あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

12月26日 本部納めの月次祭の朝、詰所にて思うがままに。。

2023年12月26日 05時53分12秒 | 思った事

昨日の話を書いておく。

昨日は2人の方におさづけを取り次がせて頂く事となった。

ひとりは、2カ月ほど前に心臓が止まり、心臓マッサージで心臓は動いたものの、時間がたちすぎて酸素不足から脳死と判断されて、いつどうなるか分からない状況から、意識は戻らずとも不思議と少し反応が出はじめた方。

もう一人は、血液のガンと言われ、一年ほど前に、余命1カ月と診断された方で、抗がん剤を投与するも、こんなに辛いものならば死んでも良いと、自宅療養に代えて、治療を一切やめた方。

この方は、血液内科の医師で、自分がそうした患者さんを見て来た人で、一年前は肝臓などまでも腫れていたものが、今ではそうしたものも感じられず、リンパ節の腫れもずっと小さくなってきているとの事だった。

 

全く不思議である。

 

脳死の方の話を聞いてはいたが、所属の会長がおられるため遠回しに心配をして、お願いをしていたところ、今月のはじめに、そのご主人から、私におさづけに行ってもらいたいとの連絡が入って、出かけたのであった。

その時に、案内して下さった息子さんから詳しい話を聞き、不思議な働きを感じて、今回は2回目のおさづけに行かせてもらったのである。

 

親神様の不思議なお働きを知っている方で、色々とお世話になった方たちではあるが、このような形でおさづけを取り次がせてもらえるとは思っていなかった。

 

もう一つ書いておく。

これは突然出直された方の事である。

前日まで普通に過ごされていた方、教会の会長さんであるが、その方が翌日の朝には、寝床で出直されていたというのである。

この方と懇意にしていた会長さんが、あんな良い方が突然亡くなるなんて、もう親神様は何を考えているのか分からない。と気落ちして、嘆いておられた。

 

突然の出直については、私の直近では3人あった。

ひとりは、動脈瘤破裂で、庭いじりをしていた時に倒れられて、ちょうど娘さんがいて救急車で病院に運ばれたが、そのまま出直された方。

ひとりは、一人暮らしをしていて、前日に車で買い物に行ったのであろう、翌朝、隣の方がトランクの開いている車を見つけて、玄関で倒れているのを隣の方が見つけたという方。

ひとりは、二世帯住宅に子供さんと住んでいて、前日には老人会のゲートボールに元気に参加されていたのに、朝息子さんが見たら、居間でコタツに入って亡くなっていたという方。

この三人の方は、うちの教会の信者さんで、その家の事やその方々の考え方も詳しく知っており、このようになって来た経緯や親神様の思いもそれなりに理解できている。

この三軒については、亡くなった方に親神様の思いがとても掛かっていた方もあれば、親親の思いに反対して自分だけの思いを立てて来た方もあり、親神様がそれまでに幾度となく、心を切り替える節を与えられながらも、それに気づかずに通られた事を感じたのを覚えている。

また、突然の出直しによって、その家族の有り様、考え方も良く分かった。

これもそれぞれの家によって、またその家族一人ひとりによって違う事。

またそれを見た縁者もそれぞれによって受け取り方、考え方が様々である事も知った。

 

問題は、残された生きている人々、それぞれの心である。

生きているから、考えられるのである。

生きているから、その亡くなった方や身上の方だけではなく、周囲の人々の様子で、それぞれが様々な心を使い、様々な学びを得るのである。

 

先に書いた不思議にも命をつないでもらっている方の場合。

その身上の方を通して、家族の者達が様々な事を体験しているのである。

天理教の中であっても、教会の会長や奥さんとの関係など、様々な問題がある。

かしもの・かりものが真に治まり、いんねんを自覚して、理を立てて通る心が定まっている人ばかりではない。

理を知り、理を立てる事を学ぶ道中の人もある。

 

これは諭して諭せぬところでもある。

「いわんいえんの理を聞き分け」と言われる言葉がとても重い。

 

いんねんを自覚して、成ってくることから、次どのようにするかは、それぞれの心なのである。

自分の思いを切り替えて、性分を変えて行動を変える。

または、性分を変えるために行動を変える。

これがその先を変える元なのである。

 

教祖に親神様が入り込まれて、この教えが始まった。

これは、「宿仕込みの時の子数の年限が経ったならば、元の屋敷に連れ帰り、神として拝をさせよう」との元の道具衆との約束に基づいているのである。

そして、教祖に親神天理王命の神名をつけようとされたが、思惑が立たず、元のぢばに神名を授けて、今日に至る。

「約束の年限」という事から、決まっている刻限がある事が分かる。

これは、おさしづによって導かれている中で、「遅れている」という言葉からも理解できる。

こうした刻限がある事が、理なのである。

その時までに、どれだけの成人が出来るか。という考え方もできるだろう。

 

