葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

風評被害考――これは立派な醜さだ

2011年04月20日 13時23分26秒 | 私の「時事評論」

 人間というものの特徴
 人間は一人一人を眺めてみれば、ほとんどが心の優しい人間である。他の人を傷つけないように生き、協力し合って生きる心を生まれながらに持っている。それは人間という生き物がこの世に生れて、大いに種族を増やして生きていこうとする意識、生物が持つ、生き残るが上の本能と密接につながったものとも言えると思う。何も人間に限らず、この世に生きる動物も植物が生まれながらに身に付けた「種族保存」の本能とも密接につながっている意識なのだろう。
 だが、個々にはそんな善意の人間も、何人もが集まって集団になると、なりそこなって群れとなり、個々の人間の個性の集合体とはまったく異なる性格を帯びた集団としての性格を発揮することになる。
とくに人間は、他の生物と比較して、生き延びるために他の生物とは全く違った進化の歴史をたどってきた。人間の群れはライオンやトラなどの群れとは違い、頭の中で考えるという行為を武器にして、道具を使い言葉を使い、身につけた知識を子供や孫に伝え、自らの身体を鍛えるよりも、道具を作り出して協力し、個々の生物個体では考えられぬ猛烈な力を作り出し、これによって生き延びる方法を生み出し発展してきた。
 自分を冷静に見てみるがよい。身体を守る毛も生えていない。走る力も飛ぶ力も、噛みつく力もなく、フグやサソリのように相手を倒す毒も体内に持ってはいない。他の動物から見たら、まるで無防備な美味しい餌そのもののような格好をしている。寒さにも暑さにも抵抗力もない。けれども群れをなし、服を着て家を作り、道具を使い交通機関や通信機械までを使って、他の生物とは全く違った文化を作り、独特の進化をしてこの世界を我が物顔にのさばっている。
 陸上のいたるところに家という巣を作り、学校を作って知的武装をし、道路や鉄道という行き来する施設を張り巡らせ、船や飛行機などを使って海の果てまで交流し、暖房・冷房で身を守り、農業や林業、漁業や畜産業などで他の生物までを支配する、他の生き物から見たら恐ろしい存在だ。

 けだものと人間の差はどこにある
 他の動物を「けだもの」などと差別する人間たちの力の源泉は、頭を使った集団による知識の蓄積とその教育、それらを生かし合った集団としての共同生活を快適に過ごす社会を作る生物だ。神をつくり道徳を生み出し、生み出した技術を積み重ねて共有し、途方もない力にまで発展させて武装している。他の動物にも家族はある。集団もある。だが人間以外はそんな武装力を積み重ねなかっただけに、人間と他の生き物には、これだけ大きな差が出てしまった。
 人間でもそれぞれ各地の集団には、それぞれ独自の生い立ちと発展史があったが、やがて各地の集団は、互いに交流する時代となり、互いにさらに影響も受けて発展する現代になった。それぞれの集団は、よく見ればそれぞれ個性を持っている。そんな中で、天然の地理的半鎖国状態の中で、激しい人間同士の争いを経験せずにすみ、一貫してユニークな歴史を続けてきたのが日本だった。そんな条件の文化圏である日本に、今回大きな地震が訪れた。そんな前提条件で見てほしい。

