あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

再度、おさしづへ。。。

2022年05月29日 07時47分22秒 | 思った事

社会情勢の事で、不安に思う方も多いと思うが、

すべては親神様の懐中で、いんねんによって現れ、そのいんねんからどのような心で次を歩むかが問題であると、確信するに至った。

つまり、人や政治が経済が問題ではなく、それを扱う人の心が問題である。

 

参議院選挙が近くなってきているが、この選挙にどのような心で、一票を誰に投票するかで、日本が変わり、世界が変わる。

これまでこうだったから、変わらない。と何もしなければ、因縁ならば仕方がないと、虚しく生きるのと同じである。

過去は変えられない。

この過去を、冷静に判断して、自らが切り替えていく、その中に将来のいんねんが変わるのだと、教祖は教えられているのである。

 

自分を棚に上げて、行動しなければ何も変わらない。

何のために体を貸し与えてもらっているか。。動くためである。

実際に動いて、

どうなるか、

正しいか正しくないか、

自分はどう思うか、人はどう思うか

などを確信するためであろう。

 

うそをついたらそのものがうそになるのもこれがしょうちか。

 

これも、はっきりするであろう。

アメリカも、不正選挙が改善されれば、変わるであろう。

多くの民衆が、マスメディアのウソ、バイデンなどの政治家のウソ、企業のウソなどを見抜いて来たからである。

日本はもう少しかかるのだろうか。。

政治家、企業家、マスメディアのうそを見抜ける人々が少ないように思う。

反対に、自分の理想で人を見て、期待して裏切られるを繰り返しているようにも感じている。

 

先日大教会で、みちのともの 両統領の対談を読むように指示があった。

それを読んで、三年千日について今一度おさしづから調べる必要を感じて、調べ始めている。

おもしろい事に、三年千日で検索をかけると、「ひながたたどらにゃひながたいらん」というおさしづはヒットしない事を知った。

これだけを書いておく。

 

また、昨日大教会の神殿当番をしていた時、急に大教会の奥さんから、「徳」について検索できないかと尋ねられた。

ネット上の検索を使ってみたがうまく行かないとの事である。

私はネット上ではなく、もらったデータを元に、自分で作っているデータを検索している。

データが膨大なため、検索するたびに、公刊本と照らし合わせて、データを修正しながら使うという事をしている。

この事についても、ヒットした物を読みながら、思う事が多分にあった。

これについても、いずれ書きたいと思った。

 

このコロナ禍になってから、おさしづよりも、元の理に重点を置き、復元を思って、教祖当時の事を記されている書物を研究材料にと、グループで進めて来た。

世界の事もあらかた理解し、元の理も新しい発見から新しい視点を得る事が出来、教祖当時の資料から教祖は親神様で、人間を導くために様々な事をして下さった事も確信した。

先に書いた「三年千日」「徳」に関するおさしづを読んだ時、これまでと違ったものを感じたのは、こうした事があったからだと、今書きながら思う。

今日から、玄関まえのポーチを修繕する。

「おさしづ」の研究も合間を見て、ボチボチと進めたいと思う。

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受信機。。妻に見せられた不思議。。

2022年05月21日 15時01分33秒 | 思った事
今日は、5月21日土曜日です。
只今、午前9時30分、アルバイトで午前中車中待機のため、久々にゆっくりとこのブログを書いています。
 
私は、このブログ以外にも、フェイスブックで思ったことを発信したり、気になった動画を共有したり、noteに様々な情報を記録したりしている。
 
先日19日に、アルバイトへ出かけるための地下鉄の中で、携帯からフェイスブックへ思ったことを書き込んだ。
このブログに書けばよいのだが、そのような時間が取れず、思ったことを忘れてしまうので、思いつくままに下記の如く書き込んだ。
 
