ブログあつたかい

しんちつが神の心にかなハねば いかほど心つくしたるとも (12-134)

久々に夫婦で・・・

2012年06月29日 07時35分47秒 | 思った事
昨日は布教所のおつとめの日であった。
予定では、私が懇親会の旅行のために、妻が行く事になっていた。

背中の痛みがある中、ふと夫婦で出かける事を思い立つ。

布教所へ行くと、「え!ご夫妻で?何か重大な事でも?」と驚かれた。
理由を話して、12下りのおつとめをつとめる。

今日は珍しく、末の方が時間に間に合い、5人全員ではじめから勤める事が出来た。
先の所長が存命の時は、5人で勤めていたが、出直されてからは4か3人でのつとめであり、本当に久々の人数で、なんだか嬉しい気分でつとめさせて頂いた。

いつも雑談の中から、心に留まることを台に講話をさせて頂くが、今回は妻の身上から、それぞれの身上、嫁ぐとその家のいんねんの身上が現れたりするという事から、「嫁ぐのではなく、その家へ帰る」という話になった。この事を先の所長(お母さん)から聞いていたので、色々な道中があったが、今の結構なそれぞれがある。という言葉が出てきた。

今月のおぢば月次祭の講話で、日本には家という観念があるが、外国ではそういう観念のない所もあり、また日本においても段々と家の観念がなくなってきている。しかし、教えでは夫婦が元で、家という観念が大切である。という話が心に残っている。

すべてはいんねんの上で組み合わさったお互いである。
夫婦も家族も、会社も教会も、地域もである。
いんねんが無ければ、会う事もないのである。
「かしもの・かりもの」それぞれの心一つに与えられたもの。
地球という親の身体の中に、陽気ぐらしをするために。

親の心には、子供は皆平等である。
弟の物を取った兄には、取ったものを取り上げて、弟に返す。
これは親の心が平等だから。
しかし取り上げられた兄は、親に取り上げられた事のみを思って、ましてや「お兄ちゃんなんだから」と立場を押し付けられたりすると、平等じゃない・弟の方が良いと親に不足をする。

すべては、それぞれの魂・心の上から、いんねんによって起こる事と理解できれば心治まる。
この自分のいんねんを自覚できる元が、家族であり、家系であり、お互いの関係である。

こんな事は、お道の上の初歩の初歩。基本の基本。
けれども、これがなかなか心に治まらず、人を攻めて苦労する日々である。


話がずれてしまった。

布教所の月次祭を終えて教会に帰ったところ、背中の痛みが全く無くなっている事に気が付いた。
背中の痛みがなければ、夫婦で行く事も無かった事を思うと、痛みに感謝した。