あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

日本はありがたいですね。。。毎日投稿が途切れて申し訳ありませんでした。

2021年10月31日 17時07分20秒 | 思った事

ちょっと考えている事がある。

「3Dチェス」「三次元チェス」というものである。

この言葉は、トラさんを応援するメッセージの中で、「トラさんは3次元チェスで考えている」というような意味の話で知った。

その時には意味が分からなかったのだが、あるトラさん関係の写真で3枚から4枚のチェスの板が上下に重なっている写真を見て、「この事か」と思った。

 

人間は、一対一の勝敗を平面上で考える。

ところが、この一対一が、一つ上の勝負で左右されているとしたら。またその勝負ももう一つ上の勝負で左右されていたら。と思ったのである。

 

アメリカ大統領選挙から、メディアの偏向報道を知り、そうした勢力との戦いをトラさんがしている事を知った。

また米国と中共との戦いも知った。

さらには、米国内の右派と左派との戦いも知った。

そして世界中の金融関係で金本位制への移行を望む人々とそれを望まない人々がある事も知った。

新型コロナから、ワクチンを推し進めようとする人々とそれを問題視している人々の戦いも知った。

争いと言えばまだまだあるだろうが、こうした争いが表面化している中、これらの争いがそれぞれ独自で行われていると考えるか、これらの争いもそれぞれにつながりがあると考えるかで、見えてくるものが違うと思えたのである。

色々な人が、ニュースが出るたびに解説をしているわけだが、解説をする人の見方が、このような縦のつながりを意識しているかどうかで見方が違ってくるのである。

そしてそれによって、それぞれが対処する事が必要となってくるはずである。

現在、アメリカで物資が不足して、ハイパーインフレになっているとの情報があるが、物が無くなる事は、それぞれ個人にとっては死活問題なのである。

そうした対応は事前にしておかねばならない。だから他人事では済まないのである。

 

どうしてこのような話をしたかというと、「信仰は心の問題」で日常の心持ちだけを示しており、日常の具体的な行動にはあまり関係ないように思っている人がいるのではないかと思ったからである。

「信仰は転ばぬ先の杖」という言葉がある。

転ばない先に、危ないという事を教えてくれて、転んでケガをしないようにという事である。

以前に、旬・刻限という事を書いたが、それも同じである。

親神様は「おさしづ」で刻限話をされて、師事をされている。

しかし、人間がそれを聞きいれない。理解せずに実行しないために、それをもどかしく思われる言葉も散見する。

まぁ、その具体的な事は、おつとめの完成・かんろだいの没収にも言えることである。

 

つまり、信仰を実際の生活に生かす事。これが一番重要だと思うのである。

 

昔の方々の話で、小さな身上や小さな事情・遠くの身上や事情から見せられる。
その時に気が付かないので、段々と大きなものになってくる。

というものがある。

正しくだと思う。

 

今の日本、何事も一番最後に現れているのである。

世界の情勢をしっかりと見据えて、分析をして、しっかりとした判断をすれば、こうした問題も難なくクリアして、世界の手本となれるのに。と思ったりするのである。

 

泥にまみれていては、気づかないかなぁ。。。

と思ったりする。。。

 

お道も同じである。先日の「ひのきしんスクールシンポジウム」の動画を見た方は分かるかと思う。

お道でない方が、一生懸命に苦心して悟られた事を実践して話されたのだが、それは、教祖からすでに聞かされている話である。しかし、聞いていても深く悟れず、実践していないために、それぞれに事情で苦しむ姿を見せられているのではないか。。と思ったりするのである。

 

話は変わるが、

昨日は、午後三時すぎから教会を出て、おぢばへ日帰りをした。

三男が進学のために帰ってきており、それを送って行ったのである。

その時にちょうど、おぢばにいる長女の誕生祝をする事が出来た。

うちにいる時は、毎年必ず誕生日を祝ったが、おぢばへ行ってからはしてやることが出来なかった。高校からなので、十数年ぶりになるだろうか。

数日早かったが、ちょうど長女も休みで、三女も時間があったので、ほんの一時間の事だが、おぢばにいる者で祝う事が出来た。

本当にありがたいと思った。

そんな事で、教会に戻ったのは夜中であった。

毎日投稿が滞り、心配下さった方、申し訳ありませんでした。

 

