あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

「元の理」を考える5。。。数字からみる3(思える事1)

2021年06月14日 14時35分10秒 | 元の理

「元の理」を遺伝子ということから考え始めて、前々回は数字から事項を拾ってみた。そして前回はそれを元に表を作ってみた。今回はそれらをまとめて思う事を書いてみたいと思う。

① 第1回目の宿仕込みと2回目との差であるが、

宿しこんだ子数は同じでも宿仕込みにかかった日数とぢばに留まった日数が異なる。

1回目は、3日3夜かけて2人ずつ宿しこんで、3年3カ月ぢばに留まっている。そして75日かけて日本の各地へ生み降ろしている。

しかし、2回目以降は何日かけて宿しこんだかの記述がない。そしてぢばに留まるのは10カ月になっている。さらに、生み降ろした日数も記述がない。

この記述がない事をどのように考えるかが問題だと思う。

変更された事だけが教えられて、変更されていない事は記述されていないとも考えられるが、今の人間になって、宿しこむのは一瞬である事を考えると、変更されていないとは考えにくい。

この件については、こうした疑問があるという事にとどめておきたい。

② 表に書き忘れたが、1回目の宿仕込みには、「イザナギ・ウオ」と「イザナミ・ミ」で宿仕込みを行い、99年経って、子供が出直す時に、「イザナギ・ウオ」は身を隠した。2回目の宿仕込みは、教えられた守護によって、「イザナミ・ミ」は元の子数を宿しこみ、この子供も99年経って出直して、3回目の宿仕込みも「イザナミ・ミ」は元の子数を宿しこんだ。そして、この99年経って子供が4寸までなったのを見届けて、「イザナミ・ミ」は身を隠した。

今、これを表に現わすにはどうしたらよいかと、思案している。

「宿仕込みの時の存在」という項目を作るとするか、「生殖」という働きが、親神が人間を創ろうとして初めて行われた事とすると、「男の役」「女の役」として表を作る方がよいかとも思う。

(読んで下さる方には、まとまらずに誠に申し訳ない事であるが、書いていると次々と思い浮かぶ。そうした状況をも記している事をご了承いただきたい。)

今「男の役」と書いて思ったのだが、

「男ひながた・種」として「イザナギ・ウオ」は存在した。「イザナミ・ミ」は「女ひながた・苗代」である。この「ひながた」という言葉がとても重要だと思えた。

教祖は「人間が陽気ぐらしをするための、万人のひながた」を歩まれたのである。

「かんろだい」も、一度「ひながたかんろだい」を作り、石造りが始まった。

この「ひながた」は「手本ひながた」とも言われる。

そうすると、一度目の宿仕込みは、「男・女のひながた」が宿仕込みを行い、2回目・3回目の宿仕込みは男はひながたではなく、「男の守護を持ったものが、女ひながたに宿仕込み」を行ったと考えられないだろうか。

生まれた子供の姿形についての記述は、虫鳥畜類とめざる以外にはない事を考えると、この1回目から3回目の子供の姿はそれらには入らないような姿であったのかもしれない。

そして、「ひながた」からすると、3度目以降の虫鳥畜類「めざる」はひながたではなく、生殖の守護されたものが、人間を宿しこみ、生み育てたと考える。

ここまで、宿仕込みの事を考えて見て、確実だと思えたのは、

①地球上にある人間は、男女の夫婦の営みがあって、人間の種が宿しこまれて存在するものである事。

②宿しこんで、生まれだすまでは「女ひながた・イザナミ・ミ」一人の苦労である事である。

そして、

③人間の定義についてである。それは、月日が食べた「ドジョウ」の魂が人間の種であるという事は、男女の営みは、ただ単に人間の形をした生物を作るのではなく、魂を入れる事に意味があると思えたのである。
つまり、「イザナギ・ウオ」が「男ひながた・種の理」という意味が、ただ単に、男性の生殖機能をさすだけではなく、「人間の魂・種」を「女ひながた・苗代の理」である「イザナミ・ミ」に入れる事であると思えた。

 

実は、この表を作成する前に、一度「男ひながた種」の「種」と「女ひながた苗代」の「苗代」について書いていた。

今の人間で考えてみると、「種」を「精子」として考えると、「苗代」は「卵子」それとも「子宮」か?と疑問が出て来た。

鳥の卵は、卵の中でひよこになる。子宮を備えた状態ということになる。そして精子が入ったものが有精卵として、ひよこになり、精子が入らなければ無精卵として、むだ花になる事に思いが行き、そこでストップしていたのであった。

今回、この表から思案する時、苗代とは「鳥や虫であれば卵であり、人間などの哺乳類でいえば、卵子と子宮である」と思えた。
そして、「男ひながた種」の「イザナギ・ウオ」の働きを持ったものは、精子を振りかける魚ではなく、「女ひながた苗代の体内」へ送り届ける「男の生殖器」を持ったものである事に思い至った。
さらに、「女ひながた苗代」の「イザナミ・ミ」の働きを持ったものは、卵子を外へ出すものではなく、「男ひながた種」を男の生殖器から受け入れて、体内で卵を大きくする「女の生殖器」を持ったものであるとも思えた。

3回の宿仕込みをされた後、「虫鳥畜類と生まれ変わりをして」とあるが、ここに魚がないのは?と思った。
また、魚の中でも、サメは体内で子供を孵化させるとの事。すると、魚の中でも人間がなった魚もあるのだろうか?と思ったりする。

今、遺伝子を組み替えて新しい生物を作る技術が出来ているとの事だが、通常自然の中では、同じ種族間でしか交配はされない。
その種族間での交配により、その種族内で様々な種類のものが出来ている。

そうした中に、今の人間は、手足を自由に使えるとても重宝な体を与えられるまでになった。

④ 虫鳥畜類と、人間がなったという事は、人間の魂がそれらに宿っていたわけで、人間は生まれかわって他の種族になっても、その子孫は新しい魂を宿してこの地球上で生活した。と言えないだろうか。

