あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

やば~~。連発

2015年07月27日 09時04分24秒 | 思った事
昨日は、本部月次祭参拝を夫婦でさせて頂きました。

さすが、7月の月次祭です参拝場は空いてました。
12下りを終えて、教祖へ行かせて頂くと、灰野君に遭遇(^^)!

ブラジルへ行かせて頂いた土産を持って、とあるお宅へ。
多分留守かと思いましたが、今月はたまたまおられたとの事で、色々とお話を聞かせて頂く事が出来ました。
ひととおりお話を聞かせて頂いたところへ、ご主人がお帰りになり、これまた色々とお話を聞かせて頂きました。
残念ながら、帰りの時間があるため、話途中で御無礼をいたしましたが、これまた不思議な教祖のお導きを感じさせて頂いた次第です。

さすがに、時差ボケで朝2時から起きてまして、帰りの車の中では爆睡してしまいました。

さて、本題です。

今日は、運転免許の切り替えです。更新手続き案内の葉書を紛失して「やば~~~。」
無しで行こうと思ったところ、天理時報の振込を思い出して、7月20日振込締め切り「やば~~。」
さっそく道友社へ継続の連絡をした。
さて免許更新へ・・・・。

熱いけど・・・。ボケボケだけど・・・・。

何とか、思い出して勤められますように~~~。
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ブラジル巡教 覚書

2015年07月24日 04時40分05秒 | 思った事
全くブラジル語の出来ない私が、巡教でブラジルの教会へ出かけた。

今回は、教祖130年祭に向かう大教会巡教。

それも、最後の教会。

今回の巡教は、海外係の先生が、チケットなどの手配をして付き添い、私は、講話の担当。

大教会長さんは、講話を日本語でして、後でその翻訳を各自で読んでもらうというパターンでこれまで来たそうである。

翻訳してもらうために、2か月前に講話を作成。
翻訳してもらう上に、私が常に参考にしている本が、すでに翻訳されているか海外伝道部に問い合わせる。

その時、伝道部の先生から、講話の仕方について、通訳をしてもらいながらの講話が一番良いと聞く。

私の講話は、その時の雰囲気で話す事が変わる。(その人たちが聞きたそうと思える話に)

2か月前に原稿は作成しても、その教会の雰囲気は全く分からないので、この原稿が皆さんの心に伝わるか全く分からない。

ましてや、日本語の全く分からない人が多い現在を思うと、同時通訳をしてもらいたいと思った。

そして、それを行うために色々と相談をした。

ありがたい事に、その教会には、親里高校を卒業した人が2人いる。

最終的には同時通訳をする機械がないので、文章を区切って通訳をする体制にした。

ブラジルに到着して、翌日(1日目)、
伝道庁を参拝させて頂く。(教会から片道約300キロ。約3時間、会長さん一人で運転をして下さる。)
とても広く、大きく、道路を隔てて幾つもの建物があることに驚く。

参拝だけ出来れば良いと思っていたところ、伝道庁長さんが会って下さり、現在のブラジルの教会事情についてお話を伺う。
同じ支部内の教会から、先日お嫁に行った方に届け物をして教会に戻る。

その夜、布教所に参拝させて頂き、夕食を頂く。
とても美味しい。しかし、レストランで食べた食事が胃にもたれて、食べきれない。

ブラジル語が分からないので、会長さんに通訳をしてもらいながら、何とかかんとか・・・
しかし、家族を紹介してもらい、とても楽しいひと時を過ごす。

翌日(2日目)、もう一つの布教所を参拝。ここは奥さんの親が前の所長をされており、出直された後を奥さんが神様を引き受けられた、だから奥さんだけが信仰をされているとの事。
そのために、仕事が優先されて、教会の月次祭にはなかなか来れないとの事。
代が重なり、日本でもよくあること。