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ご本部秋の大祭にて。。。ひのきしんスクール。。

2021年10月27日 11時22分44秒 | 思った事

昨日、10月26日は、天理教教会本部にて「秋季大祭」がつとめられた。

私は用事で、25日から出かけていたので、8時の開始時間から参拝させて頂く事が出来た。

いつもならば、中庭ではじめから最後まで参拝をするのだが、フェイスブックでの友人が気になり、雅楽の音色を聞きながら総合案内所へ向かった。

元気そうな顔を見て、握手をして別れた。

その時、祭文奏上をFacebookで聞いてもらえたら良いのではないかと、南礼拝場前で録画を始めた。

祭文では、新型コロナではなく、世界の事情をお納め頂きたいという旨の文言があり、ありがたく思った。

録画を終わり、配信しようとしたら、その動画が上下逆転していた。

それまで普通に取れていたのに、何事かと思った。

私はこうした機械の上にも親神様は働かれて、メッセージを下さっていると以前から思っており、これは「投稿するな」との事だと思ってやめにした。

せっかく南側にいる。撮影するにはちょうど太陽を背にして、絶好である。

ならば以前見付けた、神殿と教祖殿とが映る場所で、かぐらづとめを撮影して配信しようかと思い立った。

撮影中に、南礼拝場の上に月が出ている事を発見した。

こんなに明るい日なのに、こんなにはっきり見えるなんて何と不思議なと思った。

そして、背には日様・正面には親神天理王命(十柱の神様)と月様。

なんだか、月日親神様が私たちの成人を見守り、導いて下さっていると思えて、とても嬉しくなった。

そんなことを思いながら、かぐらづとめを参拝し、世界の人にこの不思議な御守護を知ってもらえればと配信しようとしたら、ファイルが無い。

いくら探しても、ないため投稿できない。

これも投稿する必要はないと言われたと思い、いつものように中庭へ移動した。

(教会に戻り、捜したところ動画はあった。あまりにもファイルの容量が大きので、公開できなったのだろうと思った。写真はその動画からのものである。
また、祭文の動画は逆さのままであったが、正常位置に変える事が出来た。)

 

中庭は月次祭とは違い、パイプ椅子が庭一面に敷き詰められ、ほぼすべてに人が座っておられた。

そうした中、一つ空いている席を見つけて座った。

隣には、先日愛知教区で「ひのきしんスクールシンポジウム」を開催した責任者の先生が座っておられた。

この「ひのきしんスクールシンポジウム」は、新型コロナによってもたらされた様々な苦労を乗り越えて、1年半の延期の末、ネット配信とネットで視聴できない人のために会場を設営するようにと企画し、啓もうをして、ようやく実現した企画である。

【ライブ配信】ひのきしんスクール シンポジウム 愛知会場 ~育児は育自~ 令和3年10月17日 - YouTube

私の支部も、ひと会場を設けて、たった5名であったが拝聴した。

3時間にわたるもので、これは一人で見ていたら見続けられないなと感じると共に、終わった後に、お茶を飲みながら感想を話し合う中に、集まって行う事の重要性を感じたのであった。

現在もその講座はYouTubeチャンネルで配信中(今月末までの予定)で、1000件の視聴を越えている。

開催に当たられた先生へのお労いを、親神様の前で申し上げる事が出来てこれまた嬉しく思った。

そして、このひのきしんスクールは、天理教内外の方を講師として招き、その方の視点から、天理教の教えを元に助け合いのための考え方や技術などを学ぶものである。

また今回の講師の先生から、教祖のお話しの言葉がどれだけ世間で独り歩きをして、どれだけ人様の手助けになっているかと思った。

やはり、「教えは神」である。

同じ言葉を聞いても、受け取り方、悟り方が重要とも改めて思った。

 

話は変わるが、

この10月26日という日は、人間を宿しこみの時、「子数の年限が経ったなら神として拝をさせよう」と、月日が寄せた道具衆に約束をした、その日である。

つまり定められた日である。

また、おさしづには「刻限話」として、定められた日に、人々にさしづされた話が沢山ある。

そして「旬に撒かねば芽は生えぬ」と農作物に例えて、定まった時旬がある事も教えられている。

なぜこのような話をするかというと、本当にそうした旬を感じているだろうかとも思ったのである。

 

25日の夜、ユーチューブを見ていたら、その中で「未来を予見する道具があり、その道具を利用して、世界の上層部の人は自分たちの良いように物事をすすめて来たが、それがある日を境に絶対に変えられない未来を予見した。そしてその時を境にそれまで上層部が行ってきた悪事が次々と暴露されて、その未来へと向かっている」という話しを見たのである。

そうした機械が本当にあるのか私には分からないが、確定された定められた未来があるという事は、先に書いた話から思うのである。

 

そうした事があって、今はどんな時に向かい、どんなことをするべき時なのかと思いながら、先に掲げた写真の通り、月日様と秋の大祭のかぐらづとめを拝したのであった。

 

教祖は、定めた時にかんろだいを建てて、おつとめを勤めさせるようにと、何年も前から準備をされたのである。

その時が来て慌てる事の無いように、その時を逃さぬようにと順序だてて進められたのである。

これも「ひながた」である。

ところが、人間の成人があまりにも鈍く、親の思いが分からないために、「かんろだいの石の没収」を節として、おつとめの地歌を変えて、子供可愛いゆえに、一つ道を変えて、「をや」である教祖の定命を25年縮めて、今日の歩みがある。

これも「ひながた」である。

 