このことについては、『正文遺韻抄』153頁「人間の数について」に、

 ある時、梅谷様より、仲田様、山本様などに、『人間は、9億9万9千9百9十9人の人数と、聞かせられるが、中に、牛馬に堕ちているものも、おるとの事なれば、人間の数は、現在増えておりますか、また減っておりますか』とたずねしところ、『そんなことは知らぬから、これから神様へ伺わん』と申して、教祖の御前に伺い、仲田様より、右の次第お尋ね申し上げしに、しばらくお伺いの態にて『それは増えてあるとおっしゃる』と仰せられて、それより、その次第をお聞かせ下さるには、
 『元は、9億9万9千9百9十9人の人数にて、中に、牛馬に堕ちている者もあるなれど、この世初めの時より後に、生き物が出世して、人間とのぼりている者が沢山ある。それは、鳥でも獣のでも、人間を見て、ああうらやましいものや、人間になりたいと思う一念より、生まれ変わり出変わりして、だんだんこうのうを積で、そこで、天にその本心を表してやる。すると、今度は人間にうまれてくるのやで、そういうわけで、人間に引きあげてもろうた者が、沢山あるで』と仰せられ、一同感服して、御前を下がりしという。

と書かれてある。

この事から、そのように思うのである。

ドジョウは月日に食べられて人間の種となったから、生物は人間に食べられて、人間に近づくのか?と思ったりする。

 

今回は、ここまでとしたい。

皆さんの思案の参考になればと思います。

 

どうぞ、親神様・教祖の思いが世界中に広がりますように。。

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元の理を考える4。。。。数字から見る2(数字に関する表)

2021年06月07日 11時36分31秒 | 元の理

前回、元の理の数について「教典」第三章「元の理」と、「こうき話」16年本を見て、数字に関する事項を書き出した。

「元の理」を考える 3。。数から見る(1) - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

今回は、それを元に作表をして見た。どのように作表するか迷ったが、縦軸に「事項」、横軸に「年代を表す事項」を配置して作ってみた。

作った表だけを掲載してみる。

PCの画面で見れば、何とか表として見ることが出来ると思うが、スマホでは少し見ずらいかもしれない。

PCでは、上記リンクが別タブで表示されるので、2画面にすれば見比べる事が出来ると思う。

ご意見、感想などを聞かせて頂けるとありがたく思います。

・・・・・

※表に宿仕込みの状態他を追記(2021.6.10)

  。。「元の理」 数字に関する表。。   
    ※黒字は「教典」第三章「元の理」にある記述。赤字は「こうき話16年本」にある記述。  
    ※年数の表示1 「水中の住まい9億9万年」と「元の理」にはあるが、「こうき話」では「9千9百9十9年間水中の生活」とある。  
    ※年数の表示3 「文字の仕込み3千9百9十9年」は、「こうき話16年本」にはない。  
  1回目 2回目 3回目 虫鳥畜類期間 めざる以後 最初 人間の大きさ8寸以降 人間の大きさ1尺8寸以降 人間の大きさ3尺以降 人間の大きさ5尺以降
宿仕込みの子供の数 9億9万9千9百9十9人 1回目と同じ 1回目と同じ   1腹に男5人女5人   1腹に男1人女1人 1腹に1人  
2人ずつ仕込んだ                
宿しこみにかかった日数 3日3夜                
宿しこんでとどまった日数 3年3カ月 10カ月 10カ月            
生み降ろしの日数 75日                
生み降ろし日数の内訳 今の奈良、初瀬七里四方の間7日・残る大和の国中4日・山城、伊賀、河内、三ケ国19日・今の日本中45日(宮地の地場) (墓所) (はらてらの参り所)            
生まれた人間の大きさ 5分 5分 5分   5分        
出直した時の人間の大きさ 3寸 3寸5分 4寸            
人間の生きた年数 99年 99年 99年 9千9百9十9年目に死する          
生れ変った回数       とても多く(八千八度)          
宿仕込みの状態 ウオとミで宿仕込み 教えられた守護とミで宿仕込み 教えられた守護とミで宿仕込み            
その他1     予想された大きさ5尺 最後にめざる1匹が残る めざる一匹の腹に   子供が親になり、元の子数が揃うようになった。 言葉を話し始める 最初の子数の人間の内、大和に生み降ろした人間は日本へ、それ以外は外国へ上がった。
その他2 ウオが身を隠す   ミが身を隠す めざるはクニサヅチ          
                   
世界           泥海に高低が出来かける 天地も日月も区別できるようになる   海山も天地も出来上がり、陸上の生活を始める
                   
年数の表示1 水中の住まい9億9万年               9千9百9十9年間水中の生活
年数の表示2 知恵の仕込み6千年               立教以前9千9百9十9年は地上の生活
年数の表示3 文字の仕込み3千9百9十9年               地上の生活の内6千年は神が入り込んで教えた
  ※「46年以前まで」とあるが、この本は明治16年に記されており、明治16年は西暦1883年、立教の天保9年は西暦1838年で、間45年間となり、立教の年を言われている事と思える。

 

・・・・・

親神様・教祖、どうぞ大難は小難にとお守りください。

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「元の理」を考える 3。。数から見る(1)

2021年06月06日 11時22分36秒 | 元の理

前回は、「ウオ」と「ミ」が生物の中に入り、生殖によって今の人間の身体へと変化させたのではないかと話をした。

今回はそのようにして生まれた子供である人間が、生きた年数や成長した寸法などの数について考えて見たい。

まず、《教典》第3章「元の理」から数字に関する事項を拾ってみる。その後、これに「こうき話」《16年本》を加えることとする。

1回目の宿仕込みと生み降ろし、そして子供が出直すまでを書きだしてみる。

・宿仕込みは3日3夜。

・宿しこまれた人間の数は、「九億九万九千九百九十九」
(これを算用数字で表すと「
900,099,999」となり、9億と9万の間に相当の差がある事をよく見逃す。)

