あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

人間の数について。。。から。。。

2021年01月30日 17時31分58秒 | 思った事

『正文遺韻抄』を読んでいると、おや?と思うような記述がある。

その一つを書いてみたい。『人間の数について』153頁を、以下に読みやすいように書換えておく。

『人間の数について』

 ある時、梅谷様より、仲田様・山本様などに、「人間は、9億9万9千9百9十9人の人数と、聞かせられます。そして、その中には牛馬に堕ちている者もあるとの事であれば、人間の数は、現在増えているのでしょうか。又は減っているのでしょうか。」とお尋ねしたところ、「そんなことは知らぬから、これから神様へ伺おう」と言われて、教祖の御前に伺い、仲田様から、事の次第をお尋ねになられた。しばらくお伺いの感じで「それは増えてある。とおっしゃる」と仰せられて、それからその内訳をお聞かせ下されたのには、

「元は、9億9万9千9百9十9人の人数であったが、その中に、牛馬に堕ちている者もあるけれど、この世初めの時より後に、生き物が出世して、人間と登りている者が沢山ある。それは、鳥でも獣でも、人間を見て、『あゝうらやましいものだ。人間になりたい』と思う一念から、生まれ変わり出変わりして、段々と「こうのう」を積むから、そこで天にその本心をあらわしてやる。すると、今度は人間に生まれてくるのやで、そういう訳で、人間に引き上げてもらった者が沢山あるで」と仰せられたので、一同感服して、御前を下がった。

と書かれている。

ここで気になる事を記しておく。

人間は、9億9万9千9百9十9人の人数と、聞かせられます。そして、その中には牛馬に堕ちている者もあるとの事であれば
と言われている事から、「悪事をした人間は牛馬になる」「牛馬となれば人間にはなれない」という話が説かれていた事が前提にある事に注意できる。

しばらくお伺いの感じで「それは増えてある。とおっしゃる」と仰せられて、それからその内訳をお聞かせ下された 
という事から、教祖はまず内なる親神様に伺われて、それを伺われた人に話されている様子が分かる。

この世初めの時より後に、生き物が出世して、人間と登りている者が沢山ある。  
という事から、ぢばで宿しこまれた人数は、「9億9万9千9百9十9人」である事をはっきりと言われており、その人間以外にも生物がいる事を言われている。その生物には、『あゝうらやましいものだ。人間になりたい』と思う一念 とある事から、考える事が出来るものである事が分かる。

④しかし、そのように思ってもすぐには成れない。人間になるための条件が 段々と「こうのう」を積むから と示されている。 さらに、「こうのう」を積んだのちに、天にその本心をあらわしてやる。 と次の段階を示されている。

⑤ここでもう一つ。この 天にその本心をあらわしてやる。 という言葉から、人間にしてくれるのは自然になるのではなく、親神様の意思があって人間になっている事が分かる。

 

さて、ここに出てくる、「天にその本心」という言葉であるが、十柱の神様の説き分けについて、「くにとこたち」は天にては月様。「おもたり」は天にては日様。と『信者の栞』には書かれてあるが、その外おたすけをされた方が書いた本によると、他の神様にも天における星が記されている。
そのことを考えると、私たち人間一人ひとりの本心(魂の事かどうかは分からないが)は、星に関連するのではないかとも思える。

また、「元の理」では、一番初めに宿しこまれた、「9億9万9千9百9十9人」は、ドジョウであり、それが月日の神様に食べられて、人間の魂となっている。そして、この次の頁に『動物の進歩について』という話があり、そこでは、『こういうものに生まれてくるさかいに、人間に食われてしまわにゃならん。早く人間に引き上げてもらえよ』と教祖がおっしゃった記述がある。

