あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

いんねんについて、から。。おふでさき・おさしづ

2023年08月30日 16時17分47秒 | 気になる言葉

前回、悪いんねん・白いんねんについて書いたが、ある人が「いんねんは教祖が説いていない。よく勉強するように。」と発言された。

そこで、「元にする資料が違うのですね。」とだけ答えておいた。

そこで、

「おふでさき」と「おさしづ」から「いんねん」に関しての部分を、資料として掲載しておく。

「おふでさき」は教祖が直筆で書かれた親神様直接のお言葉であり、「おさしづ」は教祖・親神様のお言葉を本席様が伝えられたものである。

ここに「いんねん」という言葉がある事から、「教祖がいんねんを説いていない」とは言えないはずである。

また、「ほこりの説き分け」に於いて、「ほこりの心遣いが掃いても拭いても取れなくなったものがいんねんとなる」とのくだりがあり、かしものかりものの説き分けは、それぞれの心に全ての物は貸し与えているという話しからすれば、因縁として物事の因果を慮るだけではなく、根である心から思案するものが「いんねん」の話であると私は理解している。

そうした時に「いんねんは心の道」という言葉が心に治まる。

また、良い事も悪い事も、その心すらも親神様が天の帳面につけて、今世に於いて帳尻を合わせて下さっているという「天の帳面」の話も得心するのである。

さらには、親神様の「神人和楽の陽気ぐらし実現」をするための道具衆においては、善悪のいんねんというよりも、親神様の道具衆としての「いんねん」によって様々な事柄が起きる事も思案に入れる必要があると思われる。

我われが、考える上に起こる事は、身上であったり事情であるが、その起こる元は、それぞれの「心のほこり」が元である場合もあれば、「親神様の道具衆を仕込む」場合もあると考えられる。

そう思えたきっかけは、飯降伊蔵先生が櫟本におられた当時、教祖が「ほこりの事は伊蔵さんへ廻れ」と言われたとの文章を目にした時である。

私たちは自分自身の身上や事情の助かりばかりを願い尋ねるが、親神様としては、個人の事はとても小さな事で、この世の理を教え込むことが、これから先の人間の成人の上に重要な事であり、にんそく社の人々や取次ぎ人そしてつとめ人衆を育成する事が重要だったように、おさしづを読みながら感じるのである。

いかに資料を提示しておきます。

思うがままに。。

 

【おふでさき】(勉強のために註釈も添えておく)

1)きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
  よろづいさいのもとのいんねん ( 1号006)

  註釈  1号6
この根本のいわれを聞きたいと思うならば、尋ねて来るがよい。この世の成り立ちを初め総ての理を詳しく教えよう。

 

2)このよふハあくしまじりであるからに
  いんねんつける事ハいかんで ( 1号062)

  註釈  1号62
この世の中は、ややもすると悪い事に染まり易いから、注意して悪いんねんを積まぬようにしなければならぬ。

 

3)せんしよのいんねんよせてしうごふする
  これハまつだいしかとをさまる ( 1号074)

  註釈  1号74
前生からの深いいんねんある者を、この屋敷に引き寄せて夫婦として守護する。この前生いんねんの魂は永久にぢばに治まるのである。


 前生のいんねんとは、秀司先生とまつゑ様のことを仰せられている。このお二人は前生のいんねんによって今生夫婦となられるべき方であり、又お二人ともぢばに深いいんねんのある方々である。

 

4)二二の二の五つにはなしかけ
  よろついんねんみなときゝかす ( 3号147)

  註釈  3号147
 註
 これは明治7年2月22日の夜の5つ刻(今の午後8時)の「おふでさき」で、当時辻忠作は昼間は家業に従事し、夜分教祖様の許に参って御用を勤めていたが、当日は歯が痛んで困るから、早くお参りをして救けてもらおうと内を出かけると、忘れたように歯痛が治った。それで、彼は有難く思い、早速お参りして教祖様にその由を申し上げると、教祖様は、辻忠作に『今これを書きました。よく見なされ』と、このお歌を示して親神様の話をじゅんじゅんとお説き下されたのである。

 

5)どのよふなところの人がでゝきても
  みないんねんのものであるから ( 4号054)

