あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

おふでさき註釈を入力したら。。。思い出した。教祖。

2021年08月17日 13時23分48秒 | 思った事

先日九州の友人の教会が浸水したと情報が入った。

各地で大変な土砂崩れなどの情報が発信されている。

お陰様で、うちの周辺は時折激しい雨になったが、災害にまでは至らなかった。

今朝の天気予報では、まだまだ、安心できない状況の様である。

何とかそれぞれが、大難は小難にとお守り頂きたいと願っている。

 

16日は朝からとても体調が良く、朝一からニュースをチェックしていると、オバマのパーティーに関する記事があり、記録にした。

そして車を朝一で、車検に持って行った。

帰って来てから、大教会の用事をしておかねばと、一つ済ませて、もう一つと思ってやりかけると、背中が痛みだした。

どうもしびれる。三男に揉んでもらいながら、「それは後回しにして、昨日の続きをした方が良いか」と思う。

そして、おふでさき註釈の続きを入力し始める。

何とか出来る。

ありがたいと思いながら、進めたところ、重要な事に気が付いた。

それは以下のお歌である。

おふでさき註釈 8号 1~55(未完) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

このよふなない事ばかりゆうのハな 
 これがしんぢつみなまことやで ( 8号039)

いまゝでもないせかいをばはじめたハ 
 しらぬ事をばをしゑはじめて ( 8号040)

このたびもまたない事やしらぬ事 
 ばかりゆううてまたをしへかけ ( 8号041)

註釈 40―41
 親神は、元々無い世界を創め出すためには、だれも知らぬ事をば教え始めたのであるが、今度もまた、今までに無い事や人の未だ知らぬ事ばかりを説いて、この教を創めかける。

どのよふなものでもしらぬ事ばかり 
 これをふしへる月日をもわく ( 8号042)

註釈 42
 だれも知らない事ばかり教えかけるのは、親神に深い考えがあるからの事である。

月日にハたん/\しらぬ事ばかり 
 なにもをしへてせかいたすける ( 8号043)

註釈 43
 親神は、次々に人間の知らぬ事ばかりを、何も彼も教えて、世界一列を救けるのである。

こらほどにをもう月日のしんばいを 
 せかいのものハなにもしらずに ( 8号044)

註釈 44
 世界一列を救けるために、これ程までに心を尽している親神の胸の中を、世界の者は何も知らずに、ただ人間心ばかりで銘々勝手な思案をしている。

心さい月日しんぢつうけとれば 
 どんなたすけもみなうけやうで ( 8号045)

とのよふなたすけとゆうもしんちつの 
 をやがいるから月日ゆうのや ( 8号046)

註釈 46
 どのようなたすけでも皆引き受けると親神が言うのも、真実の親即ち教祖がいるから言うのである。

この月日もとなるぢばや元なるの 
 いんねんあるでちうよぢざいを ( 8号047)

註釈 47
 親神が自由自在の守護をするというのは、元々世界一列を創め出した元のぢばであり、真実の親がいるという深いいんねんがあるからである。

このはなしなんでこのよにくどいなら 
 たすけ一ぢようけやうのもと ( 8号048)

註釈 48
 この話を何故このようにくどくどしくするかといえば、これがそもそもたすけ一条を請け合う根本だからである。

このもとハとこをたづねてみたるとも 
 しりたるものハさらにあるまい ( 8号049)

そのはづや月日たいない入りこんで 
 はなしするのハいまはじめやで ( 8号050)

註釈 49―50
 このよろづ委細の根本は、どこを尋ねてみても知っている者は一人も無いであろう。それもそのはずである。親神が人間の体内に入り込んで話をするのは、今度が初めてであるから。


 月日たいない入りこんでは、親神様が教祖様をやしろとして入り込み給うた事を仰せ下されてある。

このせかい一れつみゑる月日なら 
 とこの事でもしらぬ事なし ( 8号051)

月日よりみなそれ/\とみさだめて 
 善とあくとをみハけするぞや ( 8号052)

註釈 51―52
 月日は、世界どこからでも拝めるものであるから、世界中の事は如何な事でも知らぬという事はない。それと同じく、親神は人間の思う事為る事をよく見定めて、善と悪とを区別する。

月日よりなんでこのよにくどいなら 
 あしきみへるがきのどくなから ( 8号053)

註釈 53
 親神が何故くどくどしく言うかといえば、悪しき事が現れて来るのが気の毒でならないからである。

たん/\とをんかかさなりそのゆへハ 
 きゆばとみへるみちがあるから ( 8号054)

註釈 54
 人間は、親神の深い意図によって造られ、神恩によって生かされているのであるが、この神恩の偉大な事を知らず、従って、報恩感謝の道に進まずして、なおも気随気ままの道を歩み恩に恩を重ねたならば、最後には牛馬に等しい道に堕るの外はないから、それが気の毒である。


 それゆへハは、その上はの意、第5号4註参照。

とのよふなものでも月日しんぢつを 
 うけとりたならみなたすけるで ( 8号055)

