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あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

「かんろだい」はいつ建てられる。。掃除をする期限。。掃除とは。。

2021年06月29日 14時57分07秒 | 思った事

毎朝おつとめの後に「おふでさき」を拝読しているが、

6月25日の朝、一つのお歌が気になった。

このたいがみなそろいさいしたならば
どんな事をがかなハんでなし (17-10)

それまでにせかいぢううをとこまでも
むねのそふぢをせねばならんで (17-11)

のお歌である。

先日娘から、「かんろだいはいつできるの?」と質問された。

その時、「世界中のみんなの心が澄んだならば。」と答えた。

それが、このお歌を読んだ時に、思い浮かんだ。

???

17号の10では、「かんろだい」揃ったならば、どんな事でも叶わない事はない。と言われている。

その次で、「それまでに」と言われている。これは時間を区切っている言葉で、親神様にはその時を定めておられることになる。

そして、その時までに、「世界中の人間の胸の掃除をしなければならない」と言われている。

と思えた。

そこで、「おふでさき」註釈を見て見ると。

このみちハどふゆう事にをもうかな
かんろふたいのいちじよの事 (17-2)

に対して、次のように書かれている。


この道の真意はどういう事であるかというと、かんろだい一条によって人々の心を澄ます事である。

 註 かんろだいについては、先ず明治2年の「おふでさき」第2号に現れ(第2号39参照)、次いで、明治6年飯降伊蔵に命じてその模型をお作らせになり、更に、明治8年陰暦5月26日かんろだいぢば定めを行われ、「おふでさき」第9号に於いて詳細に寸法をお示し下され(第9号47-64註参照)、降って明治14年から石造でその建設に着手せられ2段まで出来たが、翌明治15年陽暦5月12日警官が来て、これを没収して行った。その後は、板張りの2段によって、ぢばを示して、昭和9年10月、現在の木造雛形かんろだい建設に到っている。やがて、世界一列の人の心を澄ませた上で、石造で神意通りのかんろだいが建設される。

とある。

ここでは、

世界一列の人の心を澄ませた上で、石造で神意通りのかんろだいが建設される。

と書かれており、これを私はずっと思っていた。
だから、娘にも「皆の心が澄んだならば」と話をしたのであった。

次に、先の

このたいがみなそろいさいしたならば
どんな事をがかなハんでなし (17-10)

それまでにせかいぢううをとこまでも
むねのそふぢをせねばならんで (17-11)

の註釈を見て見ると。

10-11
 このかんろだいが親神の教通り建て上がったならば、親神の理想通り自由自在の陽気づくめの世界が来るのであるから、それまでに、どこどこまでも世界中の人の心を掃除せねばならぬ。

とある。つまり、

2の註釈では「世界中の人の心を澄ました上」となっているのに、10-11では「かんろだいが建ちあがるから、それまでに、人々の心を澄まさなければならない。」

と言われているのである。

「世界中の人の心を澄ました上」と言われるのは、

すわり勤めで歌われる

あしきをはらうてたすけ
せきこむいちれつすまして
かんろだい

の「いちれつすまして」からそのように言われることは理解できる。

では、なぜこの差が出るのだろうか。

時旬という事を考えると、この自然の摂理には、絶対に時旬がある。

よく農業に例えられるが、その作物にあった旬に種を撒き、修理肥を時旬に応じて行わなければ、実はならないのである。

また、「元の理」見ても、「最初に,産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。」とある如く、「約束の年限」というものもある。

また、教祖の予言の如く、親神様には人間の将来が見抜き見通しであり、おつとめの稽古についても、教祖伝294頁に「この年、7月21日(陰暦6月20日)教祖は、「四方暗くなりて分かりなき様になる、そのときつとめの手、曖昧なることにてはならんから、つとめの手、稽古せよ。」と仰せられた」と記されており、苦しい時旬が来る事を予言されて、そうした時旬がある事もわかる。

また、御休息所へ中南の門屋から移られる時も、「教祖は、11月26日の夜、親神のお指図のまにまに、刻限の来るのを待って、中南の門屋から新しい御休息所へ移られた。」(教祖伝266頁)とあるように、時旬が関わってくる。

さらには、「おさしづ」では「刻限」として、人間からの伺いではなく、親神様からその時その時に必要な事を話された「刻限話」がある。

これらを考え合わせると、「かんろだいが建てられる時旬」があると思われる。

 

そして、教祖130年祭(2016年1月)を過ぎてから、かんろだいの倒壊、(2017年7月26日)真柱様のご身上(2018年6月)、そして現在事情教会の整理と次々と、道の上には多大なる暗い時旬である。

それに合わせたように(合図立てあいから思案すると、必然なのだが、、)今の世界中の状況である。

新型コロナによって、人々は相談をする事もままならず、ましてやこれまで正しいと思っていた事が次々と否定され、そのために情報が錯綜している。そしてそれらの情報は受け取り方によって正誤が異なり、結局判断は、それぞれの心によって決定して、自らが歩まねばならなくなっている。

「かんろだい」は、礼拝の芯である。おつとめを勤めるための芯である。それが倒された。ましてや、つなぎ合わせていた「ほぞ」が折れて、新しく立て替えなければならなかったのである。これまでにも何度も、倒された事はあったが、すぐに積み重ねられていたが、それが出来ずに、数カ月、下2段だけのかんろだいであった。

そして、真柱様の身上によって、真柱様からのお言葉は頂けなくなり、人助けのための「おさづけ」の拝戴が止まったのであった。現在、真柱様は頑張ってくださっており、1日十数名におさづけをお渡し下されるまでなられた。

そして、教会整理、統合である。これまで、信仰の中心となっていた教会が、会長不在、後継者や信者の不在などで、役割を果たせなくなり、整理されているのである。

みな、これまであって当然と思われていたものが、そうではなくなり、どのように思案して対処したらよいかと右往左往している状態だと思われる。

これも、コロナまん延から、政治、医療などなど当然と思っていた事が、当然ではなくなり、右往左往しているのと同じように私には思える。

 

さて、話を「かんろだい」に戻す。

「かんろだい」が建てられる時が決まっており、「その時までに」だと、人間の心を澄まさなければならない期限がある。しかし「人間の心が澄んだならば」だと、時間は永遠にあるように思える。

この差がとても大きいように感じている。

もう一つ、期限があるとしたら、その時までに心を澄ますことが出来ない人々はどうなるのか?という疑問も出てくるだろう。

7号11
それまでにせかいぢううをとこまでも
むねのそふぢをせねばならんで (17-11)

のお歌の後に

このそふぢとこにへだてハないほとに
月日みハけているとをもゑよ (17-12)

月日にハどんなところにいるものも
心しだいにみなうけとるで (17-13)

いまゝでハとんな心でいたるとも
いちやのまにも心いれかゑ (17-14)

しんぢつに心すきやかいれかゑば
それも月日がすぐにうけとる (17-15)

月日にハせかいぢううハみなわが子
かハいいゝばいこれが一ちよ (17-16)

と「心を澄ます」ための「胸の掃除」について述べられている

註釈を書いておく。

12
 この掃除は、世界一列どこに別け隔てなく公平に、親神が見分けをしているのであるから、よく承知しておくように。

13
 親神は、見抜き見透しであるから、世界中どのような所にいる者でも、皆それぞれと各人の心通りに受け取って、別け隔てはしない。

14-15
 今までは、どのように親神の心に添わぬ心づかいをしていても、一たんその非を悟ったならば、一夜の間にも、真実の心とすっきり入れ替えるようにせよ。そうしたならば、親神は、この事をも真に受け取って、自由自在の守護をしよう。

16
 親神にとっては、世界中の人間は皆我が子であるから、親神はただ子供可愛いい一心である。

とある。

それぞれの心通りの事を表すから、その事からそれぞれに善悪を判断せよ。そして、非を悟ったならば、真実の心へと入れ替えよ。すれば、どんな難しい事でも助けていただける。

と述べられている。ここで、「心通りの事を表す」という事は、身上や事情が起きてくるという事である。それはそれぞれの心通りの現れだから、それから自分の非を悟れ。といわれている。

つまり、心澄ますための掃除は、それぞれが自分の思い通りにならない身上や事情から、自分の非を悟る必要があり、それを詫びて、親神様が望まれる誠真実の心へと切り替えることである。

掃除は、それぞれの心も考えられるが、心が入れ替わらなければ、その人が掃除されることになるとも思われる。

そしてまた、これは他人事ではないのである。世界中全ての人に、平等に行われることなのである。

 