  註釈  4号54
 何処の国からも多くの人がぢばを慕うて帰って来る事になるが、しかし、それ等は何れも親神の子供で、真実親子のいんねんから帰参するものであるから、決して偶然と思うてはならぬ。

 

6)にんけんをはじめだしたるやしきなり
  そのいんねんであまくたりたで ( 4号055)

  註釈  4号55
 ぢばは人間宿し込みの親里である。その生まれ故郷のいんねんを以て、親神が天降ったのである。

註 これ即ち、本教にいうぢばのいんねんである。本教の発祥は、この、ぢばのいんねんと旬刻限の理及び、教祖魂のいんねんの3つが一致したところにある。

 

7)けふの日ハなにかめづらしはじめだし
  よろづいんねんみなついてくる ( 4号060)

  註釈  4号60
 この度は、何も彼も珍しいたすけ一条の道を始めかけて、この世の元初まりの真実を説いて聞かせる。そうしたならば、人間は皆親神の子供であるという事が分かって、この道について来る。

 

8)いんねんもをふくの人であるからに
  とこにへだてハあるとをもうな ( 4号061)

  註釈  4号61
 多種多様のいんねんにより、人種を異にし境遇を異にしているのではあるが、そのいんねんに応じて親神が守護を差別するものではない。又、人々国々によって分け隔てをするものでもない。公平無私は親神の心である。

 

9)月日より三十八ねんいぜんにて
  あまくだりたる元のいんねん ( 7号001)

  註釈  7号1
 今から38年以前、ぢばのいんねん、教祖魂のいんねん、及び旬刻限の到来によって、真実の親神が天降ったのである。


 当時から38年以前、即ち天保9年10月26日、親神様が教祖様を神のやしろとして、天降り給うた事を、仰せられているのである。

 

10)月日よりそのいんねんがあるゆへに
  なにかいさいをはなしたいから ( 7号002)

  註釈  7号2
 そういういんねんがあるから、その元のいんねんについて、万事詳細に親神から直接に話を聞かせたいので、天降ったのである。

 

11)この月日もとなるぢばや元なるの
  いんねんあるでちうよぢざいを ( 8号047)

  註釈  8号47
 親神が自由自在の守護をするというのは、元々世界一列を創め出した元のぢばであり、真実の親がいるという深いいんねんがあるからである。

 

12)月日よりひきうけするとゆうのもな
  もとのいんねんあるからの事 (11号029)

  註釈 11号29-30

 もとのいんねんとは、こかん様のいんねんを指す。本号69-72註参照。

《以下、11号69-72註釈:
 この世の初まり出しは大和であって、その中の山辺郡庄屋敷村である。その庄屋敷村の中山氏という屋敷に、人間創造の道具の理を体した者が見える。
 この道具とは、いざなぎのみこと、いざなみのみこと、くにさづちのみこと、月よみのみことである。
 親神はこれを見澄まし旬刻限と共に元なるぢばに天降り、教祖を月日のやしろとしてたすけ一条の真実を、何も彼も皆仕込む段取りに取り掛かって来た。


 教祖様は、このお道をお創め下さるに就いて、言うに言えぬ産みの苦しみをおなめ下され、夫善兵衛様また一家を捧げて教祖様のたすけ一条の教の創始に協力するという、並々ならぬ御心労をお通り下された。又、秀司先生は、貧困の中に家計を支え、又、世間の迫害嘲笑に対しては、百方手段を尽くして道の立つように努力せられ、こかん様は、母を慰め兄を励まし、よく一家の和楽を保って、お道のため一方ならぬ辛酸をなめて下された。
 これ実に、それぞれ人間創造の御守護の理の一つ一つを身に体しておられたからであって、ここに親神様の深い深い神慮の程を拝察することが出来る。第6号29-51註参照。》

 

13)いんねんもどふゆう事であるならば
  にんけんはぢめもとのどふぐや (11号030)

  註釈 11号29-30

 

【おさしづ】(「いんねん」で検索をすると50件余りが出てくる。その中で「悪いんねん・白いんねん」の言葉が出てくるものだけを掲載する)

