あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

親神様のお働き。。ここ数日の事から、思うがままに。。。

2021年09月29日 08時40分41秒 | 思った事

先回の投稿が9月24日で、久々の投稿である。

25日にバイトに出かけて、26日は本部月次祭に参拝させて頂いた。

26日は日曜日で、長男と次男と共に一緒に参拝に出かけた。

雨上がりの中、前半下りの途中に着き、いつものように中庭で参拝をした。

少し濡れたパイプ椅子に、敷物をして座る事が出来た。

寒くもなく熱くもなく、息子たちと参拝っ出来る事を、ありがたいなぁと思いながら参拝させて頂いた。

私はこの数カ月、到着してからおつとめの動画を取って、すぐにFacebookで配信をしている。

9月本部月次祭

帰りたくても帰れない人があるだろうから、そうした人に少しでも今の様子を伝えたい。

という思いからである。

そして、先月は、神殿講話の最初の部分だけも配信した。

祭典講話

 

私はご本部でライブ配信をしたらよいのではないかと思っているのだが、「ライブ配信をしたらおぢばへ帰る人が少なくなるかもしれないという意見があり、しないと決めた」という噂を聞いたことがある。

うちの教会などは十分な手も揃わず、見る信者さんもないので必要ないが、ご本部ならば世界中に信者さんがいるのだから。。と私は思ってしまう。

 

「かしものかりもの」の教えでは、心通りにすべてのものを貸し与えられている。だから、病気になるのもならないのもそれぞれのいんねんによるもの、心切り替え・心を澄ますためのお知らせと教えられる。

だから、病気を怖がる必要はないのである。

その病気を判断したり、心をすぐに変える事は難しいだろうからと、その手助けとして医薬を教えられたとされる。

そしてまた、自分だけの助かりを願うのではなく、人の助かりを願うようにと「おさづけ」を与えられた。

この「おさづけ」は自分には使えないのである。

そしてこの「おさづけ」や「御供さん」などで次々を難病の方が助かった時には、医者や政府などが弾圧をしたのである。

そして折角教えられた「御供さん」も薬物が入っているだろうと難癖をつけられたために、今のお洗米になったのである。

 

「おふでさき」に「ざねん」「ざんねん」という言葉が沢山出てくる。

折角、親神様が人間の心を、陽気ぐらしの出来る心へと変えて、陽気ぐらしを実現させてやりたいと苦心されたものを、

浅はかな人間思案で台無しにしてしまったのである。

この「かやし」は絶対に行われるのである。

おさしづに、「悪ははびこらす」「善悪共に見分けする」と言われる。

天理教の歴史の中に、異端異説を唱えて、神様からおしかりを受けた事象が沢山ある。

その一番最初が「助蔵事件」であり、教祖が直々にお出ましになり、取り払われている。

これは、表立って異説を唱えた者の代表格であるが、内にいても反対の者もあるのである。

その代表的なものが「前橋事件」の橋本清であり、これは内務省秘密訓令の時に発覚し、これに賛同する者が一緒に出て行ったのである。

この前橋の前とは「前川菊太郎」の事で、教祖から期待され、現身を隠される前に、真柱様と共に「三人に。。。」と将来を託された方の一人である。

この事件の時のおさしづを見ると、親神様には人々の心は見抜き見通しであり、将来の事も分かっている。

しかし、当事者である本部内の人々には分からない。

そうした時に、親神様の思いに叶うものには身上を見せて、引き寄せておさしづをされているのである。

反対に、親神様の思いに沿わぬ者にはそうした身上は無く、世間の風潮に流れて、不足を積み重ねて、自分たちの思うように事を起こして、自らおぢばを離れて行くのである。

「反対するのも可愛い我が子、なれど用いねば反対同様の者」というお言葉がある。

そう考えると、身上にならぬようにと、何が入っているか分からないもので予防する考えがどれだけおかしなことかと思えてくる。

 

「ほこりはよけて通れよ」である。

「ほこり」は知らず知らずに積むから「ほこり」なのである。

私たち人間は、元々悪い心を使うものであるという認識をしっかりと持つこと。

これがとても大切だと思う。

そうした中に、互い助け合う事を考えて行くのである。

 

互いに助け合うためには、自分中心の考えでは人助けは出来ないのである。

人に合わせる事、その人の性分を理解する事が大切なのである。

ウソをつく事が当然と思っている人には、そのような対応が必要なのである。

これも、ほこりをよけて通るためには大切な事なのである。

 

親神様のお話しは、「10の物ならば9つまで教えておいた、その最後の10番目の教え」と言われるものである。

つまり、9つまでの教えを知った上の10番目と考えれば、なかなか理解できない事も無理ない事である。

反対に、これが理解できれば、それまでの9つの教えは簡単に理解できると言えるだろう。

 

先日大教会の当番で、ある人にいま世界で起きている事について話をした。

「そんなことを考えていたら気がくるってしまいます。」と言われた。

その通りである。見方によって全く異なった中に今おかれており、戦争中であり、それも仕組まれているという話しなのだから。。。

そして、「どうして平然としておられますか?」と問われた。

私は、「親神様のお話しを元に、親神様はどうしたいのだろうか?と考えて、情報をつなげて行ったらこうなった。

親神様の思いを中心にしていなければ、世間の考えに惑わされて気がくるっているだろう」と答えた。

そして、この今の世界状況を考えるようになった経緯を話した。

すべては親神様のお導きの中にあり、その中に自分の役割を自覚した時、こうした事が見えてきたのである。

 

陽気ぐらし実現のためには、人々が悟り、心を澄まさなければならない。

そのための世界の事柄であり、そのための道具の一人である。

そして、道具も心を澄ます当事者の一人でもあると思えて来た。

 

ありがたい事である。

 

今日はこれから、紛失した書類を探さねばならない。

忘れっぽい私は本当に困ったものである。

 

親神様・教祖、どうぞ世界の人々を、大難は小難にとお守り下さい。

 

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教祖のひながたとは。。順序の理。。と思う中に。。

2021年09月24日 11時31分53秒 | 思った事

今日は、「教祖のひながた」「万人のひながた」について考えて見たい。

私のブログには、出来るだけ教祖当時に近い資料、本部から出されている資料をあげている。

これは、教祖ご在世当時の様子を知るためには欠かせないからであり、話は人を介せば介すほど変わっていくもの、そして本部の変遷を考えるためには必要と思うからである。

手っ取り早く理解しようとして、解説書を読む人が多いわけだが、解説書はその人の主観が入ったものである。

その人の理解が違っていたら、違った方向へと導かれてしまうのである。

これを考えた時に、解説書はあくまでも、自分の考えをまとめたり、悟るための参考に過ぎないのである。

これを元にしなければ、先代を越えて、教祖に近づく事は出来ないと思っている。

また、教祖は親神様である。(これについては以前書いておいた。)

教祖「いざなみのみこと」の魂のお方ではあるが、親神様であり、十柱の守護を持つ神様である。

先代の先生方は、それぞれに個性があり、手ぶりもそれぞれの流儀が出来るほどと聞き及ぶと、十柱の神様の一道具と考えたら、その一つの道具だけを考えていては片手落ちになってしまうと思えたのである。

今の私たちは、多くの書物によって、十柱の神様のそれぞれの教えを学ぶ事も出来るとも思える。(天理教以前の宗教も同じ事のようにも思える)

 

そうした中に、「教祖のひながた」について、多くの人々は「貧のどん底に落ちきられた」この事のみをひながたと思っていないだろうか。と思える節がある。

また先にも述べたように、教祖は親神様だから、教祖が間違うはずはない。教祖が迷うはずがない。と決めつける人もある。

そうした観点から、教祖のひながたを考える人もある。

そうした時、史実に、教祖が「親神様に尋ねる」と言われた記述があると、ここで考えが及ばなくなってしまうのである。

宮池や井戸に身を投げようとされた事も同じである。

「おふでさき」には、「教祖は親神様だから、言う事を信じよ」と解されるお歌がいくつもあり、それを元にすると、上記のようになってしまう。

 

