あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

「山田伊八郎文書・逸話」5

2022年05月08日 04時38分29秒 | 天理教教典

昨日に引き続き、「山田伊八郎文書」から逸話を掲載する。(320頁より324頁まで)

(コメント欄へ書換えを投稿して下さる方があれば幸いです。)

13)7つの橋

14)窮迫 その1

15)窮迫 その2

16)窮迫 その3

17)窮迫 その4

18)狼

19) 神の子や

※今回は、苦労の道中を通られた時の逸話であり、教祖のお側でお仕えになられた方であっても、このような道を通らねばならない事を考えると、苦労を避けてはならないと思った。

まあ、前回の話の中

「山田伊八郎文書・逸話」4(一の筆) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

11)結構の種 にて

※また、こうした苦労は、後々を楽にするために、続けて悪いんねんを出しているものという事も、とても大切な話だと思う。

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「山田伊八郎文書・逸話」3

2022年05月05日 11時57分58秒 | 天理教教典

昨日に引き続き、「山田伊八郎文書」から逸話を掲載する。(314頁より317頁まで)

(コメント欄へ書換えを投稿して下さる方があれば幸いです。)

7)敷島として最初の献木

8)定紋の御許

9)一分通り古木也

10)御赤衣

7)
※献木するにも神様の思いがあり、それを成就するために世間体の対策をとったことが良く分かります。

10)
※稿本天理教教祖伝逸話編に出てくるお話ですが、より一層当時の様子が良く分かります。
また、教祖の気遣いも、当時の人々の教祖に対する対応も良く分かります。

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2月の月次祭が無事に終わりました。。おぢばへ行ってきました。

2022年02月13日 22時17分03秒 | 天理教教典

2月12日 2月の月次祭が無事に終わりました。

土曜日という事で、祭典前に、部内の後継者の方が奥さんを乗せて参拝に来てくださいました。

その時に、会長になるために検定講習へいく予定を話してくださいました。

心定めて下さっていますので、あとは親神様・教祖のお導き次第です。

 

昨年の10月の大祭をはじめとして、来て下さっている信者さんの講話が2巡目をしました。

講話と言っても、何でも思う事を話してくださいとして、3名の方が順番に話しをして下さっています。

そして、今回話をして下さった事で、なるほどと思ったことを記しておきます。

それは、「お出直し」という事についてです。

 

今回、何を話そうかと書類を見ていたら、お屋敷の案内のパンフレットを見つけて、読んでみたところ、これまで考え違いをしていた事があったと話をして下さったのです。

それが、出直しという言葉でした。

「出直し」は「死ぬ」という言葉だけと思っていたところ、お屋敷案内の「教祖殿」の説明を読んで、体は着物のようなもので、生まれ変わるという事から「出直し」という事だと分かったという事でした。

修養科を若い時に出られた方でありましたが、なるほどと思いました。

つまり、天理教の話は、講話を聞くという事が主であり、自分から話すという事は、おたすけをする人以外はあまり無いのである。

自分から話すという事は、自ら調べて自分で考えなければならないのである。

これをせず、ただ聞くだけでは、自らの心にしっかりと入る事は無いと思えたのである。

 

自分を顧みても、話すようになって、話している事をより深く理解する事が多いのである。

本来、おさづけを取り次ぐ時には、かしものかりもの・八つのほこりなどのお話を取り次ぐことをしてから、行うと仮席で話をされるのである。

だから、別席を運ぶためには、まずその試験があった。

今はそれがない。

ともかく取り次ぐことのみを推奨している。

こうした事は、仏教が小乗仏教から、大乗仏教になった経緯と似ていると私は感じている。

ちょっとニュアンスは違うが、

つまり、ドンドンと簡略化して行き、安易に人を寄せることばかりに方向が変わっていくと思うのである。

 

これは、高校や大学が学生を確保するために、本来の目的とは違って安易に学生に合わせてカリキュラムを変更して、学力なり研究の制度が下がって行く事と重なるように思えるのである。

先ほどの別席を運ぶための試験は、沢山の人が長づけを求めて寄る中、選別をする目的があったはずである。

それ以前は、教祖が心を見定めて、その人に身上などの印を見せて、引き寄せておさづけを渡されたのである。

こうした事をしっかりと心においておかねばならないと思う。

 

今回、信者さんに講話を勧めたのは、このコロナでも、おつとめだけはと、心定めて来て下さる方だけとなった中に思い立った事である。

これからどうなっていくのか楽しみでもある。

 

今、コロナ禍で、コロナでの心の見定めもあるが、ワクチンによる心の見定めもあると私は思っている。

すべては心通りの守護である。

事情身上はすべて、心の入れ替え、建て替えのための親神様からの手紙である。

親神様はどんな御守護もされるのである。

すべては、陽気ぐらしを味わい、陽気づくめの世界を実現するためのステップに過ぎない。

 

インターネットやテレビ、新聞などの情報、また周囲の方々の言動や姿から、人間のさまざまな心を感じ取ることが出来る。

そのような心を親神様は見定めて、陽気ぐらしへと導いておられると思う。

 

親神様のお望みは、誠真実である。

 