最後に身上事情の思案の順序を記しておく。

まずは、自らの心のほこりである。十全の御守護、十柱の神様の働きから、それぞれのほこりを思案する事である。

そして、それの思案がついたら、親神様にお詫び申し上げる事。もし、それが親神様の思い通りならば、身上や事情に変化が現れる。もし、3日経っても現れなければ、親神様の思いとは違っているので、また思案する必要がある。

この心を入れ替える一番は、自分勝手な心遣いを詫びて「親神様のお望みどおりに通らせて頂く」と、心を定めることである。これは自分の我を出してはならないのである。

そして、すでにこのような心定めをしていて、身上事情を見せて頂く場合は、心定めを忘れてしまっていないかと、思い返す事が必要である。

もし定めた心で通っていたならば、前生、前々生のいんねんの現れと悟り、日々お詫びとお礼、そしてより一層人様のために真心をつくす日々を歩む事である。

また、一人の身上や事情はその人だけのものではなく、周囲の人々への警告や心定めを促す場合もある。つまり、すでに定めた心で通っておりながら、前生、前々生のいんねんを通っている方が家族などにおられた場合、その家族も事情の中にある。

そうした時に、知らぬ存ぜぬでは親神様の思いには叶わない。だから、その方の少しでも早い平癒を願い、その方の世話をすると共に、日々おつとめをするのである。

かしものかりものは、自分の身体だけではない。自分の周囲すべてが借り物である。

だから、夫婦親子もすべて自分の心通りに与えられた借りものである。

 

まだまだ、親神様のお話は奥が深い。

しっかりと、自分の色眼鏡、癖性分を自覚する事。まずはこれが大切である。

おたすけ人が、身上になって、自らの平癒を願ったおさしづに、多いと思われるお話は、「自分がおたすけの時に話している話を、自分自身に当てはめよ」というお話であると思っている。

案外、自分は大丈夫だと思い込んでいる場合が多いようである。

 

「おふでさき」から色々書きましたが、参考になれば幸いです。

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6月ご本部の月次祭にて。。。また喜びを頂きました。

2021年06月26日 19時45分28秒 | 思った事

2021年6月26日(土曜日)

Facebook 中庭の様子

ご本部の6月の月次祭であった。土曜日という事で、長男・次男と私たち夫婦で日帰りをさせて頂いた。

中庭に着いた時には、前半下りの半ばであったが、三男と会い話すことも出来た。

そして、おつとめを終えた後、次女とも会い、彼女と共に再度、神殿でおつとめをさせて頂いた。

彼女とは、丁度先週、神殿でワクチンの事から2時間ほど話をしたのだが、その時を契機に、私にラインで神様の話を尋ねてくるようになった。

数日前に彼女は右足をねん挫した。それで、神殿でおさづけをさせて頂いた。

その時ふと、

先日、「おさづけは一日6回だよね。」と尋ねて来たので、その理由を尋ねてみた。

すると、同級生が次々とおさづけを願い出てくれて、次々としてもらっても良いものかと思って尋ねたとの事だった。

おさづけを願い出てくれる同級生がいてくれることをとてもありがたく思った。

そして、おさづけを取り次ぐ前に話をした中に、身上からの悟り方の話になり、ねん挫は、筋であり、筋の働きは「くろぐつな」の「おおとのべのみこと」様のお働き。その神様のお嫌いなほこりは、「こうまん」である。という話しが出て来た。

その言葉を出した時に、彼女の顔色が変わり、心に入ったことを感じた。

これまで、こんな事を子供たちに話した事はない。嬉しかった。

これも、先日ワクチンの事から様々な神様の御守護の話をしたお陰だと思った。

 

教会に帰って、フェイスブックを見たら、「ワクチン接種中止」を求める嘆願書を提出したという動画を目にした。

うちも色々な動きがあるが、世界も色々なところで色々な動きが出ている。

戦争が起こるかもしれないと言われてもいるが、そうなればそうなった時、けれども、そうならないように、それぞれが思案して行動している動画もあった。

これまでにない事が次々と起こっている。楽しみである。

 

私がスマホを持って、四六時中動画を見て情報を探せるようになったのも、先日書いた「詐欺」にあったためである。

「詐欺」によって電話番号までも変える事となった。

その時にたまたま妻の持っているパットと同じプランだったために、容量を無制限にしたためである。

何が切っ掛けで、後々何が起こるか分からない。

だから、すべては親神様のお導きだと思う。

 

ともかく、心楽しんで、今を精一杯つとめたいと思う。

 

 

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「八つのほこり」の受け止め方の変化(体験談)から。。人間は成長している「部落解放研修会」より。

2021年06月24日 09時01分54秒 | 思った事

フェイスブックで、「これからどうなるのだろうか?人工的人口削減・宇宙人・人工知能と人間。。。」と、そんなことを書かれていた。
それに対してコメントを書こうかと思ったが、Facebookはアクションをしていないと、その記事を探すことが難しい。

さて、そうした事に対して、私の経験から話をしてみたい。

表題に「八つのほこり」の受け止め方の変移、と書いた。

皆さんはこの「八つのほこり」をどのように受け止めているだろうか?

まず、「八つのほこり」の話を聞くと、「おしい」と思ってはいけない。「よく」は持ってはいけない。「かわいい」と思ってはいけない。と

説き分けの内容よりも、ほこりの言葉だけを捉えて、それはダメだ。と思い込む事がはじめではないかと思う。

実際に、私も若いころはそう思った。

私の場合は、人に挨拶や言葉を掛ける事が出来なかった。今でいうならば自閉症的なものかもしれないが、ともかく人と話すことが苦手であった。

そうした時に、「八つのほこり」の「かわいい」が目につき、「我が身かわいいの心があるからだ」と思い込み、自分を捨てる事に躍起になった。毎日回廊拭きに出かけて、ひざあてもなく、ズボンを膝までめくってしたこともあった。

また、「欲しい」と思ってはならない。と思って、何も求めずに、与えられた物だけでと思って通った。

ところが、その心はいつまで経っても、無くならない。

その内に、「自分はダメだ。心定めも続かないし」と思うようになり、「もう心定めはしない。」という心定めをしたほどだった。

それから月日が流れて、会長になり、支部の学生担当の役をもらった。

あの頃の学生会は、大人の人から嫌われていた。「好き勝手なことばかりして、男と女が。。。」などと、口には出さないけれども、若い人々に対して批判的な雰囲気を持っていた。

学生と直接関わると、若いのでそうした気持ちがない訳ではない。けれども、お道を求めようとする心も持ち合わせている。と感じた。

そうした時にどうしたらよいかと考えて、行事や会議の様子を事細かに記して、関係の教会に配ると共に、会議はどうしても夕方から夜になるので、その子供たちの送り迎えをした。

そうする中に、学生たちにお道の話をしてやりたいと思うようになった。しかし、自分自身にそのお話をする事についての自信がなかった。

そこで、ある本部員先生に「教校の先生に出向してもらう事はできないでしょうか?」と尋ねた。

すると、その先生は「お前たちには、天理教のすべてを教えてある。自分でやれ。」と言われた。

私は、「教えられたことがすべてなのか。」と思うと共に、教えられた事を理解できていない自分を反省した。

そこで、一から学び直そうと、まず基礎である「信者の栞」の「八つのほこり」に目を通すこととなった。

その時である。

先にこのブログにあげた「八つのほこりの説き分け」には書かれていない部分があるところに、心が止まった。

それは、説き分けに入る前の冒頭部分である。

ここに書き出しておく。『信者の栞』22頁

 八つのほこりと聞かせて頂きまするは、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、の八つでございまして、この八つのほこりの心というは、日々に、知らず知らずの間に使うものでございまして、知らず知らずの間に積もり重なり易きもの故に、ほこりとお聞かせ下されるので御座います。
 そこでこのをしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、の八つは理のかどめを仰せられましたのであります故に、をしいと申しても、幾重にもほこりの道はございます。ほしいと申してもその通り、その外皆同様で、ほこりの心や、ほこりの行いは、幾千筋あるともわかりません。
 さればその幾千筋とも限られぬ、ほこりの心、行いを一々申し述べるはなかなか出来うる事ではありませんが、ほこりでなき事を、ほこりと思い違えたり、ほこりのことをほこりでないと考え違えてはなりませんから、そのかどめを申し上げます。