更には、かんろだいの石の没収を契機として、おつとめの地歌をかえられた「模様替え」について、万能の親神様が計画を変えるなどありえない。と考えると、これも、理解に苦しむことになる。

私も正直、これらについて悩んだ。

 

そうした時の事である。

中山みき様に親神様が入り込まれて言葉を出され、それを夫善兵衛様が「みきを神の社に差し上げます」と返答されてから、この道は始まるのであり、その一番初めに行われたのは、みき様が内蔵に籠り、親神様との問答であり、その中での親神様からの思し召しで、家財を売り払いながら、難儀な人々をたすける歩みが行われるのである。

そして、その家財を売り払い貧のどん底へ落ちきられる道中に、宮池や井戸に身を投げようという事が起きてくるのである。

という事に思い至った。

この内蔵に籠られて、親神様との問答をされたという事に気が付いた時に、先人先生方が不思議なおたすけを頂かれた後に、教祖の元へ通われてお話を聞かれた事を思い出したのである。

そしてそのお話を聞く間に色々ない人があり、途中で話を聞きに行かなくなる人もあり、聞きに行こうと思ってもお話を頂けなかった人もあるったのである。

そして、そうした人々の事を思うと、自分の助かったことだけを人々に話をする人、教祖から聞いた話をする人、神様の不思議を見せる人などなどが分かれて来ているように感じるのである。

つまり、ひながたの一番最初は、親神様のお話しを聞く事であり、そのお話し・お言葉に沿って歩もうという心定めが出来るかどうかであろうと思ったのである。

おさしづに「順序」という言葉が良く出てくる。「順序の理」という言葉である。

つまり、ひながたにも順序があると思えるのである。

 

教祖のお話しを聞かれた先人の先生方の逸話を見ると、入信された頃は「陰徳」を積むためにと、人に見られないところで善い行いをする話がいくつも見受けられる。

教祖が施しをされる話の中にも、わざと物を落としてそれをあなたの物ではないですか。と言ってその人に上げたという話しも見受けられる。

そうした話を考えると、人は良い事をすれば自分の手柄にしたいものであるが、それでは「陰徳」にはならないと教えられているように思うのである。

そうした道中の中に、不思議を見せられ、それでも苦労をされる。

山名大教会史を読むと、

諸井国三郎先生が信仰に入られて、教えを乞うためにおぢばまで通われ、先生方を遠州へと招いて教えを学ばれている。

そして教え通りに心定めて人助けをすればするほど仕事をする時間が無くなり、困窮を迫られるようになる。

その中何とかと思って事業を仕掛けてもうまく行かず、心定めて奥様の内職などで食いつなぎながらおたすけに歩かれたという順序を考えると、教祖の歩まれた道と同じように順序を追って通られていると思うのである。

(時間的には、教祖は25年の長い間貧のどん底の苦労をされたが、先生方はそれだけの時間はかけずに歩まれている)

そう考えた時、自分は教祖のひながたのどの部分を通っているのだろうか。

ひながたのどこまでクリアできたのだろうかと考える事も大切なのではないかと思うのである。

私自身が、この順序に思い立ち、内蔵からと思うきっかけは、「依存症」といわれる心に気が付いて、一から学び直そうと思った時である。

 

あれから、20年ほど経つが、まだまだ「陰徳」を積む段階でしかないと思う今日である。

 

そして、教祖のひながたは、人が集まるようになってから、どのように対応されるかという話しになってくる。

人が集まれば、それを妬む人もあり、同じような事をしようとする人々もあり、様々な問題が起こってくるのである。

その問題にどのように対処されたかと考える事も、ひながたを考える一つだと思うのである。

人を育てる事については、お針子を取られた事も、秀司先生に紋付を着て青物売りに行かせられた事などなど、見方によって色々と考えられると思う。

私たちは、自分たちのその時の苦しみを逃れる事ばかりに囚われやすい。

しかし、このように順序の理としてひながたを考えると、その時の苦しみも違って捉えられると思うのである。

そして、このように順序としてひながたを考えると、

教祖は「おふでさき」にあるように、最終的には「何をいうのも考えるのも親神様の心」という段階にまで進まれるのであるが、そうした時に、周囲の人々の成人がとても重要な事も思えてくるのである。

この周囲の人々というのが、我々であり、これから教えを聞く人々だと思うのである。

また、

人間は生まれ変わり出変わりをしている。

この生まれ変わり出変わりをする時に、前生に記憶がないという事も、一つの理である。

前生の記憶がないからありがたいのであるが、その前生を自らが悟り、自らが歩むそうした流れが作られる事が大切なのではないかと、「こうきを作れ」という言葉を考えていて、最近思うようになった。

 

思うがままに書きました。

何かの参考になれば幸いです。

 

親神様、教祖。どうぞ大難は小難にとお守りくださいませ。

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ここ数日の事。。。心のほこりを払って頂いた話。

2021年09月20日 23時19分47秒 | 思った事

今日は9月20日である。

18日は部内の月次祭で、結構にも台風が来るかと思う中、それてくれたお陰で、大事には至らず、陽気に勤めさせて頂けた。

以前にも書いたと思うが、部内では、会長が出直して不在のため、後継者に代わりに祭主と話をしてもらっている。

会長さんが出直されてから3年が経つが、まだ会長就任の時は来ていないようである。

そうした中にも、親神様の不思議を見せて頂き、新型コロナで不安を抱える中でも、陽気につとめさせて頂いている。

そして、なんと言っても「かしもの・かりもの」であり、心通りの御守護を頂いているので、心の切り替えが大切だという事が、少しずつ分かって来て下さっているように思う。

 

19日には、秋の霊祭を行った。

部内の奥さんと後継者、そして一人の信者さんが参拝下さり、無事に勤め終えた。

うちの教会は、明治25年設立だが、50年の間に7人の方が会長になっている。

その中の5代目の会長をして下さった、畑中伴右衛門先生の多分ひ孫になられる方だと思うが、娘と同室だと数日前に聞き、不思議なものを感じて、霊祭には生まれ変わり出変わりの話をさせて頂いた。

 

世間では夫婦別姓を良しとする動きがあるが、家という観念があるから姓が必要だと思う。

これは日本だけではない、西洋でも○○家というのは存在する。

そうした時、その家を守ると決めた人が同じ氏を名乗るという事は大切な事だと私は思う。

昔、「ルーツ」という映画があった。自分の先祖を探しての物語で、多くの人々が自分のルーツを尋ね歩いていた。

そうした時に、家、戸籍というものが存在する日本はどれだけ素晴らしいものかと思う。

ただし、自分たちに負い目があれば、先祖の事を知られたくなくて、戸籍などを無くしたい。そのために別姓を作りたいという人もあるかもしれない。

とも思った。

 

しかし、お道の信仰をして自分の性分を自覚するためには、過去の良い事も悪い事も知っておくことが大切だと思う。

家系などは、それに興味のある人でなければ、事細かに事柄を書き残す事は無いだろう。

ところが、教会の歴史を残す動きが以前あり、教会史が作られた。

世間では病気になる事を、良い事とは思わず書き残すことはないが、お道は入信の動機が身上助けであるため、どんな身上をしてきたのか良く分かる。

その時に、私の家は教会ではなかったが、父親が書き残してくれていた。

それと、今の教会の教会史をあわせて見ると、私の子供たちには、長谷川の家のいんねんも、熱田分教会のいんねんも持ち合わせているように感じるのである。

「いんねん寄せて守護する これで末代しかと治まる」と言われるが、本当にそうだと思う。

自分の家の先祖の身上、それから性分を考えると、自分にも子供たちにもまた、妻の上にも当てはまってくる。

また、信者さん方の身上や事情を考えても、重なってくるものがあるからである。

 