今日は13日、大教会への月次祭のお礼、お下がり配りと共に、夫婦で3女をおぢばまで迎えに行った。

今回のコロナ、ワクチンに関して、裁判が始まり、それの冒頭陳述の動画が和訳されていた。

裁判の結果がどうなるかは分からないが、マスメディアや政治が隠している事がこれによって明らかになったと思っている。

【COVID裁判】大陪審、世論裁判所 - Reiner Fuellmich博士の冒頭陳述「ランブル」記録|きたろう|note

政治家のみならず、医者も薬も信用できない時代へとなっていく可能性もある。

 

今日も一日ありがとうございました。

 

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教区年頭会議を終えて、ほっと一息。

2022年01月17日 22時51分41秒 | 天理教教典

14日に支部例会を終えて、そのまま常任役員会を行ったのだが、コミセンの使用時間が来て、十分な協議は出来なかったが、臨時で行っていたので、必要な事は決議が出来た。

これをもって、来年度の予算を作る事が出来るので、後日新支部長と新会計さんと予算原案を作る事になる。

 

15日、朝から源泉徴収の事務をしようとするが、さすがに一年ぶりで、忘れている。

思い出すために、手引きと去年の書類を見直す。

これだけで時間がかかる。

基礎控除・配偶者控除・配偶者特別控除など、言葉の意味が今一つ理解できていないので、手引きや、PCで言葉の意味を調べて、確認ばかりで疲れる。

嫌気がさしてきたので、「山田伊八郎文書」の教祖最後のご苦労を終えてからの様子が書かれている、教祖へのお伺いを探す作業を始める。

捜しながらそれ以外のところを読んでいると、以前感じた事以上に、様々な事を感じて、親神様のお導きの深さに思いをいたし、現在、新型コロナ・それに対するワクチン、さらにはアメリカの大統領選挙をはじめとした騒動も、親神様が我々の心の成人を求めての事柄で、こうした事は、教祖・先人の先生方、さらにはその周囲の人々の心の動きにあると思えた。

そして、聖書などを研究する人々は、聖書に書かれた事柄を現在に照らして、予言的な事を言うが、我々天理教のものは、親神様直筆の「おふでさき」に書かれた事だけではなく、教祖・先人の先生方と周囲の方々の歩んだ事が、私たちの心を切り替える大切な教えだと思えた。

16日、朝から残った源泉徴収の事務を行い完成させて、夕方、支部内での源泉徴収の相談会へ出かけた。

昨年から個別に相談に乗って、書き方の指導を行ったため、今年はそれを踏まえて早く終われた。

17日、妻の手が痛むという事から、長女が病院に連れて行くと言って、休みを取っておぢばから来ており、二人を病院に送って、教区の地方委員会・年頭会議に出かける。

教区も予算削減から、様々な事が見直されており、これも結構な事だと思った。

すでにうちの支部は、移転や不活動から教会数が少なくなり、収入減少が10年ほど前から起きており、会計予算の立て方について、私が会計を持った5年前から行っており、コロナ前に、行事ごとの予算の組み方へ変更したところだった。

それにより、今回のコロナで行事が出来なくなった事から、支部費の減額を考える上にはとても分かりやすくて、良かったと思った。

私は今回で支部長は終了となるが、教区長先生は3期目を受けられたとの事だった。

教区の用事を昼に終えてから、先日101才で亡くなられた、教会の前奥さんのお通夜に行こうと思ったが、他の用事がある事を思い出して、時間的にどうしようかと迷っていた。

すると、妻の病院も昼過ぎには終わったため、通夜の前に弔問だけして、他の用事へと出かけることにした。時間的にはぎりぎりであったが、すべてあん梅よくさせて頂いた。

すべて終わって、教会に帰って、PCでネットを見ると、いつも見ているニュースサイトに記事が沢山上がっている。

昨日、今日と忙しくて見ていなかったことを思い出し、世界の動きの早い事を痛感した。

「山田伊八郎文書」は、まだ3分の1程度しか出来ていないので、また時間のある時に残りをして、ブログに上げたいと思う。

明日は部内の春の大祭である。

勇んで、つとめをさせて頂きたいと思う。

今日も一日ありがとうございました。

 

 

 

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また左耳が。。なので、教典。。天理教事典より。。そして最近思う事。(おふでさき追記)

2022年01月15日 08時24分50秒 | 天理教教典

昨日、無事に支部例会を終えることが出来た。

資料もぎりぎり間に合い、常任役員会議も行う事が出来て、次は予算の作成である。

今日は、病院に行ってから、年末調整を作成する予定である。

様々な雑用??法人としては雑用ではなく重要な事なのだが、人がいない教会としては、会長1人が何もかもする事は、それだけで大変である。

しかし、こうした様々な事をする事によって、深くではないが浅く広く、法律の事や行政の事を知る事が出来る。

 

さて、左耳がうずきだしている。

どうも、先日投稿した「天理教教典」に関して、天理教事典にある「教典」が頭から離れないので、その部分の画像を投稿する事にした。

教典の歴史は、政治・権力者と宗教・神との歴史をも物語っていると思える。

 

後日時間があれば、詳しく書きたいが時間が無いので、画像だけを資料として掲載しておく。

 