約30分ほど地下鉄に乗っているのだが、書き終わらずに気がつけば、一駅乗り越してしまった。あわてて次の駅で降りて、投稿して目的の駅へ折り返した。

読まれた方もあるかと思うが、多分何が何だか分からないと思うので、改めて書きたいと思う。
 
・・・・
只今、アルバイトへ行くための地下鉄の中です。
昨日からずっと頭の中で浮かび続けていることを書いておきます。
発信機があっても受信機がなければ意味はない。
この受信機、機械的なものもあるが、人間の体質や知識、性格なども受信機とも言える。
発信者の意図を汲めるかどうかもその一つであり、発信者のウソを見抜くのもその一つでもある。
発信者の情報から、受信者が情報を作り、発信する。伝言ゲームで情報は変化する。
どんどん複雑になってくる。
さて、どうしてこんなことを思うかと言うと、先日、妻の左足が突然痛み出して正座が出来なくなった。
突然と言うことと、左足と言うことから、親神様が何かしなさいと言うお知らせだと思うと話をしたが、そんなこと言ってもと受け入れた感じはない。ともかくおさづけを取り次いだ。
良くならない。2日目おさづけを取り次ぐ時には、何もいわずに取り次いだ、良くならない。
何かの時に、筋はこうまんだよ。とだけ話した。
そのつぎの日、突然正座できるようになった。と話してくれた。どうしたの?と尋ねたら、座れるような気がして座ったら座れた。とだけ話してくれた。
昨日、部内の月次祭で皆さんの前で、妻がこの事について話をした。
私にさせようとしたことは、自分がすることだと思ったら良くなったと話した。なるほどと思った。
次はそれを実行するかどうかである。
親神様の発信を受け止める受信機は、心。
 
・・・・・
さて、上記で、受信機という言葉で書き始めたのだが、これはここ数日らい、スピリチュアル系の動画を共有する中に、感じるところから受信機という言葉で書き始めた。
 
スピリチュアル系は、霊的な存在、または宇宙人と言われる存在からの情報を受信して、人々に伝えるものである。
これが、日本のみならず世界中のそうした人々の情報がネットに上がっているのである。
その日本語訳を見ていて、最近は聞かなくなったが、以前「この楽器に。。。」という訳がとても気になっていた。
「この楽器」とは、本来の言葉は分からないが、霊的なメッセージを伝える人の事を言っているのだと、様々な動画を見るうちに理解できた。
 
そして楽器と訳される意味を考えているうちに、音を鳴らす⇒スピーカーが思い浮かんだ。
 
(話はずれるが、
すでに宗教として人々を集めて、今現在神託を発信していない天理教のような教団は、教典や教理、原典と言った昔に書かれたものを頼りとして、それによる悟りを発信している。)
 
元に戻す。
これによって、霊的な者の言葉を出す人に、意思や責任があって発信しているのではない。聞く人々の受け取り方が大事だと思うようになった。
 
そして、受け取る人によって受け取り方は違う。
そしてその受け取った考えを発信する。
 
この事は、世界中で起きている事柄にも言える。
一つの事から、解説者は様々に解説する。
これも一つの受信機が発信者となって、様々な情報となる。
中には、自分の都合の良いようにウソを発信するものもある。
これがより一層情報を複雑化して、何が本当か分からない。
そうした状態が現在であろう。
 
さて、こうした霊的な発信については、
天理教の上には、教祖・本席様また、こかん様が親神様のお言葉を取り次がれているその状態と重なったのである。
 
その様子は、おさしづを読む時に、その内容よりもその時の情景を考えて読むと分かると思う。
また、色々と残されている逸話をたどっても、そのことは感じる。
 
 
また、そうしたスピリチュアルの動画が、霊的存在と対話をするモノに変化してきたように感じるところがある。
 
情報を発信している人へのコメント・メッセージ・質問によって、その発信者が霊的な存在に尋ねて答えを導き出しているものである。
 
さらに、最近では、そうした霊的なものと交信するための方法を説くものにも巡り合った。
 
前者に対しては、教祖が月日の社になられた直後、内蔵に籠られて、親神様と問答されている様子や、おふでさきを書かれて、それを読み返して筆を入れておられる様子と重なった。
 
また後者については、
私たちが、身上や事情について親神様の思いを悟るために、十全の守護や八つのほこりの説き分けを思案する事と重なったのである。
この事については、すでに先人が、教祖の教えを元に思案して、その人に応じた理の諭をして、不思議を見せて次なるものを育てて、大教会となっているのである。
そうした足跡をしるしているのが、柳井徳次郎先生の「たすけのだい」などでもあると思っている。
 
こんな事を思って、受信機という事を書いていた。
 
そうしたところ、妻の足の身上が思い浮かんで、妻の事を書いたのである。
 
妻は、全く天理教には興味もなく、ただ親の言われるままにおさづけを戴き、親の言われるままに御供だけをしていた人である。
だから、よく天理教で、上級の理を立てるなどの言葉など全く理解できない。
反対に「どうしてあんな人を?あんなことを?」という人や表面での事を見て、心で思っていたのである。
これについては、自分も以前までは同じであった。
自分は大教会に育ち、おぢばで学生時代を過ごしたが、教えを学べば学ぶほど、求めれば求めるほど、教えと人との差を感じていたのであった。
 