私が自分のいんねんを自覚したのは、大教会にいた時である。

会長さんの顔を見ただけで、嫌気のさす自分に気が付いた時である。

人が悪いのではなく、その人に会わねばならないいんねんがある自分に元がある。

それに気が付いた時、嫌気のさす自分のに気が付いても、その嫌気が取れない事に「いんねん」を感じたのである。

気が付いた時、自分の心なのに、心がままならない事にも気が付いた。

そのように汚い心をつかう自分であるとは思っていなかったから、平気に物が言えたのである。

しかし、自分の心に気が付いた時に、落ち込んだ。

そして、おぢばへと走った。

片道4時間かけて、車で夜中に走った。

これを3日続けた時に、心が変わった。

見ただけでも嫌気のさしていた心が、そうではなくなったのである。

この時から、「悪しきをはろうて たすけたまえ 天理王命」と唱える「悪しき」は、胸を祓う手ぶりの通り、心のほこりも払ってくださるものと確信したのである。

 

どんな身上も御守護下さる。心の身上も同じである。

それも、それぞれの成人に応じて、見せて下さりお導き下さるものだと、周囲を見て段々と思うようになった。

「無理に来いとはいわんでな いずれだんだんつきくるで」である。

ただし、そうしたお導きの時を、世間の風潮に流されて見失わないようにすることが大切だと、最近思うようになった。

 

20日の今日は、大教会のひのきしんに妻が出かけると定めたので、私も共について行き、用事を済ませた後、二人でお墓地の掃除に出かけた。

 

今日も一日、無事に結構にお連れ通り頂けたことをお礼申し上げます。

また、世界の人々が、どうぞ、大難は小難にとお守り下さるようにお願い致します。

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世の中の事象を、かしもの・かりものから思案すると。。。

2021年09月16日 10時01分15秒 | 思った事

ネットを見ている人ならば、政治も医療も何が本当か分からない状態だと思う。

これまでの価値観で見るとそのようになる。

これまでの価値観とは、個人の善悪であったり、偉い人や功績のある人は正しい、また法律は正しいという価値観であると思う。

これは教祖のお話しに沿った、正しい価値観なのだろうか?と思うのである。

そして、性同一性障害、多動性障害、精神障害など、心と体のバランスが取れない人々が増えてきている。

そして、世間ではそれらを、薬や身体の改造で解決をしようとしている。

 

これらの事について、親神様の「かしもの・かりもの」から思案するとどうなるだろうか。

すべては心通りに体を借りている。それは、思い通りではない。

 

人との縁も、心通りに与えられている。望み通りではない。

 

望み通りというのは、自分の好き嫌いを土台としている。

 

好き嫌いの度が過ぎると、どうなるのか、「八つのほこり」で分かると思う。

「ほこり」ではなく、「いんねん」となるのである。

「いんねん」となれば、自分の心に苦しまねばならない。

「いんねん」となれば、気になって仕方がない、心からその事が離れなくなるのである。

気が付けば、それを自覚して、切り替える手段が取れるが、自覚していないから、厄介なだけである。

そしてどんどん深みにはまっていく。

その厄介をより厄介にしているものが、知恵・力・財力などではないかと思う。

 

これは、公然と説かれている話である。

後は悟りであろう。

身近に現れる前に、周囲に話しで知らせてくれるのである。

 

起こって来た事、見せられてきた事から、悟ってどのように実行するか。それによって、変わってくる。

 

親神様に守られる道、安心な道、それを通るためには、それを習得、悟るためには、

自らの「いんねん」を自覚して、「たんのう」を目指して、教祖が歩まれた道、先人が歩まれた道を手本に、

火の中も、渕中も、剣の中も超える心で歩む事が大切だと思う。

 

苦難があると思って歩めば、起こったとしてもさほど気にならずに、大難は小難と喜べるものである。

 

これは、親神様のお話しを、信じての事であるから、うそだと思う人には関係の無い話である。

ただし、お話しを聞いている人も、そうした世の中に生かされている事を心しておく必要がある。

「ほこりはよけて通れよ」である。

 

今日も『復元』をスキャンします。

親神様・教祖、大難は小難にとお守りくださいませ。

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ご覧くださる皆様。ありがとうございます。

2021年09月15日 07時55分56秒 | 思った事

親神様の存在について、私の体験を通してこのブログで紹介をしてきた。

私の書いたことから存在する事を信じるか信じないかは、それぞれであるが、体験をしてきた私には、これが真実である。

ただ一度の体験ならば、偶然とか勘違いと言える。

しかし、度重なり、自分自身だけではなく、周囲の人々にもそうした事を見せられると、偶然とか勘違いではなくなる。

それが今の私の現状である。

そして親神様のお話しを求めれば求めるほど、病気が良くなる事や事情が解決するという事だけにこだわる事が、どれだけ親神様の思いを悟る上に邪魔になるかとも思った。

大切なのは、そうした病気や事情から自らの考え方を反省することである。

その反省して、切り替えるための教えを求めなければ、その切り替えは出来ない。

ところが、病気や事情にばかり囚われて、自分の都合に合わせて不思議を安易に求めているから、教えを求める所へ行かない。

ましてや、自分の病気や事情に限っているから、余計に分からない。

 

また、教祖がすべての病気の人を助け上げたと勘違いしてはならない。

助かっていない人がいるのである。

「その差を考えよ」と、助かった人の事も助からなかった人の事も記録に残されている。

その違いは、親神様の思いに沿った誠の心を使えているかどうかである。

 

また、見せられる身上事情も、本人だけへのメッセージではない。

悪い心を使っていなくても、周囲の人のために身上にさせる場合もあり、引き寄せるための身上もある。

これらも調べればわかる。

 

ここ数日、投稿していなくても、訪問者が40人ほどあり、閲覧数が100を越している。

ブログを書いていなくても、訪れる人があり、資料を読んでくれる人があると理解している。

 

だれが読んでくれているかは分からないが、教えを求める切っ掛けになり、世界へ親神様の思いが伝わる一助になってくれているのでは。。と勝手に思っている。

読んでくださる皆様、ありがとうございます。

この教えが、上の人々に理解されねば、陽気ぐらしは実現しないのである。

 

昨日、初めてのバイト先へ出かけた。

雨の中、作業着でぬれたが、仕事をする事はとても楽しいものである。

その合間に「復元」に目を通していた。

そして、次にここへ公開する記事を定めた。書き換えるのに時間がかかるが、なんとかやり遂げたいと思う。

今日は、一日スキャンしようと思う。

 

世界の上の人々へ親神様の教えが、思いが伝わりますように。。。。

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ご本部の神殿奉仕にて。。。

2021年09月10日 10時19分31秒 | 思った事

8日はご本部の神殿奉仕だった。

先月よりも参拝者がずっと少なく感じた。

しかしその中でも、回廊拭きをされる方などがあり、別席者をお連れしているような姿も見受けられ、またおさづけの拝戴も行われていた。

それぞれに御守護を願ってつとめておられると思った。

今月は5人近くの方が、新型コロナの影響から欠席となり、着座の回数が増えて、着座から着座の間が1時間しかなかった。

これまではおおむね1時間半の間があった。ましてや食堂が改修のため、第1食堂へ行くこととなっていた。

1時間半の時には、こんなに間を開けなくてもと思った時があったが、いざこの状態になるととても大変な事が身に染みた。

ゆっくりと教祖殿・祖霊殿と回る時間も、少し用事をすると無くなってしまうのである。

永年神殿奉仕がつとめてきた中に、無理なく勤められるようにと配慮された人数であったのだと痛感した。

 