今、世界中で、政治家や医薬・医療さらには歴史認識に関して不信を抱く事柄が明るみに出てきており、心迷う方も多々あるだろう。

これらすべても、親神様が私たち人間、個々の成人を促すための現象である。

人間創造の目的は「人間に陽気ぐらしをさせたい。そしてそれを見て親神も共に楽しみたい」というのが、人間がこの地球上に生存する目的・理由である。

これについては、「おふでさき」で「悟りない」「悟る必要はない」と説かれている。

6号101
 いまゝでハなにかさとりもありたけど
 もふこれからハさとりないぞや

これが天理教がどこの宗派にも属さないと言われるゆえんでもある。

だから、本来は争いが起こるはずはないのである。

けれども、争いが起こるのは、人間の心が未熟であるためで、それをなくすためには、人間の心が成熟する必要がある。

例えれば、子どもが親になり、さらにはおじいさん、おばあさんになるようなものである。(成熟せずに、頑固爺さんと言われる人々もありますが、それについてはいずれまた。。)

そのためには、それぞれが経験によって悟る事が重要である。

だから、「おふでさき」で「悟りないのがざんねん」など、悟る事を求める言葉も出てくるのである。

4号47
たん/\とふでにしらしてあるけれど
さとりないのが神のざんねん

17号71
いまゝでのよふなる事ハゆハんでな
これからさきハさとりばかりや

など9首である。

今朝読んだ「おふでさき」が15号46 「今までと道がころりと変わるでな みな一列は心定めよ」からであった。(原文 いまゝでとみちがころりとかハるでな みな一れつわ心さためよ)

今日の状況と重なる気がした。

親神様の「本真実」の思いは、まだまだ世界中には広がっていない。

これまでに教えられた教えに囚われて、それから抜け出せないために苦しむ人々も多いわけである。

 

言われたから「はいそうですね」とは行かないのが人間の心である。

それが当然なのである。なぜか、それまで経験したことで自分なりに悟って来た事があるからである。

しかし、悟っても、心得違いもあるのである。

「親が危ないからダメ」といっても、子供は「前回は大丈夫だったから」と、その深い理由を考えずに、同じ間違いを繰り返し、泥沼にはまっていくようなものである。

深く思案をして、心を切り替える、そして得心をする事が重要なのある。

そのために、様々な事を、自ら思案するようにと、様々な事を見せられているのである。

 

先日、フェイスブックに霊能者が、霊的存在に対して、「そんなこと言ったって、理解できない。同じ事ばかりで。。」と、反発している動画を共有しました。

これを見て、正しくと思った。多くの人々は霊能者が成人しているものと考えるだろう。

自分にはない能力があるのだから、しかし、成人しているとは限らないのである。

教祖やご本席様の事を思うと、そうした人々は親神様の話を伝えるスピーカで、それをすると共に、言われる事を実行して、成人をして行くものだと思える。

そうしたことは、教祖のひながたで、宮池へ飛び込まれようとされた事柄について思案すると分かると思う。

神様の言葉に沿って通ろうとしても、そのようには行かず、心悩ますそうした状態の時もあり、それを抜けて、人様に話せるようになる。

これも成人のひとつの事例であり、私たちへの姿行動で示されている教えでもある。

 

時間が無くなりました。ここまで思いつくままに書きました。

以下に「教典」の資料を掲示しておきます。

参考になれば幸いです。

今日も一日、楽しんで生きたいと思います。

ありがとうございました。

・・・・・・・・

「天理教教典」目次

内容については、目次から飛べます。

「改訂 天理教事典」より「教典」

 

 

 

 

 

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天理教教典  裁定文と目次

2021年12月17日 11時35分00秒 | 天理教教典

天理教教典(立教165年;2002年2月26日79版発行本に基づく)

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 本書は おふでさき みかぐらうた及びおさしづに基づき 天理教教会本部に於て編述したもので 天理教教規の定めるところにより これを天理教教典として裁定する
 昭和二十四年十月二十六日
    真柱 中山正善

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目次
 前編
第一章 おやさま……三
第二章 たすけ一条の道……一五
第三章 元の理……二五
第四章 天理王命……三六
第五章 ひながた……四五

 後編
第六章 てびき……五七
第七章 かしもの・かりもの……六四
第八章 道すがら……七四
第九章 よふぼく……八四
第十章 陽気ぐらし……九二

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立教112年(1949年)10月26日
  初版発行
立教129年(1966年)10月26日
  31版改訂発行
立教132年(1969年)10月26日
  36新漢字版発行
立教147年(1984年)3月26日
  60改訂版印刷
立教165年(2002年)2月26日
  79版発行
編纂者
  奈良県天理市三島町271番地 天理教教会本部
発行所
  奈良県天理市三島町271番地 天理教道友社
印刷所
  奈良県天理市稲葉町80番地 天理時報社

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天理教教典 第10章 陽気ぐらし

2021年12月17日 11時32分31秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第十章 陽気ぐらし

 たすけの道にいそしむ日々は、晴れやかな喜びに包まれ、湧き上る楽しさに満たされる。それは、常に、温かい親神の懐に抱かれ、人をたすけて我が身たすかる安らぎの中に身を置くからである。これが、陽気ぐらしの境地である。
 親神は、陽気ぐらしを見て、共に楽しみたいとの思わくから、人間を創められた。されば、その思召を実現するのが、人生の意義であり、人類究極の目的である。

