今回は、125頁から128頁までを掲載します。
警察へのご苦労と共に、お屋敷への乱暴狼藉、また信者さん方への対応などが克明に記されています。
文中に「御供」という語が出て来ますが、「お供え」という言葉もある事から、今ではお洗米を包んで下さっている「ごく」「ごくさん」「ごふうさん」の事と思い、(ごくさん)と書いておきました。
また(・・・・伊)(?為)という表記がありますが、これは「伊之助先生の但し書き」「為次先生の但し書き」だと思われます。
それ以外の( )は私が分かりやすいようにと記しました。
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その後は毎夜毎夜、警官が止宿簿調べに出張って来たのや。ところが教祖が奈良の監獄からお帰りになる前々日(23日)(?為)の夜父様のでっさん(弟子さん)の音松という者が客人と同じ部屋で寝ていたのを警官が見て「これは止宿簿に記入の手落ちや」と言うから「この者は宅の使用人でございます」と説明されたが、どうしても聞きいれてくれず、翌24日(?為)警察から父様にさし紙が来た。父様は急いで出頭されたが、夕方になっても戻って来られない。皆大変心配して丹波市警察分署へ尋ねに行くと、もう監獄へ送ってしまったという事だった。
その翌25日(27日ではなかろうか、為)は教祖のお帰りになる日や。私と妹の政枝は梅谷四郎兵衛さんに連れてもらってお迎えがてら父様に会えたらと、みんなと一緒に行ったのやが、監獄では「そんな者は来ていない」と言って相手にしてくれなかった。すると向こうから腰縄付きで警官に送られてくる人を見るとそれが父様や。びっくりしてしまって物が言えない。父様はたった一言「行って来るで」と言われた。私は「うちのことは心配せんと、ゆっくり行ってきなされや」と言ったが、まるで無我夢中で、これも後から梅谷さんに聞いた事やった。
父様は、昨夜は帯解の警察で拘留されたそうだったが、教祖は朝の8時ごろ監獄を出られ、父様はそれより少し早く9時前に入られ、ちょうど教祖と入れ替わりでやっぱり10日間の拘留やった。
仏式教会が急に解散されて、教祖が奈良の監獄へご苦労下さった10日間(教祖は12日間、他の人々は10日間、初代管長様御手記による。為)の間というのは、警官の臨検が激しくて、昼は空風呂の中へ薬をいれるかどうか調べにくる。夜は夜で止宿簿の調べに出張ってくるありさまだったが、ちょうど教祖が奈良からお帰りになる日、すなわち明治15年旧9月25日に参拝者の一人が空風呂に入ったところが、きつい薬のにおいがするので驚いて母様に知らせに来たのや。母様はびっくりして早速急いでお湯を捨てられたが、本当にちょっとの間をおいて制服3名、和服2名の警官が出張ってきて空風呂を検査した。しかし薬のにおいがしないので、案に相違した(思っていた事とと違った)ような顔をしていた。実は先に密かに人を使って薬を投げ入れておいて、早速出張って来て検査をして、難題をかけるつもりだったに違いない。警官は「今日は婆さんの帰る日で、さぞ忙しいだろ」と皮肉を言って帰って行ったという事だった。
そこで、この後はどんな手段、どんな圧制を加えるかも知れないというので、この日の節を限りに、空風呂業を廃業されたのだが、お道を誤解している人たちは色々と警察に讒訴(ざんそ;事実をまげてその人が悪いように訴える事)したりするので、地の人たちの反対攻撃はもとより、時の政府からの圧迫で、教祖や父様を度々拘留して大変苦しめたのや。
この時分の事を今から思うと、”ようまああんな中を通り抜けたものや”とつくづく思い出すで。
これからはますます反対攻撃、政府の弾圧が激しくなってきて、松恵さんが出直された時(明治15年旧9月30日)などは警官が出張って来て家族の取り調べをして、中山家と飯降家の家族の他は一人も寄せ付けなかった。ちょうど梶本松次郎さんも来ていたが警官に「お前は何者や」と問われて、松次郎さんは「私は櫟本の親類の者で葬式に来ております」と答えると、警官は「葬式が済んだら用はないだろう。早く帰れ」という。松次郎さんはまた「ご存じの通り飯降さんは拘留されて、(伊蔵様は25日(?為)以来奈良の監獄に10日間のご苦労中であった。伊)家には年寄りや女子供ばかりでございますので留守番しております」とただ頼んでやっと滞在する事が出来たのだった。次におひささんにも「お前は誰や」というので、おひささんは「私は松次郎の妹でございますが、お葬式の手伝いに来ております」と答えると、警官は「葬式が済んだら用はあるまい。とっとと帰れ」と厳しくいうので、おひささんはやむなく帰らなければならないようになった。お政さんは教祖の御長女として特に許され、重吉さんは百姓男といって大罪を許されたのだった。