註釈 55
 然しながら、どのように悪業を重ねてその結果身上事情の深い悩みに苦しんでいる者でも、真底から心を入れ替えて、誠真実の心を定めて親神に願うならば、親神がその心の真実を受け取り次第、必ず皆救けてやろう。

・・・・

とある。

これを読んで皆さんはどう思われるだろうか。

私は、

心さい月日しんぢつうけとれば 
 どんなたすけもみなうけやうで ( 8号045)

とのよふなたすけとゆうもしんちつの 
 をやがいるから月日ゆうのや ( 8号046)

註釈 46
 どのようなたすけでも皆引き受けると親神が言うのも、真実の親即ち教祖がいるから言うのである。

で、

教祖は実際に今も、おられて私たちを見守って下さっていると思えた時を思い出したのである。

 

この一連のお歌は、(それぞれの読み方によって違うと思うので、私の理解を示しておきます。)

教祖が人間創造の時の「いざなみのみこと」の魂で、その魂を「中山みき」として生まれださせ、その体に親神様が入り込まれて、これまでに話したことがない、人間が聞いたことがない話をする。

それは、世界を助けるためである。たすけ一条の心・誠真実の心に切り替えさせたい。

そして、その世界助けのためには善悪を見分けるとも言われて、その切り替えが出来なければ牛馬という道に落ちる事は眼に見えているから、何とか助け上げたい。

その助けには、教祖がいるから、教祖のいう事を信じなさい。実行しなさい。

そして、どんな悪事をした者でも、親神が心を受け取れば、心次第に助ける。

と私は理解している。

 

そして、その上に、一連のおつとめを教え、甘露台を建てて、甘露を授ける予定をしていたのである。

しかし、甘露台は没収されて、建たず、おつとめも弾圧により人々の心は定まらずに進まなかった。

そこで、教祖は25年の寿命を縮めて、現身を隠されての現在である。

 

今、教祖のお姿は見えず、教祖からの言葉を聞く事も出来ない。

 

さて、前置きが長くなったが、先ほどのお歌で、思い出した事というのは、

20年ほど前の団参の時の話である。

 

北礼拝場の結界の前で、甘露台の説明をさせて頂いた。

その時は、初めておぢばがえりされる方があり、その方が少し後で

「あの砂利のところに赤い着物を着た人が花束を持っていたけど、誰ですか?」と尋ねてこられた。

砂利のところとは甘露台のところである。

そこには誰もいない。ましてや「赤い着物」など来た人が入るわけはない。

「誰もいませんよ。赤い着物というならば、教祖が赤い着物を着ておられたので、その方を見たのではないでしょうか」というような話をした。

その方には霊感があるとの事だった。

よく危機的な状況で、赤い着物を着た人が招いてくれて、命からがら助かったという話しは聞いたことがあったが、間近でそのような事を聞くとは思ってもいなかった。

「姿はなくしても、生前同様に働く。世界を駆け巡る」とよく聞いたのだが、本当にそうだと思った。

 

しかし、そうした霊感のある方が、信仰されたという話しは耳にしない。

「姿が見えたのならば直接話を聞いて、世界が良く成れば良いのに」などと思ったりした。

 

けれども、こうして年数が経ち、今の自分を振り返ると、霊感などがない普通の人間が、不思議な体験をしながら教えを学び、悟っていくことが重要なのではないかと思うようになった。

この前紹介した「永尾芳枝祖母口述記」の中で、ご本席様が刻限のお話をする時に、自分では記憶がないという事が書かれていた。

また、そうしたご本席様でも、教祖のお言葉を素直に受け止めて、お屋敷へ入り込むことが出来なかった事などを考えると、大切なのは自分で考えて決断して歩む事のように思った。

今、様々な不思議な事が起こっている。

既にある有効な薬を使わせないようにして、ワクチン接種を進めようとする事もその一つである。

ともかく、教祖は今もご存命であり、私たちを陽気ぐらしが出来るようにと導いて下さっている。

その陽気ぐらしが出来るようになるためには、「あしきをはろうて たすけせきこむ いちれつすまして かんろだい」と歌われているように、心の悪しきを祓う事である。

また、「やまさかや いばらぐろも がけみちも つるぎのなかも とおりぬけたら まだみえる ひのなかもあり ふちなかも それをこしたら ほそいみちあり」とも教えられる。

そうした苦労の道中で、心を澄まして、いんねんを切り替えて行くのだろう。

12下り目で「一に大工の伺いになにかの事も任せおく」と言われて、任せられる大工を望んでおられる。そして最後は「大工の人も揃い来た。」である。

こうした道中を私たちは通っているのだと思う。

甘露台を建てて、甘露を授けて、陽気ぐらしへと導く道は、おさづけを授けて、人助けによって、それぞれの心を澄ます道に変わったように感じる。

しっかりと、教祖の代わりに親神様のお話を説き、教祖の代わりにおさづけを取り次がせて頂いて、助けの和が広がるように努めたいと思う。

 

親神様・教祖これでよいでしょうか。

何度もデータが消えて、書き直すことになった末の文章です。

参考になれば幸いです。

 

どうか、大難は小難にとお守り下さいませ。

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