・ぢばに留まったのは、3年3カ月

・生み降ろしは75日

・生まれた人間の大きさは5分(約1.5センチ)

・出直した人間の大きさは3寸(約9センチ)

・生きた年数は99年である。

【元の理】
 かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されることとなった。そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢょを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。そして、月様は、いざなぎのみことの体内に、日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、人間創造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数をいざなみのみことの胎内に宿し込まれた。それから、いざなみのみことは、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかって、子数のすべてを産みおろされた

 最初に産みおろされたものは、一様に五分であったが、五分五分と成人して、九十九年経って三寸になった時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された

2回目の宿仕込みと生み降ろしは、

・宿しこまれた人間の数は、元の子数。「九億九万九千九百九十九」

・生み降ろすまでの期間は、10カ月

・生まれた人間の大きさは5分(約1.5センチ)

・出直した人間の大きさは3寸5分(約10.5センチ)

・生きた年数は99年である。

【元の理】しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみことは、更に元の子数を宿し込み、十月経って、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経って三寸五分まで成人して、皆出直した

3回目の宿仕込みと生み降ろしは、

・生まれた人間の大きさは5分(約1.5センチ)

・出直した人間の大きさは4寸(約12センチ)

・生きた年数は99年である。

・将来予想された人間の大きさは、5尺(約1.5メートル)

【元の理】そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経って四寸まで成人した。その時、母親なるいざなみのみことは、「これまでに成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、にっこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた

3回目以降は、

・虫鳥畜類などと幾度(八千八度)も生まれ変わる。

【元の理】 その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、

虫鳥畜類などの後は、

・めざるが1匹だけ、残る。

・めざるの腹に宿る人数は、男5人女5人の10人ずつ。

・生まれた人間の大きさは5分(約1.5センチ)

・人間の大きさが8寸(約24センチ)で泥海の中に高低が出来かける。

・人間の大きさが1尺8寸(約54センチ)で、天地も日月も区別できるようになって来た。

・人間の体内に宿る人数は、1尺8寸(約54センチ)から3尺(約90センチ)までは、男1人女1人の2人ずつ。

・3尺(約90センチ)以降は、一腹に1人ずつ。

・言葉を話すようになったのは、人間が3尺(約90センチ)になった時。

・人間の大きさが5尺(約1.5メートル)で海山天地世界が出来上がり、人間は陸上の生活を始めた。

・水中での生活は、9億9万年(900,090,000年)

・知恵の仕込みは、6千年(6,000年)

・文字の仕込みは、3千9百9十9年(3,999年)

【元の理】 最後に、めざるが一匹だけ残った。この胎に、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になった時、親神の守護によって、どろ海の中に高低が出来かけ一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた。そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、一胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、一胎に一人ずつ生れるようになった。次いで、五尺になった時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになった。

 この間、九億九万年は水中の住居六千年は智慧の仕込み三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。

 

次に、「16年本」を加えて見る。(加えたものは黒字で表示する。無い事項は削除線を記す。)

1回目の宿仕込みと生み降ろし、そして子供が出直すまでの年数を書いてみる。

・宿仕込みは3日3夜。

・宿しこまれた人間の数は、「九億九万九千九百九十九」
(これを算用数字で表すと「900,099,999」となり、9億と9万の間に相当の差がある事をよく見逃す。)

・ぢばに留まったのは、3年3カ月

・生み降ろしは75日

・生まれた人間の大きさは5分(約1.5センチ)

・出直した人間の大きさは3寸(約9センチ)

生きた年数は99年である。

・宿仕込みには、2人ずつ(2人宛)宿しこんだ。

・生み降ろした場所は、「今の奈良、初瀬七里四方の間7日」。
          「残る大和の国中4日」。
             ここまで合計11日が「おびやあけ」。
          「山城、伊賀、河内、三ケ国19日」。
             ここまで合計30日を「はんみや」。
          「今の日本中45日」
             すべての合計75日をかけて生み降ろした。「おびや中」

   ※生み降ろした場所は、宮地の地場。

《16年本》
 これなる魚、道具とするを嫌う者を無理に貰い受け、人間を拵える相談を定めて、ぎぎよしやちほこを男一の道具に仕込み、それよりくにとこたちの命との心を入り込み、男神で人間の種なり。みいかめを女の一の道具に仕込み、それにおもたりのことの心を入り込み、女神にして、人間の苗代となして、此の屋敷のかんろたいじばを神体(註:神たい)の中央として、北枕に寝て、九億九万九千九百九十九人の人数三日三夜に南無々々と二人づつ宿し込み給う。此の事を以て、南無とはあうんのことなり。今人間も南無々々として居ることは良ことなり。南無と云うは夫婦のことなり。夫婦とは、天と地を象りて夫婦はじめた事なり。人間と云う名を付けたは、雛形の人ぎよと人間の良き事あれば、これを今にけんと云うことの残り、この二つの理を以て人間と名を付け給う事なり。

《16年本》「13」
 人間拵えたのは此のやしきの中央にて、前の部にある通り、いざなぎの命しやちほこを男の一の道具に仕込み、それに国常立之命を入り込み、どじよふ人間の魂として、いさなみの命かめを女の一の道具に仕込み入れた。おもたるの命を入り込み給うて、人間の苗代として九億九万九千九百九拾九人の人数を南無々々と二人三日三夜に宿し込み、三年三月留まりて居りて、それより今の奈良、初瀬七里四方の間七日かゝり産み下ろし、此のぢばが神かたと云うのは此の処なり。残る大和の国中四日かかりて産み下ろし、これで十(一《補・梶本本22》)日がおびやあけと云う。山城、伊賀、河内、三ケ国十九日かゝりて産み下ろしこれ三十日をはんみやと云う。残る今の日本中四十五日かゝりて産み下ろし都合七十五日の間かゝりて産み下ろし、これ故に七十五日の間はおびや中と云うなり。即ち、産み下ろし毎に親の息をかけて産み下ろしおく。このぢばは今の宮地の地場となりてある処なり。これにていさなぎ様は死亡する。