今回は、北礼拝場の西と西礼拝場の北に座る事が多かった。8回の内4回ほどがその場所だった。

ある先生が「かんろだいがまっすぐ立っていない。ずれている。」と言われた。

以前から、かんろだいがずれている事は分かっていた。

木製なので、水をかければ膨張し、乾けば伸縮をするのである。

かんろだいは常時、雨風を受けているのである。

それを繰り返せば、木は変形する。

変形すればずれてもおかしくはない。

それを、「絶対にずれてはならない」としては、それこそ無理を強いているようなものである。

また、同じ当番で大工をしている先生があり、その方に尋ねると「雨ざらしなのだから、変形することや破損する事はどうしようもない事」と言われた。

そして「5分の丸いほぞでしかつながっていないに、倒れないのが不思議なくらいだ」とも聞かせてもらい、

「今日は北東へ傾いているよ」と教えて下さった。

今回多く座った北西から見ると、傾きが良く分かるのである。

これまでこんな傾きは見た事がなかった。

そして、先日調べていたおさしづの中に、「かんろだいを立てねばならぬ時が来る」という意味のお言葉がった事を思い出した。

今はひながたかんろだいである。

本当のかんろだいは、石造りである。

先日の「おふでさき」にあったように、一列という人の心を澄をすまして、かんろだいを建てたい。

そして証拠をもって、世界を陽気ぐらしに立て替えたいというのが親神様の望みである。

証拠というのは、人知を超えた不思議な働きである。

それを求めるならば、一列という人が心を澄まさなければならい。

それが誰かは特定できないが、親神様のお話しを聞いた人であることは確かだと思う。

という事は、他人事ではないのである。

不思議を求めるならば、自らの心を澄ますように努めなければならないのである。

まさしく「一列澄まして かんろだい」なのである。

他人事にしていては、助からないのである。

 

「一列澄ます かんろだい」から「一列澄まして かんろだい」に変えられた事を、「神様の模様替え」と当時の人々は言われていた。

そして、その具体的な事は、かんろだいを建てて、そこへ平バチを乗せて、おつとめをつとめて、そこへ降った甘露を、教祖から人々に授けようというのが当初の計画であった。

その甘露を頂くためには、誠の心でなければならない。

だから、人々は甘露を頂くために誠の心へと変えるだろうとされた。

「おやよりこころしだいに」と「おふでさき」にあるのがそれであるのだが、ところがこの誠の心の者があまりにも少なすぎて、渡せない。

また、誠の心になればもらえると思って、誠の心になる努力をするだろうと思っていたところが、そうではない。

そこで、一つ道を変えられた。

と私は調べたり、当時聞いた口伝の話などから、そのような思いが心にあったのである。

 

そして、「一列」というのを、「世の中すべての人間」と思っていたので、かんろだい建立は夢のまた夢というような気持でいた。

 

しかし、先日の「おふでさき」から「一列」が世界中の人間ではない事がはっきりした時。

心の靄が晴れた。

問題はおさづけを戴いている人々、話を聞いている人々の心が澄み、誠の心を使えるようになる事であると思えたのである。

誠の心とは、ウソ追従をいわないしない心である。

口と心と行いが揃う心である。

人を助けたいという心である。

「傾いたかんろだい」を見ながら、

本当のかんろだいになるのはいつなのかは分からないが、その日のために、自分自身の心の研鑽を重ねる事を思ったのである。

 

また、

『復元』をグループで順次公開しているが、なかなか進まず、嫌気がさして来ていたところでもあった。

ところが、ある大教会長さんから「初代真柱様の教祖御伝を以前書換えたのだが、分からない字があって完成できていない」と声を掛けてもらっていた。

初代真柱様の教祖御伝は『復元』33号に掲載されているもので、実物を写真で掲載されたものである。

私も解読を試みた事があったが、全く分からず、放置したものであった。

それを頂くと共に、これまでスキャンしたデータをお渡しした。

やりたいことは沢山あるが、体と心がついて行かない。

しかし、御守護頂きたいと思い定めた心は折らないように、親神様のお導きのままに頑張ろうと、これまた、思ったのであった。

 

また長くなったしまった。

最後まで読んでくださった皆様ありがとうございました。

何かの参考になれば幸いです。

 

親神様・教祖、どうぞ大難は小難にとお守りくださいませ。

 

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「おふでさき」の隠された日付。。並び順の違うお歌。。12号

2021年09月06日 21時25分28秒 | 続ひとことはなし

昨日、「おふでさき」12号を読んで、「一列」と言われる人の心を澄ますことが、世界助けの上にはとても重要だという事を学んだ。

その時、私が使っている「注釈付きおふでさき」に、鉛筆で日付が書き込まれていた。

よく考えて見ると、私が第二専修科で卒論を書くときに、「おふでさき」の内容を知る上に勉強した痕跡だった。

「おふでさき」には、正冊といわれるものと外冊と呼ばれるものがある。

その外冊に書かれていた物を、ここに記したのだと思い出したのである。

そこで、「おふでさき」について書かれた2代真柱様の本を探したところあった。

それは『続 ひとことはなし』の「おふでさき」に関しての記述で、12号を解説したところであった。

今回はそこのところを、書き直したので、画像と共に記録しておく。

 

 第12号 『続ひとことはなし』158頁

 第12号は『おふでさき』全17冊中、最もお歌数の多い号で、24枚に、182首のお歌を収められている。
 尚、前段にも述べたが、正冊には、表記としては単に『12号』とあるのみで、執筆の年代もなく、又、教祖の年令もないが、外冊中山本第12号(85以降)に添加されている表紙によると、
 明治9紀元より2536年 被下候(くだされそうろう)
 外冊 神様直筆 79才 老女
とあり、第12号の大部分は、明治9年の作で、頭初2首のみが明治8年12月27日の作であり、第3首から、明治9年3月14日よりの作である事を知る。
 尚、付言しておく事は、第12号には執筆の日付が比較的に多く、正冊にて7カ所、外冊にて15カ所。ただし、正冊の日付は6カ所まで外冊と同カ所であるから、次のように都合16カ所の日付がある事になる。

 日付についての正冊と外冊との比較表

 お歌番号   正冊         外冊(梶本本・中山本)   外冊(その2)
   1    12月27日より   12月27日より
   3    3月14日より    3月14日より
   7    4月4日より     4月4日より        4月4日
  11    5日         5日
  14    12日        12日より         4月12日より
  22    14日        14日
  31               17日
  44               24日           24日
  47               5月11日より
  54               12日
  58               13日
  62               24日7つときよりはなし
  70               25日4とき
  85               うる5月1日9半
 111               3日より8半とき
 157    6月28日5ときよりはなし

 これらの日付によって、執筆の日とお歌の連鎖とが明らかになり、研究上の便宜を得ると共に、表記の年月が『紀元より2536年』とあるごとく、太陽暦を使用されているにたいして、本文の日付も一応は太陽暦のように思われるに反し、第12号85の日付に『うる5月1日9半』とあるにより、明らかに太陰暦の日付である事を物語っている。つまり、教祖は依然として、従来の慣例により太陰暦を用いられていた事が知られ、表記の文字は、その頃の新暦たる太陽暦を用いている点、これまた、筆跡のみならず、用語例よりも、教祖ならざる者の筆である事を証明されるところである。ちなみに、明治9年は太陰暦によれば5月うるで『うる5月1日』は太陽暦の『6月22日』に相当する。
 また、日付のあるものと否とは、あるいは草稿と浄書本との区別のように思われる節もあるが、この点は他日の研究にゆずる。

とある。

「おふでさき」とは、教祖が直筆で書かれたものであるが、その中でも、天理教教会本部に現存する「17号のおふでさき」を「正冊」と呼び、今公刊されているものである。それに対して、それ以外のものがいくつか現存しており、それを「外冊」と呼んでいる。

二代真柱様は、その「正冊」と「外冊」とを比較研究して『続 ひとことはなし』(33頁より)にまとめられているのである。

そしてもう一つ、私の注釈付きおふでさきにはメモが記してあった。

それは、この12号には正冊と外冊とで並び順の違うお歌があると書かれており、『続 ひとことはなし』178頁で、外冊に沿って解釈をされている。

外冊の並び順を記しておく。

けふの日にどのよな事もゆうほどに
なにをゆうてもしよちしてくれ (12-150)

いまゝでも神のをもハくまゝあれど
ひがきたらんでしかゑいたるで (12-151)

だん/\ともふひがつまりきるからハ
どんな事でもゆうてをくぞや (12-152)

これまでハどこの人でもをなじ事
なにをゆうてもみなうたごふて (12-153)

このたびハほんしんぢつであるからに
これそむいたらすぐにかやすで (12-154)

せかいにわあめをほしいとをもたとて
このもとなるをたれもしろまい (12-155)

このもとをしいかりゆうてかゝるから
どんな事でもしよちするなら (12-156)