「始まりた理と治まりた理は一つ」と聞かせられる。

始まりた理とは、この秋の大祭のつとめられる立教に関してである。

治まりた理とは、春の大祭がつとめられる、教祖が現身を隠された事に関してである。

 

今日はこれから布教所のおつとめです。それを終えてから大教会の当番に行きます。

陽気ぐらしに向けての親神様の思いをしっかりと心に置いて、今日も喜んで勇んで努めたいと思います。

 

思うがままに書きました、何かの参考になれば幸いです。

 

 

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久々の投稿になるかなぁ。。泥水から思う事。。

2021年10月24日 11時19分45秒 | 思った事

先回、

悪風というものは。。。逸話編 183

を投稿してからちょうど一週間が経つ。

この間、思いつく事を書き始めるのだが、途中で筆が止まってしまい、投稿に至らなかった。

まず、先回の悪風にかんする逸話編は「泥水」に関して書くつもりで投稿した物である。

しかし、今の世界情勢、日本の情勢、また情報操作さらには裏での事柄が表に出て、それに気が付いている人々には、これから先を不安に思い、また親神様の働きを疑う人々も多いかと思う。

親神様の思いは、陽気ぐらしの実現である。

いつも書いているが。

陽気ぐらしのためには、それぞれ人間の心が澄まねばならない。

ほこりの心が払われなければならないのである。

ほこりの心が払われるためには、それぞれがそれぞれの心のほこりに気が付かねば、払われるものではない。

この自分のほこりの心に気が付く事が重要だと思う。

新型コロナが治まるためには、ワクチンではダメで、治療薬が必要とも書いて来た。その治療薬は50年以上前から既にあり、いつでも使える状態になっているのに、それを認証しようとしない人々に寄って、多くの人々の命が危うくなっている。

これを事実と思うか、陰謀と思うか、それはそれぞれの心、見方によって今分かれているのである。

こうした状況を教祖の史実・ひながたに照らし合わせた時、色々な気づきがあると思う。

 

今、日本の歴史・太平洋戦争の起因など、学校で教わった事とは違う説が出てきている。

これまで当然と思っていた事が、太平洋戦争で日本が負けて変わり、また今、その時の資料がアメリカで開示されて又変わろうとしているのである。

先の逸話編は、教祖の教えを時の権力者が妨害をする時のお話しである。

悪風とは世間の風である。教祖の親神様のお話を悪いものとして、弾圧した風である。そしてその権力者たちの心は泥水であり、それに親神様の思いが分かった清水を入れても澄まないのである。

それに巻き込まれないようにすることが重要なのである。

そうした時の歩み方を教えられているのである。

私がこれまでに、日本のマスメディアでは流されない事をFacebookなどで共有してきたのは、そうした悪風に気が付き、親神様の思いを悟る手立てにして欲しいと願ったからである。

また以前、戦時中の天理教の対応についても書いたことがあるが、応法の道を許された今の天理教は、政治の道と神の道の2重の対応をする事になっている事を知ってもらいたいからである。

また、裁判での不思議な体験も、そうした意味合いで書いたものでもある。

裁判に関わって、裁判での弁護士は勝つか負けるかの世界である事も知った。その上での知恵のせめぎあいである。

そうした知恵を働かせても、思い通りに証言者が発言をしたり対応をしなければ、弁護士の思うようにはならないのである。そうした中にも親神様の不思議は働く、理は働く。誠真実で不思議が出てくるのである。

反対にいくら勝つだろうとしても、悪い理を撒いていれば、そのようになってくるのである。表面的に勝ったとしても、人々の心は離れて、信仰が失われるという事もあるのである。

重要な事は「誠の種」である。親神様が喜ばれる誠の種を撒いているかどうか、それが陰徳として、隠されているかどうかであろう。

 

人に認められることばかりに気を取られて、陰徳を忘れてはならない。

人の業績にかこつけて自分を着飾ってはならないのである。

すべては「かしものかりもの」であり、心ひとつが我がの物である。

 

この心の泥を「すくい出す」のである。もしくは、底の栓を抜いて流し出すのである。

また、心を澄ますのは「すいのと砂にかけてすませよ」であり、「胸と口とが砂とすいの」なのである。

 

世界でいえば、いんねん寄せて守護するので、泥の人々は集まるのである。
清水の人々は静かにしていれば上に浮くのである。

清らかな所へ。。。逸話編 148

ここにも

「前生のさんげもせず、泥水の中より清らかな所へ引き出した者を、又、泥水の中へ引き入れようとするから、神が切り払うた。」

として泥水が出てくる。

これは天理教を信仰する人々の中での話であるが、世界の事に広げても同じことである。

その泥水は、親神様が処分されるのである。

 

まだまだ混とんとしている。道の中も世界も。。

それぞれに悟って、自らの泥水を「すいのと砂にかけてすませよ」のお言葉通りに澄ませて、陽気ぐらしへの歩みを進めましょう。

 

ひさびさに思うがままに書きました。

参考になれば幸いです。

 