 此の人間生まれ出しては、五分より生まれて九十九年目三寸迄成長して、皆死亡す

2回目の宿仕込みと生み降ろしは、

・宿しこまれた人間の数は、元の子数。

・生み降ろすまでの期間は、10カ月

・生まれた人間の大きさは5分(約1.5センチ)

・出直した人間の大きさは3寸5分(約10.5センチ)

・生きた年数は99年である。

      ※生み降ろした場所は墓所

《16年本》「13」
又、元の人数を同じ胎内へ宿り込み十月目より、又、諸処へ産み下ろし廻り、この地場は今の墓所なりてある処なり。此の人間も五分から生まれて、九十九年目には三寸五分迄成長して、皆死亡す

3回目の宿仕込みと生み降ろしは、

・生まれた人間の大きさは5分(約1.5センチ)

・出直した人間の大きさは4寸(約12センチ)

・生きた年数は99年である。

・予想された人間の大きさは、5尺(約1.5メートル)

・宿しこまれた人間の数は、元の子数。

・生み降ろしまで、10カ月。※追記

・生まれ出る所は2寸に4寸。死に行く穴も2尺4寸。

    ※生み降ろした場所は、今のはらてらの参り所。

《16年本》「13」
一度教えたる守(護で、元の人数同じ胎《補・梶本本22》)内へ三度宿り込み、又、十月目より、以前の諸処へ産み下ろし
、此の地場は今のはらてらの詣り所なり。これを一みや、二墓、三原(註:三はら)と云う参り所なり。

 此の人間も五分から生まれて、九十九年目四寸迄成長すいさなみ様はこれを見て、こゝ迄成長するならば、五尺の人間になると喜こんで、にいこり笑うて死亡なされ、また四寸の理と、につこり笑うた理を以て、生まれ出るところも二寸四寸、死に行く穴も二尺四寸と云うなり。
 又、此の人間も親の後を慕うて、残らず死亡す

3回目以降は、

・虫鳥畜類などと幾度(八千八度)も生まれ変わる。

・この生まれ変わる年限は、9千9百9十9年目に死する。※

《16年本》「13」
それより、鳥類、畜類、虫螻(註:むしのら)異形の者と八千八度生まれ替わりた。故に、今人間は何もの真似でも出来る事なり。

 此の年限は、九千九百九十九年目に死亡す

虫鳥畜類などの後は、

・めざるが1匹だけ、残る。(このめざるは、「カメ・クニサヅチ」)

・めざるの腹に宿る人数は、男5人女5人の10人ずつ。

・生まれた人間の大きさは5分(約1.5センチ)

・人間の大きさが8寸(約24センチ)で泥海の中に高低が出来かける。

・人間の大きさが1尺8寸(約54センチ)で、天地も日月も区別できるようになって来た。
 この時、子供が親になり、元の子数が揃うようになった。

・人間の体内に宿る人数は、1尺8寸(約54センチ)から3尺(約90センチ)までは、男1人女1人の2人ずつ。

・3尺(約90センチ)以降は、一腹に1人ずつ。

・言葉を話すようになったのは、人間が3尺(約90センチ)になった時。
 この理由として、人間は3才になると言葉を話し始める。

・人間の大きさが5尺(約1.5メートル)で海山天地世界が出来上がり、人間は陸上の生活を始めた。
 この時、9億9万9千9百9十9人の人間の内で、大和の地へ生み降ろした人間は、日本の地へ上がり、それ以外の地へ生み降ろした人間は外国の地へ上がった。

水中での生活は、9億9万年(900,090,000年)
 9千9百9十9年の間水中の住まい。

・知恵の仕込みは、6千年(6,000年)地上での生活の内6千年は、神が入り込んで教えた。

文字の仕込みは、3千9百9十9年(3,999年)

・46年以前までの年数9千9百9十9年が地上での生活。

《16年本》「13」
又、さるが一人残りいる。これはくにさつちのみことなり。此の胎内に、男五人、女と十人づゝ生まれ此の人間も五分から生まれて、五分々々とだん/\成長して、又、八寸迄成長した時に、泥水、高低出来かけ一尺八寸迄成長したに、子が親(となりて、元の人数生揃ひ《補・梶本本22》)水土分かりかけ、これより男一人女一人二人つゝ生まれて三尺迄成長した時に、天地海山分かりかけ、人間物を言いかけ、それで、今人間は三才で物を言いかけるなり。五尺成長する迄は水中に住ま居五尺になる迄に、人間の成長に応じ、天地海山、水土速やかに分かりあり

 人数九億九万九千九百九十九人の内、大和の国へ産み下ろしたる人間は日本の地に上がり、外の国へ産み下ろしたる人間は食物を食い廻り、唐、天竺の地上がり行きたものなり
此の年限九千九百九十九年之間水中の住まいす地に上がりたるより四十六年以前迄の年限九千九百九十九年なり。此の内、六千年の間人間に神が入り込み、何事も教え来たる事なり人間のする事を神が教えたる事は誰も知りたる者はない筈の事、人間を拵えても、これ迄人間に入り込んで、口を借りて教えたことは今初めの事故に、実に承知する者少なし。虚言(註;きよふげん)と思えば虚言となる。真(註;まこと)と思えば真なる。神の言う事は真実と思て願えば、拝み祈祷や、薬飲まいでも、話一条で皆たすかる事、これ証拠なり

以上列記してみた。

皆様方はどのように思われるだろうか。

もう少し思案を重ねるために表にして見たいと思うが、親神様がお教え下された話の中で一番重要なのは「かしもの・かりもの」である。

人間の魂・心に体を貸し与えて、魂は生まれ変わり出変わりしているという事である。そして、この魂・心は生まれかわる度に様々な事を経験して、良い事も悪い事もしてほこりを積み、徳を積み、良いいんねんも悪いいんねんを重ねているのである。