このはなし月日の心ばかりやで
にんけん心あるとをもうな (12-181)

この事をみな一れつハしんちつに
をもてたのめばどんな事でも (12-182)

六月廿八日五どきよりはなし
けふの日ハこのよはじめてないはなし
なにをゆうてもこれきいてくれ (12-157)

このよふわ神のせかいとゆいながら
どんな事でもしんわしらんで (12-158)

このしんをまことしんぢつしてみせる
これみたならばみなとくしんせ (12-159)

そして、解釈は、

 外冊にあっては、150のおうたから、紙が改まってあり、明らかに149のおうたと続かぬ事が伺われる。

 まず、今日からどんな話を始めても、納得して受け入れよ(150)、と宣言され、今までとて、親神の思惑は種々あったのだが、時が熟さなかったので控えていた(151)が、段々と日時が詰まって来たので、今日(こんにち)では、控えておられず、どんな事でも言っておく事にする(152)。これまでは、内外の区別なく、どこの人々も同様、教祖の話を皆疑っていたが(153)、この度は、もはや抜き差しならぬ時に至っているので、本真実を話すのであるから、この話に背くと、直ちに、親神は退くかえしをするのだから、よく心して聞け(154)とて、世間では、雨が欲しいと思っても、雨がなぜに降るか、又降らないかのその根本の理ー親神の守護を知らない(155)。今日はその根本の理を確かに話すから、よく理解しておけ(156)。

この雨の理の話は、人間心ではなく、月日の心から述べるのであるから(181)、その事を皆一列はよく承知して、教祖にもたれ、真実心から願えば、つとめによって、どんな事でも叶えてやろう(182)。

 外冊の順序に従えば、181,182のおうたは、156の次に次ぐ供養思われるゆえ、ここに解釈をつけておく。

とあります。

これらは研究する時に、とても大切な事だと思います。

また、この『続 ひとことはなし』を読んでみてもらいたいと思います。

webでも販売していました。

 

今日は、昨日作った支部例会の連絡を印刷するつもりでしたが、連絡する事が追加されて明日印刷をして配る事にしました。

また、バイトの連絡があったのですが、残念ながら日にちが合わず断りました。

ともかく、色々な事をしながらも、これを書き上げる事が出来て良かったです。

今日も一日ありがとうございました。

 

どうぞ親神様・教祖、大難は小難にとお守りください。

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今日の「おふでさき」から「世界一列」と「一列」

2021年09月05日 20時46分25秒 | 思った事

朝づとめの時に、毎日「おふでさき」を拝読している。

昨日、このブログを書きかけていたのだが、どうも言葉が出てこないので、昨日はやめた。そして支部の連絡報を作っていたが、なかなか進まない。

 

今朝起きて、お供え物をしている時に、教祖は反対する人と議論をする事は無かった。と思った。そして「誠真実」という言葉が思い浮かんだ。

 

教祖は、話を聞きに来る人には懇ろにお話下された。しかし反対する人には、ただ「そうかえ」とか、ひどい時には「火水風とも退くと知れ」という事を言われたと聞いている。

説き伏せるという事はなさらなかったように思うのである。

それはなぜだろうかと思った時、先ほどの「誠真実」の言葉に結びついたのである。

 

人というものは、言われたら腹の立つものである。

間違ったことを指摘されて、素直に認められる人はまずいない。

反対に、腹の立った腹いせに、悪さを仕掛けてくる。

つまり、「はらだち」「うらみ」のほこりが立つのである。

「八つのほこり」が腹に治まり、自覚をしている人は、一時はその心になっても、素直に反省して、そのようにはならない。

しかし、そうではない人は、そのようにならない。

 

そうした時に、ほこりを立てずにすむ方法はというと、「そうかえ」とか「火水風」というすぐには分からない不思議な言葉での対応かも知れない。

人間というものは、自分で自覚するしか、変わりようがないのである。

人に変えてもらう事は出来ない。

人の言葉や指摘は、あくまでもきっかけである。

そのきっかけがどれだけ些細なものか、強烈なものかはその時に寄るだろう。

教祖の言葉は、そうした自覚を促す言葉のようにも思える。

 

そして、その教祖の言葉を聞いて、それぞれがどう思い、それによってどのような変化があったかは、逸話編などに様々現わされている。

前置きが長くなってしまった。。。

 

ここまで深く思ってはいなかったが、「誠真実」の態度を心に思いながらおつとめをして、「おふでさき」を拝読した。

12号85から110であった。

けふまでわ一日なりとひをのばし
とのよな事もしかゑいれども (12-85)

このたびハもふひがつまりきるからハ
どふむしかゑる事ハでけんで (12-86)

註釈 85-86
 今日までは、たとえ一日でも日を延ばして、出来るだけ控えて来たが、もうこの度は、日が迫り切って来たから、どうしても控える事は出来ぬ。

なんどきにとのよな事をきいたとて
これハ月日のざねんりいふく (12-87)

註釈 87
 いつ何時どのような変わった事を聞いても、それは、親神の積もり重なった思いが、激しい急き込みとして一時に表へ現れて来たのである。

月日にわどのよなものもわが子なり
かわいばかりでみてハいれども (12-88)

いまゝでハせかいぢううハ一れつに
めゑ/\しやんをしてわいれども (12-89)

なさけないとのよにしやんしたとても
人をたすける心ないので (12-90)

これからハ月日たのみや一れつわ
心しいかりいれかゑてくれ (12-91)

註釈なし

この心どふゆう事であるならば
せかいたすける一ちよばかりを (12-92)

註釈 92
 どういう心に入れ替えるのであるかと言えば、世界を救ける一条の心になってもらいたい。

このさきハせかいぢううハ一れつに
よろづたがいにたすけするなら (12-93)

月日にもその心をばうけとりて
どんなたすけもするとをもゑよ (12-94)

註釈 93―94
 今後、世界中の人間が一列に互い立て合い扶け合いをするならば、親神も、その誠心を受け取って、どのようなたすけも皆引き受けてする程に。

このたすけどふゆう事にをもうかな
ほふそせんよにたしかうけやう (12-95)

またゝすけりうけ一れつどこまでも
いつもほふさくをしゑたいから (12-96)

註釈 95-96
 このよろづたすけというのは、どういう事かと言うと、先ずほふそをせぬように確かに請け合う。更に又、世界中の農作物が何処如何なる所に於ても、常に豊作であるように教えたい。

このみちをはやくしこもとをもゑども
一れつ心わかりないので (12-97)

註釈 97
 このよろづたすけの道を早く教えようと思っているが、一列の人間の心が澄み切らないから、教える事が出来ぬ。

せかいぢうどこにへだてわないほどに
一れつしやんしてくれるよふ (12-98)

註釈 98
 世界中の人間は皆、親神の可愛いい子供であるから、少しも別け隔てなく皆一様に救けたいのが親心の真実である。一列の人間は、ここをよく思案して、親神の真意を悟ってもらいたい。

しんぢつに心にさだめみなついて
神のゆう事そむきなければ (12-99)

それよりも月日の心しいかりと
うけとりしだいたすけせきこむ (12-100)

註釈 99-100
 人々の心が皆、真実の心に定まって、親神の言う事に背かないようになったならば、親神の方では、確かに人々の誠真実の心を受け取って、受け取り次第早速たすけを急ぐ。

このたすけ一寸の事やとをもうなよ
これわにほんの一のこふきや (12-101)

註釈 101
 このたすけは一寸した理の軽いたすけではない。このたすけは、この度元のぢばに現わすにほん一のたすけ一条の手本雛形であって、これによって末代までも世界一列の人間が救けられるのである。

註 第5号31註参照。

これさいかはやくしいかりみせたなら
とのよな高いところなるとも (12-102)

註釈 102
 これさえ早く確かに見せたならば、どのような高い所へも道がついて行く。

こればかりにんけんハさでないからに
月日ぢうよふそむきでけまい (12-103)

註釈 103
 これこそは、人間業ではなく、親神の働きであるから、何人もこれにそむく事は出来まい。

したるならいかほと高いところても
まねハてけまいしやんしてみよ (12-104)