そんな二人が、突然両親や周囲の人々から言われて、結婚してすぐに今の教会へ入り、会長・会長夫人となったのである。
 
私は会長になった年の年末年始に、椎間板ヘルニアで激痛が走り、その時に妻に願ったおさづけの時の心定め「親神様のお導きのままに通らせて頂く」との心で、大教会や支部の用事、また信者さん方の言われるままに、家族の事はおいて走り回った。
妻は全く知らない土地で、暗い教会で長男と共に留守番をしていた。
ありがたい事に、妻が車を持ってきていたので、毎日大教会へ行き、母親と共に大教会の食事を作っていた。
また不思議な事に、弟の子供と全く同じ年に子供が生まれて、弟の嫁さんもまた毎日のように子供を連れて大教会へ来て、一緒に過ごした。
 
そして、嫁さんの貯えも段々底をつき、明日どうなるかという状態にまでなった。
そうした中も何一つ文句も言わず、坦々と月次祭の食事の準備も掃除もして、どんなことを言われても「はい。すみません」で通ってくれた。
 
こうしたことに気がついたのは、十数年経って、私が車から飛び降り、意識を失い、鎖骨骨折、肺気胸になった時である。
 
その時に、妻から「母親から『あんたは何も分からないのだから、何でもハイハイ。すみませんで通りなさいよ』と言われたからそのように通って来たけど、これからは色々と言わせてもらう。」と言われた時に、初めて私は知った。
 
その時には、多くの教会の奥さんが「こんな教会は、嫌だ」といって出ていく中、それをせずに、何も分からずとも、親の言うとおりに通ってくれたことに感謝するばかりであった。
 
また、今こうして日々通れるのは、妻が朝の新聞配達をしてくれているからでもある。
 
さて、こうした妻であるが、教祖130年祭の数年前、突然に足が痛み、揉んでも楽にならない時があった。
 
それまでにも足が痛み、マッサージをする事があったが、それとは違っていて、マッサージをしても楽にはならず、しながらおかしいね。といって、おさづけだけを取り次いだのであった。
 
次の日の朝、朝づとめの時に、「足の痛みが無くなった」と話してくれた。その理由を聞くと、新聞配達をしながら、ふと「私は教祖130年祭に対して、何もしていない。暇な時にパンフレットでも配ろうかなぁと思った。そしたら足の痛みが無くなった。」との事である。
 
私は「親神様からのお手紙を頂いたのだ」と思い「良かったね」と嬉しく言ったところ、妻は怒ってしまい、そのとたんにまた突然足が痛んでしまった。
 
それを見て、私はこの心をすぐさま変える事は難しいと思い、またパンフレットも実行できるかどうか分からないと思って、私の首に毎日おさづけを願う事にした。
それを教祖130年祭まで続けた。
 
そのうちに、足の痛みは無くなったようである。
また、そんなある時、足が痛み出して、座れないから大教会の月次祭を休みたいと言って来た。
その時には、私は「それはダメだ。月次祭は大切だから、出来る限り座って与えられたことをさせてもらう事が大切だ」と言ったようである。(私は覚えていない)
 
それを受けて、痛くても我慢して座っていたら、座れるようになったと、何かの時に話してくれた。
 
こうして、この年になると、多くの人が足が痛んで正座が出来ない中、正座をさせてもらう事が出来る妻であった。
 
さて、ここからが、フェイスブックに書いた話になる。
フェイスブックには、部内の月次祭の時の話しかないが、その前がある。
突然足が痛みだした日は、うちの月次祭の後なのである。
 
うちの月次祭では、私が鎖骨骨折して肺気胸になってから、妻にお話をしてもらう事にした。
その話の中で、他の人が足が痛くて座れないという中、自分は座らせて頂けてありがたいと話をしたのである。
 
その後、突然に足が痛みだして、正座が出来なくなった。
 
そしてこれまで、子宮摘出の手術を受けた時にもおさづけを自分から願う事が無かった人が、足が痛むからおさづけをして欲しいと言って来たのである。
 
そしてその時に私は、突然になった身上と左足と言う事から、「親神様は何かするようにとの事だと思う」とだけ言って、おさづけを取り次がせて頂いた。
性分からして、多分言われたら何か言うだろうなぁと思ったところ、案の定であった。
「そうか。」とだけ言って、取り次がせて頂いたのである。
 
何の変化もなかった。
 
次の日は、何も言わずにおさづけを取り次がせて頂いた。
 
何の変化もなかった。
 
このままではならんが、夫婦の仲で気を許しているから余計に難しいなぁと思いながら、曲がらないのは筋が固くなっているからと思案して、何かの時に「筋はこうまんだよ」とだけ話した。
 