本来の親神様の目標は「陽気ぐらしをする人間を見て、共に楽しみたい。その人間を作りたい。」というものである。

「16年本」の最後に次の事柄が記されている。

「かんろだい」」を建てる意味合いと、建ててからの事柄である。さらに、病気・薬・毒についても記されている。

《16年本》[14] 
 又、かんろだいを建てておくは、人間宿し込みたるじばの証拠に、元の十柱の神の謂うわれ形を以て建ておくなり。又この先は、世界中の心澄みたるうえは、かんろふだいの上に平鉢に食物を供え、それにかんろふを与え、これは人間の寿命薬となる、との御はなしなり。
 人間には病なく、薬なく、毒もなくして、此の元は皆心から。人間は死に行くと云うていれども、死に行くでなし。身の内は神が退く事なり。死ぬると云うは、衣服を脱ぎ捨ているも同し事なり、神が教え給うなり。
(終わり)

また、「教典の元の理」と「こうき話」の違いは、「こうき話」は、当時の先生方が聞いたままに、また感じたままに書かれているもので、その書き留めた人々によっての差があるものである。「元の理」は「こうき話」以外の資料も加味して、書かれたものである事、表現も世界に合わせて書かれてあることを改めて確認をしておきたい。

次回は、これを表にして、思う事を書いてみたいと思う。

 

親神様・教祖、どうぞ大難は小難にとお守りください。

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「元の理」を考える 2 生物に入り込み、生殖・遺伝子という事から

2021年06月04日 22時05分17秒 | 元の理

前回は「元の理」を「こうき話」で補完しながら、見て見た。

今回はそこから思われることを書いてみたい。

まずは、1回目の宿仕込みと、2回目の宿仕込みの差を考えて見たい。

1回目は「ウオ」と「ミ」がいての宿仕込みであるが、2回目は「ウオ」は隠れて、「ミ」だけでの宿仕込みとなる。

この事をずっと、不思議に思っていた。しかし、先日風呂に入っていた時に、ふと「月」「日」は「ウオ」と「ミ」に入り込んだ事を思った。

「こうき話」では、月日の心が入り込んだとある。心も魂も目には見えない。「ウオ」は隠れて魂となり、それが他の生物の中に入り込み、男一の道具の働きをして「ミ」と宿仕込みを行ったらどうなるだろうかと思えたのである。

今回この「元の理」を考えるきっかけになったのが、新型コロナとワクチンである。

なぜかというと、両者とも遺伝子を扱っている事から、この「元の理」を遺伝子で考えてみてはどうかと思えたからである。

遺伝子と考えるとき、「ウオ」と「ミ」が月日に食べられない事はとても重要な事と思える。

つまり「ウオ」と「ミ」の遺伝子が掛け合わさって、一回目の人間が生み降ろされた。この者たちの姿については記述がないから分からないが、地球上にあるほとんどの生物が、同じように男女の性があって生殖の働きで子孫を作っている事を思うとき、「ウオ」「ミ」が生殖の働きのない者に入り込んで生殖が出来るようにして、人間のたねを宿しこんだのではないかと思えたのである。

いくら生殖の機能があって子孫を増やしたとしても、月日に食べられた「ドジョウ」による「人間のたね」が入らなければ人間ではない。

ここで疑問を出してみたいと思う。

一つは、道具衆以外の生物がいたのかという疑問である。
これについては、「いない」という言葉がないわけで、他の「ウオ」や「ミ」が入り込める生物があるとすると、それらの生物によって、生殖が行われて、遺伝子のかけ合わせが行われて、新しい生物、姿をした人間が生まれたと考えられないだろうか。

それが、「虫鳥畜類と八千八度の生まれ変わり」という表現ではないかと思うのである。

そしてまた、この生殖の働きで出来たものたち、「虫鳥畜類」はすべて、十柱の神の働きでの体形、5体をしている。

その畜類の最終が「めざる」となり、その「めざる」の腹に「ウオ」の働きで何かの生物との生殖が行われて、今の人間の姿が出来た。と思えるのである。

また、生殖機能がない生物に生殖機能をつくれるのか。という疑問も出てくると思うが、これについては、不思議なおたすけの話に、目の無い人に目をさづけたとか、足が曲がって立って歩けなかった人が、普通の人のようになって歩けるようになったという話しもある事を考えれば、ない所に作る事も、変化させることも親神様には簡単な事だと思う。

それを繰り返して、今の人間の姿にしたと思うのである。

これが本当かどうかは分からないが、人間が虫鳥畜類と形を変えて今日の姿になったのは、胎児の変化からも考える事ができると思う。

今回はここまでにする。

人間の生まれ変わる年数。人間の数などについて考えて見たい。

 

親神様・教祖、今日も一日ありがとうございました。

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おさづけに行かせて頂いた。。。「元の理」を考える。。。

2021年06月03日 21時58分28秒 | 元の理

今日は久々におさづけを取り次ぎに出かけた。先日行こうと思ったが、相手方の都合が悪く、今日ようやく行くことが出来た。

その方は、先日心臓の身上で入院をされていた方で、ようやく通常の生活が出来るようになり、それでも時折苦しくなるとの事で、おさづけに行ったのだった。

手足がとても冷たくなり、発作が起きるとの事。入院される前に月次祭の時に、とても足が痛そうで揉ませてもらった時に、足首や足の裏がカチカチだった。これだけカチカチでは血の流れが悪すぎると思い、揉ませて頂いた事がある。

1回目のワクチン接種をされたとの事。副反応がなかったので良かったと思ったが、今後ともお守り頂きたいと思いながら、今日も少し手と足を揉ませてもらって、おさづけをさせて頂いた。

政治や医療に疑念を持たなければ、私は率先してワクチン接種を進めただろう。けれども、これだけ疑念を持つとそうは行かない。あまりにも、暗い闇を感じてしまう。

さて、親神様のお導きを考えれば、「ワクチンを接種したいと思っても出来ない人」もあり、「したくないと思ってもしなければならない人」もある。

そうした時に、以前本部神殿奉仕の時に、親神様にお願いしたのだが、「全ての人が大難は小難にと守られることを願うしかない」と思っている。

 

