葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

井の中の蛙

2011年04月15日 07時16分42秒 | 私の「時事評論」
<f人間に大切なのは引け際の美しさだと思う。



 見事な進退を成し遂げた人は

後々までも人物として語り継がれる。

逆に老いや迷いの無残な最期を選んだ人は

過去の業績までも評価されなくなる。




 民主党にもほとほと困ったものだ。

 「菅が首相をやっているのではこの危機的状況は乗り切ることができない。」

鳩山氏と小沢氏が鳩首会談して話し合ったというニュースが流れた。おれたちが再び国政の表舞台に出ようじゃないかというのだろう。

 前半の部分はまあ、正常な現状分析だと言えるだろう。まともな人なら、現在の多くの危機に見舞われて翻弄されている日本の状況を見て、そう思う。

 日本は国民を乗せ、津波に呑まれて翻弄されている一艘の船のような状況だ。百戦錬磨のベテランの船長が見事に舵を操作して寄せくる大波に対処しなければこの船はやがて木っ端みじんになって海の藻屑に消えそうなところだ。だが、日本丸の船長菅直人首相は海を知らない、航海術も操船能力もない。ただ、彼にあるのは、国会でやっと手にした首相の椅子の座り心地と、日本丸の船長という、皆のトップとされる地位にありたいという執念だけだ。

 「この波には面舵がいいです、いやとり舵がいいです。前進です、後退です。」

とワアワア騒ぐ指揮下の閣僚や役人、彼の能力などはまったく信用していない部下たちがてんでにわめいているのに振り回され、

「抜本的に、理想的に技術の粋をつくして無事に操船にあたれ」

など中身の全くない命令を出し、船は右や左に勝手に舵を取りながら、スクリューを前進や後退を意味なく繰り返しながら大波に流されていく。

 日本丸に乗っている国民たちは不安だ。船長はマイクを持って船内に

「大丈夫です。万全に安全な港に着けるよう取りうる抜本的方策を検討しています」

などと放送しているが、誰も彼を信頼していない。運が悪かったためにこんな船に乗ってしまったと後悔している。こんな状況といえるだろう。



 菅首相の幸運、国民の不運

 東北地震がなければ、国会内部の大地震で、首相は予算関連法案が通らなくて政権を投げ出さなければならないところだった。

 だが、歴史上初めてという大地震がやってきて、こんなときに政権争いなどやっている暇があるかとの国民心理に支えられて首相引き下ろしが一休みとなり、首相として震災復興の旗振りをしようとおそろいのジャンパーなどを着こんでみたのは彼にとっては幸運だった。

 だが、彼には実力も指導力もない。今を見て将来を見ての指導性などとても発揮することができず、一刻を争う救済策は進まない。おまけに地震で壊れた原子力発電所は、これを再び稼働させることなどをもくろんで、瀕死の病人に場当たりの延命治療のような対応策をしているうちに、事態はいよいよ深刻化して、当初はほんのちょっとした事故だと言っていたのが、そのうちあそこも壊れここもダメで、発表するたびに、世界が恐怖を感ずる重大事故に重症化していくばかりだ。こんな素人的な対応策はどうやらあきらめたようだが、国民の不安は解消に向かっているとは思えない。

それどころではない。震災被害者の救済までが、放射能の漏えいが日を追うにつれて深刻化して、前に進めないで頓挫している。一体どうしようと思っているのだ。

 それでも事態を乗り切りたいと思ったのだろう。国会では野党の自民党や公明党などに閣内協力を呼びかけたのだが、その後に行われた統一地方選で、各地で想像以上の敗北を喫し、与党にはもう、国民の支持がないことが示された。野党各党は協力するよりも、いまは政府をいじめて息の根を止めたほうが早いと、協力にまでしり込みを始めた。また決断が長引く。事態は混乱する。国民にとっては重なる不運だ。

 その上に、大きな余震も収まらず、国民の不安を煽る。適切な啓蒙もしないので、被災しなかった地域での風評被害や買いあさりが状況をいよいよ悪くし、自粛ムードで国民生活はいよいよ縮み経済は縮小、国民はモブになっていよいよ状況を悪くしている。