また、逸話篇132には、
【おいしいと言うて】
 仲田、山本、高井など、お屋敷で勤めている人々が、時々、近所の小川へ行って雑魚取りをする。そして、泥鰌、モロコ、エビなどをとって来る。そして、それを甘煮にして教祖のお目にかけると、教祖は、その中の一番大きそうなのをお取り出しになって、子供にでも言うて聞かせるように、
「皆んなに、おいしいと言うて食べてもろうて、今度は出世しておいでや。」
と、仰せられ、それから、お側に居る人々に、
「こうして、一番大きなものに得心さしたなら、後は皆、得心する道理やろ。」
と、仰せになり、更に又、
「皆んなも、食べる時には、おいしい、おいしいと言うてやっておくれ。人間に、おいしいと言うて食べてもろうたら、喜ばれた理で、今度は出世して、生まれ替わる度毎に、人間の方へ近うなって来るのやで。」
と、お教え下された。
 各地の講社から、兎、雉子、山鳥などが供えられて来た時も、これと同じように仰せられた、という。

とあり、これらの事を思い合わせると、食べるという事がどれだけ重要な事かと思える。

 

さて、「元の理」「元はじまりの話」また、教祖がお聞かせ下された話から、この世の中の事、世界の事、魂・心についても、興味が湧くのではないかと思います。

 

親神様・教祖、どうぞ陽気ぐらしに向けて、大難は小難にとお守りください。そして心をお守りください。

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「八つのほこり」をしっかりと心に納めるために。。。『信者の栞』冒頭。。

2021年01月27日 10時50分41秒 | 思った事

「八つのほこり」は、『教典』や『信者の栞』に説き分けられているが、余りにも簡単に書かれており、十分に理解しにくいかと思う。

そこで、『正文遺韻抄』に、この「八つのほこり」についてもう少し詳しく書かれている。

正文遺韻抄を読んでもらえれば良いのだが、読みにくいと思うので、私が今の言葉に書き換えたものがあるので、それを掲載する。

ほこりごとに、ファイルを分けておく。

八つのほこり。。1。「ほしい」 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

八つのほこり。。2.。「おしい」 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

八つのほこり。。3.。「かわいい」 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

八つのほこり。。4.。「にくい」 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

八つのほこり。。5。「うらみ」 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

八つのほこり。。6。「はらだち」 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

八つのほこり。。7。「よく」 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

八つのほこり。。8。「こうまん」 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

八つのほこり。。こうまんに追加。「うそと追従これ嫌い」。。 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

また、

『信者の栞』の「八つのほこり」には、ほこりを説き分ける前に、次のように書かれている。

・・・・

 八つのほこりと聞かせて頂きまするは、をしい、ほしい、にくい、かわり、うらみ、はらだち、よく、こうまん、の八つでございまして、この八つのほこりの心というは、日々に、知らず/\の間に使うものでございまして、知らず/\の間に積り重なり易きもの故に、ほこりとお聞かせ下されるのでございます。

 そこでこのをしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、の八つは理のかどめを仰せられましたのであります故に、をしいと申しても、幾重にも、ほこりの道はございます。ほしいと申してもその通り、その外皆同様で、ほこりの心や、ほこりの行いは、幾千筋あるともわかりません。

 さればその幾千筋とも限られぬ、ほこりの心、行いを一々申し述べるはなか/\出来得る事ではありませんが、ほこりでなき事を、ほこりと思い違えたり、ほこりのことをほこりでないと考え違えてはなりませんから、そのかどめを申し上げます。

・・・・・・・

と書かれている。

大切なのは、下線を引いた部分。

① この八つのほこりの心というは、日々に、知らず/\の間に使うものでございまして、知らず/\の間に積り重なり易きもの

② ほこりの心や、ほこりの行いは、幾千筋あるともわかりません。

③ ほこりでなき事を、ほこりと思い違えたり、ほこりのことをほこりでないと考え違えてはなりませんから、そのかどめを申し上げます。

と思われる。

①からは、自然に、知らぬうちに使っているから、常に注意と払う事が必要と言える。

そして、②から、ほころは、心遣いだけではなく、ほこりの行いもあること。そしてそれは言い尽くせないほどのものであると言える。

さらに、③の「ほこりでない事を、ほこりを思い違える」という言葉から、例えば「ほしい」という言葉で表される事柄すべてが悪いのではない。「ほしい」という言葉で言われることにも善悪があり、それを分けるための、門目(かどめ)指標となるものを「八つのほこり」として示すと言われている。