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悪風というものは。。。逸話編 183

2021年10月16日 21時13分18秒 | 逸話編

183
『悪風というものは』
 明治十八、九年頃のこと。お道がドンドン弘まり始めると共に、僧侶、神職その他、世間の反対攻撃もまた次第に猛烈になって来た。信心している人々の中にも、それ等の反対に辛抱し切れなくなって、こちらからも積極的に抗争しては、と言う者も出て来た。その時、摂津国喜連村の林九右衛門という講元が、おぢばへ帰って、このことを相談した。そこで、取次から、教祖に、この点をお伺いすると、お言葉があった。
「さあさあ悪風に譬えて話しよう。悪風というものは、いつまでもいつまでも吹きやせんで。吹き荒れている時は、ジッとすくんでいて、止んでから行くがよい。
 悪風に向こうたら、つまずくやらこけるやら知れんから、ジッとしていよ。又、止んでからボチボチ行けば、行けん事はないで。」
と、お諭し下された。

 又、その少し後で、若狭国から、同じようなことで応援を求めて来た時に、お伺いすると、教祖は、
「さあ、一時に出たる泥水、ごもく水やで。その中へ、茶碗に一杯の清水を流してみよ。それで澄まそうと思うても、澄みやすまい。」
と、お聞かせ下された。一同は、このお言葉に、逸やる胸を抑えた、という。

 

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秋の大祭を終えて。。

2021年10月14日 09時34分08秒 | 思った事

12日に秋の大祭を無事に終えた。

大祭と言っても、普段の月次祭と何ら変わる事は無い。

変わるとしたら、大教会からの巡教があるくらいである。

そうした中に、今回の大祭は大教会からの巡教を受ける気になれず、お断りした。

これまでこうした事は無かった。

うちの大教会では大教会からの巡教がどんどん回数が減って行った。

私が会長になった頃には、年に4回ほどあった。

それが3回となり、春秋の大祭の2回となった。

なぜ減って行ったのか、当時大教会で力のある先生が巡教に行くことが嫌で、回数を減らしていったといううわさも耳にした。

その先生は、巡教直前に巡教先に断りを入れていたそうである。

こうした話を聞いた時に、こんな事ではどうなる事か。と良く思ったものである。

こちらからお願いして来て頂くには、集まっている信者が少なすぎる。

巡教があるから受ける。これが当然となっていた中に、段々と回数が減り、このコロナで、巡教を受けない行かない所ばかりになった。

私個人としては、受けて下さる所ならば行かせて頂く。

部内の教会へは毎月出かけて、変わらずにつとめてくるのである。

さて、

そして今までコロナで他の教会は断っても、うちは来てもらっていたのに、今回断る気持ちになったのだろうか?と自問自答した。

そこで答えが出たのが、聞くのではなく、話す機会にしなければならない。と思ったのである。

数年前、私が身上になってから、妻に毎月婦人会として話をしてもらうようにした。今ではすらすらと、私以上に分かりやすい話をしてくれている。

これだ。と思ったのである。

信者さん方は、ただただ受け身なのである。

この時だけでも、言葉を出す事。それによって、学ぶ機会にする事だと思ったのである。

そこで、この大祭を吉祥に、講話までも行かずとも、感話でも、感想でも順に話してもらう事にしたのである。

そして、初めてやってみて、良かったと思った。

これを続けて行きたい。

そうした大祭でした。

 

 

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「おふでさき」は、「みかぐらうた」の後。。。

2021年10月10日 09時42分49秒 | おかきさげ

「おふでさき」の冒頭の8首は、「よろづよ八首」であることは、だれでも知っている事であるが、

「よろづよ八首」が、「みかぐらうた」の一番最後に出来た事は知っているだろうか。。。

まず、「よろづよ八首」と「おふでさき」を記しておく。

《第四節》【よろづよ八首】
よろづよのせかい一れつみはらせど 
むねのわかりたものはない

そのはずやといてきかしたことハない 
しらぬがむりでハないわいな

このたびはかみがおもてへあらわれて 
なにかいさいをときゝかす

このところやまとのぢばのかみがたと 
いうていれどももとしらぬ

このもとをくはしくきいた事ならバ 
いかなものでもこいしなる

きゝたくバたづねくるならいうてきかす 
よろづいさいのもとなるを

かみがでゝなにかいさいをとくならバ 
せかい一れついさむなり

一れつにはやくたすけをいそぐから 
せかいのこゝろもいさめかけ

(なむてんりわうのみこと)(よしよし)

 

【おふでさき】
1号 72才老女 明治2巳年正月従  

よろつよのせかい一れつみはらせど
むねのハかりたものハないから (1-1)

そのはづやといてきかした事ハない
なにもしらんがむりでないそや (1-2)

このたびハ神がをもていあらハれて
なにかいさいをといてきかする (1-3)

このところやまとのしバのかみがたと
ゆうていれども元ハしろまい (1-4)