とある。この部分は、確か別席のお話にあると思う。

下線を引いた部分、

ほこりでなき事を、ほこりと思い違えたり、ほこりのことをほこりでないと考え違えてはなりません

ここに気が付いたのである。

どういうことかというと、これまでの私は「よく」と言ったら、全ての「よく」が悪いと思っていたのである。

人間が生きていく上には「食欲」がなければならない。子孫を残すためには「性欲」がなければならない。

この欲が悪くて、それを無くしては、人間として生きる事は出来ないのである。

問題は、「ほこりではない事」を「ほこり」と思い違える事、「ほこり」を「ほこりではない。」と思い違える事、この見分け聞き分けをする事が重要だと思ったのである。

それから、学生たちには事あるごとに、このような話をしてきた。しっかりと自分自身で見分けるようにと。

ある時、大教会の神殿講話が当たった時に、この話をした。ほとんどの人は「そんな馬鹿な。」という表情だった。

しかしそれから後、段々と皆さんの「ほこり」に対する考え方は変わって来たように感じた。

 

そして、ここ数年前の事である。

このブログで、警察や銀行へ走り回ったと書いたことがあるが、海外の人とのやり取りで詐欺にあったのである。

私は、何とかしてその人を助けたいと思って行ったところが、振り込んだ口座が不正な口座だったのである。

それでようやく目が覚めたのである。

それもふとしたことが思い浮かんで、大難を小難にしてもらったのである。

騙されたのは、私のいんねんによるもので、家族には本当に迷惑を掛けました。

それからは、自らの心のほこりを考えるだけではなく、人のほこりに気を付けて、「ほこり」をよけて通るという事を考えるようになりました。そして、SNSにくる「不在配達メール」の電話番号を、Facebookに出して、注意喚起もしました。

私は、経験しないと学べない人間です。だからとても時間がかかっています。

けれども、そうした経験で、心や考え方を変えて頂いた事は事実です。

ですから、

アメリカ大統領選挙を皮切りに、中国共産党などなど、世界中で多大な事が起きています。

そして先の事については、量子コンピュータ、フリーエネルギーや宇宙人などなど、これまで陰謀論と言われていた事が、現実にあったと言える状態にもなって来ています。

これらも、私たちの心の切り替え、考え方の切り替えを求める親神様の導きだと思います。

どのようなことになっても、それぞれには、それぞれのいんねんにあった人々の中に生活をします。

その関わる世界が、インターネットによって段々と広くなってきています。顔を知らない人と会話をするのです。本当かどうかの判断はとても難しくなります。

ですからこれからは、ますます神様にお守り頂く、心の時代だと思います。

「八つのほこり」で「人は、ほこりを積むもの」をしっかりと土台にして、良い思案を浮かばせて頂けるようになりたいと思います。

 

そして、コンピュータに支配されるかされないかは、それぞれの心次第だと思います。

人任せにするのではなく、それぞれが考えたり思ったりすることが、とても重要ではないかと思います。

自分の考えた事が正しいかどうかを検算するために使えば、支配されることはありません。

 

先日、宗教連盟の関係から、愛知県や名古屋市が後援する「解放をめざす愛知研修会」に参加して来ました。

その時の講演の中で、「人は誰でも差別をするものだ。という認識を持っている事が大切で、その差別をしてしまう「色眼鏡」を自覚することが大切」とありました。

さらには、差別をなくすためにと様々な事を提案されるが、それを行う事にばかりに目が行って、それによって差別をしている場合がある事を知って欲しい。大切なのは、どうしてそのような事になったかという根本を理解する事だ。とも言っていました。

また、事業者が雇用をする上について、無意識の色眼鏡で大切な人材を雇用しそこなっている場合があるとも言っていました。

講演者はジャーナリストの方でしたが、正しくその通りだと思いました。

「八つのほこり」から言えば、色眼鏡は、癖性分であります。色眼鏡を外すまでは行かずとも、薄くすること、これも一つと思います。

天理は問題の多い地域でしたから、高校時代から解放などの話は聞いてきました。また、その後もなんどかこうした講座も聞きましたが、それらの講座に比べると、考え方が進歩したなと思いました。

本当にありがたいと思いました。

 

思うがままに書きました。お付き合い頂きありがとうございました。

 

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うれしかったです。大教会の月次祭にて!!

2021年06月23日 21時04分19秒 | 思った事

昨日から今日にかけて、大教会である。

昨日22日は、月次祭の準備なのだが、それ以外に、私は名簿の整理・役員会議・部長会などを行う。

コロナになる前は、直属教会ごとに班を決めて、部内教会や信者さんのひのきしんによって準備や片付けを行っていた。

それが、コロナによって、部内教会や信者さんの参拝が無くなり、直属教会のみで毎月準備片付けをする事となった。

当初どうなる事かと思われたが、直属教会の会長夫妻は、ほとんど欠席なく自発的に勤めて、作業の時間もドンドン短くなって、ほぼ1時間ぐらいで終るようになった。

そして、コロナ前に、余りにも準備の時間がかかるために、役員会議の時間を1時間遅くして置いた。そのために、みなで雑談が出来る時間までも出来たのである。

そのお陰で、直属教会の会長奥さん方の意思の疎通がとても良くなったように私は感じている。

 

そうした中に、昨日は、吸収合併の願書についてのお世話と、部内教会の事についての相談をさせてもらう事が出来た。

事前に予定された事ではないが、こうした事が良いタイミングで訪れて、行えることが本当にありがたかった。

さらには、部内教会の相談については、今日その結果を聞かせて頂く事が出来、これまた結構な事だと喜ばせて頂いた。

また、テレビでの新型コロナの感染者数が突然下がったことについての事が話題となり、おかしいね。という意見が出た。

そして、オリンピックのために減らされてるね。という意見に落ち着いた。

まあともかく、

世界では、新型コロナ・ワクチンなど困った事ばかりであるが、これも神様のなさる事である。少しでも大難小難にお守り頂く事と、信者さん方の身上平癒などを願いながらおつとめをつとめた。

これまでのように自由に何でもできる月次祭ではないが、それだけに、とてもありがたく嬉しい月次祭をつとめさせて頂いたと思った。

そしてこれも、それぞれが心定めてつとめているお陰だと思った。

 

「おふでさき」に

めへ/\のみのうちよりもしやんして 心さだめて神にもたれよ (4号43)

しやんして心さためてついてこい すゑハたのもしみちがあるぞや (5号24)

しんぢつに心さだめてねがうなら ちうよぢざいにいまのまあにも (7号43)

しんぢつに心さだめてしやんせよ とりつぎの人しかとたのむで (10号28)

一れつの心さだめてしやんせよ はやくこふきをまつよふにせよ (10号92)

 

と「心定めて」行う事を親神様は望まれている。

やらされるのではなく、自らがさせて頂く事。これがまず大切だと思う。

その上に、不思議な御守護を頂けるのである。

親神様は、助けるための綱を下ろして下さっている。その綱をつかむかつかまないかは、それぞれである。

そして、助けていただいたことを忘れて、綱をはなさない事。これがまた大切だと思う。

 

理は正直である。

その結果は、必ず出る。

裁判での不思議な話があるが、またの機会にする。

 

親神様・教祖、本日も一日ありがとうございました。

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これからのこと。

2021年06月22日 09時03分17秒 | 思った事

先日、不思議なおたすけを頂かれた方におさづけを取り次ぎに行かせて頂いた。

この方は、自宅にいるときに発作が起きて、倒れられた方である。

自宅であったために、ご主人が対処しされて、2カ月ほど入院やリハビリセンターに入られていた。

その間には、おさづけに行くことは出来ない。常に心配でお願いはしていた。

そして退院されたが、時々苦しくなるとの事だった。

ワクチン接種の事もあり、心配で、情報をラインで送っておいた。

そして、時間があり、お見舞いに行ったところ、ワクチン接種をしたとの事だった。

「せっかく連絡を戴いたけれども。。」という事だった。

「返信がなかったので多分そんなところだと思っていました。」と申し上げて、持病もそうだが、ワクチン接種をによる障害が出ない事を願っておさづけをさせて頂いた。「その方には大した副反応はなかった。

そして、先日お会いした時に、「あの時、ワクチン接種を止めようと思っていたのですが、周囲の人たちがやるので、やりました。」と話してくれた。

そして、「2回目の予約があるけど、周囲の人は結構副反応があって、2回目はやめると言っています。そして、会長さんが送ってくれた情報のような記事が新聞にありました。」とその記事を見せてくれた。

そして「だから2回目はやめます。」との事だった。

私は、この事を聞いてホッとして、また親神様のお守りを願った。

先回も書いたが、親神様の御守護はどんな姿で現れるか分からない。

そして、私たち人間は、経験して初めて分かる事ばかりである。

経験できるのは、かしものかりものの身体があっての事である。

 

世界の事情について、色々と書いて来た。

親神様からすれば、善も悪も見抜き見通しである。様々な事柄は、我々それぞれの心がどのように動くかを見定めるためのものである。

昨日、私が世界の事情について、ここへ書く事を心配して来てくれた方があった。

「会長さんはおかしい」と、はっきり言ってくれた。

この言葉がとても嬉しかった。私を心底から心配してくれているのである。

おかしいと言われて喜んでいる私を、これまたおかしいと思う方も多いと思うが、これが正直な気持ちである。

人にはそれぞれの考え方がある。それはそれぞれの経験によって異なる。

だから、善悪もそれぞれの経験によって異なるのである。

けれども、心配をしてくれる心。この心にはウソはない。

私も信者さんや家族、縁者の事を思い、これまで発信してきた。これも心配しての事である。

そうした中に、このブログについての話が出た。

「世界の事情について見ると辛い」との事だった。

そりゃそうである。書いている私も辛い。

こんな暗く、不安ばかりの情報は!

