葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

カダフィー大佐はなぜ殺されたのか

2011年11月04日 23時13分00秒 | 私の「時事評論」


 悪い人だから虐殺も仕方が無いのでは

 前回の書き込みで、あまりにも野蛮な殺され方ではないかとの私の率直な感情を記した。どんな人間にだって、大切な命というものがある。人としてこの世界で生きていく中において、それさえも我々が無視してしまっては、一体人間に何が残るのか。相手は虫けらのような奴だったから、例外だ。殺してもよいという者もいるかもしれない。多くの人命を軽視して殺した張本人だったから当然だという者もいるかもしれない。だが、古いことわざに「一寸の虫にも五分の魂」というのがあるではないか。それは人間が生きていく上での守るべき最低限度の基本なのではないか。それを守らねば自分も虫けら以下の人間になる。
 そんな思いが強かったので、先の文を書いたのちも、幾人かの人に感想を聞いて回っていたので時間がたった。

 だが聞いて回ってちょっと驚いたのは、これに対してはカダフィー殺害を肯定し、冷たい感想を述べる人が、ことのほか多かったことである。最近自分がどんな判断に立っているかを深く考えようとしないマスコミに無批判についていく影響もあるのだろうか。
 「カダフィーはリビア国民を虐殺し、人道的に悪いことをしたのだから、そのような仕打ちを受けても仕方が無いのではないのか」
そんな感想がことのほか多かったのである。

 私は何か恐ろしいことを聞いてしまったような後味の悪さを感じた。この発想は完全に「目には目を」の私の嫌いな西欧型思考の底にある報復肯定論が、いつのまにか強く日本人にしみ込んでしまっていることの結果なのではないか。神道の思想、仏教の思想の穏やかな環境の中で育ち、独特の文化を保ってきた日本人の農耕民族的感性、それとこの回答はどうしても馴染まないと思えた。

 日本人は優しいいつくしみあう心を信条としてきた。人はだれもが神さまの見守られる中でいのちをいただいて暮らしている。第一、人という字がお互いに支え合っていたわり合って生きる姿を象形した文字から生まれ、それを日常用語の基本にしているではないか。いたわり合いながら命を大切にし、人や動物ばかりではない、川や山や草木も自然にまでも共生の意識を持ち、いたわり合って生きているのが日本人だと思っているからである。
 

 なぜ彼は西欧の目の敵にされたのか

 さすがに今度のリビア民兵による虐殺した対応に関しては、米国のクリントン国務長官や国連の加盟諸国の代表たちの中においても、彼が死んだことを歓迎しながらも、その虐殺の手口に関しては厳しく調べて、違法性があるかないかを調べるべきだとの声は強い。彼は戦闘する意欲が無くなったことを明確に示して西欧が指導する国民評議会に投降した。彼には捕虜として、正当な裁判を受ける権利があったし、逮捕した民兵側には、裁判を受けさせる義務があった。

 いくら彼・カダフィー氏がリビアにおいて、「法は私だ」との政治をしてきたからといっても、戦争には築き上げてきたルールがある。西欧論理からいってもこんな対応はなじまないものだと思う。
 それを負傷した一国の元首を侮辱の限りの不作法な対応で小突きまわし、「撃つな」というのまで無視して射殺して、撃った後に回教では最も相手を侮辱する方法だといわれる靴で相手の顔を踏みつけて、それから裁判にかけるので殺してはならぬという命令で動いていたのを思い出した。あわてて救命措置を試みたが、頭をうちぬいていたので助からなかったでは話にもならない。

 衝動で動いた愚かな行為は、どこから見て持知性なき野蛮人の行動である。かといって、もう死んでしまった男はどうにもならないが、厳しくその責任は追及されるべきであろう。

 
 もうひとつ考えたいこと

 ここまでは単純なカダフィー虐殺の論理を並べたにすぎない。だが私には彼が西欧諸国にこれほど執拗に追い詰められ、リビアという国から消そうとまで定められた真の原因に関して、もう少し考え、調べてみたいと思っている。これは単なる残酷と仮性なき行為とだけ言って片づけられない背景があると思う。