その次の日、アルバイトから帰ると、妻から「何か違わない?」と声を掛けられる。
「?」と思っていると、「足が突然座れるようになった。」との事である。
 
「どうしたの?」と尋ねると、「何だか座れるような気になって、座ったら座れた」との事である。
 
「それは良かった。」と喜んだのだが、詳しくは話さず、どうしたのだろうか?と思っていた。
 
そして、18日部内の月次祭である。
部内の月次祭でも、部内の後継者の後に、妻に一言話をしてもらう事にしている。
 
婦人会から出されている十全の御守護の話を読んでから、先日突然痛みだした足が、突然痛まなくなった話をしだした。
 
それを聞くと、「会長にうちの教会の創立130周年に対して、信者さん方へ手紙を出しなさい。と言っていたけど、会長は「会報に書いてあるから、出さなくても良い」と言う。私が出さなければと思ったら、良くなりました。まだ実行は出来ていませんが。。」との事であった。
 
なるほどと私は思い、自分で悟って、自分で実行する段階になったのだと、嬉しく思った。
 
私は、教会に来ていない名簿だけの信者さんへ手紙を出しても、今のこの時期であるから、良くは受け取られない。これまで通って来て、そのように感じるのである。この記念祭は、うちの子供たちには、次へつなげるためにも何とかしてと思うが、あとの方は、親神様が寄せて下さる方で勤めたい。と思っている。
 
妻はどのように思っているかは分からないが、大教会の奥さんは、しきりに手紙などで信者さんや部内の奥さんたちへ案内を出している。それを私にさせたいのではないかとも感じていた。
 
そうした中の不思議である。
だから、妻が教会を思い、親神様を思い行う事はとても良い事で、それが親神様のお望みだと思うばかりである。
 
妻の足は、今日も座れる御守護を頂いている。
 
おたすけ熱心な方々には、とてもくだらない話だと思うが、成人未熟な私たち夫婦には、ありがたい御守護だと思う。
 
大教会や教区、支部の用事があれば、また私の代わりに出かける時には、朝早い新聞配達を終えて、眠たい中も出かける妻はすごいと思うし、ありがたいと思うばかりである。
 
世界の情報を見れば、不安な事が一杯の人も多いと思う。
しかし、親神様は、それぞれのいんねんに応じて、それ相応の導きをして下さっている証拠と私は捉えている。
 
点の御守護で思案するのではなく、点と点をつないだ線の御守護を感じるのである。
 
 
親神様は常に、私たちを助け上げたいと、身上や事情にて発信をされている。
また、夢でなりともにおいがけ。とも教えられている。
それを受け止めるのは、それぞれの心。
 
それを教えて下さっているのが、この天理教の教えであると思っている。
 
受信機である心の成人、心を澄ます事、心を静める事。
 
これが大切だと思う。
 
これだけ書くのに3時間ほどかかった。
今、アルバイトが終わったので、見直して再度投稿している。
 
親神様、御守護をありがとうござした。
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「山田伊八郎文書・逸話」6 終わり

2022年05月16日 12時16分40秒 | 思った事

前回に引き続き、「山田伊八郎文書」から逸話を掲載する。(325頁より333頁まで)

(コメント欄へ書換えを投稿して下さる方があれば幸いです。)

これで逸話は最後になる。

教祖の逸話ではなく、山田伊八郎先生の逸話、敷島大教会での逸話となるが、こうした不思議な御守護や、初代の仕込みの様子に関する逸話は、それぞれの大教会や分教会でもあったと思われる。

それを探し求める事も大切だと思われる。

20)底なしの米びつ

21)窮乏の絹夜具

22)天真らんまん

23)自分でたたむ

24)根に生かされる

25)旭光照波

26)食べる楽しみ

27)天の定規

 

以上です。

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5月の月次祭を終えて。。鳴物地方の音程

2022年05月14日 11時48分12秒 | 思った事

今日は5月14日

12日が月次 祭で、6人でのおつとめだった。
それでも、先月の事を考えて(地方をしていても、音程が不安定になって、とても歌いづらかった)男鳴物ばかりにせずに、琴を入れてつとめた。

すわり勤めと前半は、地方が拍子木を打ち、チャンポンと太鼓と琴。おてふり2人。

後半は、地方が拍子木、スリガネと太鼓、そして一下りだけ三味線を入れたが、音が今一なので、琴に代えて最後までつとめた。

いつもならば、それぞれ好きな所へ着いて下さいと言って勤めてもらうのだが、今回は、女鳴物で地方の音程をしっかりと取りたかったので、いつもならば、後半下りの琴をされる方に、すわり勤めから琴を弾いてもらった。

