米国が攻めて来て、婦女は暴行じゅうりんされると言われて、自決した人々もあったのである。

日本国民の真底には、そうした、心が宿っていると思う。

自分が辱められるならば、人のためならばと自らの命を犠牲にする事は容易に決断できるだろう。

 

中国での砂漠が広がる事を防ぐために、日本人が命を賭けて植林を進めた。

それを中国は、いともたやすく伐採した。

その他、多くの日本人が世界の人のためにと、尽力した話は数多くある。

それを戦争は無にする。

その戦争を起こそうとして、また起こして、罪もない人々に罪を着せ、殺害を正当化する。

こうした人の善意を悪用する人々の心には、到底うんざりしている人々も多い事だと思う。

 

これは、そうした事を良しとする人々の心が改まらない限り治まる事は無い。

 

一説には、人を殺すために、生物兵器を作っていたとの事。

そうした物を使うのも戦争を起こす事と同じである。

 

そうした事があるのならば、この地球をやり直す上に、原子炉の爆破も良いのではないかと思うのである。

 

地球上の生物は、生まれ変わりをしているのである。

それもわざわざ、前生の記憶を消して。

この意味が分かるものは、ほとんどいない。

 

ならば、一からやり直すか、自らの心を省みて、心を改めてやり直すかの選択を、この原子炉にかけて見る事も良いかと思う。

 

どうせ、原子炉を廃棄するにも問題が重責しているのである。

どうせ、核爆弾で脅し合いをしているのである。

原子炉大国の日本。。。

世界中の人々の心を切り替える盾になる事も可能かと思う。

 

・・・・・

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まなび。。。

2022年04月11日 08時45分53秒 | 思った事

今日は4月11日、明日の月次祭の準備の日である。

早いもので、もう4月である。

桜の季節が終わり、新緑の季節に移り変わる。

桜の花はとても美しく、その桜色の濃くも無く薄くもない色合いが何とも好きである。

それも一輪では色がとても薄いのだが、沢山の花が集まるとしっかりと桜色が見えるのである。

その花が散ると、その木は暗く、汚く見える。

すぐに新緑の葉が出てくるのではない。

先日、神殿奉仕を終えて、息子の寮へ立ち寄ったところ、豊田山(教祖のお墓地)から規律訓練の声が聞こえる。

新入生恒例の行事である。

新入生にとってはとても辛いものであるが、共同生活をする上には大切な一つの儀礼だと私は思っている。

その声を聞きながら、先ほどの桜の花が散った姿を思い出したのである。

名古屋へ帰るので、神殿へ参拝に行きながら、先日ライトアップされた枝垂桜を思い出した。

いつもならば南礼拝場へ上がり、参拝をするのだが、南礼拝場前の駐車場が一杯だった。

本部駐車場へ停めて、東礼拝場で参拝をして、別席場前の枝垂桜へ行く。

途中に、天理託児所の保母さんが、子供と遊びながら世話をしている。

枝垂桜は案の定、とても暗く寂しいものとなっていた。

「こんな状況を撮影するのは自分だけだろうなぁ」と思いながら動画を撮る。

別席場前の枝垂桜動画

世界の状況から、いよいよ日本も戦争状態になるかという話が持ち上がり始めている。

「不安な人々も多いだろうなぁ。」と思った時、

「ここはこの世の極楽や わしも早々参りたい」とのお言葉が浮かんだ。

東礼拝場前動画

東礼拝場前花壇で保育士さんが。動画

東礼拝場前花壇から神殿を。動画

 

そして「黒門前に。。。」という話も頭をかすめた。

 

先日の当番で、ある会長さんが「世間の常識を知らずに。。」と話を聞かせてくれた。

その世間の常識が今変わろうとしている。
新型コロナ・ワクチン、そしてウクライナとロシアなどなど、多くの情報が飛び交う。
情報を消すことが出来なくなって来たので、平然とウソをつきまくって自分を正当化しようとしていると見える。
初めて情報を知った人は戸惑うだろうが、以前から情報を知っている者にとっては、またか。と思うばかりである。

そして、いざという時の備えは個人個人でするしかないと思うのである。

お道の常識・理想には、教祖・親神様の常識である「陽気ぐらし」へはまだまだであるが、この今の状況もそれに向かう一歩である。

ようやく「沈黙していてはダメだ。自分から声をあげねば」という声も聞かれるようになった。

 

原子爆弾という事が言われるが、宇宙人が存在するという話の中では、すでに過去に原子爆弾で、人間は一度一からやり直しているという話があった。

これを見た時、親神様が教祖に入り込まれた時、「これがこの世の始まり」と言われた事を思い出した。

人間の身体が出来て、知恵文字と仕込まれたが、心がまだまだ陽気ぐらしが出来るまでに成人していないのである。

その仕込みの段階が、今であろう。(どこに書いてあったかなぁと思っていたら、山田伊八郎文書、教祖様御言葉にありました。)