 NATO諸国軍のリビアで行ったカダフィー追放作戦は、国際法にも反しているし、明らかに理性や常軌を逸している。先年のイラクへ対するブッシュ以下西欧陣営のフセイン追放の作戦のように、露骨な言いがかりをつけた一方的戦闘行為だと思える。それはカダフィーが独裁的で反対者に無慈悲、残酷だったから、人道的に動いたなどと弁解はされているが、そんな弁明とは別の大きな理由があったのだろう。私は人道的などという西欧諸国の下手な弁解は信じない。ある国の政府に反対したグループが、政府に弾圧されそうになったから、亡命者を救済する。こんなところが法的に見て、人道的という行為の限界ではないか。

 リビアのカダフィーが稀代のまれにみる残酷な男だったというのだろうか。そんな残酷な独裁者は世界にも多数いる。それにカダフィーは独占した豊富な石油の収入で、確かに個人的にぜいたくな生活をしたかもしれないが、リビアの国民に教育や医療を無料で施し、国の発展を志していた。国民にはまれにみるほど施しの多い存外に人気のある独裁者だった。彼を世界が超法規的に殺さなければならないのなら、世界には殺さなければならない独裁者はごろごろ存在したし、まだ存在している。

 カダフィーはアフリカの独立にも熱心で、アフリカ民族主義を信奉し、西欧諸国に対抗し、貧しいアフリカ諸国の地位向上を図ろうとするアフリカ連合(AU)の強力な応援者で、リビア自国の負担金だけでなく、貧しい中央アフリカやソマリアなどの負担金をもリビアの豊富な石油資金で負担して、活動した。

 これは証拠不十分だが、豊かなEUやドル経済のアフリカ支配に対抗して、経済共同体を作って統一通貨を発行し、リビアが豊富に所有する金などを基礎に、金本位制的な強い通貨を作ろうとしていたなどとも見られていたとの分析もある。

 裏付けもなく膨大に発行された世界の通貨の中で、こんな動きが本格化すれば、世界はどんなことになるだろうか。西欧への波及なども計り知れない。ユーロやドルの経済支配などは飛ばされて、大混乱の末に世界の状況が急転するかもしれない。
 存外こんなところに西欧がカダフィーを、内政干渉を犯してまでも殺さねばならないとした動機があるのかもしれない。そうであれば、いまの世界の体制を法を無視したゲリラやテロで、いっきょに葬り去ろうとしたアルカイダのビン・ラーデンを法を無視することもやむを得ないとして惨殺し、その骨までも消し去ろうとした米国の行為と、これは同一線上にある政う陣営の、なりふり構わぬ強硬作戦だと見なければなるまい。

 アフリカや中東地方のニュースに私は疎い。しかもニュースは信頼性の極めて怪しい現代マスコミの報道に大きく頼っている。これでは正確にものを見る目を持っているとはお世辞にも言えない。だが、そんな報道ばかりを見て単純にうのみにはせず、勉強する価値がある問題だと痛感した。

 西欧圏に属さない国々での評価の中には、カダフィーが一時欧米に接近した時があったのをつまずきのもとだったとの評も多いようだ。僅か十年ほど前であるが、カダフィーは米国や西欧諸国から大きな信用を得ている時期があった。

 当時と現在と、どこにカダフィーが劇的に国内政治で変わったことがあるのだろうか。それなのに、何で急速にカダフィーが悪者に急転換しなければならなくなったのか。

 ニュースはそんな様々自分の力で得たものも見ながら、自分の判断でそれを矯正して、自分の知識にしなければならない。私はそう思っている。いまの報道を偏向報道だなどと騒ぎたててみても、報道は簡単に矯正されない。簡単に自分で考えることなしに信じてしまったら、信じたほうの負けだと思うから。

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