その帰りに初代会長、2代会長の墓地を参拝。
墓地の後継問題を感じた。

日本へのお土産を買う店へ立ち寄り、教会へ。

夜は、大教会主催の食事会。会長家族と2布教所夫妻とを招いてシラスコのレストランで行う。
昼はオレンジジュース一杯にしたが、肉が塩辛くて食べれなかった。とても残念だった。

(3日目)月次祭の前日。月次祭の準備を手伝う。
朝、布教所の旦那さんが、お供えにと22キロもあるスイカとくだものを届けて下さる。会長さんもビックリ。
準備に来た娘さんに、大教会の活動方針のポスター(日本語とブラジル語をならべたもの)を書いてもらい、背中と首をマッサージしてもらう。

会長さんと講話について話をしたところ、教理的な話よりも神様の御守護の話の方を望んでいると聞き、作った原稿を元に、御守護の話を織り交ぜて講話を練り直す。

夜、布教所のご主人が経営するレストランへ招待を受ける。

(4日目)月次祭当日。
朝4時から神饌物の盛り付けが始まる。会長さん一人。奥さんは直らいの食事の準備。
朝づとめ朝食を終えて、上段の準備を始めた頃、息子さんたちが来られて共に準備を進める。
いつもは会長家族と布教所家族、そして数人の方で16人のおつとめ人が揃うかどうかという中、大教会からの巡教と言う事で、近所の教会の方や友人を誘って下さり、40人ほどの月次祭となる。
いつも月次祭に来れない布教所の奥さんも、仕事を終えてすぐに駆けつけ、講話には間に会って下さった。

講話は翻訳したページを告げながら進めた。
初めの巡教の趣旨など重要な事は、原稿を見ながら進める。
いんねんを自覚する上にと、原稿を略して教会の歴史を述べたところ、皆さんの反応は今一。

やはり御守護の話かと思い、教理的な話については、後は翻訳したものを読んでおいて下さいと言って、原稿には無い話に切り替える『逸話編』を思い出して御守護頂いた話をして、逸話編を紹介する。
皆さんの顔が私の方を向き、それまでと感じが違った。
その後は、かしものかりものを元に、御守護頂いた原稿に無い話を幾つかすすめて、なんとか終える。

会長さんの最後の言葉(ポルトガル語なので、何を言われたかさっぱり分からない。)
奥さんは私に、身ぶり手ぶりでのお話で、とても感動したと話して下さった。

お礼の参拝の後、おさづけの取り次ぎ合い。
私は二人の方におさづけを取り次ぐ。

全員で記念撮影をして終わる。

その後直らい。お年寄りの方、若い人それぞれのグループで楽しく語らいながらの食事。
私には何を話されているかさっぱり分からないが、しかし、とても和やかに楽しく食事をされている姿に、奥さんが前日から色々な料理を作っておられた真心が、ここに表れている感じがした。
そして、若い人たちが楽しそうに語らう姿に先の楽しみを感じた。

しかし、この日本語が分からない若者が、立派なようぼくに育ってもらうためには、縦と横、両方の丹精がしっかりと連携を取る事がとても大切と思った。

夜、月次祭には来ない友人が招待されての、会長家族・布教所家族の晩さん会。
全ての終了は午後9時過ぎ。

(5日目)最終日、会長さん夫妻に毎日取り次いで頂いたおさづけの御礼を申し、帰り支度を済ませて、昼前から奥さんの仕事場があるダウンタウンへ、公園でヤシの実のジュースを頂く。車からの景色を見て、ブラジルに来ていると思えた。
奥さんの仕事場を見せて頂く、他の教会の前奥さんがされていた仕事を譲り受けたとの事。教会を支えるために、狭い仕事場で妹さんと頑張っておられる様子がうちの奥さんと重なった。