そして、このブログは「神様の御守護の話。神様の話を書く」と約束をした。

また彼には、「もし私に何かあったらおさづけに来てくれるか?」と尋ねた。「いつ何があるかは誰にも分かりません」との返事だった。

「そうではなく、そうした時におさづけに来てくれるか?」という事だ。と話したら。「おさづけに来ます」と答えてくれた。

これまた、嬉しかった。

 

とても苦労の道中を通って来てくれた子である。どれだけ心配をして通った事か。

今でも正直心配である。

しかし、この子の事情身上によって、私がどれだけ勉強させてもらい、そして助けていただいたか分からない。

 

このやり取りを通して、「親神様がもう十分に役割は済んだ」と言ってくれたように思った。

これから先は、本来のブログに戻して、親神様の話を書いていきたい。

ただ注意しておきたい事がある。

親神様のお話には、とても聞きたくない。というような話もある。すべてがすべて、喜んで受け止めれる話ばかりではない。

それは、私たちへのお仕込みの話だからである。

親が子供をしかりつけるような話でもあるからである。

そして、先に書いた「元の理」のようにすぐに理解できない話もある。

その点を心に置いてお付き合い頂きたいと思う。

 

さあ。これからどんなことが起こり、どんな世界になるか楽しみである。

「元の神・実の神」の「天理王命」のお話から、そして「教祖のひながた」、また「先人先輩方の通られた歩み」から、何を得る事が出来るかも楽しみである。

 

今日はこれから大教会の月次祭の準備に出かけます。

すべては、いんねんの上からなってくること。それも、心の立て替えのために!!

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「誠という事」。。「たんのう」。。「いんねん」。。正文遺韻抄より

2021年06月21日 14時27分18秒 | 正文遺韻抄

前回、「かりものの説き分け」「八つのほこりの理」について、『正文遺韻抄』を読みやすく書き換えたものを掲載した。
『信者の栞』には、「かしものかりもの」・「やっつのほこり」の次は、「誠真実」となる。

そこで、『正文遺韻抄』のお話の中から、「誠真実」に関する3点を書換えて掲載する。

・・・・・・・・・・・・・

 

誠ということ (『正文遺韻抄』p222現代文に書換)

 誠というは、口と心と手と、この三つが揃って、真の誠という。それ、いかほど口で、誠の話をするとしても、真の誠が治まれば、行いもそれに添って、それすること、なすこと、日々常に、いかなる事も、みな誠のようになるであろう。けれども、心に誠が治まらないと、それどうもならん。
 日々のすることなすことが、口で話した事と違うから、世界から「それ、あの人は口先ばかりうまい人や、言うことだけは、誠のようだけれども」などと言って、それ話の理を用いてくれないようになる。

 そこで、口と心と手と揃って、人々より「ああ成程の方やなあ。どうも感心な人やなぁ。頼もしい人やなぁ。」と言われるだろう。真の誠で、通ろうと思えば、そこで、一つたんのうという理を心に治めて、「我はどうでも、人さえよければ、わしはもう、これで結構や。たとえ、この上どのようになろうとも、人さえ助かってくれれば、それでよい。何でも、人に助かってもらわねばならん。」という心を定めねばならん。

 

たんのう (『正文遺韻抄』p223現代文に書換)

 世の中は、同じ人間と言っても、尊き人もあれば、卑しい人もある。豊かな人もあれば難儀(11)な人もある。また難儀といっても、難儀の中の難儀(12)もあれば、不自由の中の難儀もある。それ、上を見ても切りはない。また下を見ても切りはない。これみな、前生の因縁でなること。すれば、どういうことでも、みな、銘々に下を見て、日々これで結構とたんのうするが第一。


 そこで、「それ、いかなるもたんのう、たんのうが第一。みな銘々、たんのうして、また人にもたんのうさせるよう」という。それ、つく息、引く息もあれば、聞く、聞かん、見る、見んの理を聞きわけ。人には腹を立てささぬよう。人の喜ばぬ事、人の嫌がることは、少しもしないよう。また言わないよう。あの人は良い人や。あの人の言うことは角がない。あの人のすることは、みな丸い。あの人のようでなくてはならんと、人に思われ、人に喜ばれ、世界みな、満足してくれる。これを「人にたんのうさせた」というであろう。

 

因縁(いんねん) (『正文遺韻抄』p224現代文に書換)

 因縁というは、前生ばかりを因縁というやない。悪きばかりが因縁やない。この世でも、十五才よりこの方してきたことは、良きも、悪しきも、みな因縁となる。また、前生良きことしてあれば、因縁となりて、この世で現れるか、次の世で現れるか、必ず現われんということはない。悪しきことも、その通りなれども、良き因縁は、皆一れつ喜ぶことゆえすぐと現し、すぐと返して下さる。
 されど、悪しき因縁は、でけるだけ延ばしているという。

 それ、世界中はみな、神の子どもゆえ、人間の、我が子思うも同じ事。皆可愛いばかりで、隔てないゆえに、悪きことしても、またそのうちに良きことをして、前の悪き理を埋めるかしらんと、可愛さゆえに悪のむくいは、だんだん延びる。
 そこで、良きことをして、埋め合わせをすればよいが、それに気づかず、悪に増長して、だんだん悪しきの因縁が重なり、それより、現れてくると、大層やから、どうしても、人にやっかいをかけて恩をきんならん。恩をきても、ついに返す目はなくて、恩の上に恩をき、恩が重なりて、ついには、人間にもなれず、恩報じをするために、牛、馬にまで落ちんならん。
 今までは、気の毒ながら旬が来ないゆえ、そのままにして、何事も説いて聞かして、心改めさしたことはない。

 この度は、月日の刻限が来たるから、話一条で、心改めさして、悪因縁のものを、心の与えによりて、削りてもやり、また良き因縁にもしてやるという。それ一れつは、良き因縁はすでに返してもらい、悪い因縁のみ持っているに違いないゆえに、この因縁を果たすために、誠一つを台として、人を救けにゃなろうまい。

 また一つ、前生よりの因縁は、善悪共に七層倍の、返しをするという。いかなる知者や、学者や、老人やというても、逃れるに逃れられんというのは、因縁の理、その災い三つはあるという。
 それ、火難と、水難と我が身にくる病難は、いかほど偉い、ごうてき(13)たりと言うても、逃れることはできようまい。なれど、神の話を聞き込んで、聞いた話を、噛みわけて、噛みわけたなら感心をし、感心したなら、心を入れ替え、入れ替えたなら、いつになりても違わんよう。
 それ、身に守り、身に行うて、そこで、いかなる難も皆のがれる。それ、知者や、学者や、老人や、ごうてきの者でも、逃れられん道も、たった一つの心の誠という理で、自由自在。それ、逃れるであろう。

 

【註】 「誠ということ」へ

 
(11)難儀=1:難しいこと。容易ならぬこと。2:くるしみ。なやみ。3:わずらわしいこと。面倒。迷惑。4:貧窮。貧乏。(広辞苑より)

 
(12)難儀の中の難儀=原文は「なんぎの中のなんぎ」と書かれてあり、より一層の難儀と理解する。
 「たんのう」へ 
 
(13)ごうてき【強的・豪的】=1:すばらしいさま。すてき。ごうせい。2:程度の甚だしいさま。たいへん。
ごうてき【強敵・剛敵】=つよい敵。手ごわい敵。(広辞苑より)
  いんねんへ  

・・・・・

どうか、親神様の心が世界中に届きますように。。

 
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本部神殿奉仕にて。。親神様の不思議な守護。。。ワクチン接種の危険性について。。