No.  :(4巻3098頁5行)
明治31年9月30日午前2時 
『刻限御話』
さあ/\まあ/\やれ/\、ふん/\、やれ/\、話し掛け/\。さあ今夜はどういう事を話す。年限々々十年一寸余り、どうして行こうと、かいだるい/\刻限刻限、何ぼう刻限知らしても何のさしづ、とんとどんならん/\。十年この方、つとめせにゃならん。つとめで開かにゃ開けん/\。ならん/\で暮れて了うた。一日前二日前、いかなる事も一寸々々、理を聞き分けて居る中に順序も知らしてある。理も聞いて居る間と刻限と何でも彼でも分けて見せる。年限十年少し前どうでもならん、こうでもならん/\から暮れて了うた。世上あちらこちら、一寸々々にをい掛け、年限相応のもの、可哀そうなから、この学び道を付けた。その学びの道は知らん。これから先長い/\年限である。未だ/\一寸には運べん。一寸すっきりのもの、二分通り仕上げたら、覚束無い(おぼつかない)もの。十分のものに仕上げたら、どういうもの。どういう筆を取る、こういう筆を取る。筆に記してくれにゃならん。言葉で諭してもどうもならん。十分知らしたら、一つ/\治めてくれにゃならん。筆に記したとてどうもならん。皆勝手の理を拵える。何を思うても、この道神一条の道、どんな事も立てゝ見せる。これからどんな事も神は大目に見て居る。神というもの、そんな小さい心でない。世界中子供を寄せ合うて、これもいかんあれもいかん、ちょいと/\治め掛け、世界諭し掛け。あら/\の道、二三年前までは一寸も分からなんだ。あちら高い所/\声を掛け。容易でなかった。二分通り上ぼりたら、倒けて行く。二分通り辛抱ようせず、知らんとも言えようまい。今日の日見て居る。神一条の道で神一条の言葉で出来たもの。早うから仕込んである。どんな事もこんな事も分からん事情又替わる。代の替わるようなもの。代替わり、根がどうも難しいてならん。程良う付いて二分通り行て喰い止まりて三分、一分の処難しい。一寸弘め掛け、三分立ちたら七分は直ぐに治める。もう一分難しい。何ぼ諭した神のさしづ、皆んなあちらへ映るこちらへ映る。勝手の悪いさしづは埋もって、こんな事では一分の日難しいなる。迫って来る。この迫って来るはどういう順序の理。諭さりょうか。多くの中、楽しみ/\いう理が何から出来たものであろう。容易ならん道、欲を離れて出て来る。何と思うて居る。日々改めて居る。種という理を以て話し掛け。種は元である。口上手(くちじょうず)弁が達者(べんがたっしゃ)やと言うても何にもならん。日々取り扱い本部員本部員というは神が付けたものか。これ一つ改めてくれ。そういう理は人間心で付けた道、世界は人間の道。このやしき人間心で通る事出来ん。神の理それだけ難しい。何処へ行っても無理という理は無い。神が理を治め掛けたる。世上どういう理以て、何でも彼でも治めて掛かる。この順序聞き分けてくれにゃならん。何処で真似をしたとてならん。何処で店を張ったとてどうもならん。元が無いから。このやしき元なるぢばと言うたる。その元へ入り、神一条の理を持ってくれ。十本の背(せい)を揃え、十本の中からだん/\順序ある。双方の日を重ねにゃならん。日を重ね、恩を重ねてどうもならん。年限重ね、年限曇りなりに通れば、十本の杭(くい)を打ったも同じ事。長い短い分からねば、分からん処は何遍でも問い返やせ/\。一つも問い返やさず、長い短い問い返やせと/\言うに、もう宜しいと言うから、神が退(ひ)いて了(しも)うた。それから会議々々と言うたて、人間さしづを拵え、取次見苦しい。ごもくだらけ。一寸々々日々積もれば山となる。この、山となったらどうするか、この順序聞き分け出来ねば、人間心通るだけ通りてみればよい。

『暫くして』
さあ/\今夜々々は、十分説き聞かして、捨てゝみたり撫(な)でてみたり、をやが出てこの話、何と思うて聞いて居る。十分見えて一つの区域、何っからどういう事になるか、どういう事も諭して、知らず/\に居てはどうもならん。ほんに今のもの、年限も来たら日々の処治まり、代も替わり、二代三代治まるように成る。一代で詳しい事分かりゃせん。寄り合うた中、十人の中、言葉一度に出さりゃせん。大掃除や。この順序見難くい。この理に止どまる。ほんにそうであったか、ほんにそうと尋ねてくればよし。この順序の道定めてくれねば、尋ねるまで。これ一つ諭し置く。