定まった音がある事で、地方がとても歌いやすかった。

後半下りは、うちの奥さんが三味線に座ったが、音が安定しなかった(どうしても3の糸が下がってしまう)ので、琴に代えてもらったのである。

さて、このような事を考えるに至った経緯を書いておく。

私には元々絶対音感というものは無い。

しかし、高校の時にマーチングをやっていたおかげで、音が合っているかどうかは分かる。

ただし、声を出して歌う事は、基本の音が無いと、どんどん変化してしまう。段々と音が下がって、最後は歌えないような音程になってしまうのである。

数カ月前、フランスにいる弟から「みかぐらうたの地方のない音源はないだろうか?」と聞かれた。地方の練習用にとの事だった。

探してみたが、公にはない。

そこで、本部神殿奉仕の時に、音楽に精通される先生方に聞いて回った。

そして、三代真柱様の地方を楽譜にされた先生があり、その方から色々な事を教わる事になった。

そして、楽譜とCD,さらには、カラオケを作っておられる方があり、その試作も頂いた。

そして今月の神殿奉仕で、みかぐらうたの地方について、より一層話を聞かせてもらい、以前このブログにも紹介した、昔の鳴物練習譜の話から、地方と鳴物についての勉強をする機会となったのである。

その勉強した内容の一つに、「教祖が教えられた鳴物で、当時の譜面があるのは琴だけである」という事を知った。

また、スリガネのリズムが今とは違う事から、「ちょとはなし」の歌い出しが違っていた事も知った。

そうした事から、女鳴物の音程がどれだけ重要かとも思ったのである。

そして実際に後半下りの地方をして見て、何と言っても琴の音程がとても重要だと気がついたのである。

琴は一度合わせたら変えることは出来ない。また変わっては困るのである。

他の三味線や胡弓はすぐに糸が緩んだり、押さえる位置が定まっておらず、人間の感覚で合わせるところが多分にある。

笛も息や口の加減で音程は微妙に変化するのである。

さらに、地方と女鳴物の歌い方は違う。けれども、合うのである。

こうした点を考えた時に、天の理と人間が結びついたのである。

天の理は絶対に狂わない。天の法則が狂っては困る。

この天の理が琴の音程であり、その理に沿って、他の楽器があり、心地よく歌う地方が人間のように思えたのである。

月に一度しかしない、数人のおつとめであるが、親神様が心勇むために、心澄ますために教えられたおつとめの素晴らしさを実感したのであった。

 

教祖は、女鳴物を教えられる時に、世界から教えられるのではなく、屋敷から教えると言われた。

世界で使われている楽器や奏法であるが、その奏法が正しいとして教祖の教えられた物を見ては、ならないとも思った。

例えば、陽音階と陰音階と言われるもの、また雅楽などで使われる音階など、世界には様々ある。

これらはすべて、親神様のお心を知るための、修理肥と考える事が重要だという事である。

不思議なお導きにより、また学ぶ楽しみが増えた月次祭であった。。

 

追記・・・・

毎月順番に、話をしてもらっているが、この話がまたとても良く、その話を元に教祖のお話、その方々の親御さんが昔から話していた言葉を説明させて頂いた。

また夜、弟が突然に来た。

弟は今月のはじめ3日と5日に、ご本部の朝づとめに参拝に行って来た。

コロナを怖がり、私たちと会う事も控えていたが、「親神様に真剣に願う心へと変わったのだろうか。」と思い、ありがたく思った。

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「山田伊八郎文書・逸話」5

2022年05月08日 04時38分29秒 | 天理教教典

昨日に引き続き、「山田伊八郎文書」から逸話を掲載する。(320頁より324頁まで)

(コメント欄へ書換えを投稿して下さる方があれば幸いです。)

13)7つの橋

14)窮迫 その1

15)窮迫 その2

16)窮迫 その3

17)窮迫 その4

18)狼

19) 神の子や

※今回は、苦労の道中を通られた時の逸話であり、教祖のお側でお仕えになられた方であっても、このような道を通らねばならない事を考えると、苦労を避けてはならないと思った。

まあ、前回の話の中

「山田伊八郎文書・逸話」4(一の筆) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

11)結構の種 にて

※また、こうした苦労は、後々を楽にするために、続けて悪いんねんを出しているものという事も、とても大切な話だと思う。

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「山田伊八郎文書・逸話」4(一の筆)

2022年05月06日 23時41分51秒 | 思った事

昨日に引き続き、「山田伊八郎文書」から逸話を掲載する。(318頁より319頁まで)

(コメント欄へ書換えを投稿して下さる方があれば幸いです。)

11)結構の種

12)一の筆

 

ここに、一の筆という話が出てくる。

以前このブログにも書いたが、私はこの「一の筆」がとても気になっている。

ここには、上村吉三郎二代講元に、講元を譲ったのが、明治18年ごろとなっているが、「山田伊八郎伝」を見ると、72頁からに第3章教祖の御声一条(123頁まで)にこの背景が書かれている。