このもとをくハしくきいた事ならバ
いかなものでもみなこいしなる (1-5)

きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
よろづいさいのもとのいんねん (1-6)

かみがでてなにかいさいをとくならバ
せかい一れつ心いさむる (1-7)

いちれつにはやくたすけをいそぐから
せかいの心いさめかゝりて (1-8)

だん/\と心いさんてくるならバ
せかいよのなかところはんじよ (1-9)

このさきハかくらづとめのてをつけて
みんなそろふてつとめまつなり (1-10)

みなそろてはやくつとめをするならバ
そばがいさめバ神もいさむる (1-11)

「おふでさき」は、その後のつながりが分かるように、11首まで書いておいた。

次に、作成順を示すために、「改訂天理教事典」の年表を示しておく。

慶応2年(1866年)に第一節「あしきはらいたすけたまへてんりわうのみこと」が教えられる。

慶応3年(1867年)にみかぐらうた「12下り」の歌(正月から8月)と手ぶり(以後3か年間)を教えられる。

そして、

明治2年(1869年)におふでさき第1号を(正月)に、 第2号を(3月)にご執筆になる。

明治3年(1870年)に「ちょとはなし」及び「よろづよ八首」を教えられる。
このちょとはなし」は「かぐらづとめのだし」として、「よろづよ八首は12下りのだし」として教えられた。
だしとは、出だしという意味で、その事により、12下りの前によろづよ八首が歌われている。(かぐらづとめの順序については、今回は省略しておく)

「よろづよ八首」の意味が分かりやすいように、次に「おふでさき註釈」を記しておく。

よろつよのせかい一れつみはらせど
  むねのハかりたものハないから ( 1号001)

  註釈 1
親神がこの世を創めてから永い歳月の間には、幾億という数知れない人々が生を享けて来ているが、いつの時代を眺めても、広い世界の中に、たれ一人として胸の分かった者がない。

そのはづやといてきかした事ハない
  なにもしらんがむりでないそや ( 1号002)

  註釈 2
それも無理のない事で、今までこの真実の教を説き聞かした事がなかったから、止むを得ない事である。時々その時代の聖賢を通じて説き聞かした事はあるが、是等は総て時宜に応じた神意の現われであって、最後のものではない。これは、未だ旬刻限が到来しなかったからで、止むを得なかったのである。

このたびハ神がをもていあらハれて
  なにかいさいをといてきかする ( 1号003)

  註釈 3
しかし、この度こそはいよいよ旬刻限が来たので、親神である天理王命が、この世に現れて、親神の意中を万事詳細に説き聞かそう。

註 このたびとは、天保九年十月二十六日、旬刻限が到来して、教祖様をやしろとして、この教をお始め下さった時をいう。
 神がおもていあらハれてとは、教祖様を親神様のやしろとして、即ち、教祖様のお口を通じて、親神様のお心を、世の人々へお話下さることをいう。

このところやまとのしバのかみがたと
  ゆうていれども元ハしろまい ( 1号004)

  註釈 4
ここは大和のぢばのかみがたであると言うているが、何故ぢばがかみがたであるかという元は知るまい。

 しバは、ぢばで、親神様が人間を最初に宿し込まれた所、即ち、我々人間の元の親里を指す。
 かみがたは、神館の詰まったものと解す。

このもとをくハしくきいた事ならバ
  いかなものでもみなこいしなる ( 1号005)

  註釈 5
大和のぢばがかみがたであるその元来の訳を詳しく聞いたならば、どんな人でも自分達の元の故郷であるぢばが慕わしくなるのであろう。

きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
  よろづいさいのもとのいんねん ( 1号006)

  註釈 6
この根本のいわれを聞きたいと思うならば、尋ねて来るがよい。この世の成り立ちを初め総ての理を詳しく教えよう。

かみがでてなにかいさいをとくならバ
  せかい一れつ心いさむる ( 1号007)

  註釈 7
真実元の親神がこの世に現れて、無い人間無い世界を創造した親神の恩ちょう、たすけ一条の道を詳しく説き聞かしたら、世界の人々の心は、真実の教によって皆いそいそと晴れやかになる。

いちれつにはやくたすけをいそぐから
  せかいの心いさめかゝりて ( 1号008)

  註釈 8
たれ彼の差別なく総ての人々を、一日も早く救けたいから、親神の胸の中を悟れるように世界の人々の心を勇ませる。

註 以上八首は、「みかぐらうた」の「よろづよ八首」にあるものと殆ど同じである。ただ「おふでさき」に於ては五七五七七となっている和歌調が、「みかぐらうた」に於ては五七五七五となっている。

 

と、示されている。1下り目が「正月こえのさづけはやれ珍しい」と始まるわけだが、不思議な農作物の豊作、そして助けを表す話が出てくることと、そのためにおつとめを勤めさせたい思いが、次のお歌から出てくることを思えば、よろづよ八首が12下りの出しとして、はじめに歌われる事も理解できるように思う。