『一二三の理を尋ねるに付伺』
さあ/\一寸話した/\。中にて、一、二、三、中に取り混ぜて話、一二三分からん。未だ分からんぐらいは大事無い。分けて一時順序運ぶ。心に日々曇り無く、道理からの理。その中に聞くに聞かれん、見るに見られん、高い低い理、長い短い理。よう聞き分け。神のさしづを聞いて、分からん事を聞き分け。どうもならん。何ぼ諭したとて、勝手ある。善いと悪いと、長い短い、ほんにこれでこそ神の話。さしづ通りよりならんものと定め。春以来順序一点の点を掛け。やっぱりどうもならん。どうやこうや知らず/\運び掛ける処、人間心残念。台というこれがだん/\に聞こえ/\て中にこうやと言う。そうやっしになって了うてはならん。一時一つの心、ならん処から、だん/\諭し掛けたる。さしづ通りすれば、大きの声で、どうやこうやと聞いて見苦しいから、そんなやしきであろうまい。めん/\心に一つ成程という日から連れて帰ってる。成程の理に、だん/\区別々々このやしきに無い程に。容易大抵の事でない。よう聞き分け。あの人めん/\頼り持ったなら、重々の理を楽しみ、理を積もり恐ろしや。たゞ一つ台である。前々本部員々々々と言うて居る。これもだん/\ある。本部員々々々何人ある。本部員というものは、神から言うたのか。人間が言うたのであろ。人衆始め掛けと寄せてある。これから一つ考えてみよ。表並び/\、高い低いも長い短いも分かるである/\。我が事した事は、皆人の事と思たらあきゃせん。我が事と思たら、我が事になる。人の事と思たら人の事になって了う。どれだけいんねんじゃ、いんねんと言うても、白いんねんもある、悪いんねんもある。よう聞き分け。何ぼ本部員第一の空に居た者である。下からならん/\。この理皆それ/\、散乱して心を計ってみよ。上に留まっても、足持って蹴って了(しも)たら、ころ/\と行って了(しも)うた。可哀そうなものや。それじゃから、本部員じゃという。あちらへ理を掛け、こちらへ理を掛け、掛けさがしの順序、道とは言わん程に。これをよう聞き分けてくれ/\。

 

 

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病の元は心から。。いんねんというが。。。。

2023年08月20日 06時23分37秒 | 思った事

人間は、幾万回と生まれ変わりを繰り返している。

その度ごとに、記憶は新しくなり、前生の記憶は覚えていない。

そして、その生れ落ちた境遇は、皆一応ではない。

様々な親の元に生まれる。

裕福な家に生まれる人もあれば、貧しい家に生まれる人もある。

ましてや、生まれながらにして親を亡くす人もある。

これらの境遇はすべて、生まれ変わり出変わりを重ねた時に積み重ねた「いんねん(心の積み重ね)」によってであると言われる。

 

このいんねんも「悪」もあれば「白」もある。

不思議なもので、「善と悪」「白と黒」とは言われずに、「悪いんねん」「白いんねん」と教えられている。

また、この「悪・白いんねん」混在している。

 

こうした心に、貸しものとして「身体」を与えられて、この世で生活をしているのである。

そして、その心を見定めて、親神様は様々な事をして導かれる。

 

人の身上を助ける上に、「ごくさん」を教祖はお渡し下さった。

これも、「はったいこ」から「金平糖」にそして現在の「お洗米」へと変えられている。

「お洗米」に変わったのは、不思議な御守護が現れる「ごくさん」に対して、医薬妨害としてあらぬ疑いがかかったからである。

「金平糖」の時には、金平糖のとげを心のとげに例えて、心のとげを溶かすようにと話された。

親神様の何とか助けてやりたいとの、心の籠った「ごくさん」である。

 

その間に「おさづけ」を渡されるようになった。

最初は教祖が見定めた方々に渡されていたが、最終的には9度の別席を運んだ人が頂けるようになった。

この「おさづけ」でも不思議が現れた。

おさづけは、我が身には使えない。

人のためにと思う心と、本人の助かりたいという心とが親神様に通じて不思議が現れる。

先日ある先生と話しをしていて、「おさづけをさせて頂く時に、自分の体が熱くなるような感じがする。そうした時には不思議を見せて頂けるのだが、そうでない時は不思議が見えない。」と聞かせてもらった。