  いつまでしん/\したとても
  やうきづくめであるほどに          五下り目 5

 明るく勇んだ心、それは陽気な心である。この陽気な心で日々を送るところに、真の幸福があり、生き甲斐がある。いか程長く道をたどつても、心が勇まずに、いずんでいては、親神の心にかなわぬ。親神の守護のままに、日々、喜びと楽しみの中に生活すのが、人の世のこの上ない味である。閉された心の窓を開き、遍き親神の光を身に受ける時、自ら暗い迷いの雲は晴れて、明るい喜びの中に立つ。陽気ぐらしとは楽しみづくめの生活である。
 陽気ぐらしは、他の人々と共に喜び、共に楽しむところに現れる。皆皆心勇めば、どんな理も見え、どんな花もさく。

  皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。  (明治三〇・一二・一一)

 人は、ややもすれば、我が身勝手の心から、共に和して行くことを忘れがちである。ここには、心澄みきる陽気ぐらしはなく、心を曇らす暗い歩みがあるばかりである。

  勝手というものは、めん/\にとつてはよいものなれど、皆の中にとつては治まる理にならん。   (明治三三・一一・二〇)

 一つに心合せるのは、一つの道の理に心を合せることで、この理を忘れる時は、銘々勝手の心に流れてしまう。
 一手一つの心に、自由の守護が頂ける。いかに多くのものが相集つても、一手一つの理を欠くならば、親神に受け取つて頂けない。人皆、相互に一つの道の理に心を合せ、互立て合い扶け合うてこそ、陽気に勇んで生活して行ける。真の陽気ぐらしは、ここに全うされる。

  心を合わせ頼もしい道を作りてくれ。あれでこそ真の道であると、世界に映さにゃならん。   (明治三五・九・六)

 親神にもたれ、教祖を慕い、教の理を省みつつ、互に心を合せ扶け合うて、陽気に生活すならば、ここに、たのもしい道が現れて、その喜びは世界にひろまつて行く。親神は、これを望ませられる。

  せかいぢうみな一れつハすみきりて
  よふきづくめにくらす事なら          七 109
  月日にもたしか心がいさむなら
  にんけんなるもみなをなし事          七 110
  このよふのせかいの心いさむなら
  月日にんけんをなじ事やで           七 111

 親神の守護を身に受けつつ、人々相扶け合うて、明るく浄く、勇んで生を楽しむ境涯に生きる。それは、親神の思召のまにまに、いそしむ日日であり、正しくきりなしぶしんである。そして、この明るい心に、自ら豊かな恵が与えられて、心は更に勇み立つ。子供の成人を待ちかねられる親神は、この陽気ぐらしを見て、共に喜び共に勇まれる。
 人々は、この親心にもたれつつ、世界中皆一れつは隔てない親神の子、兄弟姉妹という理を心に治めて、高きものも低きものも、遠きものも近きものも、相互に扶け合い、常にたゆまず、ひながたの道をたどり、陽気に勇んで、心のきりなしぶしんにいそしむならば、やがては、全人類の心も入れ替り、世は自と立て替つてくる。
 かくて、世界一れつの心が澄みきる時、たすけ一条の思召が成就して、親神の守護は余りなく垂れ、ここに、人の世は、未だかつてない至福を受ける。これぞ、楽しみづくめの世界、神人和楽の陽気づくめの世界であり、真正の平和世界である。
 思えば、人類社会は、久しく文化の進展を遂げながらも、徒らに迷いを重ね、行方も知らぬ闇路にさすらいつつ、今日にいたつた。それは、互に争を事とし、争を経ることによつて、己のよき生命を楽しめるものと、思いあやまつて来たからである。しかも他面、人は平けく安らかな生活をのみ求め望んで止まない。これは、限りない矛盾撞著である。この矛盾を解き、撞著を治めるのが、たすけ一条のこの道である。これこそ、人類に真の心の支えを与え、光ある行手を教える唯一の道である。
 世界は、平和を求めて止まない。しかし、真の平和世界は、ただ人間相互が争わぬだけで、全うされるものではない。よしや、それは争のない姿であつても、光溢れる平和の訪れではない。真の平和世界は、親神の理によつてのみ築かれる。この親神の道が、人々の胸に正しく治められ、すべてが、己が利欲を忘れ、温かい親神の守護の下、互扶けの真実の働きにつとめ合い、親神の待ち望まれる陽気づくめの世界になる時、この世ながらの限りない生気溢れる楽土が全うされる。

 惟うに、親神が、教祖を月日のやしろとして現れ出でられるや、人間の陽気ぐらしを見て、共に楽しもうとの、人間世界創造の思召を告げ、専らたすけ一条の道を宣べて、たすけづとめを教え、又、いき・てをどりのさづけによつて、一れつたすけを急き込まれた。このたすけの理を明かそうと、元の理を説き、所定の人と所と時の立て合いによつて、この教を始めた所以を諭し、ここに、親神を天理王命とたたえて、祈念することを教えられた。
 かくて、教祖が、教を宣べ、身を以てこれを証し、ひながたを示されたのも、親神の深い思わくによるものであつて、正に、教祖ひながたは、道の生命である。
 人は、先ず、身上や事情にてびきを頂き、親神を知る。そして更に、身上は、これ皆、親神のかしものなることを納得し、守護のあるところを悟り、ほこりを払い、心のふしんにつとめる。かくして進む成人の道すがらには、雨の日も風の日もある。しかも、その中に、日々たんのうの心を治め、又、ひのきしんに勇む。そして、治められた誠真実は、自ら他に及び、一人の道は多くの人々の道となる。即ち、道の子はよふぼくを志し、さづけの理を頂いて、たすけ一条にいそしみ、天の理を取り次ぎ、道の先達となる。ここに、不思議なたすけの実が次々とあらわれ、魂は続々と更生されて行く。
 かくて、我も人も共に和し、一手一つの心に、楽しみづくめの陽気ぐらしの世界が守護頂ける。それは、親神の望まれる真の平和世界であり、これぞ、この道の目標である。道の子は、存命のまま導かれる教祖に抱かれ、ひたすら、世界人類の平和と幸福を祈念しつつ、たすけの道に弥進む。