 

 また、この「八つのほこり」の言われている順序は、『信者の栞』では、「をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」となっているが、『正文遺韻抄』では、「ほしい、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」となっている。

どうして、このような順序が気になるかというと、

昔のおたすけについて、書かれている本を読むと、「十柱の神様のお嫌いなほこり」という表現で、十全の御守護と八つのほこりを対応させて、身上から反省する心遣いを探るものが結構ある。(道友社からの出版物には見受けられない。)

その対応については、その書かれている本によって多少の違いがあるように思われるので、絶対にこうだという事は言えないと思う。

けれども、そうした考え方をして、心を反省して、御守護を戴いて来た事実は知っておく事は重要と思う。

私自身も、そうした十柱の神様の働きと、ほこりのつながりを思案して、なるほどと反省をして御守護を戴いたと思っている。

ふしぎな御守護を戴く参考になればと思う。

 

親神様・教祖、どうぞ大難は小難にとお守りください。

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大教会大祭にて。。。情報の判断。。。YouTubeは人間観察の絶好の場所。。

2021年01月24日 22時00分52秒 | 思った事

昨日23日は、大教会の春季大祭でした。長い間、直属教会長夫妻と役員のみでおつとめを勤めて来たが、この春季大祭よりおつとめ奉仕者で勤める事に決定し、つとめられた。しかし、こうしたコロナ禍の事で、出欠はそれぞれの思いに任すことで勤めた。

そういう事で、久々にお会いする方があった。その中に、私のFacebookを見ていて下さる方があり、「次々と通知が来て。面白いです。特にキリスト教の話が。。。」と声を掛けて下さいました。「色々と勉強になるでしょう。」と返事をさせてもらいました。

私自身も、このアメリカ大統領選挙の事から、YouTubeなどを通して、初めて知る事ばかりである。そしてまた、全てが正しい事ではない事も、大きな組織で情報操作をしている事も知った。

これまでは、日本の事また、自分の生活範囲での情報だけで生活をしてきた事、そしてそれがどれだけ情報操作されていたのかという事も知った。

「では、どうしたらよいのか。」と様々な人が思っていると思う。「自分では判断できない。」という人もあるだろう。

私自身もそう思うひとりである。正誤、善悪など分からなくとも、異なる意見や事象を知っている事が、後々の判断をする上に役に立つだろうと思うのである。

その上で、気になった情報はどんどんFacebookにシェアしている。

 

もう一つ思うのは、表面的な事も大切なのだが、それを行っている人々の心情も考える事が大切だと思うようになった。

Facebookにシェアしている情報の中には、占いの情報もあったと思うが、YouTubeの中には、占いやスピリチュアルと言ったものもある。

また、コメントからも様々な考え方を知る事が出来る。

 

先日行われた、大統領の就任式において、それまで発言していた事と違う結果が出た投稿者に、詰め寄る様子も見聞きした。

それを見た時に、この人たちは、自分で判断したのではなく、投稿者を信じていただけだったのだと思った。

これは、えせ教祖を妄信する信者と同じようにも思えた。

自らが判断して信じて行っているならば、そんな言葉は出ないはずである。

反対に、自分自身で考えている人は、その投稿者を責めるわけではなく、自分なりの意見を述べていることも知った。

また、投稿者によっては、コメントから学ぶ事があるようで、発言がどんどん変化して行く人もある。

自分自身もこうして書く事や、様々な投稿を読むことによって、変化していると思う。

そうした中に、私には、親神様、教祖の教えがある。だから、その場の状況で左右される人々とはちょっと違うと思う。

そして、先に書いているように、「八つのほこり」「うそと追従」こうした心をしっかりと見定める事、そして自分自身が誠真実の心で、毅然とした判断が出来るように成る事が大切だと思うのである。