教祖が現身を隠される直前。

真柱様方との問答によって、応法の道を許された。

甘露台没収を契機に、地歌を変えられた事と合わせて考えれば、

人間の成人の度合いによって、その先も変ってくることも、理として理解できるのである。

 

多くの人間がある中に、霊感があり、未知の者と話が出来る人もあり、そうではない人もある。

そうした人々の言葉によって、右往左往する人もある。

この右往左往する人々を考える時、その霊感のある人の言葉しか聞いていない事が良く分かる。

また一つの事柄しか考えられていない事も分かる。

 

どんな人もあり、どんな者もいるのである。

それら多くの話を聞いて、理を見極める事が重要であろう。

その理とは、すべてはそれぞれの心によって、見せられて、

その見せられたものの中から、自分の心が選び、受け入れて判断しているのである。

つまりは、かしものかりもので言われる「自分の心ひとつ」これが重要である。

そのためには、いんねんというわれる、心の道を知る事である。

心の道を知るために、因縁があるとも思える。

 

近頃、宇宙人・地球外生命体という話題が公にも言われるようになって来た。

この地球外生命体は、人間とは違うのか?と考え始めている。

どんな姿形をしていても、人間には心がある。

そして思いを言葉にする事が出来る。

これは元の理によれば、知恵文字の仕込みの前にすでにできた事と思われる。

 

虫鳥畜類と姿を変えて、今の姿となり、水と地を分けて陸地が出来て、知恵と文字を与えての今日を思う時。

今日、すべすべした肌を持つ人間は、親神様の理想の姿になった者と思われる。

ところが、心は神人和楽の陽気ぐらしが出来る心にはまだなっていない。

 

また生まれ変わり出変わりの話からすれば、魂は様々な動物へも入れ替わり、人間への成人を望めば、その課程を再度繰り替える事も分かる。

すれば、どんな姿かたちをしていても、

自由に考える心を持つ者で、言葉で意思疎通ができる者。

それが人間ではないだろうかと、最近思う。

 

おもうがままに。。

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今月の12月の月次祭は寝てました。。思うがままに。。

2023年12月19日 11時10分48秒 | 思った事

今日は12月19日、 12日のうちの月次祭は、風邪の症状がひどく休んだが、その後体調も良くなり、無事に部内の月次祭も終えた。

17日頃より急にまた寒くなったが、長野県では雨によって土砂災害が起きたとの事。

また、中国では原因不明の病気が流行り、さらには新種のコロナが流行り出したとの情報が出てきている。

世界中が完成予防の体制を取りつつあるとの事だが、日本では政治家の不祥事が暴露されてそれどころではない。

政治家たちが自分の保身に走っているように思える。

これらは様々なネットの情報を見ていると分かる事だが、ネットを見ずにテレビだけを見ていると、このような事は分からないだろう。

 

先日CBCの情報番組が主催した講演会の様子が、ユーチューブで少し紹介されて、ワクチンに対して懐疑的な学者と推進派の学者との思考の違いを目にした。

まずは新型コロナ事態を人為的に作られたものと確信する学者は、ワクチンについても懐疑的であった。

ワクチン推進派は、ワクチンありきで物事を考えて、 政治や製薬会社を疑う事も無いようであった。

 

ワクチンの後遺症で苦しむ方々の情報を集めて、公開しているのがCBCテレビであるが、他のテレビ局ではそうした試みはされていない。

私の周囲に、3回目のワクチン接種をして、全く動けなくなった人がある。

幸にも、その人はその後何も無かったように動けるようになったので良かったが、その事から、「もうワクチンは接種しない」と言われていた。

身近にそうした人があると、不都合が良く分かり、予防接種の意味が根本から曲げられて行われていると思える。

 

後者の学者の詳細は知らないが、前者の学者は本人が投稿したユーチューブを見ると、研究発表などで相当不当な圧力をかけられて、あくどい裏の事情を知っていた。

 

人間社会は、信頼関係で成り立ち、物事が発展していくが、その信頼関係を損なう事態である。

信頼関係を失くしてはならないから、「不都合な事実は隠蔽する」という事は、ここまで事柄が大きく、多くの人々に被害が出ている事を見る時、悪を推進する片棒を担いているようなものともいえよう。

「陰謀論」という言葉や、「ファクトチェック」という言葉で、真実を発信する人々の声を封殺する状況も良く分かった。

また、「不都合ウソな事を真実の事実」のようにするために、「ウソを誠のように配信する人々がいる」事も分かった。

 