今この逸話を見て、目の前の本棚を見たところ、「山田伊八郎伝」が目について、ぱっと開いたところが、この部分の所であった。

この72頁からは、明治17年の事が記され、山田伊八郎先生が、おふでさきなどを熱心に写し頃の様である。

この時に、上村吉三郎さんの身上を助けて、入信へと導かれるのだが、これと同時に、教祖からの御言葉が頂けなくなるのである。

そして、講元を上村さんへ預けて、布教に専念するようにして、教祖のお言葉をもれなく書き留めると心定めて、明治18年3月に教祖からの御言葉を頂けるようになるのである。

そして、逸話にあるように、上村さん率いる人々のおつとめによって、最後のご苦労が行われて、そのご苦労の後の教祖のお言葉が、以前このブログで紹介したように、記録されている。

その様子を読むと、親神様は教祖の扉を閉めて、おたすけに出られている。不思議な働きを各地に現わしているように思えるのである。

公刊されているおさしづは、明治20年の教祖が現身を隠される直前の物からであるが、その時に「扉を閉まりて地をならそうか、扉を開いて」と言われている意味が、ここでつながるように思えるのである。

そして、「国の本尊を拵えたい」という事をも考え合わせると、もっともっと様々な事をこの一連の事、教祖のひながたのみならず、周囲のつとめ人衆の人々のことから思えるのである。

まだまだ、うまく表現できるまでは行っていないが、今回は「一の筆」に関する資料の場所を記録しておく。

 

 

 

 

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「山田伊八郎文書・逸話」3

2022年05月05日 11時57分58秒 | 天理教教典

昨日に引き続き、「山田伊八郎文書」から逸話を掲載する。(314頁より317頁まで)

(コメント欄へ書換えを投稿して下さる方があれば幸いです。)

7)敷島として最初の献木

8)定紋の御許

9)一分通り古木也

10)御赤衣

7)
※献木するにも神様の思いがあり、それを成就するために世間体の対策をとったことが良く分かります。

10)
※稿本天理教教祖伝逸話編に出てくるお話ですが、より一層当時の様子が良く分かります。
また、教祖の気遣いも、当時の人々の教祖に対する対応も良く分かります。

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5月になりました。世界の事から思う事。。情報を整理して大難を小難にと。。

2022年05月04日 10時41分42秒 | 思った事

つい先日お正月を迎えたと思ったのに、もう5月。

月日が経つのがとても早く感じるのは私だけだろうか?

 

近頃外を歩いていると、マスクを外して歩いたり運動している人々が増えたように思う。

さすがに、地下鉄ではほとんどの人がマスクをして、会話をしているのは若い学生ぐらいのものである。

私はマスクを外して歩いている。

以前はよける人や異様な目で見る人が多かったが、近頃はそういう人が少なくなって来た。

 

私は新型コロナ発症からワクチン製造までがあまりにも早すぎる事から不審に思い、情報をさがすうちに(探すというよりも、次々と関連する情報が飛び込んでくる)政治的、人為的な陰謀の上にこの接種が行われていると思うに至った。

接種が始まった頃には、「まさか政治が医者が」と思う気持ちが多く、それを確定するまでには至らず、そうでなければ良いという期待の方が大きかった。

しかし、それから時が経ち、世界中の情報・政治家の進める事と違う情報が検閲削除される状況、さらには積み重なる副反応・後遺症の報告等の経緯を見ると、明らかに陰謀が行われていると思わずにいられない状況にある。

そして、

「テネシー州 イベルメクチンが市販されるようになりました」

テネシー州 イベルメクチンが市販されるようになりました|Spiderman886|note

という記事を見つけたので、ダックダックゴーで検索したところ、(ダックダックゴーは、規制のかからない検索エンジンです)
イベルメクチン処方病院リストが出て来ました。
このリストには、駆虫剤として記載されていますが、新型コロナに対する治験を行ったと報道された病院も含まれています。

イベルメクチン処方病院・クリニック一覧

イベルメクチンの適応症は疥癬、腸管糞線虫症です。

イベルメクチン処方病院・クリニック一覧 (ivermectin.hospital)

そして、

そこに以下の、イベルメクチンに関するツイッターがありました。
・・・・
COVID-19 💊コロナ治療薬情報(イベルメクチン)
@covid19_med
前回のアカウントは凍結されてしまったため、再スタートです💊自身がコロナに感染した経験や、ネット上のコロナ情報を精査してつぶやきます。 Gettrもフォロー宜しくお願い致します🙇‍♀️🙇‍♀️🙇‍♀️

 COVID-19 💊コロナ治療薬情報(イベルメクチン)(@covid19_med)さん / Twitter

 