註釈 104
 従って又、親神の自由の働きは、どのように高い所の者でも、そのまねは出来まい。よく思案してみよ。

月日よりやますしなすによわらんの
はやくしよこふだそとをもへど (12-105)

一れつハみなうたごふてたれにても
せかいなみやとをもているので (12-106)

註釈 105-106
 親神は、病まず死なず弱らずに陽気ぐらしの出来るよう、その証拠を早く出したいと思っているが、皆の者は疑うて、世間普通の人の言葉のように思っているから、出す訳にはいかない。

このところにんけん心さらになし
月日のをもう事ばかりやで (12-107)

註釈 107
 このぢばで教祖の諭している事は、人間心は少しも混っていない。親神の心ばかりを言うているのである。

その事をたれてもしらぬ事やから
わかりないのが神のさんねん (12-108)

註釈なし

この心どふぞしんちつ一れつの
心すまするもよふないかよ (12-109)

註釈 109
 この親神の真意を了解させて、何とかして、一列の心を澄ます段取りは出来ないものか。

心さいはやくハかりた事ならば
そのまゝすぐにしよこだすのに (12-110)

註釈 110
 一列の心さえ早く澄み切って来たならば、直ぐにもよろづたすけの証拠を出そうものを。

 

というものである。

読んでいた時は、今この時にとても重要な気がして、今日のブログには久々にこの「おふでさき」を書こうと思ったのである。

そして、上記の通り、註釈を調べて入力をした。

これを読んで皆さまはどのように思われるであろうか。

私はまず、一番最初のお歌、

けふまでわ一日なりとひをのばし
とのよな事もしかゑいれども (12-85)

このたびハもふひがつまりきるからハ
どふむしかゑる事ハでけんで (12-86)

註釈 85-86
 今日までは、たとえ一日でも日を延ばして、出来るだけ控えて来たが、もうこの度は、日が迫り切って来たから、どうしても控える事は出来ぬ。

これが気になった。

私たちは、いつまでも時が同じように続くと思っている。

しかし、このお歌からすると、そうではない事が分かる。

つまり、

定まった日があり、その日までに行わねばならない事が定まっているのである。

そして、定まった日はあるけれども、親神様はそれを延ばすことが出来るという事である。

ところが、それでもそれ以上延ばすことが出来ない状態になっている事も記されているのである。

そして次のお歌で、

なんどきにとのよな事をきいたとて
これハ月日のざねんりいふく (12-87)

註釈 87
 いつ何時どのような変わった事を聞いても、それは、親神の積もり重なった思いが、激しい急き込みとして一時に表へ現れて来たのである。

と言われている。

以前から、「これまで隠されていた悪事が出てきている」とこのブログにも書いて来た。

こうした事も親神様のお働きで、今がその時だと思えるのである。

この悪事という事は、どういうものか、

註釈の無い次のお歌である。

月日にわどのよなものもわが子なり
かわいばかりでみてハいれども (12-88)

いまゝでハせかいぢううハ一れつに
めゑ/\しやんをしてわいれども (12-89)

なさけないとのよにしやんしたとても
人をたすける心ないので (12-90)

これからハ月日たのみや一れつわ
心しいかりいれかゑてくれ (12-91)

月日とは、親神様の事である。親神様からすれば、どの様な者も我が子である。といわれる。

このどの様な者とは、良い心の者もそうでない者もすべてという意味であり、その人間を可愛いと思って見ていたけれども、、、、と言われて、

そして、今までは世界中の人間は皆同様に、それぞれに思案をしているけれども。と言われる。

ところが、その人間の思案について、情けない、どのように思案をしたとしても、その思案には人を助ける心が入っていない。人を助ける心で思案をしていない。と言われている。

だから、これからは、親神様からすれば、「頼むから『一列の者』は心をしっかりと入れ替えて欲しい」と言われているのである。

つまり、「人を助ける心で物事を思案してほしい」という事だと思う。

これについては次のお歌で、

この心どふゆう事であるならば
せかいたすける一ちよばかりを (12-92)

註釈 92
 どういう心に入れ替えるのであるかと言えば、世界を救ける一条の心になってもらいたい。

とあり、「世界を助ける一すじ心」という事が分かる。

(これを朝に読んだ時には、「一列の者」について、私はすべての人々と思っていた。)

そして次に、

このさきハせかいぢううハ一れつに
よろづたがいにたすけするなら (12-93)

月日にもその心をばうけとりて
どんなたすけもするとをもゑよ (12-94)

註釈 93―94
 今後、世界中の人間が一列に互い立て合い扶け合いをするならば、親神も、その誠心を受け取って、どのようなたすけも皆引き受けてする程に。

と、「世界中の人間が、一列に(同じように)互い立てあいをにするならば、」と、親神様は不思議な助けを請け合っておられて、次にその助けの内容について、

このたすけどふゆう事にをもうかな
ほふそせんよにたしかうけやう (12-95)

またゝすけりうけ一れつどこまでも
いつもほふさくをしゑたいから (12-96)

註釈 95-96
 このよろづたすけというのは、どういう事かと言うと、先ずほふそをせぬように確かに請け合う。更に又、世界中の農作物が何処如何なる所に於ても、常に豊作であるように教えたい。

流行していた「ほうそ」をしないように守護をして、そして「常に農作物が豊作になるように教えを広めたい。」と言われる。

しかし、次のお歌で

このみちをはやくしこもとをもゑども
一れつ心わかりないので (12-97)

註釈 97
 このよろづたすけの道を早く教えようと思っているが、一列の人間の心が澄み切らないから、教える事が出来ぬ。

「このみち」とは、「よろづたすけの道」と註釈では書かれているが、私は「よろづたすけを頂くための筋道」と思っている。それを「早く仕込みたい」と親神様は思っておられる。注釈では「早く教えよう」とすごく柔らかく言われいるが、仕込むという言葉は、もっと強い思いがあると思われる。学校で勉強を教えるのは、聞く気がない者にでも教えるという事になるだろう。聞いていなくても話をすれば教えた事になる。しかし、仕込むというとそうではない。

仕込まれたという人々は、とても辛いけれども頑張って身につけたという意味合いを持って話すと思った時、ただ単に記憶するという事ではなく、体で実践できるようにする、体現できるようにする。と思えるのである。

ところが、そのように思っても、一列の人々の心は分からないので、出来ない。と言われている。

そして次に、もう一度「一列」が出てくる。

せかいぢうどこにへだてわないほどに
一れつしやんしてくれるよふ (12-98)

註釈 98
 世界中の人間は皆、親神の可愛いい子供であるから、少しも別け隔てなく皆一様に救けたいのが親心の真実である。一列の人間は、ここをよく思案して、親神の真意を悟ってもらいたい。

ここで「世界中の人間」と「一列と言われる人間」がはっきりと違う事が言われており、これまで私自身が「一列」について、「世界中の人間と思っていた事が違っていた」と確信したのである。

そうなってくると、この「親神の真意を悟らねばならない、一列と言われる人々」が誰かという事が問題となってくると思う。

そして次に、

しんぢつに心にさだめみなついて
神のゆう事そむきなければ (12-99)

それよりも月日の心しいかりと
うけとりしだいたすけせきこむ (12-100)

註釈 99-100
 人々の心が皆、真実の心に定まって、親神の言う事に背かないようになったならば、親神の方では、確かに人々の誠真実の心を受け取って、受け取り次第早速たすけを急ぐ。

となってくる。ここでは、主語となる言葉がない。そこで註釈では、人々となっている。

そして註釈に沿って少し見方を代えると、どのような人であるか分からないが、真実の心に定まった人があり、その人が親神様のいう事に背かなければという、二つの条件をクリアした人が出来たのち、親神はしっかりとその人の心を受け取り、その後にたすけを急ぐ。と言われているように思える。

ところが、ここで一つ疑問がある。

それは、二代真柱様がまとめられた「神・月日・親」と親神様の呼称が変わってくる事象に照らすと、ここでは、「神のゆう事」ではなく「月日ゆう事」と記されても良いと思う。しかし、そうではなく「神」と記されている事に疑問が湧き、何か特別な意味があるのではと思うのである。