午後4時過ぎに教会を出発。空港へ送ってもらう。
最後に思わぬアクシデントがあったが、無事に飛行機に乗りこむ。

22日午後6時過ぎ、関空到着。7時のリムジンバスで名古屋駅へ。
午後10時過ぎ、教会に戻り、日本の蒸し暑さがどれだけのものかを実感する。

23日大教会月次祭。何とか勤め終える。
24日、時差ぼけだろう。午前4時から起きてこれを書き始めた。
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今日から21日まで、ブラジルへ。。。

2015年07月14日 09時22分40秒 | 思った事
今日の夜ブラジルへ行かせて頂く。

ここ数日とても体調が良く、信者さんの入院のお世話など走り回らせて頂くことが出来た。
そして、この分だと遠いブラジルも大丈夫。と思わせて頂いて今日に至った。

今朝久々に頭や体が痛み、妻にマッサージをしてもらってから起きる。

初めてのブラジル。

海外へは一度だけ、アメリカに愛知としてミッションセンターを開設した時、青年の一号として、三か月行かせて頂いた。
毎日「プリーズ リード ディス パンフレット」と言いながら、パンフレットを一軒一軒配って歩いた。
ある時は、センター(リバーサイド)から伝道庁まで歩いた。
また、アメリカの信者さんが色々とお世話をして下さった。
そして、アダルトスクールで移民の方たちと英語を学んだ。
その時のアダルトスクールの先生が、その数年後、所長の誘いでおぢばへ帰って下さった事もあった。

今回は巡教としてのブラジルである。
巡教と言う事から、その教会のなりたちを調べた。
そして、
本当に苦労の中を、教祖一筋の心がなければ出来ない事だとつくづく思った。

日本からの援助があるわけでもなく、ともかく開拓をして、地盤をつくり、そして布教をして、段々と教会になる。
その道中もそれから後も、幾多の節があり、それを一つずつ乗り越えて今日までつながっている事に、不思議な親神様のお導きも感じる。

しかし、何よりも思うのは、初代の「一人万人に向かう」という心である。
先に「気になる言葉1」で書いた、諸井国三郎先生と同様に、この初代は幼い子供を亡くしている。それも移民船の中で・・・。
色々な節があっても、親神様・教祖一筋の心があっての事と思うのである。

私たちは、「あの人がやればやるけど、やらなければ・・・」という心が常に働く。しかしこの心を超えて、「一人でも」と定めた心で家族を引っ張り、周囲を導かれたその功績に、今の教会があるのではないかとも思った。

これは日本の初めの教会でも同じ事だったはずである。
けれども、その後に出来た教会の中には、「流行っているから」とか「やってみようか」という心で教会になったものもないわけではない。

また、教会が結構になり、2代3代と代を重ねて、初代の心ではなく、やらされている心でつとめる教会もないわけではないと思う。

「息一つが神」と言われる。
まさしく、かしものかりものあっての私たちであり、陽気ぐらしの日々が送れるのである。
親神様の御守護を無くしては、仕事も何も出来ないのである。
十柱の神様が身体に入り込んで御守護下さるから、身体は動くのである。
神様が退いたら、身体は動かないのである。

初代の心を持って・・・・。教祖に喜んで頂ける心を使うように心がけて、陽気な国へ、行って来ます。
(^^)
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気になる言葉1「一方流れても・・・」

2015年07月14日 08時51分28秒 | 気になる言葉
逸話篇187の【ぢば一つに】
 明治十九年六月、諸井国三郎は、四女秀が三才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、「何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい。」とお願いしたところ、教祖は、
「さあさあ小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで。」
と、お言葉を下された。


の中の、「ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。」という言葉が常に心にある。

私たちは、一度始めたらそれが、永遠に続くと思いがちであり、また永遠に続く事を求めるものだが、親神様から「根にたとえて、四方へ出たものが、一方流れても」と言われている。