表題の「元の理」の話をしたい。

先日ワクチンの事を書いていて次の言葉が浮かんだ。

「素直は神の望み」と聞く。「三才心」とも聞く。

子供が三才までは、親のいう事をそのままに受け取り、そのままに行うのである。

それを親神様は喜ばれた。

そして、その子供たちを守るために、親は懸命に通る。これをされたのが教祖だと思う。

ただ、

「その親の亡きあと、子供が三才のままでは、どうなるだろうか。」と思う時、「元の理」が浮かんだ。

私たち人間は、陽気ぐらしが出来るようにと成人を目指さなければならない。そのために教祖は苦労の90年で現身を隠されたのだ。だから真実を伝えたいとされた「元の理」を、難しいからと言って、投げ出していてはならないと思う。

そこで、「元の理」ついて考えて見たい。

・・・

「ぢば」は、人間宿仕込みの証拠として、かんろだいを据える場所である。

人間を宿しこむとは、男女の営みを行ったという事であり、人間を生み降ろした場所ではない。

また、男女の営みを行った後、「イザナミ」様が三年三月おられた場所でもある。

その後「こうき話」によると、奈良初瀬などと、生み降ろしに回られたという事である。

ここで注意したいのは、『教典』に書かれた「元の理」は、「おふでさき」を元にして、間違いのない所を記されたという認識が必要だと思う。

つまり「こうき話」は、書かれた本ごとに違っているところなどが見受けられて、一つのこうき話をそのまま鵜呑みにして断定する事は出来ないという事である。

この点を考慮して「元の理」を思案して、親神様の思し召しを悟る手掛かりにしたいと思う。

まず、

『教典』第3章「元の理」には、

【元の理】
 この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。

とある。
 ここで、「月日親神」という表現が出てくる。月とは「クニトコタチ」、日とは「オモタリ」様の事である。
この2神が人間を作る相談をしたという事である。そして、その人間を作る目的は、「陽気ぐらしをさせて、共に楽しみたい」というものである。

 次に様々な水生動物の名前が出てくる。
 一番初めが「ドジョウ」である。そしてその後に「ウオ」と「ミ」である。
ここで、この「ウオ」と「ミ」に、「最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせよう」と約束されている。

 その後、「シャチ」「カメ」「ウナギ」「カレイ」「クログツナ」「フグ」が出てくる。
ここで、いくつかの疑問も出てくると思う。その数点を挙げておいて、その事については又の機会にしたいと思う。

1)今の現実世界にある魚たちが、その当時に本当にいたのか?

2)これらの魚たちは1匹だけだったのか?それとも何匹もいたのか?

3)約束をしたのは、「ウオ」「ミ」だけなのか?

などと私は疑問に思う。

ここには書かれていないが、月日親神の月は「大竜・クニトコタチ」、日は「大蛇・オモタリ」である。

【元の理】
 そこで、どろ海中を見澄まされると、沢山のどぢょの中に、うをとが混っている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。

 続いて、乾の方からしゃちを、巽の方からかめを呼び寄せ、これ又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて、これ等を男一の道具、及び、骨つっぱりの道具、又、女一の道具、及び、皮つなぎの道具とし、夫々をうをとに仕込み、男、女の雛型と定められた。いざなぎのみこと いざなみのみこととは、この男雛型・種、女雛型・苗代の理に授けられた神名であり、月よみのみこと くにさづちのみこととは、夫々、この道具の理に授けられた神名である。
 更に、東の方からうなぎを、坤の方からかれいを、西の方からくろぐつなを、艮の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにも又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試された。そして夫々、飲み食い出入り、息吹き分け、引き出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみこと かしこねのみこと をふとのべのみこと たいしょく天のみこととの神名を授けられた。

ここで、注意したいのは、「ウオ」「ミ」以外は、「承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて」月日によって食べられているという事である。

そして、「親神は、どろ海中のどぢょを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。」とあるようにドジョウ」は道具ではなく、「人間のたね」として、月日は食べており、また、この「ドジョウ」に対しては、承知もさせていないのである。
つまり、月日の両神は、「ウオ」「ミ」以外は食べて、取り込んでいる状態での、人間の創造となる。

ここで一つ、思える事は「食べる」という行為がとても重要な事に思われる。
それは、「食べる事」が体内に取り込む事であることからすると、食べる事でその守護を取り入れるという事になるのではと思われるからである。

 人間創造に取り掛かられるためには、6柱の守護を体内に取り込んだ月日が、「ウオ」と「ミ」にそれぞれが入り込んで、「人間創造の守護を教え」とある。とても簡単に書いてあるが、これはウオ」には「シャチ・ツキヨミ・男一の道具」を仕込み、「ミ」には「カメ・クニサヅチ・女一の道具」を仕込んで、「ウオ」が男一の道具を使い、「ミ」の女一の道具に子供を宿しこむ事を教えたという事である。

 これは三日三夜かけて行われて、宿しこまれた子供の数は「九億九万九千九百九十九人」であり、そして「ミ」はその場所に三年三カ月いて、その後七十五日をかけてその子供を生み降ろされたのである。

【元の理】
 かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されることとなった。そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢょを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。そして、月様は、いざなぎのみことの体内に、日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、人間創造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみことの胎内に宿し込まれた。それから、いざなみのみことは、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかって、子数のすべてを産みおろされた。

 この宿仕込みをした場所が「ぢば」である。

 よっと余談になるが、ここの文章から、月日の性質については、他の物を食べる事が出来るものであり、また、「ウオ」「ミ」という身体のあるものに入る事が出来る性質がある事が分かる。(こうき話では、「心を入り込み」と書かれてある。)

 ここまでを「こうき話」十六年本 から見て見たい。(文字は「こうきの研究」に書かれていたそのままであるので、分かりにくいと思うが、太字にしておいた。)