おさづけを取り次ぐ方は、同じように「何とか助かって貰いたい」と思っても、身上の人に「疑いなどの心」があるからだろうと思った。

 

こうした疑いを持つ者たちでも、少しでも病が良くなればと、その時の対処として、薬や医学を教えられたとも聞かせてもらう。

 

信心していなくても、良い医者に、また良い薬に巡り合う人もあれば、懸命に良い医者をと探しても、巡り合わない人もある。

この差は何だろうか?と疑問に思う人がどれだけいるだろうか。と思う。

この疑問を思う人は、いんねんを理解しやすいかもしれない。

 

すべての元は、それぞれの心にあり、その心を受け取って親神様が様々な働きを見せて導かれる。

 

「かしもの・かりものが分からねば何も分からん。」

「かしもの・かりものが教えの台」と言われるが、正しくと思う。

 

思うがままに。。。

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日本語訳の動画がようやく。。。新型コロナ、ワクチンに関して。。

2023年08月19日 16時21分42秒 | 思った事

8月19日

朝ツイッターを見ていたら、新型コロナとそのワクチンに関して、日本語の字幕を付けて配信してある動画に次々と出くわした。

ワクチン接種が始まった頃から、推測などで言われていた事や、陰謀論として疎外されていた話が、立証されてきた状態である。

Facebookに共有していたものから数点ここへ記録としてリンクを張り付けておく。

 

ワクチン接種した事により、免疫力が低下するメカニズムが解明された。。

Xユーザーの小倉台福田医院_福田世一.MEC食Drさん: 「鹿先生 2023.6.27東京大学、北海道大学の先生たちが本物のモデルナワクチンを使って動物実験した衝撃の論文がでた。… https://t.co/0atnPAEmvB」 / X (twitter.com)

 

人のために打てと言われて、それをまともに聞いて実行してきた方へ。。

Xユーザーの渋沢 栄一郎🗣#NO SLIP NO LIFEさん: 「ま~た手が滑りまぁ~す( ´∀` ) https://t.co/rToJXteen1」 / X (twitter.com)

 

ワクチン接種して、被害者救済制度を利用したい方へ。。

(15273) 【悲報】打ってしまった人へ・・・ これが“被害者救済”のリアルです!そしてたった2年で“史上最大の規模”を超えようとしています!【日本語字幕入り】 - YouTube

 

ブレイクスルーを起こす状態では、ウィルスの増殖を阻害するイベルメクチンが有効だと思われる。

 

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霊が見えるという事から。。。(8月の本部神殿奉仕であったことから)

2023年08月11日 06時51分37秒 | 思った事

8日10日にFacebookへ投稿したものを転記しておく。

・・・・・・

今月の神殿奉仕にて、出直した後の魂の所在について、YouTubeで発信されていた霊能者の話から色々と話し合った。

その霊能者は、「この世に未練を残すと地縛霊となり、思いを残さないと成仏できてまた人間に転生できる」と言っていたそうである。

 

「魂と心」全く目に見えないことに対しての話である。

様々な霊能関係の発信を見て思うことは、自信を持って発信を出来る人々は、それなりの修行を重ねて、同じような人々と対話を重ねて、それなりの理論を作るあげているということである。

 

そうした理論を元に、同じような人々や、困っている人々を助けて、讃えられていると思われる。

 

先の話も、そうした理論の一つだと思う。

 

お道の上では、「魂」も「心」も「体」についてもまた、「人間を作った神」についても説かれている。

ただ、これらをどのように結びつけ理論付けるかは、これまでのお助け人の話を聞いていると、様々な霊能者のように、色々あるように思える。

 

また、お助けをしたり身上を、ご守護頂いた経験の差もそうした違いにも現れているように感じる。

そうした霊的に感じるとかある人と、感じない人。また、身上での体験悟りがある人と無い人とでも差が出てくる。

 

私自身の体験を元に、「教祖も、「霊」と言えば霊ですよね。霊感のある人が甘露台のところに赤い服を来た人がいたと話をしてくれたことがあります。」などと話をしていたところ、突然クーラーが停止した。青年さんが慌てて対応をしてくれて、再度動き出したのだが、今思うととても不思議に思える。