このおさしづは、三歳の娘さんを亡くして願われたおさしづであることを思うと、この根は、子供と思案する事も可能だし、部内教会と思う事も可能だと思う。

子供にしても、初めからこの子供は「何歳で無くなるから」として可愛く育てない親はないはずである。反対に「命の年限を宣告されても何とか御守護をと願う親ばかりだと思う。

しかし、親神様のお心は、人間の寿命も分かり切り、人々の行く末も分かり切ってある。その上でのお仕込み、お導きと考えると、子供への愛情や仕込みも大切だが、それ以上にぢばへ心を寄せる事で、たとえ深いいんねんで、亡くさなければならない場合であっても、次の新しい御守護の姿をお見せ頂ける事を示されていると思うのである。

子供と親神様の間に立つ、立場、これがようぼくなのかもしれない。

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誠の中のほこりを積まぬように・・・

2015年07月13日 10時19分28秒 | 思った事
理は神。教えが神。理に狂いがあっては、私たちは生きていけない。

悪い事をすれば、悪い事を思えば、それは悪い種であり、必ず現れる。
反対に良い事すれば、良い事を思えば、これは良い種であり、必ず現れる。これが理。
ところが、悪い事を悪いと思えない。分からない。
良い事と悪い事の判断基準がわからないから、八つのほこりで悪い事悪い心遣いを教えて下さっている。

ところがこの基準を考え違いして、世間の物差しや自分の性分で善し悪しを決めていては、良いと思っていても神様には悪い種を蒔いている場合があり、それが後々生えて、こんなはずじゃなかったという事を思う事になる。

物差しの基準をしっかりと親神様の教えに合わせる事。それを学ぶ事。
とても大切だと思う。

『かしもの・かりものの理』にしてもしかり、かしものかりもの教えの台と説きながらも、説いている者が、心に治まっていなければ、その人自身にはそのように現れて来る。

たとえ、説く人にかしものかりものの理が治まっていなくても、聞いた人の心に治まれば、その聞いて治まった人はそれから変わってくる。

ところが、聞いて治まっても、「その時だけは覚えているなれど一日たち二日たち、三十日たてばころっと忘れてしまう。」というお言葉のように、誠を尽くしながらも、説いてくれた導いてくれた人の姿に不足をして、「誠の中のほこり」と言われるほこりを積んでしまう人もある。

『信者の栞』の誠真実の中に、
……互い立て合いたすけ合いが第一でございますによって、少しでも、人のよいよう、喜ぶよう、たすかるように、心を働かしていかねばなりません。そこで八つのほこりも、我が心につけんばかりでなく、人にもこのほこりをつけさねぬように、せにゃなりません。……
とある。
この「人にもほこりをつけさせぬように」という事がとても大切だと思う。
言いかえれば、「知らず知らずに、我が良しとして、人にほこりをつけている人もある」という事で、そうしたほこりは、よけて通るように、心がける事が大切でだとも思うのである。

それが、「誠の中のほこり」を積まぬ一つではないかとも思う。
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月次祭を終えさせて頂きました。

2015年07月13日 10時02分29秒 | 思った事
昨日、7月12日(日)とても素晴らしいお天気の元、元気に汗を流しながら、おつとめを勤めさせて頂く事が出来ました。

日曜日に来て下さる方3名を加えて、総勢18名(子供3名)でつとめる事が出来ました。
うちは参拝場にも物があふれており、車の中が荷物の倉庫となる。
朝片づけをする事から子供たち全員で取り組むのだが、次女が体調不良でお休み。この子の役割は大きく、他の子供の指揮官。
彼女がいないため、いつも以上にドタバタしながらも何とか準備が間に合う。

いつも参拝に来る夫婦が、ご主人の入院のために欠席。
またもう一人、体調不良で欠席。
子供たちも暑さのためか、何なのか原因が分からないが、今ひとつ・・・。

喜びの中、今ひとつの姿を見せて頂きながらも、みなで、勇んでおつとめをつとめる事が出来ました。

会長挨拶では、「名京会別席団参」での名京大教会会長様の開講挨拶から、
教祖110年祭をつとめるに対して、真柱様が「自ら思案してつとめるように」との言葉を受けて自分なりにつとめた、教祖120年祭に向かっての歩みを振り返って、話をさせて頂きました。

