その昔、高校に通っていた頃、我々男子生徒に「百メートルの完泳」が課せられた。スポーツ好きの私などには楽しい課題だったが、泳ぎの不得手な生徒には脅威だったようだ。
試験の日、次々に生徒たちが課題をクリアしていった。中には溺れそうになりながら泳ぎ切った者もいた。
試験を受けていない生徒が残り少なくなった頃、片腕が不自由な生徒が飛び込み台に立った。我々の目が彼に釘付けになった。
「泳がなくても良いのに」
一人が言った。私は彼が夏休み中、毎日のようにプールで練習をしているのを知っていた。だから、声援を送った。
一斉に飛び込んだ級友達の余波を受けて彼の泳ぎは普段より重い様に見えた。25メートルをターンする頃には、ほとんどの者が100メートルを泳ぎ切っていた。
それでも何とか50メートルを泳いだ。そこでしばらく息を入れる彼の顔は蒼白であった。それ以上泳がすのは酷に思えた。だが、それでも教師は介入しなかった。
彼は再び泳ぎ出した。推進力となるはずの両足はか細く、懸命に動かしているようだが泡は立たない。自由が利く右腕で水をかいても身体は前に進まず、右に左に大きくダッチロールをするだけだ。息をしようと水から顔を出そうとするがからくも口と鼻だけが水面に姿を見せるだけで見ているだけで苦しくなってきた。
生徒たちは必死になって応援した。特に、最後の25メートルは大声援を送った。中には目に涙を浮かべている者もいたに違いない。かく言う私も目頭を熱くしていた。
彼が泳ぎ終えた時、我々は周りの生徒と雄叫びを挙げ、彼の栄誉を称えた。そして、彼の元に走り寄った。
今北京で行なわれているパラリンピックをTV観戦して45年前の「熱い泳ぎ」を思い出した。
だがお気付きになられたであろうか。パラリンピックはTVでほとんど放映されていないのだ。あれほど連日何時間も放送していたオリンピックに比べパラリンピックはまるで存在しないかのような扱いだ。
実兄中継はなく、一日の総集編をNHK教育が夜10時から1時間放映しているだけで、他のTV局はニュースやワイドショウの片隅に追いやってしまっている。NHKの総集編もダイジェスト版だから臨場感はまるで伝わってこない。だから、巷間でも「昨日の車椅子バスケット感動したね」とか「ボッチャって面白い。一度挑戦してみたい」とパラリンピックが話題に上ることはない。
マスコミが多くの紙面を割いたり時間を使ってパラリンピックを報道しないのは、本音を言えば「正直面白くない」「感動が少ない」からだ。もちろん、それが「高視聴率を取れない」ことを意味するのは言うまでもない。
ならば、奇麗事を言うなと言いたい。表面では「感動的」「躍動感に溢れる」と言いながら、その裏でパラリンピックを軽視するのは政治を軽んじる悪徳政治家と何ら変わるところはない。
スポーツは信じられない演技を見せ付けられると、人は興奮する。だが我々に感動をもたらすのは最高級の演技だけではない。
たとえ、レヴェルは低くとも様々な人生模様を背景に歯を食いしばって頑張る姿は人の心を打つものだ。それがスポーツの持つ醍醐味ではないのか。
近代オリンピックの提唱者で後に「近代オリンピックの父」と呼ばれるピエール・ド・クーベルタン男爵が重んじた「アマチュアリズム」とは、そのことを教えている。今一度マスコミに関わる人達は、その辺りを勉強し直して報道して欲しい。
真夏の二週間を大騒ぎしたエネルギーと予算の数パーセントで構わない、パラリンピックのために使ってくれないだろうか。パラリンピックを見ながらそんな思いに駆られた。
試験の日、次々に生徒たちが課題をクリアしていった。中には溺れそうになりながら泳ぎ切った者もいた。
試験を受けていない生徒が残り少なくなった頃、片腕が不自由な生徒が飛び込み台に立った。我々の目が彼に釘付けになった。
「泳がなくても良いのに」
一人が言った。私は彼が夏休み中、毎日のようにプールで練習をしているのを知っていた。だから、声援を送った。
一斉に飛び込んだ級友達の余波を受けて彼の泳ぎは普段より重い様に見えた。25メートルをターンする頃には、ほとんどの者が100メートルを泳ぎ切っていた。
それでも何とか50メートルを泳いだ。そこでしばらく息を入れる彼の顔は蒼白であった。それ以上泳がすのは酷に思えた。だが、それでも教師は介入しなかった。
彼は再び泳ぎ出した。推進力となるはずの両足はか細く、懸命に動かしているようだが泡は立たない。自由が利く右腕で水をかいても身体は前に進まず、右に左に大きくダッチロールをするだけだ。息をしようと水から顔を出そうとするがからくも口と鼻だけが水面に姿を見せるだけで見ているだけで苦しくなってきた。
生徒たちは必死になって応援した。特に、最後の25メートルは大声援を送った。中には目に涙を浮かべている者もいたに違いない。かく言う私も目頭を熱くしていた。
彼が泳ぎ終えた時、我々は周りの生徒と雄叫びを挙げ、彼の栄誉を称えた。そして、彼の元に走り寄った。
今北京で行なわれているパラリンピックをTV観戦して45年前の「熱い泳ぎ」を思い出した。
だがお気付きになられたであろうか。パラリンピックはTVでほとんど放映されていないのだ。あれほど連日何時間も放送していたオリンピックに比べパラリンピックはまるで存在しないかのような扱いだ。
実兄中継はなく、一日の総集編をNHK教育が夜10時から1時間放映しているだけで、他のTV局はニュースやワイドショウの片隅に追いやってしまっている。NHKの総集編もダイジェスト版だから臨場感はまるで伝わってこない。だから、巷間でも「昨日の車椅子バスケット感動したね」とか「ボッチャって面白い。一度挑戦してみたい」とパラリンピックが話題に上ることはない。
マスコミが多くの紙面を割いたり時間を使ってパラリンピックを報道しないのは、本音を言えば「正直面白くない」「感動が少ない」からだ。もちろん、それが「高視聴率を取れない」ことを意味するのは言うまでもない。
ならば、奇麗事を言うなと言いたい。表面では「感動的」「躍動感に溢れる」と言いながら、その裏でパラリンピックを軽視するのは政治を軽んじる悪徳政治家と何ら変わるところはない。
スポーツは信じられない演技を見せ付けられると、人は興奮する。だが我々に感動をもたらすのは最高級の演技だけではない。
たとえ、レヴェルは低くとも様々な人生模様を背景に歯を食いしばって頑張る姿は人の心を打つものだ。それがスポーツの持つ醍醐味ではないのか。
近代オリンピックの提唱者で後に「近代オリンピックの父」と呼ばれるピエール・ド・クーベルタン男爵が重んじた「アマチュアリズム」とは、そのことを教えている。今一度マスコミに関わる人達は、その辺りを勉強し直して報道して欲しい。
真夏の二週間を大騒ぎしたエネルギーと予算の数パーセントで構わない、パラリンピックのために使ってくれないだろうか。パラリンピックを見ながらそんな思いに駆られた。