こうした様々なことすべてが、親神様の手のひらで行われており、それぞれがどれだけ悟れるか。と思える。

今日、「八つのほこり」の詳しい説き分けを、『正文遺韻抄』から書換えてアップした。

 

親神様・教祖、どうぞ大難は小難にとお守りください。

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八つのほこり。。こうまんに追加。「うそと追従これ嫌い」。。隠れた人間の本性に気が付くために。。

2021年01月24日 11時42分44秒 | 八つのほこり

 『ウソに追従これ嫌い、欲に、高慢大嫌い』と聞かせられまして、ウソ追従を言わない者はありません。また、欲と高慢のない人はございません。皆だれでも多いか少ないか心にありますから、行いに表れますので、ウソは言わんように、お追従はしないように、欲をかかないように、高慢を出さないように、日々注意することが肝心でございます。
 人間の凡人の心では、人に悪く言われると気持ちが悪い。よく言われると気持ちがよい。また少しでも人の上に立つとか、人に立てられるとかすれば嬉しいものであります。また、人の下について通らなければならないとか、人にけなされるというと、いまいましく思うものでありまして、これはどうでも離れる事の出来ない、人情でございますので、自分もそうなら、人もそうなのです。ですから、人の事をけなせば、人も我がの事をけなし、人の頭を押さえたならば、人は反抗して我がの頭も押さえようとします。そこで互いに踏み付け合いをする事になります。そうなれば、内々もむつまじく通れないようになるのです。
 だから、神様が互い立て合いと仰せられるのです。慢心(おごり高ぶる心)を出しては、互いに立て合う事が出来るでしょうか。人が失敗や、つまらないことを言ったり、したりしたならば、けなさずに教えるよう親切をかけ、悪いことを悪いとは言わず、違うことを違うとは言わず、「こうしたらどうでしょう」と言うように優しくして人を立てて、人の足らないところを補ってやるようにするのが、誠であります。
 そこで神様が、「あの人は足らぬ人や、あほうな人やと言うならば、足りるよう、賢いようにしてやってくれ」と仰せられます。
 人間は神様からの借り物ということを、聞き分けられたなら、足りぬ人やあほうな人を、笑ったりそしったりは出来ないでしょう。なぜならば、その足りぬとか、あほうだとか分かるのは、自分が神様のご守護を厚く頂いていればこそ分かるので、自分の力ではないのです。自分の力のように思うから、人が足らない事やあほうな事がおかしく見えるのであります。
 そこで、「足らないものなら、足してやれ」と仰せられるのです。力を添えてあげなければならないのです。「あほうな者は賢くしてやれ」と仰せられるのです。同じように心を添えてやるより、他に道はございません。人間の力であほうを賢い者に出来ましょうか。決して出来る事ではないでしょう。
 この理を聞き分けたなら、人を踏み付ける事も、ないがしろにする事も出来ないでしょう。この高慢の心は、積もり積もって、親をも踏み付けにする。主人をも踏み付けにする。そしてついには、理をも踏み付けにして、神様をないもの同様にするようになるのです。
 そこで、ほこりという八つの中の、一番最後のトメに置いてお戒め下されたのでありまして、高慢は一番出やすくて、一番ほこりが大きいのでありますから、よくよく日々に注意しなければなりません。