ありがとうございました。
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愛知大教会史について 《婦人の陰のつとめの素晴らしさ》

2015年07月10日 23時11分18秒 | 思った事
愛知大教会では、大教会史が3巻まで発行された。

この教会史を作成されたのは、大教会役員で、平針分教会の前会長 安井忠義先生である。

平成25年11月に86歳でお出直しになられた。

愛知大教会は、太平洋戦争で全焼して、それまでの資料はすべて焼失してしまった。

その資料を埋めるべく、先生は青年当時から各地の教会を廻って、昔の事を聞き、他教会に残っている史料を書き写して、自ら史料を作られて、この3巻の教会史が出来上がった。

その中で、教会史に書かれていない話で、安井先生から聞いた話がある。

それは、小牧大教会初代会長の初めの奥さん ふささんとの事である。


まず、
小牧大教会の初代は、市村末彦先生だが、この方をお道に手びいた切っ掛けとなったのが、初めの奥さんである。

この奥さんは、市村先生の親方 石崎金太郎の奥さんで、石崎ふさと言った。
柴田九兵衛先生の紹介で、自らの目の身上を橋本伊平先生におたすけを頂かれ、主人と共にお道に入信した。
そして当時職人として雇われていた市村末彦さんに、神様に願ってみないかと伊平先生を紹介し、市村先生は不思議なおたすけを頂かれて、入信しおたすけに歩かれるようになる。

そして、この石崎金太郎先生は熱田分教会の初代会長となるが、一年ほどで急に出直し、代わりに2代会長に愛知の初代会長、諸井松太郎(清麿)先生が就任するが、石崎ふささんはそのまま熱田分教会の信者さんを丹精していた。
そして同時期に市村末彦先生も小牧大教会の初代会長となった。

数年後、愛知事情によって諸井清麿先生は愛知の初代会長を辞職したために、熱田分教会の2代会長も辞職され、後任に大教会の住み込みの柴田役員先生が家族で熱田に入り込む事なった。

この事から、誰の案かは全く分からないが、「小牧の市村に石崎ふささんを」という話が持ち上がり、市村末彦先生と石崎ふささんは一緒になり、小牧の道を着ける事になる。
今ならば考えられない結婚である。奥さんは年上、それも親方の奥さんである。

さて、ここからが本題

いつの時かは分からないが、市村先生は奥さんと別れようと思った事があったそうである。
すると、不思議な御守護を頂いた足が痛み出して、また昔のいざりだった時の足に戻りかけたという話である。
あわてて市村先生は親神様にお詫びをしたところ、痛みは治まりいざりの足にならなかったというのである。
これは、市村先生の日記に記してあり、それを書き写したものがあるとの事だった。
(市村先生の日記は、台風の被害で紛失されたとの事。)

誰が言い出して決まった結婚か分からないが、別れようとした途端に足が戻りそうになったとは、この結婚が親神様の深い思し召しの上にあった事を証明する事柄だと思った。

もう少し

後に奥さんのふささんが出直されると、多くの借金取りが小牧に詰め寄ったとの事である。どれだけこの奥さんの働きで、周囲の人が治まり、市村先生が道の上に、愛知の上に、小牧の上に勤める事が出来たかと、「奥さんの影のつとめ」ありきの「市村先生の表のつとめ」と思うばかりである。

さらに、その後は、この借金を返済する上に、多くの人が話し合い、北海道開拓を志したがとん挫し、これで借金は返済する事は出来なかった。
その後、婦人たちが話し合い、力を寄せて借金は返済されたとの事である。

これまた、婦人の力の素晴らしさを象徴する出来事と思った。

婦人の皆様 ありがとうございます。m(_ _)m
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本部神殿奉仕にて