ここに書かれているように、政治的に不都合な事が消されているのが現状でもあります。

先日、イーロンマスクさんがツイッターを買収しました。

その事に寄り、そうした事も是正される事を期待していますが、反対にこれまで隠してきた真実を暴かれる事を恐れる人々が騒いでいるという情報もあります。

また、フェイスブックでは、

 新型コロナ情報交換会 | グループ | Facebook

という公開グループもありますが、ここも結構、隠し文字を使ったりして苦心をしているようです。

さらには、

先日、

反ワクチン第3回口頭弁論 東京地裁4月26日 (火)531号法廷②…後のインタビュー動画

に出合いました。

・・動画概要欄・・・

🚨反悪苦散ン訴訟 第3回口頭弁論4月26日(火)531号法廷②…後 #東京地裁
弁護士・南出喜久治氏 & 木原功仁哉氏
※ボリュームを3倍にしました🎚️
❇️次回…反悪苦散ン訴訟判決 期日2022.8.2(火)11:30
🚨厚労省前
#木原功仁哉・街宣(国会の顎マスク、耳掛けマスク画像付き)
⭐前回1月13日(木)「この悪苦散ンは人口削減だ」弁護士 #木原くにや
医師 #中村篤史 
弁護士 #南出喜久治

・・・・・

これについては、まず、換気の話がされており、その後本題に入るわけですが、

この換気の話は、「WHOが定めるところによると」という所がとても肝心なのだと思います。

WHOの定めによって、新型コロナ対策が行われていて、それによると、「空気感染なので、マスクでは意味がなさないのにマスクをして、一番肝心な換気をこの裁判所でも行っていない」と指摘をしています。つまり、裁判所はこの新型コロナに関してどれだけ情報を得ているのか、そしてそれに対してどのように考えて居るのかという事が、この発言と裁判所の対応から分かるのです。

裁判所は、自分が判断できないとすれば、上告を棄却する事も出来ます。

宗教関連で、神の存在や御供について裁判を起こしたとしても、大概は棄却されます。

それは、神について人間では判断がつかないということだそうです。

ですから、宗教関連で裁判をする時には、宗教教義の議論ではなく、手続きがちゃんと行われていたか、書類が整っているかという事などで取り扱われて、結審されるようであります。

今回の新型コロナについても、目に見えないウィルスに関してです。

裁判官の方々が、今後どのように取り扱っていくのかが、とても見ものだとも思います。

さらには、これを通して、法律とはどういうものか、裁判とはどういうものかを良く知る手立てになるかと思ったわけです。

大手マスメディアは、この裁判をニュースにしていません。

これも一つの重要な情報であると思います。

 

先日来、身近に3回目のワクチン接種をして、副反応で苦しむ人の声が身近になって来ており、もう4回目はしないとの声も聴くようになってきました。

私は医学的な数字などは分かりませんので、政治的・情報的に不自然だと思う事から、ワクチン接種には反対をして来ました。

そして最近様々な人と話す機会を得て、人間の判断の基準がどこにあるのかという事をよく考えるようになりました。

どれだけ法律で縛っても、人がそれを守らねば意味はありません。

そうした中に人を拘束したい、操りたいと思ったら、武力や脅し、脅迫に寄る事になります。

「人のために」という良い言葉で、脅している。そうした姿もすごく感じる今日この頃であります。

 

色々と書いてきましたが、

ロシア・ウクライナについても、世界の歴史を知れば知るほど、情報が操作をされて来た歴史を見れば見るほど、世界を牛耳って来た陰謀が今暴かれようとしていると思われてなりません。

正しく、陽気ぐらしに反する「我が身勝手の心」から、多くの人々を苦しめて来たその返しが、世界的に現れて来ると思うばかりです。

しかし、そうした事に気づくかどうかは、それぞれが、自分自身で判断し見極めようとしなければ分からないものだとも思います。

 

今日、「山田伊八郎文書」の逸話2を投稿しました。

「山田伊八郎文書・逸話」2 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

ここには、「神の言う事」として、神様の言う事に背いたらどうなるのかという事が、書かれています。

「おふでさき」には、親神様のいう事を、自分の都合に合わせて曲げたり、消したりすることをとても残念に思い、それに対するかやしをする事が記されています。

 

人間には魂があり、心があり、体があります。

この魂と心は見えません。

しかし、この魂・心が、生まれ変わり出変わりしていると教えられているのです。

それによって、今世のそれぞれの暮らす環境が異なっていると教えられるのです。

人間は不都合な事が起きなければ、考えようとしないのです。

考えるのも、何とか助かりたいと思うから考えるのです。

ところが、今回の新型コロナの事から、

この考えるという事は、教えられて来た事を元に考えるため、元々間違ったことを教えられていたら、まずその間違っていたという事に気がつかねばならないという、とても難しいものだと分かりました。