こうした事が分かって来て、真実を求めれば求めるほど、分からなくなるのである。

現在の私は、

自分で見た事、体験した事、自分で検証した事、自分で論立てて研究した事。

これらが真実であり、それ以外は保留・真実を見極めるための材料とする事が一番だと思うようになった。

 

「知らぬが仏」という言葉があるが、知らないがためにのんきに生活が出来たりするのだが、知ってしまってはそうはいかない。

 

「あの偉い先生が言った事だから」として、自分で検証せずに話をすると、その先生が間違っていれば、間違ったことを伝えて、人の命も危うくさせる事になる。

「鵜呑みがどれだけ怖い世の中になってきているか!」とも思うのである。

 

今月のうちの月次祭は、風邪の症状が酷くて月次祭の祭典・おつとめには出なかった。

先に述べたように、どんな菌やウィルスがいるか分からず、来て下さっている信者さんには癌の方もあり、うつすリスクを少しでも減らそうと、部屋に籠っていたのである。

症状はインフルエンザや新型コロナと同様で大変息苦しかったが、高熱が出ないためにこうした対処をした。

常備してあるイベルメクチンを2錠飲み、様子を見たところ、飲んだ次の日には痰が出て胸の苦しいのが楽になるのが確認できた。

また、熱も36.9分までしか上がらなかったのである。

これを3日ほど繰り返した。

 

私は人ごみに入るとのどが痛む。だから、常にのど飴や龍角散を持参して、その都度飲んでいる。

まったくこうした事には無縁で、インフルエンザにも新型コロナにもかかった事がないという人もある。

そうした人に、イベルメクチンの話や、のどが痛む話をしても理解してもらえないのである。

 

ネット上では、私と同じように喉が痛む人々が多く書き込みをしている。

ワクチンを打った人々がそばに来ると苦しくなるという話しもある。

私はそれと同じなのである。

 

ワクチン接種をして、後遺症に悩んでいた人におさづけを取り次ぎ、すぐさま体調が良くなったという経験もあり、その前後でその方と接した時の、喉の痛みが違う事からもそのように思っている。

ワクチン接種をして、いらぬ物質が出てきている人といわれているが、体調の変化を考えると正しくと思う。

そして差を私の身体は検知しているようなのである。

だから、正直人ごみには入りたくはない。

このワクチン接種が始まった頃、まだまだ半信半疑であったが、「どうか良い人が助かりますように、その人々の苦しみは私が頂きますから」と願ってある。ので、

用事があれば行かない訳にはいかない。それこそ親神様に凭れて。。である。

更には、親神様に凭れてと思って行動する中に、イベルメクチンという薬に出合い、ウィルスに感染しても、重大な症状にならずに、自己免疫で対応できることを知る事が出来たのである。

 

私はこれまでも、世界の事情を見ながら、見分ける事、自分で学ぶ事の必要性を書いて来た。

そして、元の理など教理を学びながら、また発信しながら今日まで来た。

 

そうした中に、最近静かだったスピリチュアル界隈が、突然に「人々が大量に死亡する大異変が起きる」などの情報がまた出だした。

そして「これまの3次元の人間から5次元、9次元の人間へと精神を高めよ。」と言い出している。

以前書いていた、トランプの米軍主導での世界改革の決着はほぼついて、後は戦後の対策、落としどころを見出して民衆をどのように導くかという段階に入っていると思っている。

 

人間という者は、目の前に不都合な事が起きなければ考えないものである。

そしてその考え方は、それぞれの心、経験によって異なり、原因究明も異なってくるのである。

一番初めにCBCテレビでの討論会の研究者を見れば良く分かるだろう。

その考え方によって、先への対応が変わってくるのである。

 

これまで同様に、医者や製薬会社のいうがままに歩むか。

それとも、これまでを振り返り、自ら考えて必要な薬や新しい知識を得ようとして歩むか。

という事である。

 

そしてさらに、親神様の陽気ぐらしへのお導きの中で、今どのような段階にあるのだろうか?

