葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

朝のお勤め

2011年09月28日 22時27分07秒 | 私の「時事評論」
一転環境が変わった我が家

 まるで朝の仕事のように5時半ころに私は家を出かけていく。目的は我が家のすぐ近くに鎮座している二つの神社にわが、我が愛する孫息子の病気平癒などを祈願。それを一日の仕事始めにしているので・・。
 夏の初めの6月中旬、暑い真夏の日が始まった頃だった。我が家には昨年来、息子一家が同居するようになり、二人の幼い子供が加わって、我が家の生活をにぎやかにしていたが、その下の孫息子が突然倒れた。
 天真爛漫、やっとヨチヨチと歩き始め、毎日大きな歓声を上げて家じゅうをひっかきまわして歩いていた子の顔色が悪く、どことなく元気がない。いつも声をかけるとやって来て、私の胸に飛び込んでくる眼の中に入れても痛くない孫息子なのだが、顔色が悪くどこか元気がないのだ。さっそく街の小児科医院に行ったら、強い貧血だが、専門の病院で一度精密検診を受けるように勧められ出かけていくと、そのまま救急車で大学病院に入院させられることになってしまった。
 幼児の病気は急変する。うっかりポイントを見落とすと大変なことになる。その点では、倒れる前に連れて行ったのは運が良かったのかもしれないが、検査の結果、半年以上も点滴用の管をつけ、病院のベッドにつながれる状態になってしまった。

  この子は私ら夫婦にとって、何をさておいても可愛い我が家の宝物だった。この子が生来、身体が弱いことは聞いていた。上のお兄ちゃんと二人の子供を抱え、お兄ちゃんも幼稚園から小学校に進む時。長い間両親を独占する一人っ子で、可愛がられすぎて我儘いっぱいに育ったお兄ちゃんなので、この子だけの世話でも、家事が不慣れの息子夫婦には大変で、その上弱い赤ちゃんが生まれたのでは、下の子供に手が回らないかもしれない。しかも父親はいま、猛烈に酷使されている大企業の中間管理職、毎朝7時には会社に出かけて、帰ってくるのは深夜である。しかも客先の便宜を図って、休日は平日になっていて、学校に行く息子とはすれ違い、その上仕事のために、国家試験で難しい資格を取ろうと連休の一日は専門の学校に通っている。これではとても子供たちにまで手が回るまい。それが我が家での息子一家と同居を勧めた動機だった。
慣れるまで、我が家では、私ら老夫婦が下の孫の世話を見ながら家を見る。そう思ったから呼んだので、我が家はこんな環境になっていたし、下の子はそのため、よその家での両親と同じように、我ら祖父祖母になじんでいて、片時も離れたがらないような子に育っている。それが突然長期入院になってしまったのだから大慌てだった。

 病院は完全看護で肉親以外は面会もできない。立ち会えるのは指定された時間に両親と祖父母に限られる。時間は毎日午後3時から8時まで。休日はそれが午後1時から許される。子供に何より必要なのは家族の愛情だ。息子夫婦とも話し合って、その許された面会時間だけは、お互いに時間をとり合って、必ず誰かがそばにいて、子供に愛情のシャワーをかけ続ける計画を立てた。
病院への往復は3時間ほどかかる。それに面会が5時間から7時間。すべての我が家の日程を、この子の看護に重点を置き、そんな生活が始まった。

 朝の日課がこうして生まれた

 そんな事態になって見ると、私に出来ることはほとんど残されていない。
掃除洗濯調理など、いままで我が家の家事はすべて妻に任せてやってきたし、表での仕事一本に生涯を続けてきた私だ。しかも仕事は私生活が取りにくい新聞業、編集や経営。今はそれらの仕事も卒業し、我が家で時々原稿を書くことや、様々なコンサルタントに近いことをやるのみの身だが、振り返れば子供の世話一つ、自分の子供にはしてこなかった今風でない男だ。
 食事のあとに食べた皿を運んだり洗うこと、頼まれた食料を買い物に行くこと、掃除機をかけたり部屋の整理をすること、風呂を沸かすこと。そんな中途半端な手伝い以外に私に何ができるのだろうか。それだって、はじめてみれば皿を洗えば落として割るし、買い物に行けば量を間違え皆を困らせ、掃除機をかければ誤って障子を破る。私の手伝いは家の妻や嫁をこまらせるだけだ。
 そこでどうしたらよいかと思い迷いながら、鎮守の神社二社に参拝して、孫の病気回復を祈念して、孫の身代わりになれるなら、老いた私だが、わが身を差し出しても悔いはないと神さまに約束し、たのが毎日になり、二つの神社への早朝参拝のきっかけとなった。

 祈願の毎日参拝を始めてみると、参拝に行かないでいると、鎮守の神さまから、「もう、お前の祈願は中止するのか」と言われているような気がしてくる。参拝は6月から、一日も明けることなく続けることになった。
雨の日も風の日も、どんなに条件が悪くとも続けなければならない。以来参拝は欠かさず続け、連続百日はすでに超え、いまでは毎朝の恒例行事になっている。時にはどうしても朝に参拝できない事態もあった。大切にお付き合いをしていた伯父が死に、私は旧来の大家族主義を頑なに守る一族の長男坊であるので、長野に通夜と葬儀に行かなければならなくなった7月のある一日があった。私はいろいろ考えて、妻に代参をしてもらうことにした。代参は森の石松の浪曲に出てきて、お伊勢参りによく出てくるような、信頼する第三者に代わって参拝してもらう制度のことだ。日本の神社参拝には面白い制度がある。それは必ずしも自分の正規の参拝と同様に扱うことはできないだろうが、征夷だけは通ずるようだ。そんな日が一日だけ、中に挟まってしまったが。
お百度参りが満願達成寸前になると、いろいろの予期せぬ支障が生まれてくるとの話はどこにでも多い。あと何日、指折り数えてその障害も乗り越えた。


参拝は私を元気にする副作用も

朝の参拝中に腹が痛くなったり、足が思うように動かなく感ずる時もあった。だが無理せずに続けていると、いつの間にやら、身体の調子も続くようになった。二社のうち一社、神明宮には60段ほどの石段がある。当初は途中で何度も立ち止まり、乱れる息を整えて参拝していたが、最近は割にゆったり登れるようになった。それに早朝の散歩は爽やかだ。出会う人はお互いに「お早うございます」と気軽にあいさつをするし、境内を早朝から掃除している人とも自然に話ができる。早朝の街が、魅力あふれるものであることを身体が理解するようになった。
最初は日の出の早く、5時と言っても日差しがきつかった周囲の朝も、最近はだんだん夜明けが遅くなって、時には出かけるときはまだ、あたりに夜が抜けきっていないように感ずる時もある。だが、朝参りを始めてから体調がよい。今のところ、神さまはこの私の寿命をお召しになるのではなく、私に日々の健康をお授けになってくださっている気配である。

孫息子も、入院当初は病院のベッドに縛り付けられるような状態だったが、その御管轄を開けて集中的に強い薬を点滴される合間には、週末の二日間など、我が家の味を忘れさせないために一時帰宅も許されるようになってきた。治療もほぼ、前半の段階を越え、あとの後半を残すのみになってきた。予断を許すことはできないが、少しずつ、元の健康を取り戻しつつある状況である。
今日も孫は我が家に戻っている。全快の日まで、私は参拝を続ける覚悟でいる。

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