そんな中、政治を助けてくれる援軍もなく、政府は孤立状態に陥っている。残るは首相の並はずれた権力の肩書に対しての執着心だけ、こんな状態だと見るべきだろう。



 いまさら出てきて何になるか

 そこにきての冒頭に挙げた小沢・鳩山鳩首会談だ。伝えられるところによると、二人は菅民主党内閣に介入し、積極支援を話し合ったようなのだ。

 援軍ができそうなのだから心強いと見るかもしれない。だが思いだしても見てほしい。彼ら二人が今まで与党でどんな働きをしてきたたかということを。彼らはあの一昨年(もう遠い昔のような気がするがあれから二年も経っていない)、初めての民主党内閣の創設から、その幹部として登場し、民主党内閣への国民の期待を無残な失望と怒りへと転換させた張本人なのだ。彼らへの失望と怒りが、彼らが公言した沖縄基地で、朝貢貿易的外交で、財政逼迫下のバラマキ垂れ流し財政で、自らの立場もわきまえぬ皇室に対する不敬で、ありとあらゆる失政で、国民の怒りを次々に買った張本人だ。彼らが政権の座にあった時、党内でじっと我慢して沈黙をしていた、ただそれ故に菅直人は首相になるチャンスをつかんだ。そして菅が我慢の甲斐あって、首相の座に就いた以降は、二人はなんとか菅を引きずり降ろそうと、国民への政治責任などはまったく無視して、党内抗争のみに明け暮れてきた。

 思い出しても見てほしい。彼らがその後に取った行動や、国民不在の失言の数々を。

 こんな連中がいまさら党内立て直しなどと言って出てきたところで、党勢が上向き、国民が歓迎することなどはあり得ない話だ。さすがに彼ら二人を政権の座に就かせるために、鐘太鼓ではやしたてたマスコミも、今度は簡単に踊らないだろう。

 彼ら二人がそろってやることで国民に歓迎される方法は、くだらない党派内外の抗争などは一時やめて、今の英知を結集しての内閣でも作り、菅首相には俺らと一緒にもう、政治の世界からは手を引いて年金暮らしでも始めるほうが、国民のためになるよと助言することぐらいしか残されていないと思う。

 大震災とそれに続く余震は、この日本を見守る神々の、民主党の、そしてその他の政治家たちへの怒りを象徴しているようだ。また、それと同時並行して起きている様々なご判断や人為的ミスなどの人災事故は、判断ミスはもう、彼らに任せておいては避けられないことを示している。


 日本列島大祓いの勧め

 政治の世界を見回して、良いことなど見当たらないのが現実だ。そんな日本でも、今回の大震災で目に付いたのは、国民生活、社会意識の面では、どんな苦しい時であっても、秩序を乱さず整然と行動しようとする日本の長い歴史が作り上げてきた共同社会の一員意識が発揮され、お互いを同じ日本に暮らす同胞として、助けあって行こうとの国民意識が大いに燃えあがったことであった。

 羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くという言葉があるが、戦後の政治は先の大戦に日本が負けたのは国民が一つにまとまっていたからだと短絡的に反省し、日本人の養ってきた国民性を否定して、一人ひとりの国民が、共同生活の一員であるより前に、個人主義的西欧的な意識、合理主義の精神を持つべきだと、周りのことより自分のことを大切にする社会を目指して活動してきた。教育も宣伝も、そんなことばかり訴えて、そしてそれがかなりに深く浸透した背景が、今回の政情混乱の基礎となり、今の民主党政府につながっていた。

そんな政治の目指した状況がたどった先が菅内閣なのだ。そして戦後60年以上の政治教育が全く効果を上げず、国民にまだ残っていた近代合理主義者からは「封建性」と批判され蔑まれてきたものが、最近再び大きな美点として国民に意識されるようになってきた。それが今回の地震で発揮され、世界が注目した震災時の日本社会の動きであると見なければならない。



日本列島は大祓いするべきだ

今の日本に必要なのは、やや神道的表現になるが、日本列島大祓いの実施であると私は思う。戦後政治の誤りによって、けがれ果てた様々な埃がこの国土の上に積もり積もっている。けがれの最も大きいものは、思い上がり助長の唯物主義だ。この日本はこの土地を見守られる神さまの見守られる国土であり、我々は昔から、自然を管理し見守られる神を通じて天然自然を大切にし、それと調和しながら謙虚に生きるというセンスを否定し、人間こそ、個人こそがまず何よりも大事だとして、勝手気ままにわがままに動くことを正しいとする気風を捨てることだ。人間もこの神々の見守られる自然の中の一員である。日本人の悠久の昔から大切にしてきた意識、我々は個人である前に先祖から我々、そして子孫へとつながる家庭や共同生活集団の一員である。そんな我々はその地域の神様への共同の祭りを通じて人間同士、また神様とも一体になって行動するという原則だと思う。

固いことを言おうとしているのではない。協力し合って和やかに暮らす中にあって、みんなが豊かに発展することを何よりも大切と思い、そんな地盤の中で自分の向上発展を目指す。そんな生き方を取り戻すことだ。我々日本人はそんな社会を目指してきた。

精神的な気分転換、今の政治の求める行き方の否定、そんな大祓いが必要なのではないか。

そのひとつの鑑として、私は震災に際して呼びかけられた天皇陛下のことをいつも念頭に置いている。短いコラムでここまでは触れないが、やがてこの問題にも目を向けて一筆したい。


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