  このみちハどふゆう事にをもうかな
  このよをさめるしんぢつのみち         六  4

 

裁定文・目次

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天理教教典 第9章 ようぼく

2021年12月17日 11時28分41秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第九章 よふぼく

 たすけて頂いた喜びは、自ら外に向つて、人だすけの行為となり、ここに、人は、親神の望まれる陽気ぐらしへの普請の用材となる。これを よふぼくと仰せられる。
 親神は、一れつたすけの切なる思わくから、多くのよふぼくを引き寄せようと急き込まれる。

  一寸はなし神の心のせきこみハ
  よふぼくよせるもよふばかりを         三 128
  よふぼくも一寸の事でハないほどに
  をふくよふきがほしい事から          三 130
  この人をどふゆう事でまつならば
  一れつわがこたすけたいから         一三 85

 よふぼくには、男女の別もなく、貴賤の差もない。その用向には、時と所にしたがい相違があろうとも、心一つの理によつて、ひとしく、親神のよふぼくたるに変りはない。

  この木いもめまつをまつわゆハんでな
  いかなる木いも月日をもわく          七 21

 思えば、親神の類ない陽気普請に、よふぼくとして引き寄せられるのは、実に、道の子の幸である。しかし、心が直くなくては、折角引き寄せられても、役に立たぬから、親神は、時に応じ事に当つて、種々様々とていれをされる。これをしつかり心に治めさえすれば、身上のさわりも事情のもつれも、ただ道の花として喜びの中に受け取れる。

  にち/\によふほくにてわていりする
  どこがあしきとさらにをもうな         三 131

 かくて、引き寄せられて親里に帰り、別席順序を運ぶ。だんだんの席を重ね、話の理によつてほこりを払い、行を正すうちに、心は澄んで、たすかりたいとの願は、たすかつて貰いたいとの念となる。そこに、さづけの理が授けられて、心は生れかわる。さづけの理は、よふぼくたる銘々の心に授けられる天の与えである。このさづけの理が心に治つて、 初めて、こうのうを見せて頂ける。

  精神の理によつて働かそう。精神一つの理によつて、一人万人に向かう。神は心に乗りて働く。心さえしつかりすれば、神が自由自在に心に乗りて働く程に。    (明治三一・一〇・二)

と示されている。即ち、さづけの理を授けられたものは、日々常々の心遣いが大切である。さづけの理を頂いたその日の心を、生涯の心として通つてこそ、親神は、いつも変らぬ鮮かな守護を下さる。

  たん/\とよふぼくにてハこのよふを
  はしめたをやがみな入こむで         一五 60
  このよふをはじめたをやか入こめば
  どんな事をばするやしれんで         一五 61

 およそ、よふぼくの使命は、たすけ一条にある。それは、自らはげんで、天の理をよく心に治め、身をもつて教の実を示しつつ、一言の話を取り次ぐにをいがけに始まる。そして、更に進んでは、なんでもたすかつて貰いたいとの一念から、真心こめてさづけを取り次がせて頂くところに、珍しいたすけの実が現れる。  
 それは、見えた形の巧拙によるのではない。ただ、たすかつて貰いたいとの切なる願に基いて、真実を尽して取り次ぐから、親神は、その心をそのまま受け取つて、珍しい守護を見せられる。即ち、己が力によるのではなく、親神が、よふぼくに入り込んで、働かれるからである。
 かくて、よふぼくは、さづけを取り次いで、病む人々にたすかつて貰うのであつて、自分がたすけの主ではなく、どこまでも、親神のよふぼくに外ならぬ。されば、よふぼくたるものは、日々、ひたすら己が心を治めて、曇りない天の理を映すことが肝腎である。銘々が常に、教祖のひながたをたどり、俗にいて俗に墮せず、進んで土地ところの手本雛型となつてこそ、真にその使命が全うされる。
 身上を病んで苦しむ者に、さづけを取り次ぎ、せんすべない事情に悩む者に、教の理を取り次ぐのが、よふぼくの進む道である。それは単に、あの痛み、この憂いを除くだけではなく、寧ろ、かかる苦しみを見せて頂いている、その人の心を、しんからたすけさせて貰うのである。
 人は本来、己が力で生きているのではない。しかも、己が力で生きていると思い誤り易いのが人の常で、そこには、涯しない心の闇路があるばかりである。たすけとは、かかる人々に、親神の思召を取り次いで、その守護のまにまに、暗黒の境涯から光明の世界へと導くことである。
 まことに、この道は、心だすけの道である。心がたすかれば、身上や事情の苦しみ悩みは、自らいやされ、解決される。それは、親神の思召にそのまま添いきるからである。