2021年06月20日 22時31分14秒 | 新型コロナ

19日は、本部の神殿奉仕だった。

おぢばは、「人間の魂のふるさと」と言われる。それは、「人間を宿しこんだ元の場所」だからである。

そして、その証拠として「かんろだい」を据えると言われて、その場所に「天理王命」(てんりおうのみこと)の神名を授けられた。

だから、私たちは、この「かんろだい」に向かって、「天理王命」様を拝む。

たまたま、娘と神殿で会う事が出来、ワクチン接種について、私が政治やマスメディアに対して疑惑を持ったことについて話をした。

アメリカ大統領選挙で、ライブで中継している事と、大手メディアの報道が異なる事。暴動は起きていないのに暴動が起きたと報じた新聞の事などなど、具体的な事を話した。娘はとてもショックを受けていた。

当然である。信用していた事が全く信じられなくなったのだから。

私もそうだった。とてもショックだった。しかし今は、この真実を知る事が親神様の思し召しだと思うようになった。

そして、私がおぢばで見せて頂いた数々の不思議な事を話した。

一つは、信者さんの事情や身上で何を話せばよいか分からずに、おぢばへ来た時の話である。

北礼拝場でおつとめをしても、何も思い浮かばず、教祖・祖霊様と廻っても何も思い浮かばす、再度おつとめをして、周り、またおつとめをして又回り、という事を4回ほどした。それでも何も思い浮かばず、教会へ戻ろうと車へ行った。

車に乗りかけると、右足が痛みだした。痛みが増して、アクセルを名古屋まで踏み続けるのは無理と思われた。

その時にふと、おぢばから大阪の家へ戻る途中に身上になり、いくらお詫びをしてもよくならず、お屋敷へ戻ったところ、教祖が待っておられた話を思い出した。

そこですぐさまインターで折り返えすことにした。少し痛みが楽になった。不思議と思いながら神殿へ戻った。

ちょうど夕づとめの前であった。

知り合いの先生がおられて、事情を説明しておさづけを取り次いでもらい、「一日6回のおつとめをしたらどうか」と言葉をもらった。

「そうだ、おつとめだ」と思い、夕づとめを済ませると、足の痛みは無くなっており、この事を信者さんに伝えたという話しである。

 

親神様の存在の証明については、「願う誠の心に見える利益」と教えられている。

親神様が受け取る誠の心があれば、人間には不可能と思うような事でも不思議は現れる。

まったく歩けなかった人が、神殿でおさづけを取り次いでもらい、歩けるようになった事を目の前で、私は見ている。

だから、医者や学者が無理だというような病気も、不思議と治る。

こうした事がこれまで、全国で現れ、それによって、天理教は大きくなったのである。

その証拠が、今のとても大きな神殿であり、建物群である。

だから、ワクチンで大変な事になっても、不思議は戴ける。

しかし、なかなかその誠の心を、すべての人が使えるわけではない。

だから、少しでも大変な事にならないように助かって欲しいと、「ワクチンは危険」と騒いでいるのである。

 

そして、昨日19日、本部の神殿奉仕を終えて、深夜に教会へ戻り、ユーチューブを見たところ、次々と衝撃的な報告動画が出て来た。

忘れてはならないと、フェイスブックに共有した。そして今日、自衛隊への接種を進めようしているとニュースにあい。自衛隊への接種に対して反対の動画が出て来た。さらに、イギリスでの接種中止申請の動画も出て来た。

これはまとめて、皆さんへ知らせろとの思し召しかと思い、

以下にそれらの動画のリンクを張り付けておく。

 

自衛隊への接種という事から、危険性について述べている動画。とても分かりやすいので、ぜひ見て欲しい。

ワ○チ○を打って日本弱体化計画完了! 日防チャンネル

 

イギリスで、ワクチン中止の意見書が提出された動画。

Facebook https://www.facebook.com/268759603556377/videos/1577978285730718

 

・・・・

科学者やメディアが新型コロナについての真実を隠蔽していた事についての動画。

「寅さんは正しかった」18名の科学者が立場変更!フォックスニュースの記者がライブ配信中に、突然暴露を始める!効果があるヒドロキシクロロキンの報

 「Harano Times Official Channel」

・・・・・・

その他、衝撃的な情報動画。

お分け合いください!緊急拡散!5人の医療関係者からの警告!コロナワクチンの危険性!マジェー博士の見解

公開2021年5月21日 13,137 ビュー」 https://rumble.com/user/OyakiTaiyaki

 

お分け合いください!緊急拡散!5人の医療関係者からの警告!コロナワクチンの危険性!

公開2021年5月13日 60,012 ビュー」   ttps://rumble.com/user/OyakiTaiyaki

 

人類の歴史の中で最も重要なインタビュー

公開2021年5月1日 300,035 ビュー]
 
 ・・・・・
 
メドベッドについての動画もありました。
 

必見!メドベッド技術士であり体験者が語る、衝撃の技術!

Makana Spiritual

 

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親神様・教祖、どうぞ大難は小難にとお守りください。

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パンデミックを予測。。学者が意見を変えた。。パンデミックの経緯などに関する動画。。。

2021年06月20日 16時23分53秒 | 新型コロナ

ウィルスによるパンデミックを引き起こし、ロックダウンをさせて、ワクチンを打ち、人口を減らそうと計画をしていて、その通りに実行をしていたとの報道をまとめました。

(2021.6.15配信) 続・パンデミック ロックフェラー財団未来のシナリオとは⁈【及川幸久−BREAKING−】 及川幸久 THE WISDOM CHANNEL

(1887) 2021.6.15 続・パンデミック ロックフェラー財団未来のシナリオとは⁈【及川幸久−BREAKING−】 - YouTube

 

(2021.6.8配信) ★2010年にロックフェラー財団が予測(計画)した未来のシナリオを米メディアが報道!2021/6/8  まずは知る事から始めよう

上記で紹介されているニュース記事。

2010年にコロナ予測か。ロックフェラー「未来レポート」衝撃中身(MAG2 NEWS) - goo ニュース

技術と国際開発の未来のためのシナリオ - ロックフェラー財団の計画書(とされるものの翻訳) - あなたがあなたの救世主 (hatenablog.jp)

『関連動画』

https://www.facebook.com/268759603556377/videos/243025646758495/

 

 

★学者がワクチンではパンデミックは治まらないと、意見を変えた事を報じています。
(2021.6.12配信) パンデミックは終わらない!変異株による集団免疫の挫折【及川幸久−BREAKING−】 及川幸久 THE WISDOM CHANNEL

(1888) 2021.6.12 パンデミックは終わらない!変異株による集団免疫の挫折【及川幸久−BREAKING−】 - YouTube

 

★パンデミックを起こそうとした経緯が分かる動画です。

トランプ大統領が進めた薬は、議会も医学会も否定して、ワクチン接種へとすすめた経緯が述べられています。

(2021.6.16 配信)トランプが勧めた治療薬ヒドロキシクロロキンはなぜ使われなかったのか?【及川幸久−BREAKING−】

(1887) 2021.6.16 トランプが勧めた治療薬ヒドロキシクロロキンはなぜ使われなかったのか?【及川幸久−BREAKING−】 - YouTube

 

★これまで武漢研究所の事を否定していた人が、意見を変えた事についての解説。
(2021.6.11配信)【新聞看點】驚くべき情報の暴露 ファウチ氏が注目の的 大紀元 エポックタイムズ・ジャパン

【新聞看點】驚くべき情報の暴露 ファウチ氏が注目の的-2021-06-11T12:57:03Z-Youmaker-大紀元 エポックタイムズ・ジャパン-889s - Youmaker

 

 

親神様・教祖、どうぞ大難は小難にとお守りください。

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アメリカ大統領選挙の不正が、州でどんどん暴かれて、大統領が交代するかも。。。

2021年06月16日 22時29分35秒 | 思った事

アメリカ大統領選挙が終わって、バイデン政権となったが、州で再集計が行われ、不正が確定してトランプ大統領が当選の状態になってきている。

その事についてアメリカの報道を伝えている動画を紹介しておく。

新しいものから順に掲載する。

(2021/06/16配信)フルトン郡紛失票認めた‼︎24%の誤差でトラさん勝利確定⁈米国に戻ってきた中共学生を米諜報機関がスパイ容疑調査開始‼︎イタリア首相が中共に攻撃開始‼︎  「KANチャンネル

(1883) フルトン郡紛失票認めた‼︎24%の誤差でトラさん勝利確定⁈米国に戻ってきた中共学生を米諜報機関がスパイ容疑調査開始‼︎イタリア首相が中共に攻撃開始‼︎ - YouTube

 