 日本社会の美点はどこに
 日本文化の特性は、様々とある世界の文化の中で、最も共同社会での調和した皆の生活を尊重する点にあった。困っている人がいれば皆が心配し、彼がうれしい顔をすれば、それを自分のこと以上にうれしく感ずる心が色濃く感ぜられる社会ができた。今度は逆に、自分が困って行き詰った時は、他の仲間が同じように優しい心で助けてくれる。そんな心理が文化を支配した国だった。日本をまとめる首長としての天皇がいたが、天皇の役目はそんなみんなの心の代表としてまつりを行い、皆の幸せを祈ることだと信じられてきた。こんな天皇ができ、こんな文化が育った。それが日本の特徴だった。
 だがこんな日本の文化も、世界の様々な文化と交流する時代となった。世界の中には文明が日本とは別の方向を目指した国もあり、そんな文化の中で、特に仲間のことより自分を優先し、将来のことより今を優先して生きる文明もあった。そんな文化は派手に見えて羨ましくも見え、それにあこがれるものも増えた。将来の皆のために我慢するよりも、目先の楽しみを追ったほうがよい。そんな気風も流れ込んできた。
こんな日本に今回大震災が訪れた。もちろん今でも日本人の社会は、養い培ってきた文化の特徴は色濃く残している。だがそれとともに、あのかつては人間どもの恐怖の天敵であった野獣の心、「俺さえうまくいけば、仲間などはどうでもよい」との心や、正確な知識であるかを考えず、「周りの人が傷つかないだろうか」との配慮もない行動がやけに目に付く現象になった。これは日本が少し変わったからだろうか。野獣の心といえば世界には、百獣の王ライオンに憧れ、それを国の紋章にした国などがいくらもある。それを眺めて私はそんな思いさえ感ずるのだ。
 大規模な津波で街がいくつもなくなってしまった。つぶされた家の下、海に流された人を助けるためには燃料が要る。家もなく身を寄せ合う人が暖をとる為にも燃料や食料が要る。そんな情報が伝えられると、従来の日本人なら、彼らの救済のために、無駄遣いはやめて資源を回せばよいと思うところだ。だが現実には、まったくこれには関係ない地域に住む人がガソリンスタンドに行列し、おかげで救助用のガソリンまでが手に入らなくなった。
同じくスーパーや食品店に行列ができ、必要以上に皆が食品などを買いあさり、被災者救済の食料確保も困難になった。
原子力発電所の放射能が漏れているとのうわさが広まると、今までなら、安全な地域の人は、危ないところの人を自分のところに受け入れようとするところだ。ところが汚染された水が出たというと、心配ないところの住民までがペットボトルの水を買い集めた。
こんな現象が次々に起きて、救助活動を遅れさせた。もちろんこんな現象は多くの善意の中での特殊な例と言えるかもしれない。だが、いくら小さな動きだとはいっても、実に不愉快な現象だった。
 原発の放射能漏れの影響は、一週間経てばまったく問題にならない水準に戻るという。何カ月も水を買いためてストックしてみても、結果は無駄遣いと他人への妨害以外の何の役にも立たないものだ。それなのになんでこんな馬鹿げた買い占めに走るのか。この日本に住む人の心が汚染したことにほかなるまい。
正確な科学知識も放送され徹底されている。なんで正しい情報に耳を傾けないのか。心が穢れて、冷静な知識に耳を傾けられなくなったのか。
原発の放射能漏れで避難した人たちがのがれてくると、そんな人たちを「汚染されている」と排斥し、汚染された伝染することがない照明をしてほしいと拒絶する地域があったという。ただでさえ悲しい思いをしている被災地の人の傷つけるようなこんな自治体や住民たち。放射能とはどんなものか、そんな知識も身につけようとせずに、わざわざ悲しい思いでいる避難者の心を傷つける行為がこの日本にあったのだ。

 風評被害、自分らが愚かであり、人の痛みに対する思いやりに欠けるばかりに、困った人を傷つける行為、こんな話を聞くたびに、これでも日本は、人々が睦みあい、協力し合って生きる文化が残っている国なのだろうかと悲しくなる。

 見落としてしまった共同体意識
 一人一人を見る限り、我らの仲間は善良な人たちだと私はこの分の冒頭に書いた。だがそんな中からこんな動きが出てきてしまう。これは現代の日本が、集団で生きる場合の研究、共同社会で皆で寄り添い合いながら生きる心の寛容を忘れて、大変なわがまま放射能に汚染されてしまったことを示しているように思われる。
 今回の震災からの復興には被災地の以前以上の状態への復興がまず第一であることに異論はない。だがそれだけではこの日本はよい社会に回復したとは思えない。日本中にいつしかはびこりつつある悪しき心、配慮を忘れた軽率な心、正しい情報と誤ったデマを見抜けない愚かさ、こんなものから解放される祓いをしなければならないのではないだろうか。