 此の世は、元人間も世界も無く、泥の海ばかり。その中に、神と云うは、月日両人(居たばかり。此月様と云わ《補・梶本本22》)くにとこたちのみことと云う神なり。日様はわおもたりのみことと云う神なり。その中より、月様が先に居てた。国床を見定めて、日様へお談じなされ候には、
 「泥の海に、月日両人居たばかりでは、神と云うて敬う者なし、何の楽しみもなく、人間を拵え、その上世界を拵えて、守護をさせば、人間は重宝なる者で、陽気遊山を見て、その他何事も見られること」
と相談定まり、此の人間を拵えるには、種・苗代が要るに、道具雛型なくばいかん事故(註:ことゆえ)、道具雛型を見出すること。
 見澄ませば、ぎぎよと云ううをがいる。此うをは人ぎよとも云う魚、人間の顔で、鱗なし。肌は人間の肌。又見澄ませば、みいと云うしろぐつながいる。この者も、今人間の肌にて、鱗なし。この二人とも、心は真っ直で、正直なる者、此の姿、心を見て、これを引き寄せ貰ひ受けて、此の姿をも以て人間拵える種・苗代に貰い受け様と、相談まします。右両人引き寄せて、
 「此の度人間と(云者を拵ゑ度ニ付、其《補・梶本本22》)方(註:ほふ)の姿、心を以て、人間の種・(苗代《補・梶本本22》)に貰い受けて、」
仰せられ候えば、両人嫌うて、断りを申上ると言えど、押して貰い、
 「人間を拵え、世界を拵えその上は、此の世の一神に授け、人間の親神と拝ますことゝ、」
言うて無理に承知をさせて、貰い受け遊ばされて。

 それより、なによの道具、人間の魂、五体の道具雛型を見出そふと見澄ませば、泥海中にとじよふばかりおる。この者を貰い受け、食べ、此の味わい心を見て人間の魂とす。又見澄ませば、乾の方にしやちほこがいる。此の者に承知をさせて貰い受け、食べて心味を見るに、しやちほこ云ううをは勢い強く、変にしやくばる者である故に、男の一の道具に仕込みて、人間の骨の守護とす。又、巽方にかめがいる。これ貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は皮強く、倒れぬ者である故に、女の一の道具に仕込んで、人間の皮つなぎの守護とす。又、東の方にうなきがいる。これを貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は勢強く、頭の方からでも、尾の方へも出入りする者である故に、人間の飲み食い出入りの守護とす。これを五体とす。
 人間に、息、風を以て物を言わす道具雛型と見澄ませば、坤の方にかれがいる。此の者承知をさして貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は身薄(すき、味よき者で有、丸き《補・梶本本22》)ものや、角なるものでは風が出ず、身薄きもので扇げば風が出るものである故に、人間の息、風の守護とす。尚も人間の楽しみ、食物を第一に拵え置く道具を見澄ませば、西の方にくろくつないる。此の者を引き寄せ、貰い受け、食べて心味わい、姿を見て、此の者は勢強く、引きても切れぬものである故に、食物、立毛、地より生えるものゝ引き出しの守護として、一に使た道具なり。又、人間の生るふ時親子の縁を、死に出直しの時に縁切りの道具、見澄ませば、艮の方にふぐと云ううをがいる。此の者を貰い受け、食べて心味わい、姿を見るに、此の者は大食するもので、食べて中(註:あたる)ものである故に、人間の生き死にの時縁を切る守護とす。此の世のよろづ切るものに守護とす

 これなる魚、道具とするを嫌う者を無理に貰い受け、人間を拵える相談を定めて、ぎぎよしやちほこを男一の道具に仕込み、それよりくにとこたちの命との心を入り込み、男神で人間の種なりみいかめを女の一の道具に仕込み、それにおもたりのことの心を入り込み、女神にして、人間の苗代となして、此の屋敷のかんろたいじばを神体(註:神たい)の中央として、北枕に寝て、九億九万九千九百九十九人の人数三日三夜に南無々々と二人づつ宿し込み給う。此の事を以て、南無とはあうんのことなり。今人間も南無々々として居ることは良ことなり。南無と云うは夫婦のことなり。夫婦とは、天と地を象りて夫婦はじめた事なり。人間と云う名を付けたは、雛形の人ぎよと人間の良き事あれば、これを今にけんと云うことの残り、この二つの理を以て人間と名を付け給う事なり。

とある。ここまでが宿仕込みについての話である。この「こうき話」では五体として、体を作るための守護についてと、その他の働きについて分けて説かれている事が分かる。さらに「こうき話」では、細かい話もあるが、これらを「元の理」では省いている事が良く分かると思う。

次に、生み降ろしについての話になる。
75日かけて生み降ろされたものは、5分(約1.5センチ)であったと言われる。そして99年で3寸(約9センチ)まで育つ。するとすべては出直す。この出直すという言葉は、体は死ぬという意味であるが、魂が新しい体でやり直すという意味になる。そして、父親の役である「ウオ」は身を隠す事になる。

 ここで「出直し」と「身を隠す」との言葉が使い分けられている事に注意すべきだと思う。

次に、「一度教えられた守護により」と書かれてあるが、これは宿仕込みの働きによってという意味である。そして再度「ミ」は元の子数を宿しこむ。そして10カ月経って、この子供を生み降ろした。そしてこの子供は、前回同様99年経って、今度は3寸5分(約10.5センチ)まで大きくなって、すべて出直してしまう。そしてまた、3回目の宿仕込みをされる。この者も5分から生まれて、99年経って4寸(約12センチ)まで育った。
 すると、母親の「ミ」は「これまでに成人すれば、いずれ五尺(約1.5メートル)の人間になるであろう」と仰せられ、にっこり笑うて身を隠されて、子供たちも出直してしまったのである。 