 

目に見えることだけで物事を考える人と、目に見えないことを感じて判断する人。

また、そうした二つの人々がいることを総合的に考えて判断する人とでは、意見の合意を見ることは難しいかと思われる。

 

目に見えないことを考えられる人は、目に見えることしか考えられない人に考えを会わせることは出来ても、反対は出来ないのである。

 

自分の事しか思えない人と、人の事を思える人とでも同じことであろう。

 

そうした様ざまな考えを持つ人々が同じようにこの世に存在すること。

これにも重要な意味があると思われる。

先の投稿の続きを。。。

(投稿した後に、左耳が痛んだので、誤解の無いように、真実込めて書かねばと思ったので、夕方の地下鉄の中で書いています。)

 

「霊が見える」のと「見えない」のとでは、見えた方が良いように、見えない人には思われ勝ちである。

 

先日の神殿奉仕の時の話しでも、そうした意見が多かった。

私も若い頃には、見えたら良いことがあるように思えて憧れた。

 

しかし、動画で発信されている人たちの生い立ちを聞くと、見えない方がどれだけ楽かと思うようになっている。

 

「自分の意思に関係なく様々な声が聞こえる」との統合失調症の方々の話を聞くと、そんなのでは心休まらない。叶わない。それと同じだと思ったのである。

 

ましてや、そうして見聞きすることが本当の事かどうかを確かめるのにも苦労することになるわけで、大変なのである。

 

親神様のお言葉を昼夜問わずに伝えられた、教祖の様子やご本席様の様子を、教祖伝やおさしづなどから思うと、自分の事を優先する心があっては勤まらないとも思えるのである。

 

人間に「心の自由を与えた」と言いながらも、「与えられていない」。そのようにまで思えるのである。

 

ところが、教祖やご本席様は、そうした事を苦にしていないように思われる。

教祖のひな型の中で、井戸や宮池へ身を投げようとした時が、その時であったのだろうと思われる。

 

ところが、周囲の人々は教祖や本席様から発せられる「親神様のお言葉」に右往左往するのである。

 

その代表的なものに、こかんさまのお出直しがあげられると思う。

 

親神様のお言葉に沿えずに、最終的には出直すことになったのである。

 

親神様のお言葉を出される方が、出直したのである。

 

重要なのは、見聞きしたことから、その人がどのように思い、心を定めて行うかと言うことだと思うのである。

 

おふでさきに、「くちでもいわん筆先の責め」とある。

言われると人間は様々な心が働き、悪くすると恨みが出たりするのである。

 

こうした点を考えたならば、「霊が見えずに、身上や事情から思案して自ら心定めて、試してとおることがどれだけありがたいことか」と思えるのである。

 

おもうがままに。。。 表示を縮小

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8月になって。。眼科を受診

2023年08月05日 03時21分55秒 | 思った事

8月4日

朝、車を車検に出しに行って、その足で眼医者へ行って来た。

 

眼については、教養掛の終盤に、右目に突然糸のようなものが見えるようになったのが、先日の詰所ひのきしんで再発したからである。

 

結果は、目の膜にしわが寄っており、それが見えるとの事で、重大事ではなく様子を見るとの事だった。

 

教養掛中には、右目という事から、いんねんについて話をした。

そして、修養科の終了講習を終えて、ぱったりと良くなっていたのである。

それがまた突然、詰所ひのきしんの最後の日に。。。

そして、帰って来てからもずっと見え続けていたので、思いきって受診をした。

 

色々と検査をした。

目の中を撮影する機械によって、右目には動脈硬化が起こっている事、左目には眼底出血があると分かった。

そして、動脈硬化が起きているから、内科で高血圧の治療を受けるようにと言われた。

 

動脈硬化は仕方がない。

父親も動脈硬化を起こして、動脈が真っ白だった。

だからこれも、いんねんの中である。

そして来年が、父親が出直した年齢となる。

 

まぁ。親神様のお働きの中。。

成るよう行くよう努めたいと思う。

 

ようぼく一斉活動日のプログラムや役割がほぼ決まって来た。

明日は支部例会で決めるための資料を作ろうと思う。

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