(2021/06/15配信)GA州管理記録紛失 AZ州25万票不足の件 カナダ人ニュース

(1884) GA州管理記録紛失 AZ州25万票不足の件 - YouTube

 

(2021/06/14配信)Bデンの認証取消しがミシガン州から始まる‼︎シドニーPウェルも喜びを表明‼︎トラさんの勝利が待っています‼︎G7サミットで中共懸念でWi-Fi遮断‼︎  「KANチャンネル

(1883) Bデンの認証取消しがミシガン州から始まる‼︎シドニーPウェルも喜びを表明‼︎トラさんの勝利が待っています‼︎G7サミットで中共懸念でWi-Fi遮断‼︎ - YouTube

 

(2021/06/14配信)Bデンとマクロンの闇‼︎トラさん最強追及‼︎ペロシが大慌て‼︎民主党ピンチ‼︎ペロシよ、次はお前の番だ‼︎FBI長官がやはり隠蔽してた⁈ KANチャンネル

(1884) Bデンとマクロンの闇‼︎トラさん最強追及‼︎ペロシが大慌て‼︎民主党ピンチ‼︎ペロシよ、次はお前の番だ‼︎FBI長官がやはり隠蔽してた⁈ - YouTube

 

(2021/06/13配信)MI州D機器検査要求裁判再開 投票用紙に細工?/ネット接続履歴/選挙前にモデム内蔵報道 カナダ人ニュース

(1884) MI州D機器検査要求裁判再開 投票用紙に細工?/ネット接続履歴/選挙前にモデム内蔵報道 - YouTube

 

(2021/06/11配信)トラデマまた撤回/社会正義マン「鳥の名前が差別」/GA州絶賛大パニック中 カナダ人ニュース

(1884) トラデマまた撤回/社会正義マン「鳥の名前が差別」/GA州絶賛大パニック中 - YouTube

 

武漢ウィルスの発祥元についても、イベルメクチンについても、どんどんとトランプ大統領が正しかった証明が出てきている。

これからどうなっていくのか。大統領が交代したら世界は。。。。すべての事が情報開示されると期待している。

 

親神様・教祖、どうぞ大難は小難にとお守りください。

 

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身上かりものの説き分け。。「正文遺韻抄」より

2021年06月15日 13時33分29秒 | 正文遺韻抄

今ならば「依存症」と言われるだろう症状で、とても困っていた時、何度もおぢばへお詫びに通った。その時に、必要な時以外は外に出ないで、教えを一から学び直そうと思い、本を読み始めた。その時、本を読むだけではもったいない。いずれ役に立つだろうからと、ワープロで入力しながら本を読んでした。そしてこの『正文遺韻抄』の書き換えを思い立ち作成していた。

その後、コンピューターに移り、ホームページを作った時に、ネット上での参考資料になればと、手直しをして、註釈をつけたものである。

今回、「元の理」の表をブログに掲載する時に、HTML書式のものを使える事を知り、今回掲載することにした。

当時とは違って、今は簡単に写真も掲載する事が出来る。今回は画像も含めておく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「身上かりもののときわけ」   (文) (註) (注意)  

[2003.11.23 訂正、追記] 「2021.06.15 画像追加」

(「正文遺韻抄」p186 現代文に書換)

  このようは一れつはみな月日なり 人間はみな月日かしもの
 当神様のみ教えは、このお歌の通り、人間の身の内は、神からのかしものであり、銘々は月日様より、身体を借り受けて、自由自在に、心の思う通りに、使わせて頂くことが出来ます。
 身の内さえも借り物であるならば(1)、よろず一切はみな借り物。世上世界に、ある全ての物は、食物、着物、住む家をはじめとして、すべてみな神様の物であります。これらは月日様の自由(思いのまま)にできまして、月日様が、支配してくださるのです。そして銘々人間の心だけに、よろず貸し与えて重宝させて下さるのであります。


 よって、銘々の物、人間の物と言ってはみても、人間の物である物は何もございません。一れつ一切はみな月日様のもの(月日様とも言える)(2)。月日様の世界であります。人間は身上を借り受けて、にぎわしく、暮らさしてもらうのであります。そこで、身上かしもの、かりもの。心一つが我がの理。これが、教えの台でございます。

 月日様が人間をこしらえて、この世をお始め下されて以来、今日まで、何千年、何万年もの間、知恵も仕込み、学問も仕込み。心直しのため、人や国々が睦まじくなる(にんきやわらぐ(3))ために、真実の道を教え。病気助かるために、医者薬の道、または祈祷まじないの法も教え。みな修理肥のために、神が人間に入り込み、または八柱の神様に人間の生を受けさせて、月日の心入り込んで、だんだんと、どのようなことも、教えて下さいました。(a)そして今日では、知恵が進み、学問がたけ、医者の道にすればどんな手術も施し、どのような治療も致すようになり。科学においては、いかなる機械も発明し、だんだんと便利になり。おいおいと進歩発展する(開明(4)になる)ばかりで、日にまし、月にすすみて、いよいよ結構になってまいります。
 百里、二百里(約400~800キロ)隔たっていても、一日に行き着く事が出来ますし、五百里、千里(約2000~4000キロ)の遠きところでも、一日の中に便りをすることが出来ます。それに連れて、十分(ばんばん(5))便利になって、実に結構なる今日であります。

 そして、今日まで結構になりました、この二、三千年の間というのは、誰がどういうことを始めた。何という人がこういう物を発明した。誰はどうして世の人を助けた。彼はこうして世上の利便を図った。国家のためになったと言うように、ちゃんと書物に、その事歴が伝わってありましょう。
 また、人間は、その人を偉い者や、感心な者や、ありがたい人や、尊い方やと、心に深く感じて(感ぱい(6)して)、尊敬しております。
 しかし、その元である、月日様のご守護によって、神様のお入り込みによって、お働きによってなってきた、ということが分かりませんので、人間同士がお互いに、知恵を磨き合い、勉強をしあって、その結果に、発明もし、便利も図り、文明になってきたのだと思っているでしょう。実にそう思うのが人間心の当然でございます。
 けれども、神様のお話を聞かせて頂いて思案いたしますと、第一に『火と水とが一の神』と仰せられまして、これが月日様(火は日様、水は月様)であります。この火水の徳によって、人間も生き、また万事が生育し、よろずの機械も発明されて、また運転も出来るのでございます。何でも彼でも元は火水です。火と水とのお徳がなくては、かなわぬ事なのでございます。


 そうですから、『このようの一れつはみな月日』と、仰せられますので、いかに人間が賢くても、強くても、身の内から火と水とが退き、息まで退いたら、どうしようもございません。心一つとなっては、知恵も力も宝も持って使うこと(かすこと(7))は出来ません。
 だから、身の内に月日様が入り込んで、お働きがあるので、銘々が心だけの考えもさせてもらえる。又力も出さしてもらえる。どんなことも、人間として勤めるべきだけの勤めは、働かせて頂くことが出来るのでございます。

 そこで、人間は人間だけの勤めをさせて頂けば、神様は心にのって、自由のお働きを下されますから、銘々の勤めが肝心でございます。たとえば、百姓が立毛(作物)を作るのと同じ事で、種を蒔く、修理をする、肥を置く(肥料をやる)などのことは、百姓そのものの勤めでございますから、怠ってはなりませんが、芽を吹っ切る、芽を伸ばす、段々のばして花を咲かす、実を結ばせるというのは、これは誰の力でございましょう。いくら百姓自身が、「おれは上手に作る。おれはどうする」と申したところが、出来るものではございません。
 これが神の自由(じゅうよう)、月日様のご守護でございまして、いわば、神様のお役でございます。人間は、種を蒔く、修理をする、肥を置くという事を、みなそのちょうど良い時期に従って、怠らずにさしてもらうから、その心に添って、神様のお働きが頂けます。そして、花も咲けば、実もできるということになります。


 何事もその通りで、人間の勤めと神様のお働きと、共々に行かねば、結構にはなりません。すなわち、神様が人間に、それぞれのするべき勤めだけを、与えて下さっているのですから、その勤めをしなければ、神様のご守護は頂けないのでございます。
 さて、人間という者は、その理を知りませんから、みな銘々に、自分自身の力で、事が出来るようにばかり思っていて、親神様のご恩があることが、さっぱり思いつかない人が多くあるのでございます。
 そこで、前に申しました通り、人間は、誰それ、彼それ、どういうこと、こういうこと、ああ偉い者や、尊い人やと、申しますけれども、真実のおやさま(親である神様)のご守護、お働きをありがたく、尊く思う者が無いのでございます。
 このたび、おやさま(親神様)より御じゅうよう、御働き(神様の自由と働き)の理を聞かせて下さいまして、前申します通り、「知恵も仕込み、学問も仕込み、よろずの事、段々と教えてきて、十の物なら九つまで教えたで、このたびは、その残り一つを教えるで」と、聞かせられます。