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八つのほこり。。8。「こうまん」

2021年01月24日 11時41分08秒 | 八つのほこり

 高慢というほこりは、
 知らぬことも知った顔で通りたい、人よりも偉い顔して通りたい、自分の言い条は理が非でも通したい。人の言い条はなるべく打ち消したい。逆らいたい。人のする事には非を打ちたい。と言うような心、
 すべて一般からあの人は偉そうにする人やとか、あの人は我が強い人やとか、言われるような高ぶる心や、強情な心が高慢のほこりでございます。
 この高慢の心がありますために、知らぬことを知っているように言いくるめ、粗相した事も、あやまるのが辛いために隠したり、人がバカにしたとか、頼りないと言ったと言って、腹立てたり、悔しいと思ったりして、さまざまの心を作ります事は、女の方には日々にある事でございます。そうした心の苦しみは発散できなければ身上の苦しみになるのでございます。
 また、この高慢心がありますから、器量がよいものは器量自慢という心が、知らず知らず胸に出来て、人を目下に見下すようになります。女性、子供の学生などを見ましても、同じ同等の生徒であるのに、器量のよいものは何事にも先に立ち、器量の悪いものはまるでお供のように見える。その言葉の使い方でも、器量がよいものが言う言葉は、女中、身分の低い者に使うような言葉であり、誠に見苦しい事であります。これ、知らず知らずに器量がよいと言って、ほこりを立てたりするのであります。そうして、知らず知らずに心を奪われるのでありますから、よくよく注意をしなければほこりになります。
 その他、何事も同様で、学生中でも少し出来がよいと、知らず知らず人に立てられるのにのってしまうのであります。
 また、腕力が強ければ、腕力を持って人に自慢をする。財産のある者は、よいように見せて、よい物を持って、偉そうにします。それが、知らず知らず人を見下すようになって、知らず知らずにほこりを積むことも沢山ございましょう。また、自分の言い出したことは、間違った事でも何でも言い通したい。人の言うことを「なるほど」と言って自分の言い分を曲げる事が、大嫌いな性質の者もございます。
 また、人が言い出した事は、良くても悪くても、一寸は逆らってみたいという性格の者もいます。また、人の穴を探して、非を打つことの好きな性格の者もございます。
 また、目下の者と見ると、何を言うにもひどい言葉を使って、情をかけずに「自分のお陰だ」と恩に着せて、踏み付けるような性質もございます。こういう人に限って、上の人に向かうと必ず追従(ついしょう)もします。この性分というものは、なかなか直りにくいものでありますが、お話を聞いて、一つ一つ直すように心掛けなければ、結構に通る事は出来ません。

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八つのほこり。。7。「よく」

2021年01月24日 11時40分23秒 | 八つのほこり

 欲というほこりは、
 人並よりは余計に我が身に付けたい、理にかなわなくても、人が許さなくても、取れるだけ取りたい、ひとつかみに無理なもうけ、不義な利益を得たい。あるが上にもなんぼでも(どれだけでも)我が物としておきたいというような心。
 すべて、一般に欲の深い人やといわれるような心と、豪気強欲というような欲がほこりでございます。
 この欲の心がありますと、人並みに物をもらっても、まだ不足に思い、どれだけあっても結構だと思えません。そこで、不足には不足の理が回ると聞かせられて、常に思うようになりません。思うようになりませんから、なお欲の心を強めるのであります。そして、欲の深い奴だと言われるようになるのでます。
 そういう汚い心でありますから、人に分けてあげる物も自分は余計に取る。一割の利益が当たり前の商売でも、二割、三割の利益を得る。道に落ちた物は拾って自分の物にするばかりか、升目をかすめたり(量をごまかしたり)、田地(田畑)の境目を勝手に変えたり、勝負をしたり、相場をしたり、人が国のためとか、世のためとか言って、苦しんでいる中でも、自分はその機に投じて、莫大な利益をせしめようとしたり、貧民を苦しめて、絞り取って自分の懐を肥やしたり、そればかりか、色にふけり、酒におぼれて、色欲、食欲の強欲をとげるようになる。これが、豪気強欲でございます。