2015年07月09日 16時59分15秒 | 思った事
昨日8日。本部神殿奉仕を無事につとめさせて頂きました。

朝づとめ後は、北礼拝場で座らせて頂いていると、海外部の方たちらしい集団がおつとめをされていました。
何事かなあ。と見させて頂いておりました。

次の奉仕の時には、西礼拝場で座らせて頂いていると、一人海外部の方らしい人が先頭になって、リュックを背負った若い外国の人たちが参拝に来ました。
どこかの留学生を案内をされているのかなぁと思っていましたら、
南・東礼拝場にもいて、あちらこちらで、(グループの人数は2~7人ほどとばらつきはありましたが、)外国の若い人たちが説明を聞いているのです。

結局何の団体か分からなかったですが、教祖がお働き下さり、先人の長年の苦労が実って、海外にどんどんとお道のにおいが広がっている事実を見させて頂いた気がしました。

そのあとは、雨が降り出しました。もう土砂降りで・・・
すると蒸し暑くて蒸し暑くて、汗ダラダラ流しながらの着座となりました。

そうした中にも、次々と参拝者が訪れます。
ただ、参拝場は四方正面ですし、とても広いので、東や西に座っていますと、パラパラの参拝者のように思えます。
しかし、これが普通の神社のように一方からの参拝ならば、常に結構の方が常に訪れているように思いました。

後半のつとめでしたので、深夜12時から南礼拝場で着座をしました。
雨が降っていました。
昼間よりは蒸し暑さも楽になりました。

そうした中でも、若い男の方たちが何組か参拝に来られました。
日によってはカップルが多かったりするのですが・・・。

ともかく、深夜でも若い人たちが参拝に来られる姿を見て、「これからこの人たちが世の中を支えて行くのだなぁ」と、ちょっと嬉しく思いながら座らせて頂きました。

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路傍講演といえば・・・・。& おたすけを願って思った事。

2015年07月06日 20時57分41秒 | 思った事
路傍講演と言えば・・・。

先日フェイスブックで、「大阪にしんの会」なる団体が路傍講演の様子をアップしており、その中で、立教178年7月3日(金) に行った写真を見て、すごく生き生きして行っている感じを受けた。

そして、
教会長路傍講演というのも、9月のにおいがけデーの時に、支部を通して行われている。

こちらの方は、何とか教会長ににおいがけに出て欲しいと始まったそうだが、その参加者は年々減っているようだと支部で聞いた。


路傍講演というと、私には、次の事柄が思い浮かぶ。

明治23年、小牧大教会の初代が、橋本伊平先生にお話を聞き、お願いを掛けて頂いて、御守護の印を見せて頂いた。
そしていざりの身上を御守護頂くために、21日間いざりの恰好で風呂屋や病院などの街角に出て、伊平先生に書いて頂いた扇子の、十柱の御守護や八つのほこりの説き分けを忠実に読み上げてゆく人々に聞いて頂いた。
そしてその努力が神様のお心に留まったのか、21日目に足が通常の形になり、立って歩ける御守護を頂いた。

という話である。

また、親神様の話といえば、

私自身が今の医学では治す事の出来ない身上だという事が分かり、大教会にお願いに行った時の話である。(これは、話をする側ではなく、される側での感じた話)

お願いづとめをして頂いてから、その先生が話をして下さった。
その先生は学者のように、色々な歴史を元に話をして下さった。そしてその後おさづけをして下さる事も無くお願いが終わった。
その直後、おさづけをお願いしたいと申したところ、丁度当番に来ておられた別の先生がして下さる事になった。
その時には、ただ一言「かしものかりものだからね。」と言われた。
私はその言葉を聞いた途端に、涙が出て止まらず、泣きながらおさづけをして頂いた。

おたすけをして頂く時には、どんな話よりも「かしもの・かりもののお話」がどれだけ心に響くかという事を実感したのだった。
またそのおさづけをして下さった先生は、長い間上級の会長さん二代に渡り、会長さんの手足としてつとめられた先生だった。

「かしものかりもの教えの台」本当にそうだと思う。

親神様・教祖ありがとうございます。
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今の自分の役割は?