陽気ぐらしが出来るためには、互いに思いやれる心が必要なのである。

そのためには、自らが傷つき、自らが悲しい思いもしなければ分からない事もあるのである。

そして自らが、自らを律する事が大切なのである。

教祖が貧に落ちきられた。

貧に落ちきらねば難儀する物の心が分からないと。。。

そして、親神様の御言葉に沿って歩まれた。

天の理に沿って、自らを天の定規に合わせて、律して通られたとも言えると思う。

 

どんなつらい事があっても、それはそれぞれの心の学びのために必要なのだと、ひながたは教えてくれていると思う。

 

すぐにほこりを積む人間には、切りなし普請である。

まなびは。。。(^^)

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天理高校2部の入寮と入学式。。無事に終わって。。

2022年04月07日 22時32分16秒 | 思った事

7番目の末っ子が、天理高校2部に入学した。

4月6日が入寮、入学式

4月7日が勤務場所の発表とその説明。

無事に終えて、昨日できなかったWEBへの投稿作業などをして、ようやく落ち着いた。

明日は本部の神殿奉仕。

 

世界の動きは目まぐるしくて、ほこりがいっぱい立っている。

そのほこりをよけて通れるように、人々がそのほこりに気づくようにと、

入学式で思った。

 

すべてはいんねんの上から成ってくること。

それを知っているか知らないかで、その先は違ってくる。

この教えは、単なる一宗教の教えではない。

この世界で、人間が生かされている理を教えてくれているのである。

 

例えて言えば、

出産できるのは、親と子の縁が切れる働きがあり、子供が出てくるための引き出す働きがあり、そして親の身体が元に戻るつなぎの働きがあっての事。

この理由を知らないで、右往左往しているのが人間である。

この働きを十分に頂ければ、自然の動物のように楽々に安産させて頂けると、おびや許しを教えられて、安産の許しを頂く事が出来るのである。

しかし、この理を知らない、また知ろうとせずに、ただただご利益だけを求めようとするのが人間で、それをまた親神様はざんねんと思われている。

 

我われは、親神様・この地球の不思議な働きがあればこそ、ここに生きておれるのである。

人間は知恵を頂いた。

その知恵があるからこそ、色々な事を考えて、色々なものを作り、便利になって来た。

その知恵に、神様の働きの元、心と神様の働きのつながりをも教えたいというのが、この教えでもあろう。

 

動悸が起こる事について、「胸が分からんと神様が笑っておられる」と教祖の言われた言葉が記録されている。

これも一つの理である。

人は不安になったり、驚いたりすると、胸が苦しくなったりする。

心臓に異常がなければ、神経によるものと医学的には言われるが、その神経が働く元は心にある。

不安が無くなれば、胸は落ち着くのである。

恐怖に青ざめるというが、これも同じだろう。

心ひとつ、「心臓」。

心の臓器。。。

 

心澄まして、心明るく通りましょう。

今日も一日お疲れさまでした。

 

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心澄ます事。。神の心に叶わねばいかほど心尽くしたるとも。。

2022年04月03日 14時54分25秒 | 思った事

本日は4月3日です。

4月1日、大教会で会議があり、新体制についてまたこれからの事について話合った。
大教会から帰って、夜天理時報の手配り担当を引き継ぐために、前担当者の教会へ。

4月2日、午前中会計決算を占めるための領収書などの整理、午後から教区の新旧支部長歓送迎会に出席して、3年間勤めさせて頂いたお礼を申し上げた。

今日、4月3日朝から寒い。会計をやりかけるが、大教会の新体制での連絡文を作らねばとも思い出す。

ともかくやることが多いのだが、なかなか進まない。

進まないと、イライラする。

これが私の性分である。

すると、目が見えなくなってくる。頭が痛くなってくる。

身体がガチガチになり、妻に揉んで欲しいと頼むことになる。

こうなると、いくら焦っても駄目である。

そして、思い切って、布団に入る。

今、数時間休んで起きたところである。

頭痛は無くなり、目も見えるようになったので、まずはこれを書き始めた。

 

先回書いてから、このブログにアクセスする人数が、100人を下回らない。

書いていないのにアクセス数が常時あるとは不思議な事だと思う。

 

今、日本が大変になっていると思う。

情報もそうだが、実生活でも物価が上がり、仕事の無い人々や年金で生活されている方々には大変な事だと思う。

そして多くの人が、「何を信じてよいのか!」「何が本当なのか?」と右往左往しているのではないかと感じている。

このようになってくるだろうことは、これまで私が共有してきた世界の情報から、その先へと情報を追いかけて考えれば、分からない事は無いと思う。

 

