私の祖父の回顧 3
事業者としては失敗ばかり
祖父は自分の崇敬する筥崎宮のために、膨大な資産を得ようと数々の事業に手を染めた。
満州の鉱山を経営して日本に大量の原材料を提供する事業、貿易業・・・。だがこれらはことごとくうまくいかなかった。祖父は斬新にして壮大な夢を描き事業に取り掛かる。しかし夢と現実は表裏しない。それに祖父は、冷酷緻密なそろばんと見通しを立てるようなことは苦手であった。
祖父は一代で莫大な財をなした豪商の伯父に我が子のように可愛がられ、少年時代から彼の力によって様々な経験も得たようだが、そんな祖父も事業に成功することは一度もなかったようだ。中には満州の巨大な鉱山の権利を譲渡して、一時的には大きな資金を得たようなこともあったようだが、それらも資金ができると、その時でも筥崎宮の境内を拡張する費用などにつぎ込んでしまってやがてなくなり、相変わらずのやせ浪人のような仕事を続ける立場に戻っていた。
中には祖父に機会を与えようと海軍や政府までが結びついての、こんな事業までが、うまくいかずに挫折した。
それは、祖父の事業がなかなかがうまくいかないので、日露戦争以来の格別な深い交流がある海軍や、同じく祖父とは昵懇であった台湾総督府などが彼に手を差し伸べて、台湾の奥地に生える巨大な台湾ヒノキを切り出してきて本土に運び、神社や寺院を建築してはどうかというものだった。海軍の将官たちは、運搬に費用がかかるならば、最悪の時は台湾から、軍艦で材木を曳航してやろうかと言いだすほどの力の入れよう、総督府でも、伐採の権利は優先的に認め、切り出しなどにも次々に優遇措置を講じてくれ、全国の神社を統括していた内務省も協力的だったのだが、大体祖父自身がコツコツと事業を続けられるような性格ではない。発足数年で膨大な赤字を出して行き詰る結果となってしまった。
この事業は行き詰ったとき、事業の関係者や債権者などが集まって、息子(私の父)が事業を引き継ぐならば、事業再建に協力しよう。だが祖父は引退せよとの申し出があり、結局事業は息子に引き継ぐことになり、それ以来祖父は実業からは手をひくことになったが、この台湾品気で社寺を作る事業はたくさんの協力者が各方面にいたことにもよるが、社寺建築、特に神社建築では日本有数の大手建設会社と肩を並べるところにまで発展した。あの靖国神社の神門などは日本の代表的大木造建築といわれるが、あれも父と祖父が協力して建設したものである。
祖父の最後
祖父は日本国のため、特に皇室や神社のためということになると、あらゆることを後回しにしあるいは無視して、夢中で取り組む男であった。採算や生産なども見えなくなる。そんな祖父の情熱と純粋さにほれ込んだたくさんの友人たちが彼の周りにはいた。地元福岡の維新精神を引き継ぐ巨匠の頭山満はじめ在野の活動家、歴代の首相や大臣を含む陸海軍の将官や内務省はじめ政府の幹部たち、宮中関係者、神職の人々、学者から思想家まで、広がりは大きく、こんな人々に支えられて生涯を活動した。
そんな祖父は五十代の後半になると、身体を壊して床に就くことが多くなった。それからの十年ほどは、祖父の長男(私の父)が全力を投入して祖父のしてきた仕事や、病床の祖父の心を痛める天下の動きに関する働きまでをカバーした。そんな息子を得たのは祖父にとっての幸せであった。
病状は日々に悪く、父が祖父のために用意して私らも同居した鎌倉の家には、祖父の病状の重いのを知って、相次いで見舞いに駆けつけるこれらの要人に対して、祖父はただ一つ、自分の死んだあとは、自分を助けて動いてくれた息子に対し、自分はすべて自分の理想を話し、俺とおなじ心を息子に託したので、自分と同様に接してほしいと懇願した。
友人たちはそれに同意し、祖父同様に付き合うことを約束した。昭和15年のことである。
ところでこれが、戦後の日本にも大きな影響を及ぼすことになった。
祖父の息子、私の父は、日本が戦争に負けた時、占領下におかれた日本が、それまで伝統的に信じてきた日本の精神を精いっぱいに残すため、それ名で国の施設の一部であった全国の神社を存続させ、皇室に対する尊崇の心の拠点にもするために、それらの神社をまとめて一つの組織にしようと懸命に働いた。
当時の神社には神社が日本の精神的な基礎になっているから、これをつぶさねばならないとの占領軍の圧力が厳しく、神社の入り口にはMPが拳銃を持って立ち、伊勢神宮の宇治橋を兵士がジープで強引にわたるような環境であった。
一方、私の父はまだ三十代、そうそうたる経歴の神社の世界、政府の長老・役人に比べてはるかに若い年代であった。
だがそんな父の話を聞き、それを助けてくれたのは、祖父が遺言し、父を祖父同様に扱うと決めた長老たちであった。
彼らは父の話を聞くと、「お父さんもさぞや喜ばれるだろう」と二つ返事で父を助け、あるいは父とともに動いてくれた。
それはあたかも、祖父が死して五年後に、再びこの世に現れて、活動しているような状況であった。
(終わり)
事業者としては失敗ばかり