 
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八つのほこり。。6。「はらだち」

2021年01月24日 11時39分28秒 | 八つのほこり

 腹立ちというほこりは、
 人が自分の気に入らぬ事を言ったと言って腹立ち、間違った事をしたと言って腹立ち、粗相をしたと言って腹立ち、自分の気が面白くないために、ささいな事にもむやみに腹立ち、
 すべて、広く大きい心を持たずに、堪忍(かんにん)辛抱をせずに気短な心から腹を立てるのがほこりでございます。
 例えて申しますならば、親が着物を用意してくれましても、自分は気に入らないと言って、むやみに腹を立て、むきになって、じだんだ踏んで怒るような子供もございましょう。
 また、従業員や、家内や子供が、自分の気に入るようにしないと言って腹を立て、怒り散らして、「どうしてよいやら」と従業員や家内、子供がうろうろしなければならんような主人もございましょう。
 また、目下の者が粗相でもすると、非常に立腹して、いたたまれないように怒り散らす人もありましょう。粗相は時の表裏(失敗と思っていたことが良いことになることもある)で、神様のなさる事と思えば、腹は立ちません。もし、自分が粗相をしたならどうでしょうか。黙って放っておくに違いないでしょう。
 また、自分がなんとなく気が面白くないという時には、むやみに怒り散らしたり、ものに当たったり、道具を壊したりするような事もあります。あるいは、子供が言うことを聞かないと言って頭をたたいたり、小便をした、いたずらをしたと言って、ひどいめに合わせたり、子供は親の心通りのご守護という事を知らずに、むやみに腹を立ててしかる親もあります。
 これはすべて腹立ちのほこりであります。

 
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八つのほこり。。5。「うらみ」

2021年01月24日 11時38分25秒 | 八つのほこり

 恨みというほこりは、
 おのれの思惑を邪魔されたと言って恨み、人を不親切だと言って恨み、人の親切もかえってあだにとって恨み、人の粗相も意地でしたようにとって恨み、
 すべておのれの悪い事を顧みず、人を恨むはもちろん、いんねんの理からなるという理を悟らずに、ただ人を悪く思って恨むのがほこりとなります。
 例えば、自分が出世出来そうになったところを、他の人が登用されたために出世出来ないようになると、あの奴が邪魔しやがったと思って恨む。そうではありません。自分よりもその人のほうが事が出来るからです。
 また、たとえ自分の方が事も出来、登用されるべき順序にあったとしても、いんねんという理を心に治めたならば、たんのうして、ますます慎み、行いを改めなければならないはずであります。ところが、あいつがいたために、あいつが邪魔したためにと誤解して、その者を恨む、これは大きな間違いでございます。
 また、自分が心をかけた女を、人が取ったとか、または、女が他の男に心を寄せたとか言って、その女も男も共に恨み、自分が心得違いをしておったのだと、改心するところへ気が付かず、人を恨んで、その結果がケンカ、口論となり、はなはだしいことには、殴りつけたり、刃物で刺したりして、ついには殺害するに至る。恨みの刃を振りかざす例は、古今東西絶える事のないありさまで、誠になげかわしい至りでございます。
 また、小さい事で申したなら、「あの人がこう言ってくれればよいのに」、「言いようが悪いために、私は人に悪く思われる、不親切な人だ、憎らしい人だ」と心を沸かす。
 また、人が自分の過ちを親切に忠告してくれても、悪く取って、「あいつがいまいましい事を言いやがる。今度奴の穴を探して仕返ししてやらなければならん。」などと思って、心中大いに恨んでいる。あるいは、人が粗相で自分の器具などを傷つけても、「あいつが粗相をするなんて、これは意地からしたに違いない、ひどい奴だ」と胸に持つ。
 こういうような取り違いをして、日々ささいな恨み心を起こす事が数々あるのでございます。これは、心ばかりのことで、目にも見えませんが、これがほこりと聞かせられますので、積もり積もって身上に迫るようになります。