 そこで、これまでに九つまで教えて頂いてあるから、世上においては、何も不自由不足はない。便利で、重宝で、結構な世界であります。しかし、たった一つ、銘々に思うことが、思うようにならない。しようと思うことが思うようにならずに、しようまい、なるまいと、思うこともなってくる。全く、銘々の思うようにばかりにはいかんというのが、これが、一つの不足であります。
 「その不足の無いように、思い通り、思惑通り叶えてやったら、それで十分やろ。この度は、ここの一つを教える道であるで。十の数なら、一番しまいの十目の教え。すなわちとめの教えや。だめの教えやで。この道は立て通さにゃならん。末代続く、切りなしの道やで。」と聞かせられます。
 そこで、思い通り、思惑通り、叶うようになるというは、一寸だけ聞いては、「そんな事ができるものか、そんなことになれそうな事があろうか」と言うようなものであります。けれども、だんだんこの道に入って、かしもの、かりものの理を聞き分け、聞き分けた理を守って行けば、だんだん思うように、そして思惑通りに叶います。とりもなおさず、思うとおりの御働き、ご守護が頂けるのでございます。
 そこで、よく話を聞いた上にも聞いて、理を聞き分け、理を守るが第一でございます。これがこの道の信心でございます。

 さて、「かしものの理」、「八つのほこり」、「いんねん」、みな理を聞き分けねばなりませんが、前申しますとおり、「身上かしもの、かりもの、心一つが我がの理。」これが教えの台でございます。ゆえに、この理を聞き分け、「本になるほど、かりものに違いない」と、理を感じることが肝要でございます。この理を感じねば何にも分からないのであります。
 そこで『かしもの、かりものの理が分かれば、なによのこともあざやか』と仰せられまして、本当にかりものに違いないと、心に感じましたら、神の話の理を守ることが出来ます。そこで、どのような事も鮮やかに心に治まりまして、段々と行いが鮮やかになりますから、神様のご守護が、鮮やかとなるのでございます。
 神様のご守護が、鮮やかとなれば、身上に不足がありそうな事は、ございませんし、又不時災難や、病難といって、難儀をしたり、わずらうというのは、神様のご守護が欠けるからでございます。
 それならば、神様がお忘れになったか、お落としなされたかといえば、決してそうではございません。神様が忘れそうな事も、落としそうな事もありません。すべて、銘々の心一つに、十分(ばんばん)貸し与えて頂くのであります。しかし、借り主たる心次第で、十分の上に十分のご守護も頂けるし、また十分のご守護が九分ともなり、八分ともなるのでございます。だからよく理を聞き分けねばなりません。

 月日様は、なにも『人間はどうでもかまわん。心だけの守護や。勝手にせい』と思し召すような、無慈悲のお心の月日様ではございません。皆人間を、可愛い可愛いと思し召して、「誰一人にくいという者はない」と仰せられます。
『にんげんが、わがこのいけんおもてみよ、はらのたつのもかわいゆへから』と、おふでさきにもございまして、可愛いいゆえから。意見とも、立腹ともなりまして、身上に現れ、事情に現れて、銘々に苦しまなければならないのでございます。よく思案してみて下さいませ。銘々が子を育てる時の、親子の中の情愛から、よく思案してみて下さいませ。

 親というものは、「自分が食べずとも、子にはひもじい(ひだるい(8))目にあわせたくない。自分が着なくとも、子にだけは寒い目をさせたくない。なんとか、満足に育て上げ、一人前の人間にしたいものや。なるだけの事は仕込みもして、人に劣らぬようにしてやりたい」と思うて、自分が食べるものも、子のために食べようと思わず、自分の身の辛いことも、子のために辛いと思わず、一心に子の事を思い、子の事を楽しんで、どうか老いた先は、この子のために心安らか(安心)におれるよう。この子のために健康で楽々(安楽(9))に過ごせるようと思う。それが日々の願いでございましょう。

 又、みにくい子や、かたわ(10)の子が出来ましても、親の心として、決して捨てる事も出来ません。ほっとく事も出来ません。普通のものよりも、一層可哀想な、という心が深くなりまして、それ相応の道を教えるでございましょう。めくら(11)ならば、糸の道でも教えるとか、それもならん家では、あんま(12)を仕込むとか致します。また醜いものなら、学問とか、裁縫とか、その道の師匠になれるように、しっかりと教えます。皆その子の行く末を案じて、ならん所から一つの工面もし、一つの倹約(始末(13))もして、その子のために元をかけて、仕込むでしょう。
 又、心がけの悪いものであって、親には不幸をし、兄弟を困らし、親類へは迷惑をかけ、世間に対して、実に恥ずかしい、というような子といえども、親の心としては、決して心底からにくい事はありません。どうか、あの心を改めさせたい。どうかして直したい。どうにかして改めてくれれば良いがと、日々心を痛め、案じてばかりで暮らします。

 そして、なんにも申し分のなき子であれば、親は安心していられますが、悪い心がけの子ほど、親は心を痛め、末の事まで心配してやるようなもので、なかなか一人として、憎い子はありません。大勢の子がありましても、どうでも良いという子は一人も無いのが、親の胸の内でございます。あの子はどうして、この子はこうしてと、一々心に掛けて、子のためをのみ思って暮らすのが、親の情でございます。

 ならば、月日様の思し召しも、その通りでございまして、世界に多くの人間があるけれども、誰一人憎いという者はございません。誰一人どうなってもかまわん、という者はございません。みな、一人一人の身の内へ入り込んでご守護を下さり、また、心相応に、物を与えて下さいまして、さらには、心違いのある時には、身の内の守護を欠いて、心違いを知らして下さるのです。
 どうか、真っ直ぐな心になってくれたら先に危ないことも無いのに。どうか誠の心を持って通ってくれたなら、人の術中に落ちる事(踏みかぶる(14)事)も無いのに。こういう心がけでは、最後(末始終(15))は、人に憎まれ、人に嫌われて、通るに、通られんようになるであろう。「可哀想な事や」と思し召して下さるから、身の内よりの意見となるのです。

 また、悪気(あくき)ごうよくをつくしながらも、世間体は良い顔をし、人のためになるような顔をして、上辺は十分繕って通れば、人の憎しみも受けず、人に嫌われもしない道理やから、神様の意見もないであろう。というようなものですけれども、神様は一列の子供みな、同様に可愛いと思し召すところの親様(親神様)で、どの者、この者という隔てはございませんから、その者のために、多くの人が、知らず知らず、苦しんで通るとすれば、その者は、多くの人の害になる者であるから、多くの人と一人とは代えられません。どうしても、その一人を悩めて多くの人を助け、一人に意見を加えて、多くの人に、知らず知らずのうちに、徳が付くようにしなければ成りません。

 そこで、どれほど良い顔をしておりましても、心の底に悪気を持って、ごうよくの行いをしておりましては、人は知りませんといえども、ついには月日おやさま(親神様)の、立腹となって、その身が、倒れなければならぬ日が出てまいります。
 人間が多くの子供を育て、どの子もみな可愛い、一人も憎い者は無いといえども、一人の子のために、兄弟中が、困らされるような事であったなら、その一人に、意見をせなければならないでしょう。意見に意見を加え、可愛いゆえに立腹して、脅かしてみても、それでも改心できないとすれば、家におかれないようにもなりましょう。それは、可愛い一人の子やけれども、どの子も可愛い親心だから、みなと一人とは代えられん。可愛いと思いながらも、捨てなければならない。それも同じ事でございます。

 よく、思案してみて下さい。捨てたからといって、勘当したからといって、やっぱり案じるのが、親の心です。『貴様のようなものは、どうにでもなってしまえ。死んでしもうた方がよいわ』と、口には言っても、心では可哀想でなりません。『なんでああいう心やろう、どういう事で、改心してくれないのかしら。情けない事や』と、心の内には、悲しい涙が一杯でございます。無念の涙が、一杯でございます。忘れるにも忘れられん。『どうぞ良い心と、心を入れ替えて、無事で暮らしてくれるよう』というのが、親の心の内の願いでしょう。
 親の心の切なさは、どのくらいとも知れません。その切ない心を思い切って、多くの子供には代えられませんから、勘当をしなければならないという、その心配、苦労をかける子の不幸は、どれほどとも知れないでしょう。
 『子を思う道には誰も迷えども、親に仕える人ぞ少なき』と故人が嘆かれましたとおり、どうも、親の心を察する子は、少ないものでございます。『子を産んで、親の恩を知る』と申しまして、銘々の子を育てて、初めて親が自分を思ってくれた、心の大恩が分かるものでございまして、どうも子を育てなければ、真の親の心を察する事までは届きませんので、ついつい不幸になりやすいのでございます。