次の3首も記しておく。

だん/\と心いさんてくるならバ
  せかいよのなかところはんじよ ( 1号009)

  註釈 9
世界の人々の心がだんだんと勇んで来るならば、煩もんしたり焦ったりするような心持は無くなり、皆が、互い扶け合いの精神で、各々自分の仕事に励むようになって来る。従って親神もその心に添うて守護するから、世の中の生産は豊かになり家業は繁じょうして、何処へ行っても争いなどは無くなり、人々は平和に幸福に暮らせるようになる。

註 よのなかは、よんなかとも言われ、豊じょう満作の意。

このさきハかくらづとめのてをつけて
  みんなそろふてつとめまつなり ( 1号010)

  註釈 10
これから親神は人々にかぐらづとめの手振りを教えて、人衆そろうてつとめをするようになるのを待ち望むのである。

註 かぐらづとめとは、かぐらづとめでかんろだいを中心にして、元初まりの十柱の神様の理をたたえて、十人の人々によって奉仕するおつとめであって、このおつとめによって親神様にお勇み頂き、済世救人のお働きをお願い申すのである。
 このおつとめは又、場所の上からかんろだいのつとめとも、又、神人共に勇むという理の上からよふきづとめとも、又たすけ一条のつとめである上からたすけづとめとも仰せられている。(第六号30註、第十号25-27註及、第十五号52註参照)
 このおつとめは、ぢば以外に於ては許されない。「おさしづ」第391-392頁、第405頁参照。)

みなそろてはやくつとめをするならバ
  そばがいさめバ神もいさむる ( 1号011)

  註釈 11
人衆そろうて一日も早くかぐらづとめをするならば、親神は人間の実の親であるから、子供が喜び勇む有様を見ると親心として親神の心も勇んでくる。

と記されている。

「おふでさき」は、読まねばならぬが、「みかぐらうた」はいつでもどこでも唱えて、踊る事も出来る。

「よろづよの世界一列見張らせど、胸のわかりた者はない」

である。

胸が分かるようにしてやりたいのが、親神様の思いでもあろうかと思う時、「つとめ」と「原典」に親しむことで、成人の歩みが進むのだと改めて思った。

「人が神やで」とも聞かせてもらう時、それぞれに親神様は入り込み、導いてくれているとも思う。

 

今朝のおふでさきが、一号の最後の区切りだったことから、このような事を書いた。

悟りばかり。。。である。

 

今日も一日頑張りましょう。

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本部神殿奉仕にて。。かんろだい。。小難は無難について。。

2021年10月09日 08時10分57秒 | 思った事

今月も無事に、本部神殿奉仕を終えさせて頂く事が出来た。

緊急事態宣言が解除されて、先月急遽お休みされていた先生方も来られて、いつものように余裕を持った時間配分での勤めとなった。

先月に引き続き、今月も「かんろだい」の話が出た。

先月は北東に傾いていたのだが、北へ傾きながらも、背骨のように曲がりくねったようになっていた。

また、上から3段目がはっきりと回転してずれている事が分かった。

そして、撤饌の時に、一番上とその下の台の間にすき間がある。という事が分かった。

つまり、台が縮んで、ほぞの部分が長くなり支えられているのである。

それで、背骨のように曲がっており、回転してずれる現象も起こるわけだと理解した。

 

「かんろだい」は、人間を宿しこんだ場所であるぢばに据えられているから、かんろだいなのである。

同じようなものが作られたとしても、それがぢばに据えられていなければ、かんろだいではない。

この点を間違えてはならない。

その理由の一つは、「人間宿仕込みの証拠としてかんろだいをすえておく」と言われ、その人間宿仕込みの場所は、ぢばであるからである。

だから、石のかんろだいが2段まで出来ていたが、それが取り払われて、ぢばに置かれていなければ、それは「かんろだい」ではないのである。

人間宿仕込みの証拠として、陽気づとめ・たすけづとめ・かぐらづとめをつとめる中心に据えられて、「かんろ」を受けるための台ではなくなるのである。

一昨日、教会で朝読んだ「おふでさき」が17号の最後の区切りであった。

けふまでハとんなみちやらしれなんだ
これからさきハみちをしらする (17-56)

このみちハどふゆう事にをもうかな
月日ざんねんいちじよの事 (17-57)

このざねんなにの事やとをもうかな
かんろふ大が一のざんねん (17-58)

このざねん一寸の事でハないほどに
どんなかやしを月日するやら (17-59)

どのよふな事がありてもうらみなよ
みなめゑ/\にしてをいたのや (17-60)

このさきハせかへぢううハとこまでも
高山にてもたにそこまでも (17-61)

これからハせかい一れつたん/\と
むねのそふちをするとをもへよ (17-62)

このそふぢなんとをもうぞみなのもの
神の心をたれもしろまい (17-63)

月日にハどんなざねんがあるとても
いまゝでぢいとみゆるしていた (17-64)