  心さい月日しんぢつうけとれば
  どんなたすけもみなうけやうで         八 45

 よふぼくは、仮令、年限の理に浅い深いの相違があろうとも、教祖ひながたの道を慕い、ひたむきなたすけ一条の心から、あらゆる困難を乗り越え、温かい真心で、一すじにたすけの道に進むなら、何人でも、親神の守護を鮮かに頂くことが出来る。

  しんぢつにたすけ一ぢよの心なら
  なにゆハいでもしかとうけとる         三 38
  わかるよふむねのうちよりしやんせよ
  人たすけたらわがみたすかる          三 47

 ひたすら、世の人の上に親神の守護を願いつつ、我が身を忘れて行ううちに、親神に守られ、その胸に抱かれて、自身もいつしか心は成人して、明るく陽気に救われて行く。
 よふぼくとしての丹精の效があらわれ、道を求めるものが、次第に相寄り相集つて、教会名称の理が許される。それは、なんでもという精神の理に許されるもので、よふぼくの役目は、ここに一段と光を添える。
 教会は、神一条の理を伝える所であり、たすけ一条の取り次ぎ場所である。その名称の理を、真によく発揚するには、ここに寄りつどうものが、ぢばの理に添い、会長を心として、心を一つに結び合うのが肝腎である。かくて、教会生活は、国々所々における人々の和楽を深め、互に扶け合いつつ、心の成人を遂げる陽気ぐらしの雛型となる。
 されば、会長の使命は、常に元を忘れずに、自ら進んで深く教の理を究め、心を治めて、道の先達となり、誠真実をもつて、人々を教え導くにある。かくて、その徳に薫化された人々の心は、自と成人し、共に和し共に結んで、教の実は挙げられて行く。

  しんぢつにたすけ一ぢよてあるからに
  なにもこわみハさらにないぞや         三 77

 

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天理教教典 第8章 道すがら

2021年12月17日 11時25分10秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第八章 道すがら

 親神のてびきによつて信仰に入り、教の理を聴きわけて、かしものの理もよく胸に治り、心のほこりも次第にぬぐわれ、いんねんの悟りもついたなら、ものの観方が変つてくる。
 見えるまま、聞えるままの世界に変りはなくとも、心に映る世界が変り、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られて来る。己が心が明るければ、世上も明るいのであつて、まことに、「こゝろすみきれごくらくや」と教えられている所以である。
 しかるに、人の心は常に変りやすい。朝の心は必ずしも夕の心ではない。とかく、身近に起る事柄に心を動かされて、朝に明るい心も、夕には暗くなりがちである。一度は、教に感激して信仰に志しても、やがて喜び勇めなくなることもあれば、折角、たすけて頂いても、又も、身上のさわりや事情のもつれで、心が動揺する時もある。この中にあつて、常に己が心を省みて、いかなることも親神の思わくと悟り、心を倒さずに、喜び勇んで明るく生活すのが、道の子の歩みである。この心の治め方をたんのうと教えられる。
 親神の胸に抱かれ、ひたむきに信仰に進むものは、我が身にふりかかるいかなる悩みや苦しみにも、溺れてしまうことなく、むしろ素直に成つて来る理を見つめて通るから、悩みや苦しみも、かえつて喜びに転じてくる。かくて、真にたんのうの心が治れば、前生のいんねんは納消される。これを、「たんのうは前生いんねんのさんげ」と諭される。
 たんのうは、単なるあきらめでもなければ、又、辛抱でもない。日々、いかなる事が起ろうとも、その中に親心を悟つて、益々心をひきしめつつ喜び勇むことである。かくて、身上のさわりも事情のもつれも、己が心の糧となり、これが節となつて、信仰は一段と進む。これを、「節から芽が出る」と諭される。
 日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる。

  なんでもこれからひとすぢに
  かみにもたれてゆきまする           三下り目 7
  やむほどつらいことハない
  わしもこれからひのきしん           三下り目 8

 身上の患いをたすけて頂いた時、親神の守護が切実に身にしみる。病んだ日のことを思いかえし、健かな今日の日を思えば、心は言い知れぬ喜びに躍る。身上壮健に働ける幸福を、しみじみと悟れば、ひたすら親神にもたれて、思召のままにひのきしんに勇み立つ。

  よくをわすれてひのきしん
  これがだいゝちこえとなる          一一下り目 4

 ひのきしんに勇む心には、欲はない。この求めるところなく、ただ黙黙と骨身惜しまず尽す行為こそ、やがて、銘々の生活に美わしい実を結ぶ肥となる。

  みれバせかいがだん/\と
  もつこになうてひのきしん          一一下り目 3
  なにかめづらしつちもちや
  これがきしんとなるならバ          一一下り目 7

 少しでも普請の役に立ちたいと、もつこを担うて、日々、土持のきしんをする。心は益々明るく勇み立つて、それが何よりのひのきしんになる。これは誰にも出来るが、実地に身に行うて、初めて、その言い知れぬ味がわかる。
 ひのきしんは、信仰に燃える喜びの現れで、その姿は、千種万態である。必ずしも、土持だけに限らない。欲を忘れて、信仰のままに、喜び勇んで事に当るならば、それは悉くひのきしんである。
 ひのきしんは、一時の行為ではなく、日常の絶えざる喜びの行為である。しかも、その喜びは、自分一人に止るのではなく、他の人々をも感化し、心あるものは、次々と相携えて、その喜びを共にするようになる。