お道が伸び広がったのは、医者も見放した身上が、教祖のお話を聞いて、自分のこれまでの通り方は違っていたと気づき、お詫びをして助かったのが元であります。

ところが、これではとても気づきが遅く、道の広がりが遅いために、教祖が扉を開いて助けに出られて、ただ単に「なむてんりおうのみこと」と神名を唱えただけでも不思議を見せて頂いて、お屋敷へお話を聞こうと人々が集まるようになったのであります。

教祖ご在世中、お話を聞く人々が増えても、いつも同じかしもの借りもののお話で、又おなじ話かとどんどん人が減って行ったとき、それでも「結構なお話だ」と残った人々に、次のお話を聞かせて下さったとの逸話もある事から、親神様の導きには順序があると分かるのです。

私が、このブログで世界の事を書き、お道の事を書くのは、世界は鏡やという言葉があるからです。

また、私たちは世界の中で生きているのです。

ドロドロの欲の泥の中に生きているのです。

その中、泥にまみれながらも、泥は身につけず、真っすぐに陽気に暮らすドジョウのようになるための、今は修行だとも思えるのです。

 

昨日5月3日に、近々創立130周年を迎えられる教会へ、お祝のお酒を届けに行って来ました。たまたま会長さんがおられて、お話をさせて頂きました。

周囲に誰もいない中、久々に色々と話をさせて頂いて、とても嬉しい時間を頂きました。

そしてまた、夜にはある教会の奥さんから電話を頂き、久々に元気な声を聞かせて頂きました。

今新型コロナ、ワクチン接種で突然亡くなる方、突然身上になる方も多いので、話を聞いて大難を小難にして頂いたのだと思わせて頂きました。

この方は色々な身上事情の中、不思議な御守護を頂かれてきた方ですので、当然と言えば当然です。

このように心建て替えて御守護頂かれる方は良いのですが、道の中でもそうした心建て替える事を知らない人もあります。ましてや世界の人はそうではありません。

そうした方々が、少しでも良い情報に触れて、大難は小難にと守って頂く事、さらには、心切り替えを学んで下さる事を願うばかりです。

また長くなりました、最後まで読んでくださった方ありがとうございました。

参考になれば幸いです。

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「山田伊八郎文書・逸話」2

2022年05月04日 08時28分07秒 | 思った事

昨日に引き続き、「山田伊八郎文書」から逸話を掲載する。

(コメント欄へ書換えを投稿して下さる方があれば幸いです。)

4)神の言う事

5)南半国道弘めに出す

6)おびやだめし

どの逸話にしても、心に思い浮かぶ事ばかりである。

特に、

「神の言う事に背いたら、何よの事もその通りやで」とのお言葉は、おふでさきに出てくるざんねんが神の心につもる話ととても重なる。

人間には良かれと思っても、神の思いには沿わない事が多々あるのである。

真実を広めよとされたのに、自分の都合の良い事しか言わない。真実を消す。これも神の思いには沿わないのである。

その行く末は、自分の思い通りにはならない道が待っている。

また、

おびやためしで、「おびや許しもたくさん出したが、こいそはん程結構にさして頂いた人も少ないで」とのお言葉も心に留まった。

このおびや許しも心次第という証だと思った。

 

親神様のお心が世界へ届きますように。。。

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やってみたい事。。書き換え1「山田伊八郎文書・逸話」1

2022年05月03日 06時41分42秒 | 思った事

数日前から、右手の小指と薬指に痛みが走り始めている。

大した痛みではないが、時折痛む。

右手なので、私の性分からの事と思いながら思案し続けている。

今朝「山田伊八郎文書」の「逸話」を「復元の研究グループ」へアップし終わった。

その最初の逸話を読んだ時、ふと思い浮かんだ。

そして、右手の痛みが消えたのである。

どういうことかと思案をした。

 

この話は世界中の人々に読んでもらいたい。

その為には、画像データではなく、文字データ化する必要がある。

しかし、そうした時間もない。

これまで、ずいぶんデータに書き換えをして、自分の身についた。

そこで、これから数回にわたり、この「逸話」の画像データを、ここへ投稿する。

これを世界中の人のために、文字データ化して下さる方は、コメントへ文字データを入力してもらいたいと思うのである。

この「逸話」には、「稿本天理教教祖伝逸話編」に出てくるお話もある。

これを読めば、「逸話編」には書かれていない部分から、当時の状況また親神様の思いがより分かるのではないかと思うのである。

1「待つ理」

2「教祖御自製12菊の御紋」

3「電灯の予言」

を掲載する。(308頁~310頁)

どうぞよろしくお願い致します。

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