2015年07月06日 09時06分48秒 | 思った事
家庭の中においても、仕事の中においても、それぞれ役割がある。

では、世界助けの中での自分の役割は?と考える事がある。

お道の中には、「ひながたをたどれ」と教祖が歩まれた歩み方を手本とするように示されて、教祖の歴史がまとめられている。

その中には、
教祖だから出来た。私は教祖と違うから・・・。と思える事も多々ある。

教祖は中山みき様の中に親神様が入り込まれて、教祖である。

つまり、教祖のひながたは、親神様が直々に歩まれた歩みでもある。

そして、
その歩みの道中には、色々な方が登場する。

親神様本来の目標は、人間創造の時の10柱の神様を生れ出し、その者達を仕込んで、かぐらづとめをして、世界を陽気ぐらしにするというものだった。

けれども
生れ出され、おぢばへ引き寄せられた人々も、皆親神様の思うようにならず、その目的は達成されずに、石の甘露台没収という事柄をもって、模様替えとなる。

模様替えとなった今は、「あしきをはらい」ではなく「あしきをはろうて」であり、「いちれつすます」ではなく「いちれつすまして」の歩みで陽気ぐらしへ向かう事になったのである。

この模様替えも教祖のひながたのように最近思うようになった。

今、フェイスブックなどを見ていると、教祖130年祭に向かって、色々な方が色々な方法で、自分で定めて動いているように思う。

「これをすれば良い」と簡単に言えない。それぞれの成人において行う事が違って良い。それが年祭の活動として、教祖の思いにあっておるかおらぬかは、誰にも分からない。分かっているのは教祖お一人。
そんな気がする。

おたすけの場合でも、ほこりの仕事場をつとめる人もあれば、錦の仕事場をつとめる人もあるだろう。
また、あらきとうりょうの役をする人もあれば、「あらきとうりょうつれてゆけ」と言われるように、あらきとうりょうをつれて行く方もあるだろう。
おたすけはせずとも、仕事をしながら教祖の不思議な働き、庄屋敷のある事をしらせる、においがけの人もあるだろう。

そうした中、自分はどんな役をするのかという考え方を持って、歩ませて頂けば、「自分には出来ない。」という事は無いと思う。

また、「以前これをやったから今回も」とか「もう以前やってあるからやらなくても」という方もあるだろう。
しかし、順序の理という事を思うと、同じ事をずっと続けて行く事は、教祖のお目に叶わないのかもしれないと思う。

人間はいつまでも子供ではない。時が経てば、成長する。そして身体は老いて来る。
老いて若者と同じ動きは出来ない。出来ないから止めというのは、身体だけを思うからだと思う。
それまでの経験を持って、若者を連れて通る歩みもあると思う。

教祖130年祭まで、残り半年。
「仕切ってつとめよう」と言われている方も多いだろう。
そして、「それがゴールではない」と聞かされて、戸惑っている方も多いのではないかと思ったりする。

年祭は一つの塚と言われる。
それまでの歩み方を顧みて、これからの歩み方を見極める一つの塚のようなもの。
「以前の年祭までははどう思っていた」「そして何をした」そして「その後どうなった」と振り返る事が年祭の一つの意味合いでもあると思う。

歩み方のお手本は、教祖・先人が長い間歩まれたひながた。
そのひながたを、「陽気ぐらしに向けた役割」という見方をしても良いのではないか。

と思ったりする。

ともかく動く事。そして顧みる事。
これが大切だと思う。

さあ出かけます。
動ける事に感謝して。

今日も一日よろしくお願いします。
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