  ふうふそろうてひのきしん
  これがだいゝちものだねや          一一下り目 2

 親神は、「ふうふそろうてひのきしん」と教えられる。夫を化し、妻を導いて、夫婦共々に心を揃え、日々ひのきしんに勇むところ、一入そのむつまじさが溢れ出て、一家に春の明るさと和ぎが漂う。これを、「だいゝちものだねや」と仰せられる。
 一家の陽気は隣人に及び、多くの人々は、われもわれもと相競うて、ひのきしんにはげみ、世界には、一手一つの陽気が漲つてくる。かくて、親神の望まれる陽気ぐらしの世が現れる。

  いつ/\までもつちもちや
  まだあるならバわしもゆこ          一一下り目 5

 たんのうの心が治り、ひのきしんに身が勇んで、欲を忘れる時、ここに、親神の思召にかなう誠真実があらわれる。その日々の姿には、何の裏表もなく、清らかさと明るさが溢れてくる。そして、親神の思召をそのままに読みとり、さながらに身に行えるようになる。
 かかる誠真実に徹するのが、心の成人を遂げた所以であつて、親神は、それを待ちわびておられる。

  いまゝでハせかいぢううハ一れつに
  めゑ/\しやんをしてわいれども       一二 89
  なさけないとのよにしやんしたとても
  人をたすける心ないので           一二 90
  これからハ月日たのみや一れつわ
  心しいかりいれかゑてくれ          一二 91
  この心どふゆう事であるならば
  せかいたすける一ちよばかりを        一二 92

 この篤い親心に、そのまま添いたいと念ずるにつけ、人の難儀を見ては、じつとしておられず、人の苦しみをながめては、看過すことが出来なくなる。自分に出来ることなら、何事でも喜んで行い、なんでも、たすかつて貰いたいとの言行となる。そして、多くの人々に導きの手を与えるにをいがけとなり、人だすけとなる。それは、己の利害に偏らず、一れつ兄弟姉妹の真実に目覚め、互立て合い扶け合いの念から、人の苦しみを我が苦しみとなし、我が身を忘れて、人に尽すひたぶるの行為となつてあらわれる。

  このさきハせかいぢううハ一れつに
  よろづたがいにたすけするなら        一二 93
  月日にもその心をばうけとりて
  どんなたすけもするとをもゑよ        一二 94

 かくて、教祖のひながたにならい、たすけにはげむ。口と心と行とは常に一致して、うまずたゆまず、理をみつめて進む。その日々は、人の眼から見れば、一寸には弱いもののようにも思われる。しかし、これこそ、親神の心に通う誠真実であるから、真にそのまま受け取つて頂くことが出来るので、ながい眼で見れば、これほど堅く強いものはない。

  誠程強いものはない、誠は天の理である。誠であれば、それ世界成程と言う。     (明治二一・六・二)

 誠真実は、親神の思召に添い、天の理にかなう心であるから、親神は、この誠真実をすぐと受け取つて、いかなるたすけもひき受けられる。

  しんちつに心にまことあるならば
  どんなたすけもちがう事なし         一三 71

  誠一つの理は天の理、天の理なれば直ぐと受け取る、直ぐと返えすが 一つの理。 (明治二三・四・一七)

 自分の心に誠真実の理が治れば、心ない人の口説に煩わされることなく、常に変らぬ喜びと力に溢れて、明るく陽気に進むことが出来る。そこに正しく、一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分むつまじいという一つの理が治り、他をも自ら化し、一波は万波を呼んで、更に多くの人々の心の躍動を呼び起す。

  だん/\になにかの事もみへてくる
  いかなるみちもみなたのしめよ         四 22

 

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天理教教典 第7章 かしもの・かりもの

2021年12月17日 11時21分16秒 | 天理教教典

裁定文・目次

第七章 かしもの・かりもの

  たいないゑやどしこむのも月日なり
  むまれだすのも月日せわどり          六 131

 人体のこの精巧な構造、微妙な機能は、両親の工夫で造られたものでもなければ、銘々の力で動かせるものでもない。すべては、親神の妙なる思わくにより、又、その守護による。

  にんけんハみな/\神のかしものや
  なんとをもふてつこているやら         三 41
  にんけんハみな/\神のかしものや
  神のぢうよふこれをしらんか          三 126

 この世に生れさせて頂き、日々結構に生活しているのも、天地抱き合せの、親神の温かい懐で、絶えず育まれているからである。即ち、銘々が、日々何の不自由もなく、身上をつかわせて頂けるのも、親神が、温み・水気をはじめ、総てに亙つて、篤い守護を下さればこそで、いかに己が力や智慧を頼んでいても、一旦、身上のさわりとなれば、発熱に苦しみ、悪寒に悩み、又、畳一枚が己が住む世界となつて、手足一つさえ自由かなわぬようにもなる。ここをよく思案すれば、身上は親神のかしものである、という理が、自と胸に治る。

  めへ/\のみのうちよりのかりものを
  しらずにいてハなにもわからん         三 137

 銘々の身上は、親神からのかりものであるから、親神の思召に隨うて、つかわせて頂くのが肝腎である。この理をわきまえず、我が身思案を先に立てて、勝手にこれをつかおうとするから、守護をうける理を曇らして、やがては、われと我が身に苦悩を招くようになる。これを、