さあけふハ日もぢうふんにつんできた
なんてもかやしせずにいられん (17-65)

このかやしなにの事やとをもている
神のさんねんばかりなるぞや (17-66)

このざねん一寸の事とハをもうなよ
つもりかさなりゆへの事やで (17-67)

月日にハせかいぢううハみなハが子
かハいゝばいをもていれども (17-68)

それしらすみな一れつハめへ/\に
ほこりばかりをしやんしている (17-69)

この心神のざんねんをもてくれ
どふむなんともゆうにゆハれん (17-70)

いまゝでのよふなる事ハゆハんでな
これからさきハさとりばかりや (17-71)

このさきハなにをゆうやらしれんでな
どふぞしかりしやんしてくれ (17-72)

さと/\たをと/\びよさま/\ (17-73)

このはなしあいづたてやいてたならば
なにゝついてもみなこのとふり (17-74)

これをはな一れつ心しやんたのむで (17-75)

であった。

「かんろだい」が取り払われた事が一番のざんねんであり、そのざんねんを晴らすための道を行うと宣言されている。

そして、

「どのような事が起きても恨むな、すべて自分たちでした事なのだから」

と言われるのである。

教祖が現身を隠される時の問答で、応法の道が始まった事が明らかにされている。

今その法が世界中で問われている。

不正選挙で当選をして、自分勝手な法律を自分勝手に作り上げようとしている事が表立ってきている。

「人間は法律があるから、神様の言う通りには出来ません」と言った言葉が、どれだけ人間思案の言葉であるかと思えてならない。

心が澄む事。心を澄ます事。

そして、親神様の心を心にうつす事。

これが何より大切だと思った。

「ざねんのものは何時に夢見たように散るやしれんで」

おふでさきの一節だと思ったが、身上になる事を嫌ってはならない。

身上になり、その身上から親神様の思いを悟らせて頂いて、心を澄ますのである。

身上になる事は辛い事である。

私も何度も何度も身上で苦しんできた。

特に痛みはとても辛いのである。

 

けれども、その痛みが無ければ、神様には願わないのである。

神様に願わないという事は、自分中心の勝手な考えで、ほころの心を積んでいる事にすら気が付かずに、人の上に立ち、人を惑わしている場合もあると考えられるのである。

 

先日、

大難を小難にして頂く事ばかりを考えていた。

ところが、小難を無難にして頂いている事に、ワクチン接種の副反応で苦しんでいる方々の記事を見て、気が付いた。

とFacebookに書いた。

無難にして頂いている事。これに気が付かないと、自分は大丈夫だからと、大変な事に加担している可能性もあると思えたのである。

この、大難は小難に、小難は無難にという事は、自分のいんねんを悟っていないと分からないものである。

このいんねんもただ単に、身上や事情が起きるという考えではなく、特に無難は、自分の癖・性分から自覚しないと分からないものであると思う。

 

人間の記憶というものは、本当にあやふやなものである。

聞いて思っても、そのように行動できない事があるのである。

聞いて思って、そのように行動できることがどれだけ素晴らしい事か。

これが無難なのである。

しかし、これを当然と思う中に、間違いが起こってくる。

かしもの・かりものである。

心通りの御守護。心通りに、思い通りに体が動く事がどれだけありがたい事か思うのであるが、それ以上にありがたいのは、神様から身上の印を頂いて、心を変える事が出来る事だと、思えるのである。

 

すべては、いんねんによるものである。

見るもいんねん聞くもいんねんであり、

同じものを見ても聞いても、受け取り考えるはその人のいんねんの心である。

世界中が陽気ぐらしが出来るための、受け取りが出来るような心にならせて頂きたいと思う。

 

おぢばから名古屋へ帰る前に、ちょっと時間があったので、思うままに書きました。

読みにくい文章、お許しください。

親神様・教祖、今日も一日よろしくお願いいたします。

 

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忙しかったけど。。。何とか間に合った。

2021年10月07日 09時04分00秒 | 思った事

今日は告別式に参列して、午後から支部例会である。

それを終えて、本部の神殿奉仕のためにおぢばへの予定である。

 

支部連絡報も何とか作れた。

いつもならばもう少し考えるのだが、時間が無くて、書きなぐったものであるが、それでも何とかコピーを終えて配布物に入れた。

 

その直前、別の支部の支部長さんから、支部長会の報告が欲しいと言ってきた。

ちょうどコピーをしていた時で、渡すことが出来た。

これで役員会で説明できます。との事である。

 

私はICレコーダーで録音して、それを聞きながら作っているが、ICレコーダーが無ければ説明も出来ない。

ともかく、上から流れて来た連絡を間違えないように伝える事、それが役目で、大切だと思っている。

 

葬儀の連絡をもらった時にはどうなるかと思ったが、親神様のお導きのままに、何とか無事無難に通らせていただけそうである。

 

ちょっと時間があったので、書いてみた。

 