祖父は自分の崇敬する筥崎宮のために、膨大な資産を得ようと数々の事業に手を染めた。
満州の鉱山を経営して日本に大量の原材料を提供する事業、貿易業・・・。だがこれらはことごとくうまくいかなかった。祖父は斬新にして壮大な夢を描き事業に取り掛かる。しかし夢と現実は表裏しない。それに祖父は、冷酷緻密なそろばんと見通しを立てるようなことは苦手であった。
祖父は一代で莫大な財をなした豪商の伯父に我が子のように可愛がられ、少年時代から彼の力によって様々な経験も得たようだが、そんな祖父も事業に成功することは一度もなかったようだ。中には満州の巨大な鉱山の権利を譲渡して、一時的には大きな資金を得たようなこともあったようだが、それらも資金ができると、その時でも筥崎宮の境内を拡張する費用などにつぎ込んでしまってやがてなくなり、相変わらずのやせ浪人のような仕事を続ける立場に戻っていた。
中には祖父に機会を与えようと海軍や政府までが結びついての、こんな事業までが、うまくいかずに挫折した。
それは、祖父の事業がなかなかがうまくいかないので、日露戦争以来の格別な深い交流がある海軍や、同じく祖父とは昵懇であった台湾総督府などが彼に手を差し伸べて、台湾の奥地に生える巨大な台湾ヒノキを切り出してきて本土に運び、神社や寺院を建築してはどうかというものだった。海軍の将官たちは、運搬に費用がかかるならば、最悪の時は台湾から、軍艦で材木を曳航してやろうかと言いだすほどの力の入れよう、総督府でも、伐採の権利は優先的に認め、切り出しなどにも次々に優遇措置を講じてくれ、全国の神社を統括していた内務省も協力的だったのだが、大体祖父自身がコツコツと事業を続けられるような性格ではない。発足数年で膨大な赤字を出して行き詰る結果となってしまった。
この事業は行き詰ったとき、事業の関係者や債権者などが集まって、息子(私の父)が事業を引き継ぐならば、事業再建に協力しよう。だが祖父は引退せよとの申し出があり、結局事業は息子に引き継ぐことになり、それ以来祖父は実業からは手をひくことになったが、この台湾品気で社寺を作る事業はたくさんの協力者が各方面にいたことにもよるが、社寺建築、特に神社建築では日本有数の大手建設会社と肩を並べるところにまで発展した。あの靖国神社の神門などは日本の代表的大木造建築といわれるが、あれも父と祖父が協力して建設したものである。
祖父の最後
祖父は日本国のため、特に皇室や神社のためということになると、あらゆることを後回しにしあるいは無視して、夢中で取り組む男であった。採算や生産なども見えなくなる。そんな祖父の情熱と純粋さにほれ込んだたくさんの友人たちが彼の周りにはいた。地元福岡の維新精神を引き継ぐ巨匠の頭山満はじめ在野の活動家、歴代の首相や大臣を含む陸海軍の将官や内務省はじめ政府の幹部たち、宮中関係者、神職の人々、学者から思想家まで、広がりは大きく、こんな人々に支えられて生涯を活動した。
そんな祖父は五十代の後半になると、身体を壊して床に就くことが多くなった。それからの十年ほどは、祖父の長男(私の父)が全力を投入して祖父のしてきた仕事や、病床の祖父の心を痛める天下の動きに関する働きまでをカバーした。そんな息子を得たのは祖父にとっての幸せであった。
病状は日々に悪く、父が祖父のために用意して私らも同居した鎌倉の家には、祖父の病状の重いのを知って、相次いで見舞いに駆けつけるこれらの要人に対して、祖父はただ一つ、自分の死んだあとは、自分を助けて動いてくれた息子に対し、自分はすべて自分の理想を話し、俺とおなじ心を息子に託したので、自分と同様に接してほしいと懇願した。
友人たちはそれに同意し、祖父同様に付き合うことを約束した。昭和15年のことである。
ところでこれが、戦後の日本にも大きな影響を及ぼすことになった。
祖父の息子、私の父は、日本が戦争に負けた時、占領下におかれた日本が、それまで伝統的に信じてきた日本の精神を精いっぱいに残すため、それ名で国の施設の一部であった全国の神社を存続させ、皇室に対する尊崇の心の拠点にもするために、それらの神社をまとめて一つの組織にしようと懸命に働いた。
当時の神社には神社が日本の精神的な基礎になっているから、これをつぶさねばならないとの占領軍の圧力が厳しく、神社の入り口にはMPが拳銃を持って立ち、伊勢神宮の宇治橋を兵士がジープで強引にわたるような環境であった。
一方、私の父はまだ三十代、そうそうたる経歴の神社の世界、政府の長老・役人に比べてはるかに若い年代であった。
だがそんな父の話を聞き、それを助けてくれたのは、祖父が遺言し、父を祖父同様に扱うと決めた長老たちであった。
彼らは父の話を聞くと、「お父さんもさぞや喜ばれるだろう」と二つ返事で父を助け、あるいは父とともに動いてくれた。
それはあたかも、祖父が死して五年後に、再びこの世に現れて、活動しているような状況であった。
(終わり)
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