このブログだけしか見ていない人、フェイスブックをも見ている人では、私から得る情報量は格段に違う。

フェイスブックでも、私の個人アカウントからこのブログを見る人と、「天理教熱田分教会」のアカウントから見る人とでも、格段の差があるはずである。

あとは、それぞれがどのような観点で情報を整理するかによって、予測は変わってくる。

それが顕著に表れているのが、現在ロシアウクライナに関しての、保守の言論人たちの発言だと、以前のブログでちょっと書いてみた。

先日共有した「渡邉哲也ショー」で、国会議員を落選された方のコメントがとても印象深く、今の政治の実態を物語っていると思った。

それは、「議員をしていると、官僚へ情報を求めて、その情報しかソースがない。それが、この番組に出て、そうした考えがありそうした仕組みで動いていたという事を初めて知った。議員をやめて良く分かった。」という内容を聞いた時である。

また、共有した物に対するコメントの中に、「政府を信じられないのならば日本から出て行けばよい」というコメントがあった。

政府ありきの日本人なのだろうか?日本人ありきの政府ではないか?

全く物の見方が違っていると思った。

 

以前のブログで、「竜頭狂えば皆狂う」と書いたと思うが、

頭が狂ってしまえば、体全体も違った方向へ行くのである。

この頭が、周囲の状況判断が十分に出来なければ、そうなってしまい、体が無くなれば頭も無くなるはずなのに、それが分かっていないようである。

これを天の理合いから考えると、

天が頭であり、地が体である。

そして家族であれば、夫が天であり妻がちであり、その中に子供が育つのである。

 

この天の役目の者が、地の状況も把握できずに、自分の理想ばかりを追い求めては、地の者は生きていけない事にもなりかねない。

これも同じことである。

 

アメリカの大統領が、バイデンさんかトランプさんか。。

大手マスメディアが報道しない情報では、4月1日がその期限だそうで、不正を働いていた人々が一掃される事のようである。

不正選挙からここまで長く、ヤキモキしていた人々も多かったと思うが、そのお陰で、多くの闇を情報操作の闇を確信する事が出来た。

 

親神様の眼から見た「善悪」ははっきりしている。

神人和楽の陽気ぐらし世界実現を妨げるものは悪である。

人間が陽気に暮らすさまを見て、共に楽しみたいと思われた。

教典に書かれたこの言葉は、誰もが知っている言葉である。

 

ところが、人間は陽気に暮らしていない。

一部の者だけが、自分の陽気を求めて、他の人を幸せにしていない。

これは悪である。

せっかく知恵や物を与えられても、それを他の人の幸せのために使わずに、自分の欲得のためばかりに使えば、それは大悪である。

それも、多くの人々の上に立つ人であればあるだけ、大悪はさらに増していくのである。

 

その清算は必ず訪れる。

その一つの例は、教祖が現身を隠された後の、不思議な御守護が次々にと現れた状況である。

神を忘れ、自分の知恵力におぼれたもの達へ、自分の知恵力ではどうにもならない状況が訪れるのである。

その状況にあって、「南無天理王命」と言葉を唱えただけで不思議を見せられた、その状況である。

これによって、天理教は日本中に広まったのである。

ただし、人々にはただ単なる「新しい神が現れた」との認識でしかなく、それによって新たな弾圧の時代へと向かったのも事実である。

こうした事は、教祖が現身を隠された時だけではなく、その後も幾度となくあり、その都度不思議を見せる人々が現れて、それが今の大教会の元となっているはずである。

その不思議を見せた人々は、教祖のひながたを求め、親神様の教えを真剣に求めた人々だったはずである。

そうした中に、日本にはもう親神様の話を聞き分ける人がいないと思い、世界へと目を向けられた人々がある。

その種が、世界各地に撒かれて、時が経って少しずつ、少しずつ芽生えて来て、同じような道を歩みながら教えが広がっている。

 

何といっても、心通りの守護である。

かしものかりもの、心ひとつが我がの理である。

すべてはそれぞれの心に貸し与えられた、親神様からの借りものである。

そして、

自由を許された心の使い方を、自らが律して行く事、それが「八つのほこり」の話である。

自らが掃除をしなければ、すぐに汚れてしまうのが人間の心だから、「ほこり」に例えて、心の使い方の良し悪しを教えられているのである。

つまり、この教えを聞いて常にほこりの心を払っている人以外は、心にほこりが積もり、自分勝手の陽気に走っているとも言えるだろう。

 

おふでさきに、「胸と口とが砂とすいのや」と心の澄まし方を教えられている。

陽気ぐらしへの道はまだまだである。

そして、今はその一つの塚である。

 

親神様のお導きのままに、陽気ぐらしへ!である。

親神の心に叶ったものは、日々心勇むばかりやである。

という事は、日々勇むことが出来ないのは、親神様のお心に叶っていない。

という事になる。

親神様のお心に叶う心になるように、それぞれが成人の道を歩む事。

その姿、心が周囲に伝わるのである。

自分を変えずして、人を変えようとするからおかしくなる。

これは「から」であると思う。

 

思うがままに書きました。

参考になれば幸いです。

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