親神様教祖、ありがとうございました。

 

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今朝見たら。。追記。今日の出来事から。。。

2021年10月05日 20時46分50秒 | 思った事

今朝Facebookにつながらなくなりました。

外のサイトには全てつながりますので、

たぶん停止させられたのでしょう。

今後どうなるか分かりませんが。。。報告だけしておきます。

 

この投稿をして、今日はバイトでした。

地下鉄に乗ったら、Facebookがつながりました。

そして次の事を投稿しておきました。

今朝、PCからもこのFacebookにアクセスが出来なかった。
削除されたかと思ったが、大丈夫だったようだ。
以前、アメリカ大統領選挙の時もこのようなことがあった。
ネットもすべて管理されており、発信することはすべて記録され、いざという時は、裁判などの証拠とされると思っておくことが必要だと思っている。

・・・・

その後、

Facebook関連のものすべてが使えなくなったようで、こんな事はありえない。
なにかあるのでは?

というYouTubeの発信もあった。

その可能性もある。と私は思っている。

目に見える事だけを信じていてはならないと思っています。

誰しも心がありますが、心通りに行動をしているわけではないのですから、

人の心を推察する。

この能力を養う事。これも大切ではないでしょうか?

 

このブログを見て下さっている方は天理教の方が主だと思います。

それもそれなりに信仰を進めている方だと思います。

 

悟りとは、目に見えない事を悟るから悟りであります。

目に見えた事を言っていては、悟りではありません。

 

誠真実についても「言われてからするのは。。。」です。

目に見えても、悟り違いもあります。

それは自分の先入観で物事を見るとそうなります。

 

ある方がこんな事を言っていました。

「右翼のいう事だから。。。」

その人は右翼と思っていても、そうではない場合もあります。これでは、「右翼」という先入観で、物事を見て、真実を見失う可能性があるかと思いました。

またある人がこんな事も言っていました。

「中国の人の発信している情報だから。。。」

これも「中国の人」という先入観です。「中国の人」でも色々あるのです。

中国共産党を応援する人、反対する人様々です。

私もアメリカの事で右派と左派という言葉をよく使いますが、どちらも自分が正しいとして、相手を蹴落とそうとして発信をしている事を前提として見れば、そうした両方の情報から真実を見抜く事が出来るのではないかと思います。

日本は、西洋とは異なった文化を持っていると思います。

だからこそ、西洋の文化、考え方を知らないと大変な事になると、今回のパンデミックから感じています。

「自分のところは素晴らしいから大丈夫だ」と考える事は、とても危険だと思います。

そのように言える根拠はどこにあるのでしょうか?と思ってしまいます。

教祖の言われる通り、誠真実の心で通っておれば、絶対に間違いはないという人があれば、素晴らしいと思いますが、自分自身や周囲の偉い立場の人々を見渡して、自分を振り返ると、ほこりだらけの自分は、そんなことはいえない。と思います。

今、このような事を書いている自分を振り返り、どうしてこのようになったのかと思ったりします。そして親神様・教祖が導かれる私の役目を感じています。

この先の事は分かりませんが、この最近の事を冷静に考えると、「安心安全」という人ほど信頼できないと思います。

心通りの守護なのですから。(^^)

もう一つ書いておきます。

・・・・

聞いて復唱しているのに、文字にしたら間違っていた。

それに気がついて、やばい!と思った。
 
そして、脳梗塞をした人の事を思い出した。
普通の人なら出直しているはずなのに助かった人のことである。
信仰をしているからこそというご守護があることに気がつけと言われたように思った。
・・・・
これも今日あった事です。
地下鉄で忘れぬうちにFacebookに上げておきました。
 
何事もない事が当然と思ってはならないという事です。
先代からの徳積みのお陰で、普通の人ならば大変な事になるところを、大難を小難に、小難を無難にして頂いている事を忘れて、誰しも同じようになると思い込んではならないと思います。
 
おびや許しの「おはるさん」と近所の名前を忘れましたが、御守護を頂けなかった方の違いを知っておく必要があると思います。
 
また思いつくままに書きました。
どうぞお許しください。
 
何かの参考になれば幸いです。
 
 

今日の事を記録しておきます。

 

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ついに特大の大ウソが暴かれました。。。

2021年10月03日 22時17分39秒 | 思った事

ずっと悪人にされて来た人が、ようやく善人であったと公けに認められました。

日本のテレビでは悪評ばかりが流されて、ほとんどの日本人はそれを信じて、悪人に利用されて来ました。

その判決が出たそうです。

【ロシア疑惑】民主党ヒラリー選対に雇われていた同弁護士の提供した情報は虚偽認定/トランプ氏のロシア疑惑は「民主党陣営の捏造」疑惑を示すような新展開へ | Total News World (totalnewsjp.com)

 

 

これから、世界が大きく変わって、神様を信じて、皆が共に楽しく暮らせる世の中になりますように。。。

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