そして、

このたすけ一寸の事やとをもうなよ
これわにほんの一のこふきや (12-101)

註釈 101
 このたすけは一寸した理の軽いたすけではない。このたすけは、この度元のぢばに現わすにほん一のたすけ一条の手本雛形であって、これによって末代までも世界一列の人間が救けられるのである。

註 第5号31註参照。

と言われているが、この註釈を読んでもあまりにも纏まりすぎて、反対に分かり難いので、ここまでの流れから、私なりの解釈をしてみたい。

このたすけとは、一列の者に「ほうそ」をしない。そして豊作になる方法を仕込んで、その一列の者の心が定まり、その真の心が親神様の思いに背かなくなったら、すぐさまにそうした身上や事情の時に現されるたすけである。しかしそれは簡単な軽いものではなく、そしてこれは、にほん(親神を信じる者)の一番の「こうき」である。この「こうき」は神様が世界助けを進めるための大切なもの、証拠となるものである。(う~~ん。難しい~~)

そして次にこの「こうき」について、

これさいかはやくしいかりみせたなら
とのよな高いところなるとも (12-102)

註釈 102
 これさえ早く確かに見せたならば、どのような高い所へも道がついて行く。

と言われて、

こればかりにんけんハさでないからに
月日ぢうよふそむきでけまい (12-103)

註釈 103
 これこそは、人間業ではなく、親神の働きであるから、何人もこれにそむく事は出来まい。

この「こうき」として表された不思議は、人間業ではなく親神様の働きであり、親神様の働きに背く事は出来ないと言われている。

この、人間業とは思えない「おたすけ」によって、この天理教は広く広まり、世界各地に教会が作られたのであり、その元は、その助け人の誠真実とも言えよう。

そしてさらに、

したるならいかほと高いところても
まねハてけまいしやんしてみよ (12-104)

註釈 104
 従って又、親神の自由の働きは、どのように高い所の者でも、そのまねは出来まい。よく思案してみよ。

と言われる。ここで、「まねはでけまい」と言われているが、「一列の者に仕込んだ方法」を、見よう見まねで真似をして見ても御守護が現れない。そしてそれがまた、親神の働きの証拠となると思える。

ところが、次では、

月日よりやますしなすによわらんの
はやくしよこふだそとをもへど (12-105)

一れつハみなうたごふてたれにても
せかいなみやとをもているので (12-106)

註釈 105-106
 親神は、病まず死なず弱らずに陽気ぐらしの出来るよう、その証拠を早く出したいと思っているが、皆の者は疑うて、世間普通の人の言葉のように思っているから、出す訳にはいかない。

ここでも「一列」が出てくる。そしてその「一列」が、疑って教祖の言葉を、世間の言葉のように思っているから、そのように出来ないと言われている。そしてその後は、教祖を疑わないようにと

このところにんけん心さらになし
月日のをもう事ばかりやで (12-107)

註釈 107
 このぢばで教祖の諭している事は、人間心は少しも混っていない。親神の心ばかりを言うているのである。

と言われて、

その事をたれてもしらぬ事やから
わかりないのが神のさんねん (12-108)

この事をだれでも知らない事だから、といっても、人々が理解しないのが神のざんねんである。と言われている。

ここでも「神」が出てくる。

そして次は、「一列」について

この心どふぞしんちつ一れつの
心すまするもよふないかよ (12-109)

註釈 109
 この親神の真意を了解させて、何とかして、一列の心を澄ます段取りは出来ないものか。

と、親神の思いは、どうか「一列」と言われる人々の、心を澄ます方法は無いものだろうか。と言われているように思われる。

そしてさらに、

心さいはやくハかりた事ならば
そのまゝすぐにしよこだすのに (12-110)

註釈 110
 一列の心さえ早く澄み切って来たならば、直ぐにもよろづたすけの証拠を出そうものを。

と言われて、念を押されているように思われる。

 

このお歌の一番初めに、親神様のざんねん立腹が現れる時を予言されたお歌があり、その後に、おたすけによる証拠を見せたい親神様のお歌を思う時、医者も見放す身上が次々とあらわれ、不作となる時にほど、親神様の御守護を頂く時だと思われるのである。

そして、そのためには「一列」と言われる人々の心定め、世界助けへの誠真実が必要だと言われているように思う。

そしてこの「一列」は私も含めて、親神様の教えを聞き、親神様を信じる人々ではないだろうか。

教祖のお姿は今はもうない。

しかし、存命で働いて下さっている。

このみちをはやくしこもとをもゑども
一れつ心わかりないので (12-97)

註釈 97
 このよろづたすけの道を早く教えようと思っているが、一列の人間の心が澄み切らないから、教える事が出来ぬ。

このよろづたすけの道を、現在の私たちは仕込まれているだろうか。

仕込まれていないならば、仕込んでもらわねばならないと思う。

これがなければ、不思議なお助けを頂く条件が満たされないのである。

反対に、現在、不思議なお助けを次々と見せられる人がある。

Facebookでもそうした方が投稿されている。

こうした方々は、そうした条件を満たしていると言えるだろう、であるならば、そうした方々に尋ねる事も一つではないだろうか。

未熟な私ではあるが、そうしたよろづたすけの道の条件を、先人先生方の手記などから思うには、人任せにしない事が一つの条件のように思う。

先人先生方は、自ら教祖の元へ足を運び、自らお話を聞き、自ら教祖の言われるように歩まれたのである。

そして「みかぐらうた」に、「むりにでようというでなし 心定めのつくまでは」と言われている。

心定めも一つの条件である。定まっていないならば、定まるように努める事、これが順序ではないかとも思う。

 

薬が手に入らなければ、医者の手余りと同じことである。

おたすけ頂く方法は、おつとめ、おさづけ、御供さんと教えて頂いている。

何よりも、「かしもの・かりもの」のお話しで、「人助けて我が身助かる」である。

互い立てあい助け合う心に切り替える事。その心定めが出来るかどうかにかかっていると思う。

 

今日は、婦人会で部内の奥さんが来てくれました。

元気でよかったです。

とても長くなりましたが、最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました。

分かり難い文章で申し訳ありません。

 

今日も一日ありがとうございました。

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親神様の御守護とは。。。ここ数日の事から。。治験薬について

2021年09月03日 11時48分27秒 | 思った事

先日アルバイトのページを見たら、「副業OK,、周2~3日」の運転のアルバイトが目に付いた。

色々と入用なので、申し込んでみた。

そして連絡があり「周1日」しか仕事がないですがとの事であったが、27日に面接に出かけた。

そして、「私も天理教の教会をしていますので、日にちが合えば」と、出勤する事にした。

コロナのために、毎月1日に行われる大教会の例会が無くなったが、一品の御供でもさせてもらいたいと、8月31日に、アルバイトの書類を出すと共に、日々のお供え用に野菜を買って届けた。バイト先がちょうど大教会への通り道になる。

バイト先で書類を出すと、健康診断をしてきてくださいとの事。日を改めて指定の病院に行くことにして大教会へ向かう。

夜、ある教会の事情について電話が入る。後日資料をFAXする事にして電話を切る。

9月1日朝、健康診断をする病院に電話をかけると、バイト先から書類をもらってくるようにと言われる。

そして指定の病院へ行くと、レントゲンが壊れているとの事。

個人病院も大変なんだと思った。

用事が済んだところで、昨日の夜の電話を思い出す。

大教会から資料をFAXしようと、大教会へ走る。

用事を済ませて、母親と話をしている中に、私のFacebookが時々にしか見れない事を知る。

Facebookにはフォローという機能がなく、友達であると優先的に出てくるが、それでも友達が多いとたまにしか出てこない。

そうした時には、本人のページを表示して見る事になる。

友達ならば、私の顔をクリック・タップをして、そのページを開くのである。

友達でなくても、私の発信は公開にしてあるので、「長谷川喜郎」で検索するとページは開かれて、共有した情報は見ることが出来る。

私の共有方針は、正しい正しくないを基準にしてはいない。気になった情報を共有している。

どうしてそのようにするかというと、読んだ時には正誤が確認できない事も沢山あるからである。

これまでに、共有した情報でも、事実の事であっても、ユーチューブなどの企業が不都合、隠蔽したいと思えば削除される事も多々あった。

今の時代、様々な観点からの情報が発信されているので、正誤の基準も沢山あるのである。

そうした事を確認するためにも共有している。

親神様のお望みは「陽気ぐらし」である。そのためには、人間が成人しなければならない。

成人とは「心が澄み」「知らない事がないようになる事」だと私は思っている。

私の意見を発信する事もあるが、そのための道具として使っている。

母親に説明をして、教会に戻った。

 