と思えるようにもなって来た。

 

実は、私が「かしもの・かりもの」を得心した時には、何も怖いものもない心になっていた。

今から25年ほど前、愛知で「愛・地球博」が行われた時である。

「心ひとつが我がの物であるから、心さえしっかりとしていれば」と思い。

自分の体の事は二の次で、走り回っていた。

 

そうすると、同じ天理教をしていても、「かしもの・かりもの」を得心していない人々が多くいる事を感じるようになって来たのである。

その時は、それだけであったが、それ以後求められるままに様々なおたすけや、教会事情に接しながら、その都度、おぢばへ通い、本を探して親神様の教えを求めてきた。

そして今、復元33号の「稿本 教祖様御伝」の書き換えを進めて、相談する人を与えてもらえるようになった。

 

今の書き換えの部分は、教祖が貧のどん底を歩まれた教祖伝ではほとんど触れられない25年の道中の部分である。

それを思うと、「教祖が自ら歩まれた道を私たちも歩むはずである」と思えるようになった。

さらには、模様替えの事を踏まえると、親神様は、人の心の成人度合いにそって、道をつけておられるのだと思えるようになったのである。

そしてまた、「これだけスピリチュアルが人気なのに、おぢばは人気が出ないのだろう。おぢばで不思議がたくさん見せて頂けるのに。。」と人気が出ない事が不思議に思えて来た。

けれども、よくよく考えると、親神様が止めておられる可能性が高いとも思えた。

それは

この親神様の教えは、心建て替えの道であり、「これまで10のものならば9つまで教えて来た、既存の教えとは異なり、一人立ちする教え」であり、誠真実・親(夫婦と道具)の教えなのである。

本来ならば、9つまでの事を経験し、得心したもの・またいんねんある者が寄せられるべきところであろう。

教祖が最後のご苦労を下されて、現身を隠されるまでの一年間。

床に伏せられて、扉を閉めて親神様は働かれたと聞くところを思う時、親神様の働き失くしては何もならんと思うと共に、不思議だけを求める人間に合わせたお働きをその時にされたのだと思うに至っているのである。

明治20年の現身を隠されて後は、日本国中に不思議が現れたのである。

その結果が今の神殿・神苑の姿であろう。

その次、本来の心の立て替えにまだ行っていない。その方法を見出していない。

そして、教祖の親心を体現できるまで行っていない。そんな気がするのである。

この教えの元は、両親(両神)ありきの教えである。

この両神は、「いざなぎ・いざなみ」ではなく、「くにとこたち・おもたり」の男神・女神である。

そこへ「くにさづち」ほか7神の道具を寄せて、神としてこの世界の秩序(理)を定めて、陽気ぐらしが出来る人間を作り上げて来たのである。

それがまだまだ途中なのである。親の神の代わりが出来る人間の親になれらねばならないのに、文明が発達したと言いながら、子供はほったらかしで自分の好きな事だけをする親ばかりの世の中である。

愛を説きながら、本当の伴侶とは異なる愛人を作り、愛によって争いごとを起している親もいるのである。

 

今の、世界のスピリチュアル界隈は、まだこうした親の意識まで行かず、それぞれ個人の心に留まっているように思える。

宇宙を述べる人々の話を聞くと、地球上での事柄が宇宙へと広がっただけの事で、次は宇宙の平和という話しへとなって行く事だろう。

 

何のために、国や地域で言葉が違っていたのかとずっと疑問に思っていたが、国や地域での安易な情報交換や交流を阻害するために、わざわざ言語を違えて来ていた。と思えるようになった

それなのに、力あるものが他の地域を侵略して行き、せっかくの楽園までもつぶして、今日まで来た。

ところが、この侵略という行為によって、人間は学び、神に願い、新しい文化や思想を発芽して今日まで来たように思える。

 

さらには、侵略の方法も、武力から、情報を使った精神支配へとも変化しての今日である。

そして精神の苦痛を感じて、男女の区別さえ苦痛に感じる者が現れてきているのが今の状況でもあろう。

 

すべては、これまでに行ってきた、心通りの相殺の生まれ変わりであり、その生まれ変わりを自覚して、自らで心を変えて未来を変えて行く歩みをせねばいつまでたっても変らないのである。

先に「愛を説きながら、本当の伴侶とは異なる愛人を作り、愛によって争いごとを起している親もいる」と書いたが、その場の争いごとで解決がつけばよいが、悔やみながらも命を落としたらならば、その見返りは必ず次の生きざまに現れる。

自分勝手の愛、それともすべてを含んで見守る愛。

そうした見分けが出来る心にならねばならないだろう。

そして、これを白紙で生まれ変わった子供たちに教え伝えて、切り替えねばならないのだと思うのである。

 

「急いて急かぬ道」である。

この言葉を旨に歩んでの今日。

今月の月次祭を別室に籠っていたところ、祭文を妻が奏上してくれて、準備片付けは子どもたちがそれぞれの役割に応じてやってくれて、通常通りに終える事が出来たのである。

昨日、信者さん宅に寄ったところ、私の体調を気遣ってくれると共に、「長男が準備をしている姿を見て嬉しかった」と喜んでくれていた。

この時にこんな身上になるのは何か意味があるだろうと思ってはいたが、この言葉を聞いて「なるほど」と得心した。

 

久々に思うがままに。。。。

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