 
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八つのほこり。。4.。「にくい」

2021年01月24日 11時36分58秒 | 八つのほこり

 憎いというほこりは、
 我の気に入らん、またはむしがすかんと言って、罪なき者を憎いと思い、粗相をしたり、過ちがあったからと言って憎いと思い、我に無礼だとか、失礼だとか言って憎いと思い、すべて、おのれの気ままな心、邪険の心から人を憎いと思うがほこりであります。
 例えば、姑が嫁を憎いと思うことは、まま親がまま子をいじめるようなものでございまして、これは邪険と申せましょう。この邪険の心、勝手、気ままの心が憎いというほこりを助けて、われの憎いと思う者へは荒くあたり、きつくあたり、無理を言い、与えるべきものも与えず、他の者は喜ばせながら、その者には泣かせるようなことをする。
 あるいは、良いことがあっても、それはおくびにも出さず、少しでも悪いことがあれば、針ほどの事でも棒ほどにして、その者の事を悪く言います。あるいは、大勢の中で恥をかかすような事も致します。他人の目から見ても、むごい人や、非道な人やと言われるようになる。
 こういう邪険なわがままの人に限って、一寸した事に憎いという心をわかす代わりに、また一寸した事に可愛いという隔ても致すのでございます。一列兄弟、皆可愛いという心を持って、例え過ちがあろうとも、自分に失敬な事をされようとも、悪いところは改めさせるようにして、人を憎いと思う心は沸かさないようにしなければなりません。

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八つのほこり。。3.。「かわいい」

2021年01月24日 11時35分51秒 | 八つのほこり

 可愛いというほこりは、
 可愛いという愛情のないものは無い。しかし、その愛情に引かされたり、おぼれたりする愛着心と、今一つだれ彼の隔てをして、その者に限り別段に可愛いという偏愛心とがほこりでございます。
 例えば、我が子の愛情におぼれて、身の仕込みも十分せず、心のしつけも厳しくせず、気まま勝手に育てて、成人した後に後悔するような事もしばしばあることでございましょう。また、我が子のあやまちを人の子に塗り付けたり、人の子の手柄を我が子に横取りしたりするような、目のくらんだ親も無いとはいえません。また、我が子の愛情に引かされて、自分のつとめを怠ったり、身分不相応なものを求め与えて、罪を作ったり、はなはだしい事には、我が子可愛いために、人の物に手をかけたり、悪い了見をおこしたりする者もしばしばありましょう。
 また、この愛情は、子供の上ばかりではありません。女の愛におぼれて、大事なことも打ち捨てて、家をつぶし、身を反故にするものも、しばしばございましょう。
 大きく申せば国家のために忠義をつくす人でも、一夜の間にも、女の愛にほだされて、不忠不義の人となったためしも少なくはないでしょう。これらは、ただ我が身を反故にするのみではありません。家をつぶせば、家内の者を困難の淵に沈めるのであります。国家のためにあやまれば、国の人びとに災いを及ぼすのであります。どれだけ大きい罪とも知れません。
 また、この可愛いという凡人の心のために、前申しましたような行いは致さなくとも、可愛い可愛いの心から我が心を苦しめ、先あんじや、嘆き、口説きを重ねて、自ら我が心や身上を病む親も沢山ございます。こういう凡人の心が、お話しの理によって自らのいんねん、事情を聞き分けて、神様にもたれるという安心を定めて、発散しなければなりません。
 また偏愛というのは、例えば大勢の子供を預かっても、皆同じように心をかけずに、その中の一人二人を別段に愛すると言うような事や、または、我が子のある中へ人の子を預かって育てたり、まま子を育てる事があった時に、我が子のみを可愛がり、我が子にはよいものを与えて楽をさせ、預かり子やまま子には悪いものを与えて、辛い事をさせるというような、へだてて可愛がるのがほこりでございます。
 そういうふうに致しますと、皆心がひがみ、心がいがんで、絶えず争い事が生じて、互いにむつまじく通ることは出来ません。そこで多くの人間を悪く仕込むことになってしまいます。それはどれだけの罪とも知れないでしょう。第一に、こういう隔ての心は、天の理にかないませんので、偏った愛情は心にもたず、一列同様の愛情をもって、愛着心を生じないよう通らせてもらわなければなりません。

 
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