今年の春季大祭で、表統領が「知らず知らずに教祖の教えを変えていないか?それに気づいているか?」という事について話された。
それは神名の読み方を例に挙げての事だった。
その例を神殿で聞いた時には、何を言っているのかさっぱりわからなかった。一緒にいた部内の奥さんも、うちの家内も分からなかった。
「てんりおうのみこと」の様が違うのか?などと・・・・。
その翌日が、大教会の神殿当番だった。大教会の夕づとめには、『信者の栞』を読んでいる。
丁度「十全の御守護」「親神様の御守護」のところで、読みながら「みこと」を「みこうとう」と読む人と「みこと」と読む人があることに気が付いた。
そこで、その後住み込みの人とこの話をした。
すると、「10年以上前に大教会長さんが、この話をされたので、私たちはすぐに理解できた。」との事だった。
「その話は部内には流れなかったのか?」と尋ねたら、「その時だけしか話をされなかった。」との事だった。
その後、今月に入り、教区の支部長会で教区長さんが、またこの事について話をされた。
「てんりおうのみこと」と「てんりおうのみこうとう」という事を話された。
この話を聞いて、以前異端と言われた人たちが、「天理王」ではなく「天輪王」だと主張していた事を聞いて、疑問に思い調べたことを思い出した。
私たちは、生まれて見聞きしたことをそのままに信用して大きくなっている。
それが、学校教育でもあったり、家庭教育、周囲の世相であったりする。
それによって、様々な問題が起こって、悩み苦しむ世の中、家庭だったりする。
その原因が分からないのである。いや、原因を探ろうとしていない。とも言える。
こうした原因を教えるために、世界中で様々な事が起きている。
と私は、先のコレラに関するおふでさきから思う。
ちょっと話がそれるが、
素直と疑問に思う事は反対ではない。「素直は神の望みと聞き、疑問に思う事が悪い事と思ってはいないだろうか?」
「素直に疑問に思って、素直に尋ねる。」というはずである。
高井猶吉先生は、蓮根ほりとあだ名されたほど、疑問に思う事があったらすぐに教祖に尋ねられた方で、その姿を教祖は喜ばれ、おぢばでの大切な役にと引き上げられた方である。
疑問などがあれば、コメントに書いて下さい。
今日は支部の資料を作成します。