なにしろ当時は、中山家と飯降家の家族の他は一人も出入りできず、滞在などはもとより出来ないので、熱心な人達は絶えず逃げ隠れしてお参りしに来たのだった。
一番心配なのは、毎日毎夜お参りしに来る人を隠す事や。ちょうど中川勘平さんと清水さんの家が表と裏になっていたので、警官が調べに来るとすぐにお参りの人等をこの2軒の家に隠れてもらって、誰も参拝者が無いように見せたのだった。そんなふうやから、ほんのひと言の話しをするにもまるで内密話しをするように、耳へ口を寄せて小声で話し合って、家の中はひっそりとしていたのや。この当時のありさまは、何ともかとも言いようのない程やった。
明治16年旧4月26日の御命日やった。父様が丹波市警察分署へ行って「今日はひょっとすると参拝者があるかも知れませんから出張って下さいますか」と願い出られると、すぐに制服の巡査が一人出張って来て、参拝者が門内に立ち入らないように見張をしていた。警察からの通達で、参拝者がある事が確かに分かっている日は、こうしてコチラの方から願い出て、警官に出張ってもらう事になっていたのや。
その折り柄、3,4人の和服の警官が、櫟本の紡績工場(?為)からの帰りかけと言って、酒に酔って入って来て、上段の間へ自分たちが一銭玉をばら撒いて置きながら、それを拾って「この賽銭があるからには、参拝人を引き入れたのに違いない」と言って怒鳴ったり暴れたりして、しまいには御供(ごくさん)に封を付けて、ちょうどその時、教祖のご休息所が建築中だったが、その壁のためにコネてあった泥土の中へ投げ捨てて、三宝などは火鉢の中へ放り込んで焼いて、そのまた火鉢を外へ放り出して、割ってしまうという乱暴狼藉やった。
あんまりのことに母様とお政さんは「この火鉢は貧乏人飯降の家の後にも先にも無いたった一つの大切な火鉢です。これが割れてはあとにかけ替え(代わりのもの)がありません。どうして下さいますか。あんまりの無茶でないですか。この事を警察の偉い人に訴えますから、名前を聞かして下さい。」と言うと、乱暴を極めた警官もはじめて気が付いたのか「警察から取りに来るまでこの御供(ごくさん)に触ることはならん」と厳しく言って帰って行ったが、酒の上とは言え、乱暴すぎた事に気が引けたのか、その後いつまで経ってもその御供(ごくさん)を取りに来なかった。
こうゆうようなあり様で、明治21年までというものは御供(ごくさん)やお守りさん(御神符)を隠したり参拝者を隠したりして、警官の眼を逃れたりウソを言ったりするのが大変な仕事だった。警官は毎日毎晩時を構わずに、いつでもくるのだから、本当に心の休まる間というのはひと時もなかった。
夜明けやらに来ると、まだ床について居なくても寝ているように見せてしばらく戸を開けずに、その間に御供(ごくさん)を隠したり参拝者で泊っている人に逃げてもらったりしたのやった。
このように、警察の弾圧が激しいのに暮らし向きもちょっとやそっとの困窮ではなく、神様へお供えするお酒などは日々少しずつの賽銭を貯めておいて、当時子供では一番年上だった私が毎日徳利を持って、わずか5銭のお金を握って清水利与門さんの家へ買いに行ったのやった。
明治21年旧1月26日、教祖の一年祭の日、祭官さんたちが装束を着て今から式に掛かろうという時になって警官に妨げられて、とうとう年祭も勤まらずに終った。
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(芳枝祖母の連鎖した話しはここで終っており、次には誰かが質問したのに対して答えた事が書かれている。伊)
『ご本席様は大工の仕事をいつ頃お止めになりましたか』
それは教祖のお居間を建てられたのが最後だった。この建物は教祖が「休息所とも言えば遊び場所とも言うで」とおっしゃったもので、これは父様と弟子の音松さんとが建てられたのや。壁は梅谷四郎兵衛さんが左官だから、自分の弟子を連れて来て引き受けられた。
今回はここまでにします。
次は、質問に答える話でありますが、飯降伊蔵先生に神様が入られて刻限の話をされた事や、お勤めの事、おさづけのお許しの事など、様々な事が語られています。
一度読んだのですが、今回書換えながら、その時に感じたこと以上のものを頂いている気がしています。
そして、親神様のお導き・御守護を頂くか頂かないか、と言うよりも、親神様は何とかして陽気ぐらしへと導きたいと、身上や事情で印を見せておられても、私たち人間が、その時の身上事情のたすかりだけに囚われすぎて、親神様の仕事(陽気ぐらし世界への段取り)を考えていない事をすごく感じました。
親神様のお働きの一助となりますように。。。
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これまでのリンクを記しておきます。