【元の理】
 最初に産みおろされたものは、一様に五分であったが、五分五分と成人して、九十九年経って三寸になった時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された。しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみことは、更に元の子数を宿し込み、十月経って、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経って三寸五分まで成人して、皆出直した。そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経って四寸まで成人した。その時、母親なるいざなみのみことは、「これまでに成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、にっこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。

ここまでが、「ミ」による生み降ろしについての話である。
「ウオ」がいなくなっても宿仕込みがなされ、「ミ」がいなくなっても、この後人間は、虫鳥畜類などと生まれ変わりをして、最後に「めざる」が残る事となる。

残った「めざる」については、一腹に男5人女5人の10人ずつの人間が宿って、その人間は一番最初の時と同様に5分(約1.5センチ)から生まれた。そして生まれ変わりを繰り返して成長する訳だが、成長の過程と共に世界の変化と人間の変化を記載されている。

 まず世界の変化については、8寸(約24センチ)になった時に、この世界(泥海)に高低が出来かけて、1尺8寸(約54センチ)になった時に、泥海が固まりかけて、海山天地そして日月も区別できるようになった。そして5尺(約1.5メートル)になった時に、今のような世界が出来上がり、人間は陸上の生活を始めたのである。

そして、人間の変化については、1尺8寸までは、一腹に男5人女5人であったのが、3尺までは一腹に男1人女1人ずつ生まれ、3尺で言葉を言い始めて、一腹に1人ずつ生まれるようになった。

そして、子数の年限が約束であった立教の時である天保9年を基準に、水中の住まいの年限を9億9万年と教えられ、その後6千年は知恵、残りの3千9百9十9年は文字の仕込みをされて、現在に至っている。

【元の理】
 その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残った。この胎に、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になった時、親神の守護によって、どろ海の中に高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた。そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、一胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、一胎に一人ずつ生れるようになった。次いで、五尺になった時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになった。
 この間、九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。

ここまでを「こうき話」でみて見る。([13]の場所になる)

 人間拵えたのは此のやしきの中央にて、前の部にある通り、いざなぎの命しやちほこを男の一の道具に仕込み、それに国常立之命を入り込み、どじよふ人間の魂として、いさなみの命かめを女の一の道具に仕込み入れた。おもたるの命を入り込み給うて、人間の苗代として九億九万九千九百九拾九人の人数を南無々々と二人宛三日三夜に宿し込み、三年三月留まりて居りて、それより今の奈良、初瀬七里四方の間七日かゝり産み下ろし、此のぢばが神かたと云うのは此の処なり。残る大和の国中四日かかりて産み下ろし、これで十(一《補・梶本本22》)日がおびやあけと云う。山城、伊賀、河内、三ケ国十九日かゝりて産み下ろし、これ三十日をはんみやと云う。残る今の日本中四十五日かゝりて産み下ろし、都合七十五日の間かゝりて産み下ろし、これ故に七十五日の間はおびや中と云うなり。即ち、産み下ろし毎に親の息をかけて産み下ろしおく。このぢばは今の宮地の地場となりてある処なり。これにていさなぎ様は死亡する
 此の人間生まれ出しては、五分より生まれて九十九年目に三寸迄成長して、皆死亡す。又、元の人数を同じ胎内へ宿り込み十月目より、又、諸処へ産み下ろし廻りこの地場は今の墓所なりてある処なり。此の人間も五分から生まれて、九十九年目には三寸五分迄成長して、皆死亡す一度教えたる守(護で、元の人数同じ胎《補・梶本本22》)内へ三度宿り込み、又、十月目より、以前の諸処へ産み下ろし、此の地場は今のはらてらの詣り所なり。これを一みや、二墓、三原(註:三はら)と云う参り所なり。
 此の人間も五分から生まれて、九十九年目に四寸迄成長すいさなみ様はこれを見て、こゝ迄成長するならば、五尺の人間になると喜こんで、にいこり笑うて死亡なされ、また四寸の理と、につこり笑うた理を以て、生まれ出るところも二寸に四寸、死に行く穴も二尺四寸と云うなり。
 又、此の人間も親の後を慕うて、残らず死亡す。それより、鳥類、畜類、虫螻(註:むしのら)異形の者と八千八度生まれ替わりた故に、今人間は何もの真似でも出来る事なり
 此の年限は、九千九百九十九年目に死亡す。又、さるが一人残りいる。これはくにさつちのみことなり。此の胎内に、男五人、女と十人づゝ生まれ、此の人間も五分から生まれて、五分々々とだん/\成長して、又、八寸迄成長した時に、泥水、高低出来かけ、一尺八寸迄成長したに子が親(となりて、元の人数生揃ひ《補・梶本本22》)水土分かりかけこれより男一人、女一人と二人つゝ生まれて三尺迄成長した時に、天地海山分かりかけ、人間物を言いかけ、それで、今人間は三才で物を言いかけるなり五尺成長する迄は水中に住ま居。五尺になる迄に、人間の成長に応じ、天地海山、水土速やかに分かりあり
 人数九億九万九千九百九十九人の内、大和の国へ産み下ろしたる人間は日本の地に上がり、外の国へ産み下ろしたる人間は食物を食い廻り、唐、天竺の地上がり行きたものなり。
 此の年限九千九百九十九年之間水中の住まいす地に上がりたるより四十六年以前迄の年限九千九百九十九年なり。此の内、六千年の間人間に神が入り込み、何事も教え来たる事なり。人間のする事を神が教えたる事は誰も知りたる者はない筈の事、人間を拵えても、これ迄人間に入り込んで、口を借りて教えたことは今初めの事故に、実に承知する者少なし。虚言(註;きよふげん)と思えば虚言となる。真(註;まこと)と思えば真なる。神の言う事は真実と思て願えば、拝み祈祷や、薬飲まいでも、話一条で皆たすかる事、これ証拠なり。

 

今回は、「元の理」と「こうき話」を照らし合わせて見た。

上記の「こうき話」で赤字にしたところは、気になるところであるが、それ以外に思う事があるので、これらについては後日に書いてみたいと思う。

 

親神様・教祖、今日も一日ありがとうございました。

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