 川柳に『孝行をしたい時分に親は無し』というものがありますが、その通りで、自分が子を育てて、親の心を思いやり、孝行したいと思い出すときには、すでにもう親はこの世にございません。大抵はみな、そんな事でございますから、どうにもなりません。
 そこで、前々より申します通り、神様にもやはり、意見、立腹があります。けれども、皆可愛いと思し召す、親心からなることでございまして、人間が子を思う真実よりも、なお一層、神様が人間を思って下さる真実の方が、深いのでございます。おふでさきにも
『にんげんがわが子おもうもおなじこと、こわきあぶなき道をあんじる』
と、お付けになりました通りで、『そこへ行っては、あぶないがなぁ。そんな方へ行っては、怪我をするのになぁ。そういう道を通っては、怖い恐ろしい所へ行くのになぁ』と、人間が、幼児(三ツ子)のお守りをするように、おやさま(親神様)は、ご心配をして下さるのでございます。
 されば、銘々に、子を思う真実の心から、親神様が、人間を思って下さるところのお心を、ご察し申し上げて、孝行する事をしなければなりません。

(以上)

《註》

(1)身の内さえも借り物であるならば=原文では「身のうちさへも、かりものなれば、よろづ一さい、みな借りもの。」とある。この「身のうちさえも、かりもの…」を単に「身のうちがかりもの…」と書き換えることもできるが、そう書き換えるならば原文は「よろづ一さい、みな借りもの」と同じく「身のうち、かりものなれば」となっていてもよいのだが、そうではなく、「身のうちさへも…」とある「さへも」が気になる。
 そこで、「さへも」を辞書で調べると、さえ=〈助詞〉(副助詞)体言・副詞などを受ける。格助詞の上下いずれにも付く。…1:現在有る作用・状態の程度が加わったり、範囲が広まったりする意をあらわす。その上に…まで。までも。2:程度の軽いものをあげて、それ以上のものを推測させる。まで。でも。でさえ。3:仮定の条件を表す句の中に用い、そのことだけで条件が満たされ他は不問にする意を表す。(「広辞苑」岩波書店より)とある。
 また、「かりものなれば、よろづ一さい」として狭い範囲の「身のうち」から広い範囲の「よろづ一さい」と話を進めていることから。2:程度の軽いものをあげて、それ以上のものを推測させる。があてはまるように思える。
 つまり、この「さえも」は「よろづ一さい、みな借りもの」を強調するために、わざわざ付けられているように思え、言い替えると、「身の内だけが借りものと思うかも知れないが、身の内だけではなく、よろず全てが借りものである」と思える。

 特注;今回これを調べるために、同じ言葉がないかと「天理教教典」(昭和59年改訂前のもの)を見ると、「第7章かしもの・かりもの」にはp65L7「ここをよく思案すれば、身上は親神のかしものである、という理が、自と胸に治まる。…中略…銘々の身上は、親神からのかりものであるから、親神の思召に随うて、使わせて頂くのが肝腎である。…中略…人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我がの理。と教えられる。」と書かれ、その後はほこりの話になり、「よろず一切みな借りもの」に関する記載は無い。

(2)一れつ一切はみな月日様のもの(月日様とも言える)=原文には「よつて、めい/\のもの、にんげんのものといつては、なんにもある事やございません。いちれつ一切、みな月日さま。月日さまのせかい。」とある。「月日様のもの」と書いたのは、前に「にんげんのものといつては、なんにもある事やございません。」と「人間のもの」という言葉があるために、関連づけて「月日様のもの」と書いたが、「みな月日さま。」と言う表現が気になり、「(月日様とも言える)」と記した。
 それは、後述の「神が人間に入り込み、または八柱の神様に人間の生を受けさせて、月日の心入り込んで、だんだんと、どのようなことも、教えて下さいました。(a)」また、同本「おはなし」の「助けるということ」の項目で「人は神と言うであろう。神と言うても、柏手を打つ神でもなければ、また拝む神でもない。「人はみな、神の子」と言うであろう。(書換)」「ひとはかみといふであらう。かみといふても、かしはでをうつ、かみでもなければ、また、をがむかみでもない。ひとはみな、神の子といふであらう。(原文)」とあり、また、同本「おはなし」の「一人助るは、神のやかたを作るもおなじこと」の項目で「「神の子、一人、不足な者、満足にしてくれたなら、神のやかたを作りたも同じ事。」神は、それほどに受けとるという。(書換)」「かみの子、いちにん、ふそくなもの、まんぞくにしてくれたなら、かみのやかたを、つくりたもおなじこと。神は、それほどに、うけとるといふ。(原文)」という文があり、全てが神様、月日様という考え方もできると思ったからである。

(3) にんきやわらぐ=意味が良く分からない。にんきを人気と考え、やわらぐを和らぐと考えると、
人気【人気】=1;人の意気。2;世間一般の気うけ。評判。3;その地方の気風。じんき。;「広辞苑」岩波書店より
やわらぐ【和らぐ】1;やわらかになる。柔軟になる。2;(風景・気候・感情・気質などが)おだやかになる。柔和になる。3;親しむようになる。睦まじくなる。;「広辞苑」岩波書店より
から、人同士が睦まじくなる。地域や国が睦まじくなると言う意味になるのではないか。

(4) 開明(かいめい)=人知開け、文化の進歩すること。文明開化。また、知識に明るく聡明なさま。;「広辞苑」岩波書店より

(5) ばんばん【万々】=(名詞)1:非常に多数なこと。2:はるかにまさっているさま。(福祉)1:十分に。よく。まったく。;「広辞苑」岩波書店より

(6) 感ぱい【感佩】=かたじけなく心に感ずること。深く感じて忘れないこと。;「広辞苑」岩波書店より

(7) かすこと=人間自分の物であれば、人に貸し与える事ができる。しかし、身体が無ければそれはできない。という意味で使われているのではないか。

(8) ひだるい【饑い】=ひもじい。空腹である。;「広辞苑」岩波書店より

(9) 安楽(あんらく)=心身に苦痛が無く楽々としていること。;「広辞苑」岩波書店より

(10) かたわ【片端】=目や耳など身体に完全でない所があること。またその人。不具。;「広辞苑」岩波書店より

(11) めくら【盲】=視力を失っていること。また、その人。;「広辞苑」岩波書店より

(12) あんま【按摩】=身体をもんで筋肉を調整し、血液の循環をよくする方法。もみりょうじ。また、それを業とする人。;「広辞苑」岩波書店より

(13) 始末(しまつ)=1:はじめとおわり。始終。首尾。2:事の次第。事情。特に、よくない結果。3:きまりをつけること。整理をすること。しめくくり。処理。4:浪費せず、つつましいこと。倹約。胸算用。;「広辞苑」岩波書店より

(14) 踏みかぶる【踏み被る】=1:水たまりや穴などに踏み込む。2:踏みつけて、そのはねかえりを身にうける。3:自分のしたことから不利益を蒙る。人の術中におちいる。;「広辞苑」岩波書店より

(15) 末始終(すえしじゅう)=1:すえのすえまでつづくこと。ゆくすえながいさま。2:最後。;「広辞苑」岩波書店より

注意:

(1)今回の現代文に書換については、当時の資料を読むに当たり、知らなければ読めない事が多くあり、それにつまずくがゆえに読むのが嫌にならないようにと思い、あえて現在「差別用語」とされている言葉もあえてそのままに使用し、後に辞典から意味を掲載した。
私の知らない差別用語もあるかも知れないが、これらの言葉はその人たちを差別する目的で使用されているのではなく、そうした状態にある事を当時は、そう言い表していたと理解している。その点をご理解頂きたい。

(2)おやさまという表記について
原文には「神さま」「神」「月日さま」「月日様」「神様」「月日」「おや神さま」「おやさま」「親様」「月日おやさま」と言う表現が出てくる。
 現在「おやさま」というと教祖を言い表しているが、ここで使われている「おやさま」「親様」はすべて親神様を表し、文中で言いたいこと、に合わせて「神」「月日」「おやさま」「おや神さま」「月日おやさま」と使い分けているように思われる。
 おふでさきの神・月日・親の表記の移り変わりに関係があるか?と感じた。
 現代文に書き換えるに当たり、「おやさま」「親様」の後には(親神様)を表記した。

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