  人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つ我が理。     (明治二二・六・一)

と教えられている。

  人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在という理を聞き分け。    (明治二二・二・一四)

  自由自在は、何処にあると思うな。めん/\の心、常々に誠あるのが、 自由自在という。       (明治二一・一二・七)

 即ち、身の内の自由がかなうのも、難儀不自由をかこつのも、銘々の心遣い一つによつて定まる。それを、心一つが我の理と教えられる。
 しかるに、人は、容易にこの理が治らないままに、あさはかな人間心から、何事も自分の勝手になるものと思い、とかく、己一人の苦楽や利害にとらわれて、一れつの和楽を望まれる親心に、もとる心を遣いがちである。親神は、かかる心遣いを、埃にたとえて、戒められている。
 元来、埃は、吹けば飛ぶほど些細なものである。早めに掃除さえすれば、たやすく綺麗に払えるが、ともすれば積りやすくて、油断をすれば、いつしか、うずだかく積りかさなり、遂には、掃いても拭いても、取り除きにくくなるものである。

  よろづよにせかいのところみハたせど
  あしきのものハさらにないぞや         一 52
  一れつにあしきとゆうてないけれど
  一寸のほこりがついたゆへなり         一 53

 心遣いも、銘々に、我の理として許されてはいるが、親神の心に添わぬ時は、埃のように積りかさなり、知らず識らずのうちに、心は曇つて、本来の明るさを失い、遂には手もつけられぬようになる。かかる心遣いをほこりと教えられ、一人のほこりは、累を他に及ぼして、世の中の平和を紊すことにもなるから、常によく反省して、絶えずほこりを払うようにと諭されている。
 このほこりの心遣いを反省するよすがとしては、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げ、又、「うそとついしよこれきらい」と戒められている。
 親神は、これらの心遣いをあわれと思召され、身上や事情の上に、しるしを見せて、心のほこりを払う節となし、人々を陽気ぐらしへと導かれる。

  せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ
  神がほふけやしかとみでいよ          三 52
  めへ/\にハがみしやんハいらんもの
  神がそれ/\みわけするぞや          五  4
  めへ/\の心みのうちどのよふな
  事でもしかとみなあらわすで         一二 171
  これみたらどんなものでもしんぢつに
  むねのそふちがひとりてけるで        一二 172

 即ち、いかなる身上のさわりも事情のもつれも、親神がほおきとなつて、銘々の胸を掃除される篤い親心のあらわれと悟り、すべて、現れて来る理、成つて来る理をよく思案するならば、自と、心のほこりを払うようになる。かくして、ほこりさえ綺麗に掃除するならば、あとは珍しいたすけに浴して、身上は、病まず弱らず、常に元気に、守護頂ける。

  ほこりさいすきやかはろた事ならば
  あとハめづらしたすけするぞや         三 98

 しかるに、人は、心の成人の未熟さから、多くは定命までに身上を返すようになる。身上を返すことを、出直と仰せられる。それは、古い着物を脱いで、新しい着物と着かえるようなもので、次には、又、我の理と教えられる心一つに、新しい身上を借りて、この世に帰つて来る。

  きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
  よろづいさいのもとのいんねん         一  6

 人間には、陽気ぐらしをさせたいという親神の思いが込められている。これが、人間の元のいんねんである。
 しかるに、人間は、心一つは我の理と許されて生活すうちに、善き種子もまけば、悪しき種子もまいて来た。善き事をすれば善き理が添うて現れ、悪しき事をすれば悪しき理が添うて現れる。
  世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんねんもある。   (明治二八・七・二二)

 およそ、いかなる種子も、まいてすぐ芽生えるものではない。いんねんも、一代の通り来りの理を見せられることもあれば、過去幾代の心の理を見せられることもある。己一代の通り来りによるいんねんならば、静かに思い返せば、思案もつく。前生いんねんは、先ず自分の過去を眺め、更には先祖を振り返り、心にあたるところを尋ねて行くならば、自分のいんねんを悟ることが出来る。これがいんねんの自覚である。
 親神が、種々といんねんを見せられるのは、それによつて人々の心を入れ替えさせ、或は勇ませて、陽気ぐらしをさせたい、との篤い親心からであつて、好ましからぬいんねんを見せられる場合でさえ、決して、苦しめよう困らせようとの思召からではない。いかなる中も、善きに導かれる親心にもたれ、心を治めて通るならば、すべては、陽気ぐらしの元のいんねんに復元されて、限りない親神の恵は身に遍く、心は益々明るく勇んで来る。
 人の幸福は、その境遇に在るのではなく、人生の苦楽は、外見によつて定るのではない。すべては、銘々の心の持ち方によつて決まる。心の持ち方を正して、日々喜び勇んで生活すのが、信心の道である。
 即ち、身上かしもの・かりものの理をよく思案し、心一つが我の理であることを自覚して、日々常々、胸のほこりの掃除を怠らず、いかなる場合にも、教祖ひながたを慕い、すべて親神にもたれて、人をたすける心で通るのが、道の子の心がけである。そこには、自他の心を曇らす何物もなく、ただ、親神の思召のままに生活させて頂き、連れ通り頂いている喜びがあるばかりである。

  このよふハ一れつハみな月日なり
  にんけんハみな月日かしもの          六 120

 

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