2日朝、夢を見て目を覚ました。夢を見たのは久々である。

その夢は、先日新型コロナの陽性反応が出た方のお父さんの夢である。

気になって電話をかけて見たところ、息子さんが陽性反応が出た時には陰性であったが、その後発熱があり、陽性となったとの事である。

それから、一週間ほどたつがまだ発熱があり、解熱剤だけで自宅療養しているそうである。

大教会でもお願いづとめをしていてくれているとの事だった。

まずは、無事であってくれてよかった。

 

その後、YouTubeを見たら「イベルメクチン」使用している医師の動画が出て来た。

#381 中川会長!河野大臣! どうか僕の疑問に答えてください。 長尾和宏コロナチャンネル - YouTube

この人のチャンネルは初めてである。登録をして、さっそくFacebookにコメントを付けて記録しておいた。

チャンネル登録をしていても、登録が多いと、すぐさま目に付くように出てくることはない。

人間でも、会いたいと予定をしていなくても、偶然にも出会う事がある。

これを偶然とみるか、必然・神様の働きと見るか。様々だと思うが、

私はこうした場合、後者と見て、それなりの行動をする事にしている。

 

そして今日、以前「イベルメクチン」の治験が始まった時のニュースを記録したものを、送っておいた。

イベルメクチンでの治療に関する記事 (記録)|きたろう|note

「北里大学」「愛知医科大学」「東京医師会」で行っているとの事、もしもの時には連絡してみる事も良いかと思う。

 

ここまで書いたので、治験について、経験したことから書いておく。

世の中には、一般的に認識された薬以外に、テスト中の薬というものがある。

難病、奇病というものに対してである。

そうした難病になった時に、担当医となった医者がその病気を知り、治験薬を知っておれば、使う事が出来るのである。

その医者が知らなければ、それは使われないのである。(当然のことである)

そして、

助かりたいと思う上に、治験薬を試して良くなるか、良くならないかは一つの賭けである。

これが治験薬というものである。

絶対に良くなるという保証はない。それをしっかりと知っておくことである。

常時の薬は、そうした治験を重ねて、使用法が確立されたものである。

 

この治験を行っているという情報を知っているか知っていないか、これも大切な事だと思うのである。

名医がいるとの話を聞いて、遠くからでも駆けつけるのである。

その名医がいるという話しも情報である。

それを信じるか信じないか、それに賭けるか賭けないかはそれぞれである。

 

このように考えた時、新型コロナに対するワクチンはどうか、良く分かると思う。

治験薬でしかない。

その結果が、現在、半年しか効果は無い。ということや、

3回目を打たなければならないとか、打って死亡する人が、新型コロナ以上になってきているなどが明らかになってきている。

ましてや、治療薬ではなく、予防薬である。

予防薬で死亡や異常を起こすことを望むか、どうかである。

 

予防薬では、他にも様々薬が言われているが、その情報がどうなっているかは、それぞれで調べて見ることだと思う。

 

親神様は、「八つのほこり」の説き分けに続けて「うそと追従これ嫌い」と教えられた。

そしてこの教えは、元拵えた神の教え、元の教え、根本の教えと言われて、

「根ほるもようなんでしてでん」そして「根があらわれば おそれいるぞや」などと「おふでさき」にも記されている。

この根が問題であろう。

親神様の望まれる心であるか、そうでないか。

親神様の望まれる心へと切り替えようとするか、そうでないか。

ここに大きな振り分けがあると思う。

 

「悪もはびこらす」と言われる。何のために悪があるのか、悪が無ければその差が分からないからである。

悪が悪いのではなく、悪に引っ張られるから悪になるのであり、悪に引っ張られないで、善にひっぱられるようになる事が大切だと思うのである。

人の心は混とんとしているのである。

泥水なのである。

それを周囲の言葉、周囲の様子から、体験から分けて行くのである。

「おふでさき」に「分ける」という言葉があるが、そうした意味合いもあると私は思っている。

 

出会うのもご縁で、それはそれぞれの心が引き寄せているのである。

いんねんである。

良い引き寄せが、多く現れますように。

そして、悪い引き寄せは、少しになりますように。

と思う。

 

さて、

昨日は、緊急事態宣言などなどで、支部長会も中止となり資料配布のみであったが、12月におこなう予定の「名古屋城落葉掃きひのきしん」の打ち合わせを、教区で行った。

世間の情勢でどのようになるか分からないが、準備だけはしておかねばならないと思う。

緊急事態宣言で支部例会は中止としたが、支部内の各部各会からの連絡をもらっているので、これから連絡報を作る。

 

思うがままに書きました。

読みにくかったと思いますが、どうぞお許しください。

最後まで読んでくださった方、誠にありがとうございました。

 

 

 

 

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神が入り込む。。。裁判での事から。。。

2021年09月01日 08時10分40秒 | 思った事

天理教の歴史の中には、裁判になった事件がいくつもあり、それは教祖伝にも、「我孫子事件」などで示されている。

教務部長にならねばならず、教会事情から裁判に関わった時の話である。

 

その裁判には証人尋問というのがあり、弁護士事務所で、その尋問に対する練習を行った。

裁判では、勝たなければならない。

そのためには不利な事を言う必要はないのである。

また、真実を述べるためには、堂々とした態度も必要となる。

そのために弁護士事務所で、数回の練習を行ったのである。

ところが、その練習の時には、弁護士さんが意図するような成果が全くでなかったのである。

こんな状態では、悪い印象を与えて負けてしまう。とまで言われた。

 

そんな中で、証人尋問の日が来た。

私はその証人尋問される方を車に乗せて裁判所へ向かった。

その道中、隣に座っているその方の表情や、雰囲気が裁判所に近づくと共に、段々と変わっていくことに気が付き、「どうしたのかなぁ」と思っていた。

そして、裁判所に到着し、法廷が始まり、証人尋問が始まった。

私は傍聴席で、様子を見ていた。

全く堂々として、あの練習の時はなんだったのか。と思うような返答をされた。

終ってから弁護士さんから、100%の出来です。良かったです。

と言われ、不思議だなぁと思ったのである。

結果、この法廷での審議は、こちらの思い通り以上の結果となった。

 

「人が変わる」という言葉があるが、その状態を見て、神様が入り込まれたのではないかと私は思ったのである。

教会へ巡教へ来て下さる先生方で、高齢で、日頃は物忘れもひどくなられて、また声もあまり出ないという方がある。

ところがその先生は、演台に立たれて、神様の話をされる時になったら、表情が変わり声も大きな声となり、堂々と話されるのである。そうした事を数人体験している。

この時と同じように感じたのであった。

 

ともかく、不思議な事であった。

今世の中は、不安だらけである。

ワクチンを打っても効かない。感染は広がる。人間の思い通りにはならない。

安い薬があってもちゃんと検証を進めようとしない。

ネットで情報を得て行くと、本当に人間のエゴがまざまざと見えてくる。

そうした中に、親神様は何を教えようとされているのか。と改めて考えているところである。

 

まぁ。陽気ぐらしへの階段を登らせている事には変わりないのであるが。。。

その階段が、それぞれに何段目で、どのように登るかという問題であると思う。

 

ともかく、親神様はお働き下さっている。

今日も勇んで、親神様の御守護のままに、つとめさせて頂きたいと思う。

どうぞ親神様・教祖、大難は小難にとお守りくださいませ。

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